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10月, 2008の投稿を表示しています

韓国2日目

仕事で韓国に来ていて2日目。初めての韓国に興奮しまくるかと思ったけど、宿泊しているところが日本からの観光客に特化しているだとか、通訳の方付きだとか、街に出れば日本語サポートがしっかりしているだとかで、妙に日常感覚を引きずりながらの体験となって。 夕方、仕事がはけてご飯を食べてから観光客向けじゃない大衆サウナみたいなところ(チンジルバン)で、風呂→サウナ→オンドルの床でごろごろ→ゆで卵を食べる→風呂を繰り返す。一応やっとかなのアカスリは、うん、気持ちいい。 けどこの乗らなさは、やっぱり、韓国語勉強してないからだなー。基礎語彙くらい覚えておくんだった。その土地の言語でコミュニケーション取れないと面白くないなー。ダメだなー。異国がこれだけ乗らない初めての体験に、自業自得の大反省。 そして明日は、歴史問題を振られたらどう受け答えるか、考えておかないとだなー。

甲骨文字よりも早い時期の文字が発見?

「甲骨文字よりも早い時期の文字が発見」ということで各紙が報じているが、それらしき写真を掲載している情報元( 甲骨文字よりも早い時期の文字が発見_China.org.cn )をクリップ。あわせて画像確保のためのウェブ魚拓。 http://japanese.china.org.cn/culture/2008-10/24/content_16660985.htmの魚拓 。 中国の考古学専門家による最近の研究で、山東省昌楽県で出土した獣の甲骨に刻まれた600余りの符号には、その構成や分布に一定の法則があり、4500年前の早期の文字だということが分かった。 この写真がその「文字」であれば、「構成や分布に一定の法則」の解明が楽しみなところ。文字解読の話は、暗号を解読するかのごときスリルがあるよねえ。文字解読というと、どうしてもオカルトや古代超科学的な胡散臭さが想起されがちだけど、純粋に科学的な方法論による試行錯誤の積み重ねだから。というわけで、何度か紹介したこともある Amazon.co.jp: 線文字Bの解読 (みすずライブラリー): J. チャドウィック, John Chadwick, 大城 功: 本 、 Amazon.co.jp: 西夏文字―その解読のプロセス (精選復刻紀伊国屋新書): 西田 竜雄: 本 、興味がおありの方に。

chori-ssu!!

色々自業自得的にへこむことが多い日々であるが、今日なんかは日曜日に河原でブヨにさされたのがこじれて、足がエレファント化した上に歩くと超痛い。刺されたところは水疱を経由して、穴から黄色い液体がドロドロ出てるし、そのグロさ一見の価値なしのメジャー級。一ゾンビファンとして ゾンビピンナップカレンダー (グロ注意)の購入を一瞬検討した僕が、自分の足を正視するのにそれなりの勢いが必要なくらいである。おえー。 35歳にもなると自業自得でなくとも、ある種の世界のわびさびの切なさに、さしたる理由もなくへこむことも多いわけだが、今日ようやくとどいた渋谷語制作委員会編『渋谷語事☆典2008』(→ amazon )を読んで、海とか見たくなった。帯に「チョリ~ッス!!この本マジやばいっす!!」とある。海に沈む夕日が見たい。僕は学生が興味を持ってくれそうな言語資料として使えないかと思って、購入したのだった。それがこんなに切ない気持ちをもたらすとは思わなかった。挿絵が桃吐マキル画伯である。それだけが救いである。 もう帰って良いですか。

