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Google Calendar Mobile Gateway 3

Google Calendar Mobile Gateway - yamamo's Blog - yamamoWorks がバージョンアップ。最新版は、 Google Calendar Mobile Gateway 3 - yamamo's Blog - yamamoWorks 。週表示、月表示に対応および任意の画面から予定を作成できるようになった。Google Calendar本体のような使い勝手に近づいたよね。 (参考) niji wo mita: google calender,lightning,携帯電話

HUNTERxHUNTER27巻

HUNTERxHUNTER27巻。単行本で読むとあの緊張感は薄れるものの、描こうとしているテーマの輪郭が少しみえてきたような。冨樫は幽遊白書とレベルEで、人間じゃないものとの、桃源郷的な社会共生を描いた。登場人物目線で「敵と分かり合う」というテーマは漫画の定番だけど、目線が社会にあるのは少なくとも当時の少年漫画にはあり得ないテーマで、どこか新しい感じがした。ハンターのヨークシン編やGI編でも、社会目線の目新しさはなかったにせよ、主人公たちと対立する登場人物たちとはそれなりに分かりあい、その調和の中で主人公たちの関係も保証されていた。 しかし蟻編では人間とキメラアントたちとは(ある価値観を共有できたとしても、集団としての背景が異なりすぎて)共生できない現実を描こうとしている。物語的決着の帰趨も気になる所だが、もし冨樫が蟻編でそうした根深いディスコミュニケーションを描こうとしているのならば、いよいよこれまで何度も伏線が張られ続けてきたキルアとゴンの関係に話の焦点は本格的に移るだろう。人間対蟻と、ゴン対キルアの関係は並行して、両者は相互に比喩的に、どちらもディスコミュニケーションの物語として語られるだろう。 ディスコミュニケーションの物語自体は、1995年の『寄生獣』連載終了、1997年『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生』のあたり、20世紀最後の匂いがする。ただし、かなりあてずっぽうに言うが、その匂いは主にエヴァ的価値観を継承しつつセカイ系が牽引したものだ。これまたあてずっぽうかつ無責任に言うと、セカイ系の気持ちよさは閉鎖から開放に向かうように見せつつ、実は「語りの立脚点としてのボクの確認」に帰着するところにあるので、その意味ではきちんと他者不在のディスコミュニケーションの話だとは思う。21世紀のハンター蟻編は、共生したい他者がきちんといて、でも共生できないディスコミュニケーションを描こうとする点で『寄生獣』を継承するのではないか。つまり他者を承認することを通じて自分が承認されたい地点に立ち戻ることをせず、他者との生存闘争・殺し合い、否定の責任をただ背負おうとするような。 これをゴンとキルアの登場人物目線でも、人間とキメラアントの社会目線でも、描こうとすることは、少年漫画としてはやはり新しいと僕には思える。このところ年間10本

横浜に施す気まんまん

山形から関東へ帰省。例によって家族で移動するためコスト意識の自動車利用なのだが、今回は非常に楽ちんだった。テレビ等で報道されているように年末は高速道路の割引が実施されないため、渋滞どころか閑散とした道路をストレスフリーで移動。これまでの盆暮れ渋滞が嘘みたいだった。 家族の疲労もこれまでに比較すれば少なかったので、調子ぶっこいて以前住んでいた杉並の井草近辺をめぐる。この5年くらいで変わってしまった風景の中に、コーヒー1杯で長時間滞在させてくれたジャズ喫茶、パンの耳を買ったあの店、いつも唐揚げをおまけしてくれたあの店、とにかく口の悪い店主の八百屋、に輪をかけて口の悪い魚屋(どちらも物はすごくいい)、などなどを見つけて、なんとなく嬉しくなってしまった。 大泉インターを降りて井草に向かう途中、「山形ナンバーって都市ナンバーによしよしされてる感じしない?」などと妻と話す。話しながら、幅員減少で困った挙句右折レーンに寄せてくる横浜ナンバーを入れてあげる山形ナンバー。よしよし目線によしよし返し。これぞ中華街に施す大石田そば街道。あるいはシュウマイに施す玉こんにゃく、まさにランドマークタワーに施す霞城セントラル。a-han?すなわちこれベイブリッジに施す千歳橋じゃん。yes, とりもなおさず横浜ナンバーによしよししてあげている山形ナンバーでいいがっすがす。さあ、俺たちはそうとうねじ曲がって来ました!

