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11月, 2007の投稿を表示しています

おかゆ超うまい

一週間前にスーパーで生秋ジャケを購入して、冷蔵庫に保存しておいたものを、一昨日ソテーにして食べた。パック内でにゅるっとしておる状態だったが、食えるでしょ、賞味期限は偽装するから悪いのであって、1週間先まで大丈夫って表示すれば余裕でしょ~という緊急時の普遍的な常識で(このところずっと緊急時です)食ったところ、予想に反して超当たった。軽い脱水症状が2日続いています。今朝はおかゆ。

秀丸+祝鳥

先々週あたりから、原稿を書くエディタを サクラエディタ から 秀丸 に変更した。秀丸はフリーソフトじゃないところがイヤだったのだが、TeX用マクロの 祝鳥 (のりてふ)がものすごく優秀なので、導入を決意。これがものすごく便利。 これまでのエディタ遍歴は、 TeraPad →TexEditor→サクラエディタ。それぞれに長所や短所があるが、基本的にウインドウの大きさを変えたときに改行を合わせてくれるかということと、TeXを使い始めてからはTeXが乗りやすいか(というかTeXのためにカスタマイズをできるだけしなくて済むかどうか)、文書の構造をツリー表示してくれるかといったことを選択のポイントに置いている。 で、これまでniji wo mitaもHTMLタグをずっと書いていたところにブログに乗っかったら、タグを挿入するのが超面倒になって、合わせてTeXのタグもできればタグ辞典とか見ないで済ませたいなーとは思っていた。そこでちょくちょく調べていたら、条件にぴったり合うエディタ+マクロに出会ってしまったという話。 それにしてもemacsで動く「野鳥(やてふ)」のwin移植版「祝鳥(のりてふ)」は、名前も継承していて形態素「鳥(てふ)」を持っている。鳥の歴史的仮名遣いは「てう」なのであって、TeX(テフ)の発音を擬似表記するなら「蝶(てふ)」のほうがふさわしいと思うんだけどどうだろう。

ざわざわ

週末は土曜も仕事で、日曜だけ休み。予定表を見てみたら、約1ヶ月前から週末に家で休めていた痕跡がない。ものすごく久しぶりの休みだったかもしれないと思った。そりゃあ原稿も進まないと言い訳の一つもしたくなるわけです。言い訳になんないな。 昨日は部屋にあふれた洗濯物をひたすら片付けまくった。もう山形では外に洗濯物を干すことができにくい気候であるうえに、一日のうちの何度も天候が変わるので、一人暮らしの身では外に干して外出することはまず無理。部屋干しがうまく行かないために、最近は軽く乾かした洗濯物を暖房機の前に散らして、乾かすというものすごい技を導入(燃焼は室外で行うタイプなので温風だけが室内に運ばれる)。このところ寒いからユニクロで温か素材の服をガバッと買って、これまた暖めるために暖房機周辺に置くものだから相乗効果で2週間で10キロ痩せる!ごときみるみる状況が進行したわけです。結果、部屋中に衣類が散らばって、まるで台風後の林みたいなひどい状況に。 このほか、モスバーガーで原稿をグワッと進ませて、本屋でボーっと立ち読みして同僚とメシ食いに行って、家で原稿を進めるぞーと思ったら実家のトラブル処理が舞い込んで気を取り直す間もなく突然の眠気で倒れるように就寝。 今朝研究室のドアあけたらデスクトップPCのiTunesがかかりまくりでガンズのParadise Cityに迎えられる。一昨日部屋を出たときに記憶が一切ない。スイッチつけっぱなしまくりの廊下まで音がもれまくりの状況。受講生の2人からメールにて、親御さんが倒れたので休ませてほしいと。週の頭からざわざわしている。

