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2013年のマンガと音楽を振り返って

マンガ編 今年読んだマンガで印象に残っているものはなんといってもあずまきよひこ『よつばと!』(→ amazon )です。今更です。あらいけいいち『日常』(→ amazon )の系統でしょ、と思っていたら全然違った。ほのぼの日常系の時間表現と子どものリアルな描写に引き込まれて、無時間的な喜びに身を浸しました。12巻のキャンプのくだりとか神と思う。過去3年くらいにさかのぼってのベストマンガかもしれない。生活変えようかと思ったもん(変えられなかったけど)。 朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』(→ amazon )も良かった。もともと朔ユキ蔵は清濁併呑修行僧的な作風で、エロの陰にジョージ秋山『アシュラ』が隠れていた。そういう意味では仏教マンガを描くのは時間の問題だったと思う。4巻に及んでサブ主人公の内面が吐露され、これまで以上に目が離せない展開に。『黒髪のヘルガ』(→ amazon )以降、特に好きな作家です。 東村アキコ『かくかくしかじか』(→ amazon )は、東村の高校から大学時代を描こうとするもの。漫画家自伝ものを描くと東村でさえもマジメな語り口になるんですね。既発表作品を彩る過剰にドライブするギャグのなかにいつも対照的に描かれていたナイーブな主人公がどれも東村本人であったことが改めて分かります。だから気に入った。だからいい。(c)岸辺露伴 新井英樹『宮本から君へ』(→ amazon )は学生時代では絶対読めなかった。実際嫌いだったし。それだけ誰かにはっきりと嫌悪されるのは、それだけ表現したいことが伝わっていたからなんだと思う。ライバル会社との営業勝負を描いた前半部、レイプ事件犯タクマとの戦いを描いた後半部と両方読ませた。それにしても90年代にこの作品はないなと改めて思う(笑)。 『愛しのアイリーン』(→ amazon )は農村部の外国人配偶者をめぐるドタバタと、日本社会にやがて訪れることになった少子高齢化の問題を予見的に描いています。ラストの凄まじさは気軽に再読しようという気持ちを強烈に抑えこんでます。 森薫『乙嫁語り』(→ amazon )は描き込む凄さを実現した点でここに掲げます。中央アジアの民俗文様を刺繍に編みこむ話が超絶すごい。絵だけをずっと見ていたいと思うマンガってあまりない。あれを味わうためだけでも漫画読みには一読に値する

微積分のノートから

実家の大掃除によって、高校時代の微積分のノートが出土(平成2,1992)。「一般解と特殊解」「減衰曲線」というメモとともに長い数式が淡々と記されており、末尾に「QED」とかドヤ顔で書いてある。間違いなく自分の字ではあるものの、内容に全く覚えがない。丁寧な書きぶり、時折「分からない」「ここはあとまわし」などと書いてあるところを見ると、真剣に取り組んだようではある。なのに覚えてない。俺の高校数学の意味は何だったんだろうと思った。 しかし長い数式を見ながら思い出したこともある。数学の不思議なところはその原理原則を深く理解しなくても、正しい手続きに我慢強くついていけば、最後は万人が同じ答えに至るという確信だ。これ、歴史修正主義的に書いているのではない。長い数式を書いている時、いつも不安だったことを覚えている。答えを見て「良かった正しかった」と思う時、手続きは間違っていなかったと安堵する。だから数学が「やれている」と実感するのは、手続きが身体化され信頼した時だった。 振り返って自分が数学をやったことの意味を問うなら、手続きを固めれば解答を信じて良い時があるということだと思う。考えてみれば、今の自分の研究スタイルもそうだし、物の考え方もそうだ。推論のプロセスを重んじる時がある。設定した手続き、作業仮説に付いて行っているときは、今も不安だ。出た答えが直観的におかしい時などは特にそうだ。しかし一方でプロセスを固めたんだからそうなるしかないと信じた結果、そのほうがうまく処理できるということも多い。で、今でも感じるそうした不安は高校の時に感じていた不安と同じものだ。 学んだことのうち、可視化されているのは数式だった。数式はすっかり忘れてしまったが、だからといって学んだことの意味がなくなったわけではなかった。学校教育というのはそっちのほうが本当なのだろうと思う。

関東に向かう

空の高さは、戻るたび山形にないものだなあと思う。冬の日差しで世界のコントラストがはっきりと出る。それだけでテンション上がる、のは、敢えて言えばふるさと感?