まみれる覚悟ゆえ

暮れも押し迫って3つ目、今年最後の出張。東京で研究会のち忘年会を兼ねて、深夜バスで山形に戻る予定なり。いい加減若くないんだからそういうのやめろ、との声に耳を貸さぬ右斜め上段からの構え。蔵王スキー場に向かう若者たちにまみれる覚悟、暁にバッサバッサと敵を切り倒して進むゆえ。

baiduまでも

baiduも出したのか…( Baidu Type -文字入力システム- Beta版 )。話題の作り方は、 「日本語を楽しく」 27歳ケータイ女子が企画したIME「Baidu Type」 (1/2) - ITmedia News の通り。こういう目線で行くのね。

コブラ

自宅で忘年会。安い中国産のあんこうで、鮟鱇鍋。ゲンゲもぶち込み、深海魚プルプルシリーズ鍋。これが結構おいしくできた。持ちこまれた本物のししゃももおいしかった。酒好きの同僚とか元同僚とかが持ちこんだお酒、合計で約2升空けた。超美味であるなあ。おかげで翌日はへとへとです。 帰りしな、なぜか寺澤武一『コブラ』の話になり、僕は元同僚奥さんに無理やり『コブラ』を貸し出すことに。翌朝うちのオクサマからコブラを貸し出すこと自体がセクハラではないのか、と突っ込まれた。そうかもしれん。

アウトソーシング、ありですね

怪しげなセミナーは基調講演は相当怪しかったが、収穫もあった。入学前教育、初年次教育をアウトソーシングしている大学ってたくさんあるのね。塾や予備校業界が蓄積したノウハウのほうが、大学教員よりよっぽど効果的かつ具体的なプランを持ってる。実際、基礎教育ってものすごく手がかかる。理想的には一人ずつ目配りしての添削の嵐をするのが良いのだろうけれど、どこの大学もそんな労力かけられる余力はないでしょう。初年次教育は思い切ってアウトソースに任せてしまうのもありだなあと思ったよ。 面白かったのは、基調講演の大先生と業者との認識の違い。大先生は、国家とか変にしょってるから言ってることが現場感覚にずれまくり。日本語力とは語彙力であるとの強烈な定義と、語彙力を検定するようなプレースメントテストで留学生の方が高得点を取っていることに「残念である!」を連発。じゃあもう留学生の日本語教育を入学前にやれよ。高校までの国語必要ないから。ってそういうことじゃないじゃん。語彙力が日本語力を構成する他のモジュールとも連動している、というような予測のもとで語彙テストをやってんじゃないのか。だから表面上の語彙力テストで留学生に点数上で負けても負けたことにならない、っていうかそもそも留学生を引き合いに出すのはおかしい。日本語=日本人のもの、みたいな素朴な構図をもとに、「留学生なのに日本語が上手」みたいに褒めるのと同じくらい見当はずれ。 対して、業者の方は現場のことをよく分析している。日本語に関して言えば、語彙力にとどまらないコンテンツを本気で考えていて、参りました。

1970年代の宿

東京駅から異様にアクセスのいいビジネスホテル予約したら、奇跡的に下町なホテルだった。この1970年代感は感動的だ。とりあえず、天井低い部屋狭いはいいとして、ドアが木です。旅館なら納得する可能性もあるが、ビジネスホテルかあ。明日の朝食が違う意味で楽しみに。