水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」

水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(新潮2008年9月号)を読んだ。今秋刊行される7章にわたる第3章のみということだが、これで280枚あるというシロモノで十分読み応えがあった。 2008-10-18 - 東京永久観光 で掲載を知って、図書館ですぐに借りた。 * * * * * この小編は3つのパートに分かれる。第1パートがアイオワで世界中の小説家が集められ様々な言語で小説を書くという現場の体験談。多言語による小説生成の現場体験(多言語体験とは違う)がテーマ。第2パートがフランスで行われたシンポジウムでの講演を主軸した語り。二言語使用が強い言語/弱い言語といった非対称の営みであって、例えば弱い言語の使い手であるたとえば日本語話者である「われわれ」は、強い:フランス語/弱い:日本語のような構図にほとんど強制的に気づかされるという。でもグローバル社会たる今では強い:英語/弱い:フランス語という構図になりつつあるわけで、ようこそフランスわたしたち日本語は先輩ですよてなユーモアを交える。このパートではイディシュ語の使い手である聴衆から「日本文学のような主要な文学」と指摘されある種の保守回帰に傾きつつ次パートへ。第3パートは特に話が多岐にわたってまとめようもないのだけど、私に理解すれば、 「そのような非対称な世界は近代以前から山ほど存在していた。かつてのヨーロッパ社会では強い言語はラテン語でありあるいはフランス語であり、そうした言語は往々にして特に一部の知識層の手によって、とりわけ芸術・学問の領域において書き言葉として地域を超えて流通した(外から来て社会上部に流通する言語=〈普遍語〉)。一方現地で用いられる近代以前の母語=〈現地語〉はそのような意味での書き言葉にはなり得なかったけれども、国民国家形成と相互依存しながら強い言語の立ち位置を獲得していった。」 ということで、いわゆる「近代国語の成立」解説自体については僕が改めて記すまでもないことである。国語で内面も描けるし、芸術や学問で切ったはったができるし、国語に出世した〈現地語〉(の人工的な寄せ集め)はかつて〈普遍語〉から一方的に翻訳されるしかなかったところを〈普遍語〉たる英語に翻訳されて川端なんかはノーベル賞取れて良かったねという時代に突入するわけだ。が、筆者が言おうとしているのは、英語が出現したことによって、そ

マンガ3題

上京二日目は図書館で調べたいだけ調べものをして、コピーするだけして、これで満足してはいかんと思いながら、買いたいだけマンガを買い込んで新幹線に。 評判の中村光『聖☆おにいさん』1、2(→ amazon )一気読み。うん、確かに笑えるんだけど、なんだろうこのモヤモヤした薄暗い感じは…。仏陀とイエスのさりげないエピソードの盛り込み方にいやらしさを感じるのだろうかと思ったけど、そうでもないな。テレビっぽい「ほらあなた目線のお笑い感覚ですよ」というおもねりと感じられてしまうところがいけ好かないのだと思った。『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』も最初笑えたのに2巻読んだ時点で食べ飽きてしまったので、たぶん僕にとってはそういうことなんだろうと思う。と中村光について講釈垂れる偉そうなオマエはいったい誰なんだと。 吉田秋生『海街diary2 真昼の月』(→ amazon )はすごく良かった。鎌倉に住まう3姉妹と、父の妾腹で山形からやって来た末っ子中学生の共同生活を軸にした家族模様の、ぎくしゃくとしながらも温かい心のふれあいを描く連作。最新刊では家を出て再婚した母を長女が「母」ではなくて「娘」としても理解する話が、表題作となっている。なんというか、僕は結構ガチガチの長男属性でしかも当然オトコなので、今ひとつ「気が回らない」レベルで理解できていないのだけど、でもたぶんだからすごく良いなと思うのだと思う。よしながふみの作品みたいな、「分かりやすいジェンダー話」じゃないところが、よしながふみはそれはそれで大好きだけど、吉田秋生っていいなあと思うのだ。マンガに限らず、「あるある」「分かる分かる」という喜びとは別に、自分に「ないない」「分からない分からない」が分かる喜びってある。 マンガ話で調子に乗ってもう一つ行くと、ここんとこ実家帰るたびパタリロ読んじゃうんだよね。大学生の時、ジョジョと平行してがんばってパタリロ集めていたことがあって。いま80何巻くらい?分かんないけど、10巻前後を読み返してみるとネタがすごい切れ味。今は今で熟練の噺家みたいな妙味があって好きだけど、ギャグがちゃんと笑えるのには驚いた。80年代の前半くらい。笑う僕がおかしいんだろうか。妹と仕事の愚痴り合戦やらないで、パタリロの話をすべきであったと気づく僕であった。