ユリイカ総特集・荒木飛呂彦

まずは小学校のころから読み続けている荒木飛呂彦が批評誌で取り上げられるようになった時間の流れにツーンとした思いを抱く…わけでもないが、ユリイカに取り上げられたのは感慨深いものがある。こないだは青学の学園祭のトークライブに出演されたそうで、語られるだけのマンガの歴史となったということなのだろう。 「ユリイカ 2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦~鋼鉄の魂は走りつづける」(→ amazon )、喜び勇んで画像も出しちゃうぞっ。 ジョジョといえば、というか荒木飛呂彦といえば、マンガ史ではその構図やコマ割りの独特さ(といい意味での気持ち悪さ)が特徴的で、今回の特集ではやっぱりその点を取り上げる論考がいくつかある。読み応えありそうで、これは楽しみ。 まー、これを自分で気づけずに、同僚にプレゼントされたのがうれしい反面、悔しくもあるわけで…。沖縄に現を抜かしている場合ではなかった(ちがうか)。

雪到来

沖縄から帰ってみれば、山形は雪が降りしきる。一晩立って家並みはすっかり雪化粧。25度から2度への転落、沖縄も東北も同じアイヌ・エミシ系という講演があったばかりなのに、この気温差は如何に。冬用タイヤに替えていないのは、11月に雪が降ることを想定していなかったよそ者の悲しい悲しいお話です。

オカルトついでに東北発

ごめん、ここはネタブログでは決してないのですが、これはクリップしておきたい。東北発のカルト集団…。秋田県湯沢市の新しい話題がこれか…。せつねえ。謎のセックス教団における、オカルトと右翼の親和性というのもありげな感じだが、それにしてもなぜ湯沢? 日本における「リトル・ペブルの共同体」 「神が望むなら…やるんです」 ( zakzak ) 日本の右翼と神主の若者たちへ もともと上品とはいえないこのサイトがさらに下品なものに…。許してたもれ。

オカルトの帝国

ひめゆりの塔というと、かつて上石神井で通い詰めていた(というほどでもないか)沖縄料理のお店でおばちゃんから「ひめゆりの塔に行くと霊障で具合が悪くなるからやめたほうがいい」と言われたことを思い出す。曰く、首が痛くなるだの、めまいがするだの、わけもなく涙がぽろぽろ出てくるだの。ところが僕は事故後1年経つのにそもそも鞭打ちの後遺症があるし、飛行機の恐怖でいまだゆらゆらしていたし、悲惨極まる歴史の爪あとを目のあたりにして涙を流すし、期せずしておばちゃんの言ったとおりになったのだった。ともあれ、田口ランディの言う「悲しみのための装置」ではないけれど、あの場所で起こったことを受け止める装置としてオカルト的言説が用いられることはあるだろう。  さてそこで、というのはあまりに不謹慎極まりないかも知れないが、同僚から借りた『オカルトの帝国 1970年代の日本を読む』(→ amazon )は高度成長期の終末とともに日本に立ち現れた心霊ブーム、妖怪ブーム、UFO、超能力ブームを丹念に読み解いたもの。読んでないけど expop で紹介されていた『UFOとポストモダン』(→ amazon )なんかと同じ枠組みに基づいて書かれているように思った。  余談だが阪神大震災で幸いにも無事だった友人から、「なぜ自分が生き残ったのかというと、それは運命からの生きろというメッセージなんだ」とか「選ばれたんだ」とか言う話を聞いたことがある。また僕が昨年追突事故に巻き込まれて首を痛めたときも、その半年前に偶然訪れた山形の心霊スポットの影響であることをわざわざ伝えに来る学生がいた。インパクトのあるできごとにさらされると、非合理的な世界を持ち出し、秩序の回復を図ろうとするのは普遍的なことなのだろうと思う。