あめつち・たゐに・いろは

日本語史のビッグイシューたる「ア行のエとヤ行のエが合流する」をめぐるお話、「あめつち」「たゐに」「いろは」を材料とする話をざっくりと押さえる。手に取りやすいところでは、築島裕1969『平安時代語新論』東京大学出版会、馬渕和夫1971『国語音韻論』笠間書院、小松英雄1979『いろはうた』中公新書(2009年復刊)、小倉肇2011『日本語音韻史論考』和泉書院あたりか。その他、書籍では入手しにくいものは上掲書に含まれる参考文献で。音韻史の話題を超えて、ミステリー仕立てのお話に突入しつつある側面もあるので、実証主義を旨とする領域では受け入れられにくい議論かもしれない。が、そういうことが理論的予測を招来し、あとからパズルのピースとなる物的証拠が追いかけてくることはいくらもあることだし、何より知的好奇心をくすぐられる。 2004年前後に小倉氏が再論してくださったので(そして近年書籍化されたので)、議論の概略マップが見渡せるようになった。音韻史の話題が表現の話題も巻き込みながら豊かな議論につながったのは、亀井&小松両氏が蒔いた種の成果であることは間違いないだろう。ここまでもうこの話題はほとんど小倉氏によって語り尽くされている感もなきにしもあらずだが。「あめつち」のアクセントと字音声調学習のところはまだちょっと議論の余地があるかもしれない。ちょっと深入りしてしまったが、授業ネタ。 幼学の会1997『口遊注解』勉誠出版も読んだ。百科事典的なものは語学的関心とは別に面白いものですね。

サンタトラッキング

April Foolばりに大人が本気出しています。科学技術の世界ではサンタまでもが双方向コミュニケーションの餌食なのですね。位置情報サービス、こえーなー。営業中のサンタがコンビニの駐車場で一服しようものなら世界中から批判を受けるわけです。サンタやばい。しかしほとんど光速で世界中を飛び回るサンタには地を揺るがすような賞賛の嵐!素晴らしいと思います。そういうの、最初は我らがGoogle先生だけかと思っていました。 Google サンタを追いかけよう 25日12:00現在、約57億個のプレゼントを配布し終え、いまだ世界を飛び回る様子が追跡できます。ここまでで23万キロの距離を消化しています。 しかし別に本格的なサイトがあったのですね。いつからやってんだか知らないけれど、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に国家予算が投入されています。アプリも出しているNORAD!今年はモバイルアプリが充実している模様。 Official NORAD Santa Tracker そしてNHKがそれを報道! 米軍など HPでサンタ追跡情報公開 NHKニュース スラドも! NORADのサンタ追跡オペレーションセンター NORADの裏側では大人が超絶頑張っているそうです。情報ソースがNAVERだなんて情弱とか言わないでいただきたい。 サンタもシステムチェックに協力!北米防衛組織の本気度がスゴイ!NORAD”サンタ追跡”の裏側 - NAVER まとめ

三択肉絲の秘密

そろそろ11才です。あれなお年頃なのです。三択(サンタク)肉絲(ロウスー)の実在性について疑義を呈するお年頃なわけです。 先日、タブレット端末で三択の存在についてとうとう彼は調べました。調べ学習の第一歩!このデジタルネイティブ!もちろん検索語は「三択」「肉絲」であります。すると検索結果のトップには「あなたは肉絲がいないことを子どもに知られたとき、どうしましたか?」が出てくるではありませんか!疑義呈しまくりの豚児は「やっぱり!」とまるで岳父が三択のイデアであらんかのごとき責めっぷり。岳父は「バカな妄言で世界に混沌をもたらす輩もいたものであるなあ」と限界すれすれの虚言詭弁で逃げ切ったのでございます。 Twitter炎上のこの時代に、諸賢におかれましては世界の秘密を軽々にWEBに記してしまう愚挙を是非とも控えていただきたい!三択の御姿は常に親・子・肉絲の三位一体にこそあり、真実の秘匿隠蔽にこそ抑制された日本的な美が潜んでいるものであります。わかりやすい言葉でネットに書くなど愚の骨頂、言語道断であります。とくに黄河九年のshow楽sayを抱える全国の家庭は炎上寸前ですから!let children show 夢!そしてsay偽装! グーグル先生もクリスマス特集とかやってるくせに、こういうあれの検索順位を上位に持ってきている場合じゃないですよ。皆に愛される偽装こそ! ***** そういう話とは全く関係のない話ですが、最近の配送というのはすごいですね。ロジスティクス、神。20日にアマゾンで注文したあれが24日に届く。24日にギリギリ届くというので、普段はあまり見ない「配送状況」をチェックすると、20日発注、21日上海から発送、23日岸和田、24日山形天童(佐川急便配送センター)ですからね。すごいもんだなあと思いましたよ。 ***** いつか大人になって父がコソコソ書いているブログを見つけてしまった子どもへ。世の中には知らないほうが楽しいことがある。真実ではないことが人を救うことがあるのですよ。それに真実は自分で見つけるものです。父と母はしたり顔で「11才の今年も、しておおせた」と祝杯をかわしています。 しかし父母がお前を騙していて、本当のことを教えてくれなかったからといって責めてはいけません。もちろん三択を責めてもいけない。願ったものが一度もやってこなかったのは

