水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(→amazon)を読んでから、レビューを書こうと思いながら2ヶ月くらいが過ぎた。最初に新潮に掲載されたものについて書いたniji wo mita: 水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」が、このブログにしては予想外のビュー数となったためちょっと気負ってしまったということもある。が、今日、職場で同僚と話していて、まあそんなところだろうなと思うことがあった。以下、ものすごく個人的なレビュー。
前回僕は水村の記事を読んで、次のように書いた。
通読してみて、やはりこの本には言葉による制度的暴力の話が抜け落ちていると感じた。それが意図的なのかそうでないのかということだが、僕は意図的なのだと思う。近代人としての母国語賞賛は、領域をめぐる闘争を意味するのであって、水村はそのことについて、いちいち具体例を掲げたりしないが、とても自覚的に書いていると思う。言うまでもなく言葉は暴力なのだ。暴力どうしがぶつかれば、そこには勝敗が生まれ、言葉の階級差が生まれる、と書いてあるではないか。〈普遍語〉が普遍的な知のリソースを形成しているというのは、帝国の地位を勝ち取ったというだけのことであって、そう読めばいいのではないか。帝国が辺境を圧するように、いろんな意味での周縁を特定の言語が圧殺してきたことは、一方で帝国を豊かにした。それは列強の一角を担う日本語も同様であった。ところがいまや帝国は夕暮れのときを迎えていると水村は、超訳すれば、述べている。われらの没落を許すな、われらの豊かさをもう一度!というわけだ。
こう説明してみると、水村はそれをメタフィクションとして書いているのかな?という可能性すら微妙に感じる。だから正義ヅラして直情的に批判する気にはなれない、ということを書きたいのではない。繰り返すが、その言葉の力から自分が無関係ではないことに、どう向き合ってよいか、あるいは首尾一貫した批判をすることができるか、よく分からなかったということだ。
話は水村から思い切り逸れるのだが、昨年から始めた地域の日本語アルバイト(謝礼をもらってしまったのでボランティアとは言えなくなってしまった)で痛切に感じることがある。それは、定住外国人が日本社会でそれなりの社会的階級に上るには、いわゆる「正しい」日本語、僕ふうに言い換えれば「制度的暴力に立ち向かえる暴力としての」日本語を身につけなければならない、ということだ。通じるという次元ではなく、権威を帯びた「正しい」日本語。かつて周縁的存在を作り出し、さらに周縁に追いやった暴力としての日本語。社会的階級を上りたいと願う学習者はそのような意味での、戦える日本語を戦略的に学ぼうとしている。
戦略的。日本語の「正しさ」「美しさ」「豊かさ」を自明のものとして内面化しない。生き残り戦略のための武器として、制度と戦うために身につける。その方法を僕は教える。それはお前を育てた制度に対する許されがたい裏切り行為である、と言う人もあるかもしれない。が、帝国の力で辺境に追いやられた者を帝国の力で辺境から救い出すという、逆説的な方法は、少なくとも僕にとっては水村のような帝国の言説と戦うための足場作りとして、唯一の首尾一貫した方法であるように思えてならない。
* * * * *
こう書いてみてなんだが、こういうことは社会言語学の人がたぶんとっくに言っていることです。僕は僕の個人的な事情として、内部の経絡がつながったと書き留めておきたかったのでした。帝国とか救い出すとかいちいち大げさですみません。
前回僕は水村の記事を読んで、次のように書いた。
ハイカルチャーの文化的遺伝子キャリアーを自称する人たちによるこうした言説、と僕が批判的に書いてしまいたくなるのは、端的に母国語による母語抑圧の話がここからすっぽ抜けているからである。そしてまた弁解しながらでないと批判的になれないのは、母国語の持つ力というか、階級的な力の恩恵をお前も受けているではないかという自分の内なる声のためでもある。
通読してみて、やはりこの本には言葉による制度的暴力の話が抜け落ちていると感じた。それが意図的なのかそうでないのかということだが、僕は意図的なのだと思う。近代人としての母国語賞賛は、領域をめぐる闘争を意味するのであって、水村はそのことについて、いちいち具体例を掲げたりしないが、とても自覚的に書いていると思う。言うまでもなく言葉は暴力なのだ。暴力どうしがぶつかれば、そこには勝敗が生まれ、言葉の階級差が生まれる、と書いてあるではないか。〈普遍語〉が普遍的な知のリソースを形成しているというのは、帝国の地位を勝ち取ったというだけのことであって、そう読めばいいのではないか。帝国が辺境を圧するように、いろんな意味での周縁を特定の言語が圧殺してきたことは、一方で帝国を豊かにした。それは列強の一角を担う日本語も同様であった。ところがいまや帝国は夕暮れのときを迎えていると水村は、超訳すれば、述べている。われらの没落を許すな、われらの豊かさをもう一度!というわけだ。
こう説明してみると、水村はそれをメタフィクションとして書いているのかな?という可能性すら微妙に感じる。だから正義ヅラして直情的に批判する気にはなれない、ということを書きたいのではない。繰り返すが、その言葉の力から自分が無関係ではないことに、どう向き合ってよいか、あるいは首尾一貫した批判をすることができるか、よく分からなかったということだ。
話は水村から思い切り逸れるのだが、昨年から始めた地域の日本語アルバイト(謝礼をもらってしまったのでボランティアとは言えなくなってしまった)で痛切に感じることがある。それは、定住外国人が日本社会でそれなりの社会的階級に上るには、いわゆる「正しい」日本語、僕ふうに言い換えれば「制度的暴力に立ち向かえる暴力としての」日本語を身につけなければならない、ということだ。通じるという次元ではなく、権威を帯びた「正しい」日本語。かつて周縁的存在を作り出し、さらに周縁に追いやった暴力としての日本語。社会的階級を上りたいと願う学習者はそのような意味での、戦える日本語を戦略的に学ぼうとしている。
戦略的。日本語の「正しさ」「美しさ」「豊かさ」を自明のものとして内面化しない。生き残り戦略のための武器として、制度と戦うために身につける。その方法を僕は教える。それはお前を育てた制度に対する許されがたい裏切り行為である、と言う人もあるかもしれない。が、帝国の力で辺境に追いやられた者を帝国の力で辺境から救い出すという、逆説的な方法は、少なくとも僕にとっては水村のような帝国の言説と戦うための足場作りとして、唯一の首尾一貫した方法であるように思えてならない。
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こう書いてみてなんだが、こういうことは社会言語学の人がたぶんとっくに言っていることです。僕は僕の個人的な事情として、内部の経絡がつながったと書き留めておきたかったのでした。帝国とか救い出すとかいちいち大げさですみません。
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