戦跡めぐりとか

学会中日のお楽しみ観光は、せっかく初めての沖縄なので首里城とか!と思ったら80歳になる師匠の企画コースで南部戦跡めぐり。戦争体験者の教育的配慮というか、広島で学会のときに原爆ドーム行かずに厳島神社で鹿と戯れていた僕を牽制すべく、ひめゆりの塔とか見て来いよと。 ひめゆり平和祈念資料館 。書籍などでちょっとは知ってはいたけど、とにかくこの資料館はよくできている。太平洋戦争の最終防衛ラインに立たされて日本の「周縁」として切り捨てられた残酷さは、左翼的に語られる反戦メッセージとは別に、決して忘れてはいけない歴史的事実だということを改めて思い知らされた。 沖縄県平和祈念資料館 は、平和を訴えるべく沖縄受難の歴史的事実のレイヤーを何枚も重ねて、琉球王国から戦後沖縄までの歴史が俯瞰できるようなつくりになっていた。主レイヤーはやはり近代以降の同化政策と太平洋戦争、米軍基地であるが、特に同化政策に用いられた「国語」と「方言撲滅運動」についての資料が見られたのは良かった。本物の「方言札」も初めて目にすることができた。  というような歴史の暗がりを体験することで消耗した体力を取り戻すべく、連夜店みせで泡盛。地元のじいさんやおかみさんと意気投合して飲んで語る。行く先々で「お兄さん地元の人?」とか言われるのは、空港に降り立ったときから、白い土や植生、彫りが深く浅黒い人々の顔を見るにつけ親近感を抱いていたよ。何しろ「本土」より台湾のほうがずっと近いからね。気温25度前後、半そでですごしていたのが、山形に戻ってみれば初雪。このギャップのダイナミックさがー、とか語りたくなるのは、学会講演会も含め、アイヌ・エミシなどからプロトジャパニーズを語ろうとする言説を浴びてきたからでしょうか。

飛行機の恐怖を乗り越える橋頭堡

日本語学会で沖縄。例によって、最大の関門は飛行機であるが、今回は意外なほどに怖くなかった。前回山形空港から大阪に向かったときは、盆地ゆえであろう上空の気流の乱れと機体の小ささがあいまって、途中下車を真剣にお願いしたいほどの恐怖だった。今回は仙台発だったので、太平洋側の穏やかな気流と何より大きな機体による安定が幸いしたのだろう。畏友soraが「軽自動車とクラウンほどの違い」と言った事は本当だった。  とは言うものの、やっぱり全く怖くないわけではなくて、離陸時や着陸時のゆれは、それこそ安定して怖い。今回も恐怖から逃れるために、なぜ怖いと思うのだろう、怖いと思う意識のありかはどこかなどと真剣に考えていた。  僕はとにかく機体の上下左右への揺れがもたらす、生理的な浮遊感や何かに乗り上げる感じが嫌いだ。生理的な、と書きつつも、この恐怖は普遍的なものではなくて何だか分からないけど僕の中で構築されてしまった恐怖であって、ゆえにその構築物をぶち壊すことも可能である、と思おうとしている。事実、飛行機の中ではそんなことばかり考えている。だから気をそらすために激しい音楽を聴いてみたり、わざと違うことを考えてみたり、いろいろ試すわけだが、いざ離陸着陸となるとその恐怖が意識に立ち上ってきて、すべてを覆ってしまう。  というわけで、今回もギリギリガールズな感じではあったが、発見もあった。それは、着陸時の揺れが、高度が高いときと低いときとで恐怖の大小の違いとなって現れるということだった。構築物と思いたい、しかし生理的な恐怖かもしれないという思いから逃れることができない状態から一歩進めたことは、心の近代化(笑)としては大きな一歩である。実は、今回仙台空港に着陸する直前、風の影響だと思うが、激しく揺れた。エンジン音も大きくなったり小さくなったりを繰り返していたし、左右に何度も傾いていた。操縦士も大変だったと思う。本来ならば、それ級の揺れに直面すると僕は全身の筋肉がこわばって、内臓がギュッとなって、手足の平から汗がじとーっと出てくるのに、わりあい平穏な心で着陸を受けとめることができた。同じ揺れが、高いところと低いところとで感じ方が違うということは、恐怖は生理的なものではない、すなわち克服可能であるということが分かったのである。  正直、ここを読んでいる人にはすさまじくどうでもいいことだろうが、僕にとっ

リアルサラリーマン金太郎

本宮ひろしが描くようなストーリーが本当にあるものだ。大学時代の友人が、7億円の登記書を歌舞伎町で拾って社長に届けたところ、うちの会社で働いてみないかという話になったという。その友人がまあ破天荒なヤツで、頭も良くてアホみたいに体力があるくせにテンションの高低が激しくて、勤めたり勤めなかったり、自営業をはじめたり辞めたり、思いついたように資格を取りまくってみたりと話題に事欠かなかったのだが、たぶん好き勝手やらせてもらえるような男気溢れるポジションをもらったようなので、つうかそれこそが本宮ひろし、サラリーマン金太郎なわけなのだが、何より心配なのは7億の登記書を落とす社員を抱える会社に未来はあるのか。と、学生時代に2万円のバイト代を落とした僕がいうのだった。

オトコ昴、バレエ経験者?