マイケル・D・コウ『マヤ文字解読』読了

まもなく6歳になる娘が一生懸命カタカナを書こうとしている。「かくれたもじをさがせ!」なんて、あまりにタイムリーな冊子。父はついいましがた、そういう本を読み終えたところです。 ***** ヒッタイト、ヒエログリフ、線文字Bといった古代文字解読のエピソードに軒を連ねるマヤ文字解読。ひとつ前のエントリに紹介したような文字の一般的性質を手がかりにしながら、言語学者が考古学者と手を結んで文字を解読した物語を紹介したのが、マイケル・D・コウ『マヤ文字解読』(→ amazon )だ。こちらは本物の「かくれたもじ(の読み)をさがせ!」である。この訳書は2003年に出版されている。 マヤ文字が表語文字と音節文字の混在したもの、とは言語学の概説書にもある。しかしたとえば僕が小さな頃の古代文明本には未解読の文字とされていたような記憶が、うっすらとある。手元にある『世界言語文化図鑑 世界の言語の起源と伝播』(→ amazon )にははっきりとマヤ文字の音節表が示されているが、これは1999年の訳書で、英語版の原書"The Atlas of Languages"(→ amazon )は1997年の発行だ。大人になってからこの本を読んで、未解読ではなかったのかと思ったことを覚えている。が、『マヤ文字解読』を読めば解るように、音節文字として体系的に解読されるようになったのは1952年の論文以降のことだそうだし、研究のモードが本格的にそちらに移行したのは1970年代以降のことらしい。後に触れるように、マヤ文字を表音文字と見るか否かについては熾烈な論争があり、表音文字否定派の重鎮が1975年になくなるまで概説書に表音性が記されることは難しかっただろうと思われる。なお、學藝書林から出ている邦訳『マヤ文字』は1996年出版。マヤ文字の解読が世間に認知されるようになったのは、日本社会ではごく最近のことと見て間違いないようだ。 マヤ文字の音節表はネット上にもすでにあふれていて、僕のような好事家(とオカルトマニアも多いみたい)の多さを物語る。例えば、 Mayan hieroglyphic script and languages などには『マヤ文字解読』巻末よりも多くの文字が収められている(この10年の進展か)。音の同定の際に参考にされた、ユカテカ系マヤ語の音素目録

未知の文字の推定法

マイケル・D.コウ『マヤ文字解読』(→ amazon )を読んでいるのだが、途中で文字論の面白い記述を見つけたのでメモ。未知の文字に出会った時、その文字の種類が(文字システムの全貌がある程度見えた前提で)どれくらいあるかによって、表語文字なのか音節文字なのか音素文字なのかが、概ね推定できるという(p.60)。以下はGelb,Ignace J.1952 "A Study of Writing", University of Chicago Press.(→ A study of writing (Open Library) )によるとのこと。 〈表語文字〉 ・シュメール文字600以上 ・エジプト文字800 ・ヒッタイト象形文字497 ・中国文字5000以上 〈音節文字〉 ・ペルシア文字40 ・線文字B 87 ・キプロス文字56 ・チェロキー文字85 〈アルファベットもしくは子音文字〉 ・英語26 ・アングロ・サクソン系文字31 ・サンスクリット文字35 ・エトルリア文字20 ・ロシア文字36 ・ヘブライ文字22 ・アラビア文字28 人間が区別できる表記体系の範囲がなんとなく見えて興味深い。 (追記) ゲルブの原著の該当箇所を読んでみて気づいた。中国文字が5000なわけなかった。50000だわ。これはマイケルの原著でミスったのか、翻訳の段階でミスったのか分からないけど、つーか僕にしてから誤植だってことに気づかずいることがダメダメですね。批判する資格なしですが。ゲルブは50000って書いてます、ゲルブのプライドのために(笑)。

いつまで続くか分からんけども

出張エピソード最終話。秋田出身の年上の方と車の中で。 「ご実家ってどういう食卓だったんすか」 「うちは肉とかあんまり食べなかったなあ。ものすごいしょっぱい塩鮭とかならよく食べた」 「あー」 「それでご飯をたくさん食べるのが基本」 「秋田の内陸だと魚はあんましってことすかね」 「でもハタハタは飽きるほど食った。内陸なのになんでハタハタだけトロ箱にドーンって」 「あー」 「それを味噌汁に入れて塩鮭とかね」 「しょっぱい物好きって健康にどうなんすか」 「いいわけないんだけど、でも塩気が薄いと食った気がしないんで、何でもしょっぱかったなあ」 「野菜はどうなんですか」 「ぬか漬けに醤油かけたりしてたかも」 僕は祖母から聞いた食べ物の話で覚えているのが2つあって、1つが塩辛の烏賊。冬になると多めに作って壷に入れて屋外で保存したとか。高校生くらいの時に作り方を教わって、今もちょくちょく作る。もう1つがぬか漬けの話。戦災後に都内のボロ屋だかに住んでいた折、近所でものすごくおいしいぬか漬けに出会って、あんまりおいしいのでぬか床を少し分けてくれないかとお願いしてみたら即座に断られたんだと。昔は家々でぬか床の配合は秘蔵されていたものだとか、そういうエピソードだったと思う。しかしついぞぬか漬けは祖母から教わらなかった。 という話を思い出したりして、思い立ってぬか漬けを作ってみた。いまはぬか床も配合済みのセットがあって水を混ぜるだけ。昨晩から漬けてみたきゅうりを今朝取り出してみたものの、少し塩がゆるい。冬なのでまだ早かった。春夏がメインのぬか漬けだものなあ。