懐かしの犯行を思い出しつつ

年末だというのに出張ラッシュ…。なのだが、出かけるのがほとんど不明な出張もあって戸惑う。天下り団体が運営しているっぽい「研究会」のセミナー。初年次教育などについてレポートを書いてこいとのことなのだが、1日8時間で参加料4万円オーバーというのは、ものすごい集金システムで目を疑う。自己啓発系のヤバいセミナー並みなんですけど…。参加費に目を疑う上に、参加する前からレポートが書けそうな内容にまた躊躇する。一応、怪しいにおいがするので行くの辞めませんか?と上申してみたものの、笑顔でスルーされた。妻に話したら先にレポートを書いて、予想が当たるか試してみてはどうか、とのこと。行かない選択肢はないのね…。 その昔、参考書を黒板に写して、それを一字一句生徒に写させる教員がいた。高校生だった僕たちはその参考書を突き止めて、授業開始前にその日の内容をさきに板書した。教員はひとしきり怒って黒板を消した後、かすかに残る文字をなぞるかのように同じ内容を再び黒板に書いていった…。よくある話である。しかし内田樹によれば、弟子は師がこれから教えることの意味を、原理的に知ることはできないという。分からないまま写させられる行為の中に、学ぶことの意味を感知せよと。黒板に書かれている世界史の知識はどうでもよく、写経の過程に意味を見出すべきだったのだ。僕らはまったく愚かな高校生だった…。 という挿話をどこから眺め直してみても、集金セミナーに出席するモチベーションが上がらないのである。

福島聡・松本次郎・熊鹿るり

福島聡『機動旅団八福神』最終巻(→ amazon )。ええ…?一巻読み飛ばしたかなと疑ってしまうくらい、よく理解できない終わり方だった。この戦争は何だったんだ?という問いかけを通じて、ヒロインがある境地に到達するのだが、そもそもどの戦争のことを指しているのかが判然とせず、福神の持つ専守防衛性は結局物語にどう回収されたのかさっぱりだった。松本次郎『べっちんとまんだら』(→ amazon )は初めて読んだ著者作品。噂に聞いていたひたすらな下品さは確かだった。もういいよこれは。全然「女子高生の人肉をお届けします」という話ではない。帯に偽りあり。エロでもグロでもないよ!熊鹿るり『母さんロックで泣く』(→ amazon )は表題作がフツーにレベル高い短編集。ロボットは感情を持つか?というありふれたテーマだが、主役が表紙に描かれるようなステレオタイプ的オカンなので、あくまでも昭和的な家族を通して語ろうとするところが一部に受けるんだろうな。癒しとか言われてるし。個人的には相同的な痣をとおして官能的なコミュニケーションをとる話が良かった。 ということで、マンガ不発!新しいものを探そうとするマンガリビドーがますます発動しないことに…。やはり寄生獣の完全版を熟読すべきか…。

今週のうすたも切れている

しかし、これは学校関係者にしかうけないだろう。今週のジャガーは、学校案内パンフレットのパロディなのだが、もう見る人が見ればバカ受けである。広報ではまず使わないボツ写真のチョイスとか、学生からのダメなコメントとか、本当にうまい。そうこうしているうちに「本人の努力次第で行くことができる可能性のある主な就職先」とか涙出た。無駄に一流企業の名前を連ねるなよ…。そして得意の後半からのずらしまくりで、決めはこれです。 …何の本能だって?もっぺん言ってみろ。うすた先生最近、本当に切れてます。もっとやってください。あなたはいま脂の乗り切った酒田港のタラです。プリプリのタラの白子です。来週も箱買いしますから、水揚げ量上げてください。

矢野顕子・山形市文翔館でライブ

神奈川県立音楽堂で一発録りしたライブアルバムを引っ提げての全国ツアー中、悲願の山形市文翔館でのライブ( [Akiko Yano Official Website] Entries )。これは有給取って聞きに行く。「4月23日(金)山形郷土館・文翔館議場ホール」だって( [Akiko Yano Official Website] ライブインフォメーション )。必須メモだなこれ。チケット発売情報はまだか~。 『音楽堂』 発売日:2010年2月10日 品番:YCCW-10108 定価:3,150円(税抜価格3,000円) <収録曲> 1.グッドモーニング 2.へびの泣く夜 3.椅子 4.春風 5.犬の帰宅 6.嘆きの淵にある時も 7.おかあさん 8.Say It Ain’t So 9.きよしちゃん 10.My Love 11.右手