くそうっ。忙しいのに、 munekataさん のとこで見つけてしまった衝撃動画。かれこれ10回以上は見ています。ハイレベルにバカをやるとどうしてこうも引力のあるものに仕上がってしまうのか…。このアムロレイ氏、呉大学の学生さんらしい。ローカル世界の宝だと思います。あまりに最高だったので貼り付けておきます。トークも行けるのかよ…。 アイドル界の新星 アムロレイ 第2幕 アイドル界の新星 アムロレイ 第4幕

「思ったり。」旋風

言語についてはわりあい保守的なうちのオクサマまでがとうとう「と思ったり。」を使ったので、ここまで来たのかと思った。 この「思ったり。」、僕の感覚ではこの1年のあいだに急速に広まった用法だと思う。もともとは「行こうと思っ たり 、やめようと思っ たり した」などのように、複数の動作がかわるがわる行われることを意味する形式なのだけど、新しい使い方では 1) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなと と思ったり 。 などのように用いる。WEB世界では毎日お目にかかる用法だ。そして、新しい用法が生まれるということは、そこには新しい意味機能が付与されているということだ。この場合は、叙述の断定を避け、あいまいにしようとする、いわゆる婉曲用法というやつだと思う。たとえば、広い意味での婉曲を表現するものには「~と思って。」「~みたいな。」などがあるが、そこに「思ったり。」が参入したということになる。 2) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかな と思って 。 3) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかな みたいな 。 2)も3)もちょっと古い感じがするが、1)と同じように使えそうだ。 4) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなと思う。 4)は婉曲表現なしの、つまりボカシなしのむき出しの形。ということはリアルでエグイ、とかいう話ではなくて(スマン)、少なくともある種の「かわいげ」はなくなる。それぞれ来歴は違えど、類似した表現となっている。 ところで、僕はこの表現がちょっとむずがゆい。何でむずがゆいんだろうとずっと考えていたのだが、思わせぶりなところがむずがゆいんだな、と今日気づいた。つまり「~たり」という表現はもともと複数の動作がかわるがわる行われることにあるので、「~と思ったり。」という表現には、記されていない他の動作があることを暗示されてしまうのだ。 だから、1)には、「家でご飯を作る」以外に何かやりたいと思っていることがある(だけど今は言わないよ)、ということを推測させられてしまう。表現主体には、おそらく「家でご飯を作る」以外の何かは想定されていないだろうが、かつてこの表現自体が持っていた機能の残り香はまだ漂っている。語られてはいないが、語っていない何かがありそうだということが、「(だけど今は言わないよ)」を共起する。それが思わ

モスライスが新種の椅子に見える

背もたれがうねうねブヨブヨする感じの新しさでな。気持ち悪い。 つーわけでモスで仕事なわけだが、理由は自宅が寒すぎるからです。家の正面にそびえたつ蔵王山頂は今朝とうとう白くなってた。はえーよ。しかも同僚が言うには今週末には初雪かもよーだって。はえーから。今年の冬も寒いんだろうな、山形の人はフツーとか言うんだろうけど。雪かきも大変なんだろうな、山形の人はフツーとか言うんだろうけど。おまいら、山形のフツーは関東のフツーじゃねえんだよ! 理不尽なほどに当たり前なツッコミしか思いつきません。 現状、最低気温が5度近辺なんですが、すでに自宅自室では温風ヒーターと電気ストーブが動いています。寒くなると最高気温が0度で「今日は暖かいね」とか言うんだ山形のフツーは。そのころ、関東のフツーは、石油ストーブも稼動して、3方向からの無差別同時攻撃で最終フツー決戦を乗り切るんだろうなあ。