「稲(いね)」を「しね」と読むこと

一関ネタでもうひとつ。一関市から前沢に向かう途中で右手に「束稲山(たばしねやま)」というのが見える(→ 束稲山 - Wikipedia )。「稲」を「しね」とはこれいかに、というわけだが、日本国語大辞典第2版を見ると次のようにある。 稲(いね)のこと。「荒稲(あらしね)」「和稲(にきしね)」など、多くは他の語の下に付いて熟語を作るときに用いる。(以下略) として、以下、日本書紀など上代の用例が並ぶ。 ところで、日本語の歴史で上代語を概説するときに、「和語は母音の連続を嫌う」というネタを扱う。一般的に文化的な成熟に向かうにつれて語彙が増加するときに、音節数が短い単純語を複合させ多様化する方法を取る。日本語も例外ではないわけだが、複合に際して、後続する単純語頭が母音である場合、母音の連続が生じてしまう。和語は母音の連続を嫌う。これを回避するパターンは(1)片方の母音を脱落させる「わが+いも>わぎも」、(2)母音を融合させる「なが+いき>なげき」、(3)子音を挿入する「はる+あめ>はるさめ」の3通りである、と説明するのがほとんどの概説書の定石である。冒頭の「束稲」が(3)に列される一例であることは、「しね」という形がつねに複合語の後部成素をなすことからも解るだろう。上代語の研究者にはおなじみの例かもしれないが。 ただ、(3)子音を挿入する例はどの概説書も用例が少ない。「こさめ」「ながさめ」「むらさめ」などはあるが、「あめ」以外の例はほとんど紹介されない。「ま+あお>まっさお」もあるにはあるが、中世以降の例とされる。またそもそも何故にsが挿入されるのか、kでは駄目なのかといったことは説明されないのが普通である。ということはこの回避方法は何らかの理由で生産的ではないか、あるいはそもそも回避の分類に入れてよいのだろうか、と考えたくなる。 このあたりの問題は、僕が知るうちでは、亀井孝「『ツル』と『イト』―日本語の系統を考へる上の参考として―」国語学16,1954(→ PDF ,雑誌「国語学」全文データベースより)に一説がある。直接PDFを参照できるなんて便利な時代! わたくしは、イネ⇔シネ(稲) アメ⇔サメ(雨) ウウ⇔スウ ウツ⇔スツ エ⇔セ(兄)の如き例におけるサ行立自のあるなしについてサ行音の現らわれない形の方を、サ行音の脱落したものと考へる。これに対し

「毛越寺」モウツウジという読み

一関に出張した折のポスター。「毛越寺」で、「モウツウジ」と読むらしい。 お寺のホームページ( 毛越寺|毛越寺の由来と歴史 )によれば、この不思議な読みの由来は次のように言われる。 毛越寺はモウツウジと読みます。通常、越という字をツウとは読みませんが、越は慣用音でオツと読みます。 従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです。 『日本国語大辞典第2版』では「もうつじ」「もうえつじ」「もうおつじ」も一応立項する。ただその読みの根拠は示されていない。円仁が落ちていた鹿の毛に導かれてこの場所に開山したことにちなみ、「毛越(けごし)」を音読みにしたものという。吾妻鏡にも記載があるというので調べてみると、確かに出てはいる(→ 吾妻鏡データベース )がその読みまでは分からない。特殊な読みなのですでに故実読みとして広く知られていれば、写本の類であれば読みの年代も推定できるだろう。 モウオツジ>モウツジ>モウツウジという変化は、東北が全般的にシラビーム的特徴(伸ばす音とか撥音とかを他の音節と同じ長さで発音しない傾向)を経て、その上で漢字表記に引かれて再解釈されたものか。モーーツジ>モーツジ>でモーーの超重音節がモーに、その後モー/ツ/ジからモー/ツー/ジ、みたいな。あるいは元の語の長さを保とうとする、代償延長なのかもしれない。