google calender,lightning,携帯電話

一昨年、携帯電話(au)とパソコンのスケジューラをどうやって同期させようかと躍起になっていたことがあった( niji wo mita: outlookとauでスケジュール同期 )が、いまやあっさりgoogle calender(以下gcal)で実現できるのね。イメージはこんな感じ。 gcalを携帯電話と同期させるだけならもっと話は簡単で、 Google Mobile からログインするだけ。ただしこれだと携帯電話は閲覧専用なので、 Google Calendar Mobile Gateway - yamamo's Blog - yamamoWorks を経由すれば、予定の書き込みもできるようになる。携帯のお気に入りに登録しておけば、何の苦もなく利用できる( 後に記すが、この機能だけがPCがオフライン時の、gcalへの書き込みを可能にしている )。 さらにスケジューラlightning(メーラthunderbirdのプラグイン)とgcalを同期させるには Provider for Google Calendar :: Add-ons for Thunderbird を使う。gcalだけで済むところをわざわざthunderbirdを使っているのは、gcalはブラウサをいちいち立ち上げるのが面倒なのと、thunderbirdからサイドペインで予定が確認できるのが便利なため。 つまりgcalをサーバにする発想。ブラウザで直接アクセスすることも、クライアントである携帯電話やlingtningでもアクセスできるので、便利さは格段に上がった。 ただし、オフラインでの利用は、まだ厳しい面がある。gcalと同期させたlightningはオフラインでは閲覧もできない。gcalは閲覧のみ可能である( 速報!Googleカレンダーがオフラインアクセス可能に! | Google Mania - グーグルの便利な使い方 )が、書き込みはできない。gcalもいまのところオフラインでの書き込み機能が加わるかは未定らしい( 「Google Calendar」もGears対応 - オフライン閲覧が可能に | ネット | マイコミジャーナル )。僕は予定表をほぼオンラインの状況で使うことが多いので、大きな問題はない。どうしても書き込みたい時は、Google Calendar Mobile Gate

陸の孤島

Google Japan Blog: 便利になったGoogle Apps Education Edition - オンラインセミナーでご紹介します 。人的制約のためにネットサービスが整わない職場であるため、こういうのいいなあと思っていたら、またも山形の地政学的な弱さが露呈。山形県内の大学・短大はすべて山形大学を経由して仙台につながっているらしいのだが、山形―仙台間の回線帯域が全然足りていないとの由。ゆえに大規模人数を想定した、安定的なクラウドサービスが期待できないという。確かに、今年度試したGoogleDocumentは、時間によっては挙動が相当不安定だった。この状況を打破してもらうためには、言うまでもなくお金が必要。 ちなみに山形と仙台をつなぐ仙山線は屈指の病弱路線で、強風で止まることもしばしばである。むしろバスのほうが強かったりするが、高速山形道も決して頑強とはいえない路線である。加えてネットもか…。歴史的には、福島を経由して奥州街道につながる羽州街道が陸路のメインルートだったはず。しかしおそらくは明治維新のあれで内陸をつなぐルートの強化はならず。仙台が東北のハブになってしまった以上、太平洋側とのルート強化が山形の悲願だったと、根拠資料もなく推測するわけだが、なんにせよ山形と仙台の間には峻嶮な山々が鎮座ましましてますからね。 山形は地産地消とかひきこもったこと言ってないで、外部とのインフラ整備にまずはお金を調達できるよう頑張るべき。