そんなの日本全国あるでしょうよ

というわけで堕天使の力により、偶然のタイミングで後輩と新宿飲み。なんかこう普段まず入らないだろうなというコジャレ系ダイニングバーに入ったら、メニュー見ながら山形ではこういうのないでしょう、だからこれにしませんかなどと上州の分際で上から目線でさんざん気にかけてくださるので、ありがとう、そうそうそのメニューはプロシュート地方に住むイタリア人のパルマ婦人が丹誠込めて育てたブタを生きながらにしてハムにした恐ろしい食べ物なのだよ、だから山形にはそんな残虐な食べ物はねえ!と返す刀で袈裟切りにしてやりましたれば賊うち転びて息絶えにけり。ははは仕留めたぞついに。しかるにキミはバカだ。大バカだ。楽しかったからまた飲みに行こう。また袈裟切りにするから。

ブラウザ経由で書類を送る

東京で師匠と共同研究の打ち合わせ。ブラウザ経由で書類を送信、って昨年もこんなだったっけ(昨年は功夫が足りなくて落ちた涙)。お役所指定の訳のワカランword文書がブラウザ経由でPDF変換されて作業完了~って、昨年もこうだった??一昨年だかにlatexの書式もできて訳もなくうれしい限りなのだけど、共同研究となるとやっぱりwordですよね…。研究もtexベースでやっている身としては、jis外漢字を中心として困ることが多いです。とはいえ、この手の企画書の予算に組み込まれることの多いパソコンを、たぶん師匠がらみの仕事としては初めて申請しなかったことは、別にハイパワーで新しいOS乗っけたPCがなくたって、仕事できるもんねという宣言のようで、それもまた気持ちがいいのでした。 それにしても、今年は書類を書いていて、この年でようやく少しだけ書き方のツボが見えたかも…と直観する瞬間が(通ってから言えよって話も。そしておせえよという話も)。

ガキ帝国

井筒の『ガキ帝国』見たよ。映画ってマンガと違って長い。『闇の子ども達』を読むよりも長く感じた…。慣れないこととは言え、己の根性のなさを笑いつつも、作品としても民俗学的にも面白かった。 ダイグロシアを説明するための映像例ということで、同僚に紹介していただいたわけだが、ダイグロシアでこの作品というのは、なんというかエロマンガを紹介するために丸尾末広を取り上げるがごとき不適切さというか、逆に意にも介せず是非これで説明したくなる不謹慎さというか(笑)。ただ、在日朝鮮人の言語にフォーカスをあてる以前に、ここに出てくる関西方言の8割くらいも理解できたかどうか。現代の非関西圏の人間がこれを見て、いったいどれくらい分かるのだろうか疑問に思う。 そういえば、山形の女子高生を漫画ゴラク読者に特化した形の「リアル山形弁話者」として描いた珍作『め~どイン山形』(→ amazon )も、最初読んだ時はものすごく時間がかかったし、内容も消化不足なところがたくさんあった。描かれた時代は、『ガキ帝国』で描かれた大阪よりもずいぶん新しいのだけど…。山形に約3年住んでみて、先日久しぶりに紐解いてみたらほとんど分かるようになっていて驚いた。留学生がある日突然言葉が分かるようになっていた、という感覚がものすごい希釈度で理解できたというか。 東京にいると、方言はもう日本にないだとか、メディアでの描かれ方もあってじいさんばあさんしか話さないようなイメージあるけど、若い人でもバリバリ関東の人には分からないような言葉をしゃべるよね。「日本語」ってそういうことじゃないじゃん。それは山形に来て良かったと思うこと。