床屋談義

いつも髪の毛切りに行ってるところで、仕事バレした。別に隠しているつもりもなかったが、特に聞かれないままの5年間だったがようやく。というシチュエーションはフツーにあることだよね。 以前はこちらの情報は特にないので、時どきに応じた話題を宙ぶらりんに語れた気持ちよさがあった。なんだかそういう無責任でいられる空間がなくなっちゃったなーと思う。匿名つうんは楽ちんで気持ちいいものな。サッカー選手の話や駄菓子の話、近所の小学校で誰がどうのという話、たまに原発の話なんかもした。天下国家とか全然関係ないスモールトークで、しかも人称のない世界だった。髪の毛切りに行くところの匿名性というか、誰が誰に話しているんだかよく分からない、誰の何に役立つでもないどうでもいい加減な感じは、失ってみれば貴重な何かではあった。 地方に暮らすヨソモノ(8年も山形に住んでまだ言うかとも思うが)としては、匿名性が少しずつ失われて地に足が着き出すグリップ感も、それはそれとして楽しい。都市部の匿名性をすでに知ってしまったからなのか、「でも」というのはあるが。匿名のずるさは分かるし、人称のある自分で仕事しているし、というのはあるけれど、このブログだって「匿名」でやっていることになっている。いや、実名でやってもいいんですよ。でもぼんやりといまさらね、というのもある。 学生の話を聞くと、匿名性なんてことがほとんどない世界のすごさもたまに垣間見る。「誰々くんのお母さんと誰々くんのお父さんは中学校の時付き合っていて、そのあとうちの親と付き合っていた時期もあってどうの、みたいなことを地元のみんな知ってるんですよ!スポ小のときとかに親たちが語り合っていたりするんですよ!気が狂いそうですよ!」と言って、自分は絶対に仙台とか東京に行くんだと息巻いていた女子学生は、地元に戻って結婚し子どもをもうけた。彼女が行く美容院とかには最初から匿名性なんてないだろう。

桐島、部活やめるってよ

『桐島、部活やめるってよ』を観た。自分とこの学生を見ているようでもあり、自分の高校を思い出すようでもあり。映画オンチなんであれですが、こういう作りの映画が見たかったというのもあるし、こういう演技が見たかったというのもある。映像はNHKの朝ドラをたまに観るくらいなので。世間で言われているようなスクールカースト云々のところも、まあそうだろうと思った。面白かった。面白かったと言っていいんでしょうか。いいんであれば面白かったです! ぐっと来たのは、部活に打ち込んでる連中が、別に選手になろうとも監督になろうともしていないと宣言するところ。そうなんだよなあ。別に特別な何かになろうとするために何かに一生懸命打ち込むわけではないんだよなあ。でも生きていくためにはそういうのが必要で。 「特色ある」とかのフレーズが大学業界ではほぼ嘘だということがバレてしまって、とかそういうことを思い出しながら、映画部の子が8ミリカメラを構えているところを見ていましたよと。

ビー玉の語源

ビー玉の語源はビードロ(ガラス)の玉である旨を授業で紹介したら、学生のリアクションペーパーに異説が記されていた。曰く、A玉とB玉というのがあって、規格品外のB玉がラムネの瓶に入れられたことが語源であるという。 初めて聞いたわと思ってネットで見てみると、そういう説は確かにある。結論から言えば、典型的な民俗語源というやつで、言語学的な根拠はない。シアサッテの次を4の理解でゴアサッテと言うにひとしい現象だが、B玉というのもなかなか面白いケースだと思う。少し前にちょっとワル風のファッション・外見をした人のことを指してB系ということがあった。ほどなくしてオタク風のファッションをした人のことを、秋葉原のAを取ってA系ということもあった。範列のパターンで言葉が作られる例といえる。 ラムネ瓶の製造、ビー玉遊びの歴史などの経緯は、 ビー玉の語源を追い求めて - 最終防衛ライン2 に詳しい(文化史的に大変面白い記事でした)。なお、文献の初出例は日本国大辞典第2版によれば、夏目漱石『明暗』(1916)に見られるとのこと。

岩城けい『さようなら、オレンジ』

率直に言って、仕事をやりすぎて言葉がぼけた。もう数年そんな状態の気がする(年なのかも知れないが)。ブログを一生懸命書いていた頃は、もっと言葉をうまく探り当てて並べることができたんじゃないか。こういうふうにはなりたくない、という不可逆的な力をうすうすと感じながら、日々少しでも抗う気持ちでいます。 岩城けい『さようなら、オレンジ』を読んだ(→ amazon )。得体のしれない小説を読んだ。いや、物語の装置は僕には馴染みの深いものばかりで、これを書いた人は第2言語習得についての研究をどこかでかじったことがある人に違いない。あるいは識字の持つポジティブ/ネガティブな力について、一度ならず圧倒された人であると思う。サピアもウォーフも出てくる。言葉を習得するということはその暴力的な、どうしようもない力に蹂躙され、破壊され、そのあとで別の新しい自分に新生することだ。少なくとも言語学習の持つ見逃せない一側面として、そういうふうに人間を変えてしまう力がある。言葉が、異文化が「生産」するのは、そういうものだ。ごく簡単にいえば、この小説は言葉のそういう側面を題材にしている。 アフリカから難民としてオーストラリアにやってきた女性が重要な登場人物で、彼女の眼から語られるように物語は進行するが、小説的なトリックも仕掛けてあって、それも素晴らしい。ここで書かれていることはその題材を元にした、熱量の高い、得体のしれないことで、個人的な言い方をすれば、言葉の復調を促す感じがするのだけれど(もう一度読んでみないとそのあたりがうまくつかめない)。 読後、ちょっと頭がぼんやりするくらいインパクトを受けた小説だった。

陳腐な

セレンディピティといったら、さぞ陳腐に思われるだろう。人の苦しみや悲しみに触れることで、何かが回復されてしまうこと。全く残酷なこと!