36歳らしさがにじみ出る日記

メンバーと協力しながら、重めの案件を2つ、ようやく通した。まだ最終決定が降りていないけれど、ほぼ安心な水域。不愉快な交渉をいくつか、でも結果オーライ。1件は半年くらいかかった。 しっかしあれだ、バブル世代の話って、たぶんどこにでもあるんだな。部署のプレゼンス示そうとしないくせによその部署や下に文句言うなよ、と。下に、だぜ。上に、やれ。あーもうやんなるな。飲むぞ! ちなみに、mixiで戦いながら働いているほぼ同世代の日記たち、すごい何かを感じてますから。安易な共感とかじゃない、なんかこうふつふつとした大事な何かを。というわけでもう一度、飲むぞー!行ってきます。

今週のエヴァとうすた

■今日の思わず笑った 留学生が「ハッパツ行きます」とか「アスカ」とか言いながら笑い合っているので何かと思ったら、日本語能力試験の聴解問題にエヴァンゲリオンの1シーンが出題されたのだとか。聴解15問の出題のうち、最後の1題はエマージェンシー・サイレンとともに始まり、一通りのシークエンスのあとに「さて0号機に乗ったのは誰」みたいな問題だったらしい。マジか。音声だけで理解するのはなかなか難しいシチュエーションじゃないかと思うのだが、それよりもエヴァンゲリオンを舐めるように見ているオタクの学生なら聴解以前にシーンは頭に全て入っていると予想されるので、聴解関係なく答えられるんじゃないかとおそれなければならないのでは?誰だ問題作ったの。 (追記) これか!すでに祭になってるみたいだ…。しかもエヴァじゃなくて偽物のエヴァだし。だいたいなんだよモビルファイターって! 出題本文は 四号機のパイロットがアスカに?日本語能力試験のリスニング問題とされるものがアップロードされる - GIGAZINE で。こちらでは、本当にこんな問題が出題されたのか?とされているが、本当です。アニメこそが日本を代表する文化なのです(そして誰も「ハッパツ行きます」なんて言ってないじゃんか。落ちたな君ら…)。ともあれ作例で良かった。 ■今日の笑いを殺すの大変だった 今週のジャガーはやばすぎた。まさかパギャルで来るとは…。しかも末尾に向かって激化するエセギャル語の嵐にひさしぶりに立ち読みながら笑い涙が…。父ちゃん母ちゃん系ヒップホップへの目線といい、ギャルへの目線といい、うすたの若者風刺力はやばすぎ!

木簡、電子レンジ、布団乾燥機

■木簡、熱いなあ カンニングペーパーだか手控えだか( asahi.com(朝日新聞社):奈良時代の「カンペ」? 西大寺旧境内から大量の木簡 - 社会 )も出るし、出世を願うボヤキ( asahi.com(朝日新聞社):ボヤキ役人、奈良時代にも…扇に落書き「出世させて!」 - 社会 )も…。後者は下級役人とのことだが、「早令官得(早く官を得さしめよ)」は日本語の語順の影響を受けている、いわゆる和化漢文だろう。当時の官僚が書いた木簡にはこの手のものが多いとされるが、和化漢文が当時「間違い」とされていたかどうか。犬飼隆氏の書籍が職場においてあるので参照できず。下級役人はおのれの漢文力をどう感じていたか。 ■電子レンジ壊れた 7年間使い続けたものが…。テーブルは回っているのに一向に温まらないので、もう根本的にだめなんだと思う。このところ時折止まっていたし。パイ焼こうとしても生焼けになっちゃうし。オーブンレンジは高いんだよなあ。 ■布団乾燥機のホースが切れる 2年くらいしか使っていないものが…。でもこれは消耗品。 株式会社テスコム|サービス部品価格一覧 から部品を取り寄せられる!山形は寒い上に曇天の日が多いし、盆地で数キロ東に蔵王、西に朝日連峰とかあるから日照時間が短い。布団、乾燥させられるチャンスが少ないから!

