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いつかは自分もここでお世話になるかもしれない

sociologbook | 2008/08「貧困特区」

同僚のブログで紹介された記事から。貧困対策として、貧困特区を作ることはできないか、という問題提起。僕は問題提起そのものよりも、以下の、特に「いつかは自分もここでお世話になるかもしれない」という問題提起のしかたに共感する。


そしてなおかつ、これがもっとも重要だが、まわりの一般市民がこの貧困特区を差別しないこと。いつかは自分もここでお世話になるかもしれない、ということや、そもそも社会や行政が負担しなければならないはずのコストを押し付けているのだ、ということを、市民が十分に理解できるかどうか。


それゆえに、貧困特区が必然的に持つことになるであろう負の表象から、そのような問題提起のしかたの意味が殺されないために、特区という地域しばりはどうなのだろうと思う。階層間格差を認めることについて言えば、認めかたの深度を別とすれば、この社会はもう認めているじゃないか。だから、この記事が述べるような「わざとスラムを作る」ということを真逆の方向から述べている記事も出現したし(お受験のまとめ。もう削除されてしまったけれど、低所得者が住む公団は特定の区に作れ、みたいなママさんの意見)、そしてそれははてなでやたらにぶったたかれていたけど、そして確かに胸クソ悪かったけど、決して目新しい内容ではなかったはずだ。特定の集団を特定の地域で救うことが、同時にいつでもそのようになり得る自分という可能性に対する想像力を奪い取ってしまっては、本末転倒となってしまうだろうと。

というようなことはこの記事の書き手には十分配慮されていると思うし、何より貧困特区という仕組みが現実的に誰かをすくい上げることを思えば、何を見当違いのコメントをしているんだと思いもするのだが、でもやっぱりその仕組みが作り出し強化する表象を思うと切ないものがある。何しろ、僕のある面ではいまだ外山恒一が全然全く笑えないくらいで。

コメント

匿名 さんのコメント…
「いつでもそのようになりうる自分」という問題設定は、「だがそうならなかった自分」と反転してしまえば、「だから貧困ではないあなたは、貧困である彼らに負い目を感じなくてよい」、「貧困である彼らは、運に恵まれるなら(そして相応の努力をするならば)、そこから変わり得るのだから」、「例えば、私がそうであるように」というロジックにも加担しないだろうか。つまり、一種の自己責任論。新自由主義的機会均等。社会福祉政策(による公共の負担)は最小化すべき、という発想を支えているのは、こういう意味での等質性への信仰なのではなかろうか。
つまり、「あいつらも自分と同じ人間のはず」という条件から導き出される態度には、他者へ想像力を働かせる方向と、逆に他者の異質性をまったく認めない方向、という両極の態度があるのではないか。構造改革による「ガラガラポン」を支持したワーキングプア層は、自分たちが富裕な層とまったく同じであることを根本的な条件において疑わず(だから現状を不公正なものとみなし)、「ガラガラポン」の後にもう一度できるプア層に対する想像力を失った。
偶有性と必然性。共有できるかという問いかけと共有できなくても自腹を切れるかという問いかけ。我々はシンパシー、あるいは共同体内の均質性による支え無しに他者に対してどこまで行動できるのだろうか、という問いかけ。

…うまくまとまらないんですが、こんなことを考えてみたのでした。まあそのうち酒でも飲みながら。
NJM さんの投稿…
わー、お忙しいなかにコメントありがとうございます。チャンス社会を支えるのは、「いつでもそのようになりうる自分」の反転であるという話、分かります。僕も新自由主義的機会均等に加担することになるのでしょうね、ある面では。しかし、「いつでもそのようになりうる自分」という認識なしで、他者と共存できるのか僕にはよく分からなくて。

「他者へ想像力を働かせる方向と、逆に他者の異質性をまったく認めない方向、という両極の態度」なんですが、コメント読みながら、その異質性をまったく認めない方向というのが「スラム化」によって強化されてしまうことがあり得るような気がしてなりません。

飲み話ですかねー。

シンパシーなくして他者に対してどこまで行動できるか、というのは痛烈だと思います。グッと来ています。

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