物理学賞受賞は2人か3人か

新聞各社が「ノーベル物理学賞日本人3人」とするけれど、南部陽一郎氏は現在米国籍を取得されているので(→ 南部陽一郎 - Wikipedia )、アメリカ人扱いになるのがフツウの感覚?だろうと思っていたら、 J-CASTニュース : 「ノーベル物理学賞日本人3人が独占」 欧米では「米国人1人、日本人2人」 とのこと。 確かに、日本人という定義はあいまいだ。日本の国籍ありなしは関係ないというのが日本の新聞社の考え。外国に帰化しても日本人。つまり「民族」に重きを置いているのだろう。ただ、国際社会では国籍で判断するようだ。帰化した時点で、南部氏も日系の米国人と呼ぶのが正しいことになる。 日本社会におけるこの手の齟齬は、ちょうど、母国語と母語の関係に似ている。単一民族発言しかり、母国語と母語の区別は相当あいまいだと思う。概念上の違いをきっちりと用語で区別するなら、国籍を基準とすれば「~国人」、「民族」を基準とすれば「~人」とすれば少なくともこの文脈(日本の通俗的な理解の文脈)で誤解が生じることはないだろう。もちろん、「民族」を固定的に「~人」の基準にするわけにはいかないので(母語が民族のことばと定義しにくいことがあるように)、厳密には日本国出身者とでも、と思うが日本は出生地主義じゃないので(→ 血統主義と生地主義 )、スッとは理解されにくいかもしれない。 日本国籍を有さない、いわゆる特別永住者が偉業をなせば日本在住なんだから日本人でしょ、みたいなこれまた通俗的暴論もまかりとおるのがフツウのことだろうから、この場合もフツウに空気読んで「やったー日本人が3人、独占だー」と喜ぶのが奥ゆかしき日本人の作法なのでしょうね。

頭痛ラマダン終了

約1ヶ月ぶりに偏頭痛あり。昨晩ほとんど寝ていないので、危ないなあと思って予防薬のミグシス飲んだのにも関わらずだ。しかも前兆が起こった段階で、イミグラン1錠投入したにも関わらず、結構ひどいところまで行った。8月に最後に起こった偏頭痛も同じで、初のイミグラン2錠投入が全然効かなかった。なんだか状況が変わっているような予感。 そういえば9月は一度も偏頭痛が来なかった。これは昨年に頻発するようになって以来初めての快挙であって、その喜びの望外ぶりたるや、つっても偏頭痛のないひとには分からないよね、この喜びは…。研究会発表だの引越だの仕事の準備だのをミグシス飲みながらにしても、「よくやった俺」と俺をほめたおす俺会議が行われたわけです。 それはともかく、ちょうど昨晩、mixiで [mixi] 偏頭痛持ちの人 | ただいま偏頭痛中 という泣けるトピックをひた読んでいたところだった。それ読む閑あったら寝ろよというツッコミ上等。例によってmixiは脊髄反射に記事をとどめるのが流儀なのであって、コメントも「痛い痛い」「キツイ」「寝れない」といったものばかりなのだが、なんというかこの制度以前の魂の声がですね、泣けるわけである。だって偏頭痛勃発中に脊髄反射以外の言葉なんて出てこないし。声の文化復権ですよ。mixiと偏頭痛のマリアージュ。で、泣けた翌日にブレイク・頭痛お休み期間という皮肉。