訳者解説 新教養主義リターンズ

山形浩生『訳者解説 新教養主義リターンズ』(→ amazon )読了(前作の新教養主義は未読)。自由についての議論、リサーチリテラシーとしての数字の読み方、クリエイティブ・コモンズ、3つのジャンルにまたがる訳書の解説で、とくにレッシグ(クリエイティブ・コモンズがらみ)の解説がいまさらながら読みたかったのが目的。もう90年代終わりの議論はさすがに素人の僕でも古いと思ったが、レッシグのラディカルさを掬い上げる山形浩生の視点というかフィルタが分かりやすいし気持ちいい。ということでレッシグの『CODE2.0』(→ amazon )をポチっと。2007年に出た改訂版。訳書解説を読んで本を買うというのは、ものすごくまっとうな行為のような気がする。

GoogleIMEは正しさを撃てるか

Googleが日本語入力imeを作った( Google 日本語入力 - ダウンロード )。変換効率の高さを売りにしているようで、早速試してみたところ、やや変換速度にもたつきを感じるが、確かに変換効率は高い。ms-imeより高いことは間違いない。atokは不明。携帯電話のようなサジェスト機能を備えており、これは楽ちんだなあと思った(下の図で筋肉少女隊○、アースシェイカー○、モダンチョキチョキズ×ということが判明笑)。 * * * * * さて。 ・長さを はかる ・重さを はかる ・高さを はかる の下線部にふさわしい漢字表記はどちらかと考えるとき、我々は学校で教わったり、本で読んだりしたときの経験に照らし合わせて、正しい答えを導こうとする。このとき「正しい」答えを定めているものが学校で勉強したものであるとすれば(「学校でそう教わったから」みたいに)、経験より先に規範があると言って良いと思う。本で読んだりした経験の集積による規範のモデル化が根拠であるとすれば、規範より先に経験があったと言って良いと思う。 辞書は、一般的には言葉の意味の正しさを知るときに使われることが多いだろう。この使われ方は、規範が先にある、と言える。じゃあ辞書はどうできているのか、というと、成立の原理から言えば経験が先にあるに決まっている(ただし実際には辞書A'はその母体である辞書Aに基づいているものだし、辞書BCDの集積であることがほとんど)。つまり、ここには 散文など生の言語データ→規範化→規範に基づいて行動 というプロセスがあることになる。だから規範は常に経験を後追いする形でしか実現しない。そして使われる辞書とは、①規範と経験が近ければ近いほど理想的であるから(履歴書を書くときに明治時代のことば辞典を紐解くやつはいない)、規範を経験に近づけるために改訂が行われる。また、②経験と一口にいってもいろいろな種類があるし、その経験によって規範の種類も異なる。だから専門用語の辞書があるというわけ(あらゆる経験を目指せば規範は散大し記述的な態度に近づいてしまううえに、辞書サイズがでっかくなって学術的な目的以外では使い物にならなくなる)。 ちなみに規範はともすればすぐ自律的に経験のほうを抑圧しがちで、現実にはそのような経験が存在するのに排除してみたり、規範に合う経験だけを選択的に認めようとする。規範

真空断熱携帯マグの換装

2007年に購入したthermosの真空断熱携帯マグ(→ niji wo mita: いろんな使い方があるね )の蓋パッキンを換えた。さすがに2年間使っているとパッキンの劣化のために液漏れが起こってきていて、かばんの書類が時にコーヒー色に染まる事件に見舞われていた。新しくアマゾン(→ amazon )で購入した蓋パッキンは少し色が淡い。飲み口の感触もややぬめっとしている。こうやってパーツが交換できるのはいいなと思う。交換できなければ全部捨てるほかないんだから。 相変わらずこれにはコーヒー以外を入れたことがない。パッキンもコーヒー色に黒ずんでいたが、その感じは少し好きだった。2年間かけて?もっかい染め直し。

7歳の誕生日

上の子供が7歳の誕生日。プレゼントは本人の強い希望があって、DSソフトでポケモンのやつなんだけど、種類がすごくあって驚いた。ソウルシルバーというのを購入する。ざっくり同じと誤解して違うバージョンを買ってしまう愚を犯してはならない(よく聞くからね)。 自分が7歳の時、どんな誕生日だったかなんて覚えてないな。 さあ、7歳最初の日は。とうとうここにもやってきた、インフルエンザによる学級閉鎖!「ともだちとあそばない、ならいごとにいかない、人がたくさんいるところにいかない」だって。最高に退屈な一日になるな!一年分の退屈を前払いで済ませてしまう勢いだ。だからきっと、残りの日々はいい日々だよ。