駄菓子全然懐かしくない

ここんとこ家で原稿を書いたりして気が滅入ったりしているわけだが、お茶やコーヒーのお供に東ハトオールレーズンばかり食べている。お菓子の類はほとんど食べない口なのに、ストレスですかね。たまーに昔に食べた懐かしいお菓子が食べたくなってしまう。キャラメルコーンとか。ライオネスコーヒーキャンディーとか。某友人と我がオクサマは銀ビスでわいわい騒いでいた下井草の夜。3年くらい遅れて懐かし菓子熱が来ています。70年代生まれ、この指とーまれ、って感じでしょ。 考えてみると、いわゆる駄菓子は懐かし菓子ではないなー。そもそも、駄菓子屋があるような路地で遊ぶ、といった体験はじつは僕にはほとんどない。親父が引越しマニア(笑)だったために、団地とかマンションとか都市周辺郊外に新設された新興住宅地ばかりを渡り歩いていて、ゆえに三丁目の夕日的な生活イメージは皆無。ってかあれは昭和30年代だから40年代後半生まれの僕は違うわけだが。そんなわけでああいうのを古きよき昭和みたいなイメージで語られるのには非常に違和感がある上に、気づけばジャスコのたこ焼きやもそういう駄菓子屋的S30的イメージで売っていてショックだった。あの手のイメージはいま売れどころなんですか? おっと話がいつもどおりズレまくったが、駄菓子屋がある風景って都市公団がやってるような団地には全然なかったよ。なので、三丁目の夕日もそうなんだけど、昨今の駄菓子ブームも僕には作られた感があって、全然なじめません。なんであれが昔懐かしい味なんだ。懐かしがっているのは誰なんだ。懐かしいっつったら東ハトオールレーズンだろうがよ。あ、やっと元に戻った。

MS-IME2002がふっとぶ

ノートPCで使っているMS-IME2002の登録辞書が突然飛んだ。出荷時の初期状態に戻ってしまった。デスクトップPCに1年前くらいの辞書バックアップが取ってあるので、辛うじて復活したが、この1年間に登録した新しいことばが失われたのは大変痛い。MS-IME2002が突然ぶっとぶことについては、nlog(n)の MS IME に登録した単語がごっそり消えた の記述に詳しい。どこかにフリーで堅牢なIMEはないものかと思いつつも、バックアップを取らなかったことを悔やんでみた。IMEに堅牢さを求めるというのもおかしな話とは思うが…。いや、やっぱおかしいでしょ。 辞書を復旧しながら、この昨年までに研究論文で取り扱ってきた固有名詞と、この1年で取り扱ってきた固有名詞にさしたる違いがないことがわかって、そんなものかと思った。言語の史的研究はモードが変わっていく速度がかなりゆっくりとしているので、社会学や現代思想などのジャンルとは比べるべくもない。30年前くらいの参考文献を取り上げることも普通にある。以前、社会言語学の人が、ある領域について、「10年前の文献しかないなんて全然進んでないよねー」などと語っていて、生き馬の目を抜く早さってこういうことだろうと思ったことがある。新しい用語の誕生も、ジャンルによってずいぶん違うのだろう。ともあれ、研究面で1年前にリセットされても大丈夫、というのは安堵しつつも複雑な心境。 一方で、仕事の環境が変わったために、新たに登録した人名や組織の名前、仕事上のジャーゴンが失われたのは残念。こちらは新たにひとつずつ登録するしかないか…。

右脳左脳の実験

10/23の「右脳左脳」(→ エントリ )で取り上げた画像について、トリックではないか?という疑いが消えないので、ちょっとした実験結果を。 休み時間を利用して30人くらいの学生に同じ(一台のPCから複数のモニタに映し出される環境で)画像を一斉に10秒ほど見てもらったところ、半々くらいの割合で「右回り」「左回り」という回答が得られた。さらにそのまま眺めてもらうと、逆周りに見えてきただのずっと同じ方向に回っているだのという回答が得られた。したがって、この画像にトリックはなく、見ている人間の処理の違いによって右回りや左回りに見えるということがわかる。また、逆周りの見方に切り替えられるか、切り替えられないかには個人差があることがわかった。以上。