君の勝利は僕らの勝利

非常勤先へ向かう道々、毎度すれ違うスーツ姿の女子大学生がいる。10月頭から連続4回。スーツに身を包んではいるけれど、髪もボサボサで全般的にその方向ではなかなかゴールが見えない感じ。お化粧もそれじゃダメだ。表情もできていない。 人文学部かな。理学部、かもしれない。いや、理学部の女子なんかはきっと却ってバシッと決めているかな。我らが文学部にもたくさんいたかも知れない、社会的スキルがちょっと残念で、でもお勉強はできたタイプかもしれないな。オタク趣味で内向的で、社会に対する不安と侮蔑の感情を持ち合わせていて、でもリアルに空想に、自分の部屋に教室に、図書館に本屋に、喫茶店に体育館の裏に、駅のホームに校舎の影に居場所を求めていたり、そして概ね居場所が見つからなかったり。 そういう意味で、君はたぶん僕であり、僕らだ。そういう意味で、シューカツはクソだよ。でも自分の次の居場所を作っていける大切なイベントでもある。心から成功を祈らずにいられない。君の勝利は僕らの勝利である。

HTC Butterflyに有線で外付けキーボード

5月頃にスマートフォンを IS05 から HTC J butterfly HTL21 に変更した。Androidは4.x以降がデフォルトで動くハードはもうappleに遜色ない、というか製品によっては現状ではスペックが上。マップをはじめgoogleの恩恵に浴している身としては大変便利な思いをしている。IS05でも有線テザリング(自己責任で)をやってはいたけれど、正式にサービスに加入した。出先でもiPad、Thinkpadがつながるのでモバイル無双な生活である。 そうして約4ヶ月が過ぎた。出先でPCを立ち上げテザリングをonにして仕事をしたりする。あるいはご近所のモスとかで論文を書いたりする。するとスマホ自体で書き物ができたら楽なのになーと思い始める。外付けキーボードですか。でもiPadでさんざチャタリング問題に苦しんだし、高速タッチに追いつかないというそもそも問題もある。ワイヤレスキーボードを持ち歩く夢の便利生活はもうちょっと未来の世界に。 とか思っていたら、有線外付けキーボードというまさかの発想にネットで遭遇した。同じくHTCの環境である(→ スマフォ:HTC J Butterflyに、有線キーボード/マウスを接続する )。これ本当に高速タッチに追いつく世界なのかなと半信半疑でありつつも、金額もそう張らないので実験的に購入してみたところ、これが大当たり。PCで入力しているのと変わりがない。ほとんど、ではなくそのもの、である。 これはすごい。Dropboxに作業中のファイルをぶっ込んで、というか日常的に使うファイルはすでにぶっ込まれているので、そのままスマホでお仕事ができる…そういう環境が今後どれほど頻繁に出てくるかはまだ分からないが。 ショートカットキーが使える! で、キーボードを接続してみると、普段PCで使うようなショートカットを手が覚えていてつい使ってしまう。これが!使えるのですよ。 Ctrl+C Ctrl+V Ctrl+X Alt+Tab→これは特に感激 その他、F7でカタカナ、なども行ける 一方、だめだったのが以下。 Ctrl+Z Ctrl+Alt+Del その他、アプリによっては対応するものとしないものがあるかもしれない(→こちらにいくらか紹介されている。 Android Bluetoothキーボード ショートカットのまとめ Nex