すごいまっとうな会議

今の職場に勤めてからこれまでたぶん一度もなかった、すごいまっとうな会議を経験した。目指すべきゴールが明確に示され、その方法論が述べられ、具体的な方法のいくつかが模索され、出席者の課題として渡された。概論から各論への流れと、各段階におけるさまざまな方向への可能性が十分に議論されたのに、時間どおりに終わったし、やるべきことが出席者にきちんと理解されている。仕切りが違うとこうまで違うか。しかし僕以上に驚くのはおそらくこれを読むかたのほうだろう。そんなことすらできていないのによく回っていたねその職場とのツッコミ。ここはそういう風に回るのだ、と状況に自分を馴致させていたことがもう一度ひっくり返って、うん、いい感じ。

結城浩さん

同僚に借りた結城浩(原作)・日坂水柯(イラスト)『数学ガール』(→ amazon )のコミカライズ版を読み終えて、うーん、マンガとしては微妙。悪い意味でのオタクくささというか、ボクとキミの世界みたいな、登場人物の生々しい背景が一切語られない実験演劇みたいな作りにはあんまりのめり込めない旧世代の36歳であることを自覚した。物語としては、ゴルデル『ソフィーの世界』(→ amazon )みたいに、哲学や数学が語ろうとする意味や思考の構造の在り方を、物語の着想としていて、じっくり読めばもっと楽しめたかもしれない。いや、実際、実験演劇なのだからそう割り切って読みたいところなのだが、マンガの絵柄や語り口というのはすなわち小説の文体であり、苦手なものは苦手でしょう? というわけで原作の人って何者だろうとネット検索したら、ずっと前にな王( sweet soul dance music, and You )が言ってた神様みたいな人って、この結城浩さん( 結城浩 - The Essence of Programming (プログラミングのエッセンス) )か!しかも山形浩生氏関係でもあったような…。既視感がある…。 勢い余って、『数学ガール』原作(→ amazon )と、『プログラマの数学』(→ amazon )を購入してしまった。後者はこれまた既視感がある…。

google documentとttm

■量的調査と分析手法を学ぶ授業で、google documentを使うことで楽に共通のデータ入力シートを作成することができた。これまではエクセル(個人のPCではOpenOffice calcしか使ってませんが)で参加者がバラバラにファイルを作成し、あとで誰かが取りまとめて一つのファイルを作っていた。バラバラに作成する方法だと、(1)途中で入力方法を変更したり(2)欠席者への課題説明の際に具体的なブツを示しにくい、などの問題があった。しかしgoogle documentだと、全員で同じシートを作成するので、入力方法の変更などに個別的に対応する必要もなく、他の入力者の状況を参考に適切な入力を進めることができる。入力方法の変更は、学生相手だと必ず起きる。というか、どのような不備が入力方法の変更をもたらしたかを考えることに意味があると思うので、調査票のチェックは軽め。 ■インタビューをまとめる授業で、なんちゃってテキストマイニング(以下ttm)を導入。 TTM: TinyTextMiner β version から必要ソフト(フリー)をダウンロードすることができる。インタビューしながらの主観メモと、音声データを基にしたフル文字起こしテキストを比較しながら、主観メモに客観的な装いの補完情報をくっつける試み。聞き手のフィルタがフォーカスとみなしている話の内容と、ttmが重要とみなした内容とは概ね一致するが、一致しないところはどう考えるか。もちろん、ttmの分析がソフト内部でやっていることがどういうことか、よーく理解しておかなければならないのだけど。参考にしたのは、松村真宏・三浦麻子『人文・社会科学のためのテキストマイニング』(→ amazon )。ものすごく気軽に始められて、それなりの分析結果が出てしまう半面、ttmから読み取れる「重要さ」が何を意味するかよくよく考えなければならないな。そして談話データから取り出された「主観メモ」も、聞き手が何を重要と考えたのか、メタ視点からの説明が必要。