地球温暖化を過不足なく理解する

地球温暖化を過不足なく理解する (via 極私的脳戸/日々の与太 )、だって。この「過不足なく」っていいなあと思った。 地球温暖化に関わるテキストを共同の仕事に用いたことがあったので、興味深く読んだわけである。面白いのは、温暖化懐疑論が、温暖化言説がある種の政策の根拠とされていることに対するカウンターとして立ち上がっている云々というところだった(→ 温暖化をめぐるさまざまな議論へのコメント(その1) )。確かに温暖化言説を、この記事が示すように、原子力発電推進の根拠にするものを読んだことはある。これに対抗して「石油・石炭資本がスポンサーになって」温暖化懐疑論を喧伝するのはよく分かる話。このような、ゴールが科学的議論と別なところにあるケースはただただ不毛だなあと思う。飲み屋レベルで聞かれる温暖化懐疑論も、「みんなが知らない真実を知ってる俺すげー」的ゴールがあらかじめ用意されているので不毛と言えば不毛、いやそれを分かって話につきあうのが粋ってことでしょうか。飲み屋話は過不足あるのが面白いんじゃんね。 このテキストは、科学的な根拠というものが、どのような「議論と手続きの歴史」に成り立っているか簡略に知ることができるという点で何かに使えるかなー。仮説と評価の繰り返しが相対的であろうとする立場を担保しているわけで、「必ずしも科学が正しいわけではない」という昨今のよくある言説がいかに的を外しているかがこのテキストからもよく分かる、というわけでクリップ。

「ヤッベ」論争

職場の企画として応募していた文部科学省GPが通った。関連してか、朝日新聞の特集にも取り上げられていて、小さな社会では枯れ木も山のかも、とは思いつつ、でもやれることが広がるのはうれしい。 さて、そのプロジェクトには、「みんなでやろう」という意味の言葉が含まれている。山形の地域と連携しようという意味合いなので、山形の言葉を用いるのがいかにもそれっぽかろうと考えたわけだが、はて何と言うのだろうという疑問が持ち上がった。「やろう」だから「やんべ」「やっぺ」「やっべ」あたりが候補として考えられた。企画メンバーに(というかうちの学科に)山形ネイティブがいないのでどうにも判定ができない。職員のネイティブの方にどれが自然?と尋ねても、どれも使いうる?といった曖昧な答えで、迷走するうちに日本語学専門としてはどうなのよ、とお鉢が回ってきた。 概説レベルの日本語学が教えるところでは、促音の後に濁音は来ないのがいわゆる語音配列則。したがって「やっべ」はないだろうと考えた。東北方言については手元にあるいくつかの文献を見てみても、この手の記述が見つからない。東北地方で促音の後に濁音あり、という地域固有の語音配列則でもあるのかなあと思いつつも、古典的名著である小林好日『東北の方言』(1944,三省堂)にもやはり促音の後に濁音なしとの記述が随所にある。 加行変格左行変格にもべとぺとの二種があり、分布は一段活用の場合とほゞ一致して居り、福島県では北会津・耶麻・河沼・若松市がクンベ、スンベと云ふのを除いて、クッペ、スッペ、宮城県では左変にはスンベと云ふこともあるが一般にはスッペで、加変はクッペ、その他は山形でクンベ、スンベ、岩手でに(ママ)クベ、クルベ、クンベ、スルベ、スンベ、シベ、シンベ、青森県ではクルベァ、クルベシ、シベァ、シベシ、(下略) 同書,p.168 えー。小林先生、ってことは「ヤンベ」ですかぁ?でも、地元的には「ヤンベ」は一番少ない回答だったような…。結論から言うと、企画書ではこのあたりのことに決定打がないまま、まあ大事なのはそこじゃないし、ということで「ヤッペ」に決着している。「ヤッベ」は語音配列則的にないだろうし、「ヤンベ」はあまり耳にしないし。何より「ヤッベ」は伝統的には語音配列則の違反例でありつつも、首都圏での若者言葉としてヤバイの意味で使われている。その連想はまずかろうという判