日没後の峠で

ご近所の峠で日没を見ながら。

ポストモラトリアム時代の若者たち

村澤和多里・ 山尾貴則・村澤真保呂『ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて) 』(→ amazon )読了。ちょっとグッと来たのでレビュー。 大学を「モラトリアム」と揶揄しようとして「サナトリム」と呼んだ人に最近出会って、なんだかこの人の中では大学は何かを猶予されている病棟のように映っているのだなあと思ったことがある。本書をざっくり説明すると、そういう風に見ようとする視座も分からなくはないけれど、でもそう見えているのだとしたらそれって学生の本質的な無気力によって生まれたものではないよね、と教えてくれる本。 本書の話の枠組みは、(1)フォーディズムのもとで農村=自然から都市=社会に組み込まれていく段階、自己変革の猶予段階としてのモラトリアム論から、(2)消費社会まっただ中では自己も消費されてしまうので自分探しとしてのモラトリアムが横行、(3)ポストフォーディズムでは(2)とは逆に、新自由主義のもとで自分を商品化に装っていく(≒意識高い自分を演出)ための猶予期間であり、そこにはまっていけない学生にとっては不安に蝕まれて病的段階を進行させていくような期間、とされる。 こうした若者をめぐる情勢の変化が、グローバリゼーションに向かう社会の変化、そして社会学の研究者が近年あちこちに触れるようになったギデンズの「再帰性」をキーワードとして説明される。資本主義社会の総括的な視点で、若者の心性の変化を僕のようにざっくりと整理したい向きには良い入門書かも。 学生の就活に関わるくだりは、大学業界に関わる人間なら誰しもわずかの痛みをもって本書を読むだろうと思う。あの空虚な自分史作り、就活に向けた目的論的な自己の物語。自分はそういう自分になるために育ってきたという閉じたストーリーと、インターンシップやキャリア教育で励むことになる着脱可能なペルソナ作り。職場で役立つ汎用的能力や高い意識をどう身につけてきたかという、薄っぺらな語り。 もちろん過当競争が生じている現状、即戦力型人材を求める雇用形態下、すなわち雇用側も経済的に安穏としていられない状況では、そのあたりはアシキリにも用いられないくらいに最低限な「前提」とさえ認識されているだろう。現代の学生にとってのモラトリアム期間は、その論理を内面化するための文字通り命を削るような作業期間でもある。その良し悪しは単純

訛りから解放され、意味が派生するとき

訛りというのは、方言と同様になかなか定義が難しい。方言の対になるのは通常の理解では共通語や標準語だろう。山形の方言「ごしゃぐ」に対する、共通語「怒る」のように。では東北方言に典型的な語中有声化を生じた「なぐ」(共通語形「泣く」)は方言か、というと言語学的な定義からであっても厳密な解答が用意されているわけではない。言語学の教科書には「ごしゃぐ」は俚諺形などとされており、方言はその言語体系全体を指すことが学問的には多く、言語研究の専門家に「なぐ(泣ぐ)」は方言ですかと尋ねれば、躊躇しつつ「方言といえば方言」と答えると思う。 俚諺とは、ざっくり説明すれば、共通語とは発音がまったく違う語形を持つその地域特有の語であって、訛りとは共通語と類似しており訛りを取り去ることができれば共通語に変換可能なそのような場合を指していうことが、経験的には多い。研究者界隈よりも、とりわけ言語感覚にやや鋭敏な言語話者自体がそう定義する場面によく出会う。(「ごしゃぐ」は方言だが「なぐ(泣く)」は訛りだ、というような言説としても現れる) しかし訛りが共通語との変換可能な形、つまり「なぐ」とは「泣く」が訛った形といったように、ある種の語源意識がいつも2つの語形を結び付けているとは限らない。 ある地元の方と出生儀礼について話した時のことである。生まれて一週間目にお祝いをするかどうか、すなわち「お七夜」を行うかどうかに話題が差し掛かったとき、その方は「このあたりではそういうのを『すずや』というんだな」と言った。一瞬脳裏に「鈴屋」という漢字が浮かんだが、これは間違いなく「しちや(七夜)」が訛ったものだろう。なお、その方は方言的なしゃべりのコードと、言語的ヨソモノに対する共通語的コードを使い分けていて、ぼくには後者のコードで話してくださっていた。だから「すずや」が共通語として用いられてのではないかと疑わせる。しかも「すずや」というのが「しちや」、7日目のことなのだという説明が一切ないまま、話が進む。それでどうも「すずや」が「しちや」と認識していないのではないかという疑いを濃くしたところで、ついには「このあたりでは生後一ヶ月したら『すずや』をするんだな」とおっしゃった。ここに至って、たぶん「すずや」は「しちや」とは変換不可能な別の語形と認識されているのではないかと確信した。 「すずや」は間違いな

ついに乙嫁語りに手を出した

たぶん美味しいんだろうけれど、今食べちゃうと後で「美味しいものが食べたい」と思うときに手を伸ばす物がなくなってしまうから。たぶんそういう理由で読まなかったのだと思う森薫『乙嫁語り』(→ amazon )をとうとう読み始めてしまった。まだ2巻までしか読んでないが、まず間違いなく絵や線が好き。中央アジア&(少なくともここまで)布のテキスタイルとか装飾品がフィーチャーされているところは、五十嵐大介『魔女』の一編を思い出す。一体、マンガで刺繍の綾目を丁寧に書き込もうというのはどういう欲望からやってくるのだろうと思う。そのものずばり刺繍なのかな。何にせよ、絵を細部まで書き込んでいく快楽は、ストーリー作りとは違う快楽なのでしょう。 掲載誌「Fellows!」を手に取ったことはないけれど、wikipedia( ハルタ - Wikipedia )を見ると隔月発行のために画力重視の作家さんたちが集まって、「1コマあたりの線数が多い」連載が立ち並ぶという。入江亜季の『乱と灰色の魔法』も絵がゴージャスだもんね。『ジゼル』もそうか…(表紙しか見ていないけど)。この人達の、ややレトロな印象の太くはっきりとした線も力強く手繰り寄せられる感じがして良い。 マンガでしか表現できない気持ちよさが実験的な手法を志向する作品について指摘されることは多いと思うんだけど、『乙嫁語り』の絵や線の気持ちよさは、ストーリーや造形とは別に明らかにマンガだからこそのもの。これはゆっくり味読したい作品。

アニミズムテロ

ある日、帰宅してトイレに入るとこんな芸術テロ活動が。 息子の小学校の課題だった。最初は便座の蓋に貼ってあったが、移動に。なんだか良い感じ。

漢字古今音資料庫

漢字漢語の声調研究にはありがたいニュース(→via. 古代中国箚記 漢字の古代音・中古音、現代方言の発音を知るには・・・ )。リンク先で紹介されていたのは、漢字の古代から現代までの声調のデータベースで、これは声調研究に携わっている人にはほんとありがたいことこの上ないです。 漢字古今音資料庫 個人的には中古音(主として広韻によって再構される隋唐時代の音)イチオシなんですが、董同龢・高本漢(カールグレン)・王力・周法高・李方桂による推定音がざっと横断的に出てくると。台湾大学中国文学系と中央研究院の共同開発のようですね。中国出版のいろんな書籍をたぐることはもう少ないかもしれない…。 自分がこれまで使っていたのは、書籍を別とすれば例えば 宋本廣韻データ 、いまはなき電子広韻とか電韻200とか呼ばれていたものだったのですが、隔世の感です。なお、宋本広韻データを含む 漢字データベースプロジェクト も素晴らしくて、漢字文献関係の人はたいてい押さえているんじゃないかと思っています。 上記サイト群の素晴らしさはやはり検索できることです。当たり前のことですがデータベースは検索できてなんぼ。しかし漢字文献はコードやフォントの問題からずっと技術的な困難を抱えて来ました。漢字をどう検索するかというのは今後も問題で在り続けるでしょう(→ CHISE IDS Find というプロジェクトもあります)。それがある程度クリアされてきたのだと思います。だとすると次はその文献画像そのものとの連携ですね。著作権なども絡むので、技術的な問題よりももっと大変だとは思いますが。WEB上のデータベースはこの10年で本当に便利になりました。

水面に夕日が反射してます

子どもとのんびり遊ぶ夕方。この時間帯は光がきれいに入りますね。近所の水路遊びに夕日が反射しています。 2枚目、3枚目はポップカラーのフィルターをかけてます。3枚目は露出開けすぎでしたかね。

Map My Rideによるログ

昨日に書いたエントリについて補足。サイクリングのログはMapMyRideというフリーのAndroidアプリ(→ iMapMyRIDE乗馬サイクリングGPS - Google Play の Android アプリ )を利用している。自動翻訳なのだろう、「乗馬」はおかしい(笑)。しかし機能は個人的には申し分ない。GPSによるマッピング、時間、距離、平均時速、高低差、消費カロリーなどを計算する。アプリで得た情報をPCでチェックできるのもありがたい。以下、ハードコピーを紹介。 Climb Information 山形市(標高120mくらい)から月山の麓の大井沢(標高500mくらい)がゴールだったので登りは覚悟していたが、なまった体にはかなりきつかった。途中歩いたパートもある。しかしMapMyRideのカテゴリでは、5段階のうち下からせいぜい2番め(→ Climb Ratings and Information | MapMyRide )。なお、登り坂の定義はツール・ド・フランスなんかで使われる国際基準に基づき、500mで3%以上の勾配を指すとのこと。 Course Fly by Video きわめつけは、Google Earthと連携した3Dマップからのコースビデオ。速度を上げるとマップの描画がついてこないのがご愛嬌。読み込み、重いですね。 (追記) インラインフレームは重たいしブラウザの動作が不安定になるのでやめました。ご覧になりたい方はこちら(→ 3D Video )。

自転車:山形市→大井沢

にゃはは。山形市から西川町大井沢というところまでサイクリング。往復で118km。ただし月山ふもとまで登っていくわけで、ヒルクライムは地獄の様相だった。山の天気なのでコンディションも曇り空に晴れ間がのぞいたと思えば、氷雨。午前10時ごろ、最低気温3度のなかを進む。 大井沢では温泉で疲労をわずかに回復。 孝庵 さんで山菜鍋そば。 その分、ダウンヒルは平均40km/hで最高に楽しかった。追い風参考、西川から寒河江チェリーランドまでの直線は笑みが溢れるほどのグッド・コンディション。 出発地点の文翔館に戻る。まだ桜が残っているのですよ。 そして軽く反省会。いい旅でした。