テレビとサポーターと痛々しさと

世間は地デジがどうのということで、2年後までにテレビ買い換えがどうのと言うことですが…。当方、テレビがない生活なので今のところ全然関係ありません。そもそも我々夫婦は独身一人暮らし時代、テレビ持たずカップルとして杉並区で広く「あいつらは食い物以外世の中のことには興味がない」と知られておりました。というと決してそういうことでもなく、食い物以外についても、夫となる予定の男は、日がなマンガを読んでは合間に仕事をする、妻となる予定の女は「スローライフって、深呼吸したり毛穴掃除したりする生活のことかな」と遙か俗人を遠く置き去りにした生活を送っていたわけです。そうそう、今で言うロハスを100年前はスローライフって言ってたよ。 結婚して、911テロが起こった時、映像すげえすげえよ映像とかみんな言うもんだから実家から押し入れに眠ってたテレビを一台もらって、見てみたらやっぱり映像ってパワフルだよねえ、けど映像は映像だよねってことで。別にやっぱりテレビなくてもいいじゃん、という夫婦の美しい結論だったのに子供いると仮面ライダーとかなんとかレンジャーとか、子供にも社会あるしね。 などと数年間過ごして、このたびの引越でまたテレビ別にいらないでしょ、というので前の家に置き去りにしてきた。なきゃないで、ネットあるし新聞あるし、子供はお絵かきしてるし近所の子と遊んでるし。全然平気だけど、どうなんだろう、やっぱりドリフとかひょうきん族とか見てないと子供野生のシビアな掟により生存不能なわけだろうか。 ただ、最近、オクサマと子供のサッカーサポーターごっこが見てて痛ましいのはどうにかすべきかもしれない。浦和っ子の妻が「ウラーワレッズ、ウラーワレッズ」と別にサッカーのことなんてどうでもいいくせに浦和ナショナリズムに基づいた1人斉唱をかますと、呼応するかのように子供が「モンテーディーオー、モンテディーオー」(サッカーと山形に興味のない1億人マイナス山形の人口の人たちに豆知識!モンテディオとは山形が抱える超カッコイイ全方位型ミサイルのことだよ!)などと踊り出す。あれだ、同僚が子供にくれたモンテの旗が良くない。すごく良くない。あれを振り回して「モンテディーオー」とかやって、旗の柄が下の子の目に入ったらどうすんだよ!モンスターペアレントばりに苦情ですよ、モンテ事務所に。俺だけそのサポーターごっこに参加できないのはなお

虫酸ちゃん

え!福耳ノアルの短編が!ということで、『ビーム短編傑作選 奥村編集長セレクション いちぢく編』(→ amazon )を購入。コミックビームに掲載された、オルタナティブな短編群をまとめたもので、ビーム自体の毒オーラが濃縮したまま還元されない感じである、とこの短編集を錯覚してしまうほど福耳ノアルが単独で放つ固有毒がすごい。ポップで不謹慎という点で、尾玉なみえを遙かにしのぐ先人であると言えよう。稀覯書『森繁ダイナミック』の2巻が出ることを祈りつつ、コージョリョーゾクを乱す本作品が日の目を見てしまったことを言祝ぎたく存じます。 福耳氏の短編「虫酸」は、正体不明の昆虫少女ムシズちゃんの中学校生活を描いたキュートな学園グロナイルです。掲載時にはほかのビーム作家から「こんなん載せて大丈夫なの?」的心配をされたそうで、さもありなん臭がそこここから漂って来ます…

ハンター最新刊

関東方面から、ハンターハンターの最新刊がコンビニに出てるとの情報をいただき、えー山形のコンビニにはそんな気配皆無だなあと思っていたら、同僚から「買いました」との報告が。すぐに近所のコンビニに向かうと26巻が並んでいる!2冊買って別の同僚にあげました。職場ではささやかなブームが起こっています。 連載時に比べて、加筆や修正は思ったほどなされていない印象。来週から10週連続掲載が始まるが、掲載直前までの話を単行本にまとめている。休載、単行本、連載、休載というジャンプにしては新しいビジネスサイクルを作り出した富樫、読者殺しです。