目的論的にかたる

どうして日本軍は真珠湾を攻撃したのか (内田樹の研究室) 。皮肉が効いている。そして、目的論的に語ると面白く見えてしまうものだよなあ。 もちろん、日本にも「ワルモノ排除システム」は存在する(存在しなければとうの昔に地表から日本国は消えているであろう)。 それはどのようなものか。 それは「秀才を権力中枢に集中させる」という手法である。

三宅乱丈『ユーレイ窓』

三宅乱丈『ユーレイ窓』(→ amazon )が久しぶりに読みごたえのあるマンガでホクホクした。粒ぞろいのシリアス、ホラー、ギャグ、ガイキチ、ヒューマン?が詰め込まれている。基本三宅乱丈にヒューマンなどを期待していないのだが、2ホラー1ギャグ0.5ガイキチくらいのリズムに最後の決め打ちがヒューマンだったので、ほとんど編集の人の思惑通り落ちた。この作風のバランスを培ったのは、『ペット』『イムリ』でシリアス&ホラー方面、『ぶっせん』『北極警備隊』『まちこ船』『秘密の新撰組』でギャグ&ガイキチ方面、であることは間違いない。ギャグ&ガイキチが厚遇されているなあ。 初期のどうみても登場人物が男性だろうと女性だろうと全員ゲイみたいな感じが、少し変わってきたな。それは『ペット』リマスターエディションもそうなのだけど(これについては別エントリで)。ほら、やっぱり、ミヤーケランジェーロの思いが込められたペンネームであるからして。

plum song

omodakaの新作出てたんだ。江戸小唄「梅は咲いたか」のアレンジ(元曲あった 江戸端唄・俗曲の試聴と紹介: <梅は咲いたか> )。これはramrider"PORTABLE DISCO 8bit edition"に収録の「ミラーボール」じゃ…と思ったら、そっちがFar East Recordeing(omodaka氏のレーベル)によるものであって、ということだった。 小唄そのものは、江戸を舞台に春先にちょいと遊んで行こうかね、といったもの。吉原でちょいちょい、みたいな話を受けて、映像はそっち系ですが小粋にまとめてますね。かっこいいな。

行方不明の音源をyoutubeで

このCD、前にダビングしてもらったんだけどどこかに行ってしまった…。和ジャズ。ピアノが中村八大ということで記憶に残ってた。MCが素敵すぎる。困ったらyoutubeを探れ、は鉄則だな、もはや。どなたが上げて下さっているのだか。1957年、ラジオ番組から。 COTTON TAIL。 THERE'LL NEVER BE ANOTHER YOU。 S'WONDERFUL。 SUMMERTIME。ボーカル素晴らしすぎる。 そうそう、このCD、"Jazz at the torys"だった(→ amazon )。

寒い

昨日から山形はすごく寒いです。仕事が終わって車に乗ったら、自分で入れっぱなしのCD「日本のうた」、カヒミ・カリィの「からたちの花」が流れて、体感温度が3度下がった。気持ち的にはむしろこういうのが欲しい。結局やらなかったグルーブ地獄~! こういうの今でも全然行けるけどなあ。梵我一如な感じでな。カッコよすぎる。

パる

このところ職場での仕事を少し切り詰めて、子どもと就寝する時間を作る努力をしている(その分早朝に仕事を回す)。 で、下の子が暗くしてもなかなか寝ない。といってぐずるわけでもなく、一人で延々と歌を歌うのである。歌といっても既存のものではなく、子どもが時々やるあの自作のやつである(僕も小さい頃にはよくやった記憶がある)。止めても無駄だし、反応すると却って寝ないので、知らんぷりのふりを決め込むわけだが、ああいう時の歌詞って不思議だねえ。しいたけぇ、 たべたあいぃ~ パぇたぁい~に知らんぷりの限界が。なんだよしいたけぇ、 たべたあいぃ~ パぇたぁい~って。笑い起きた。ホント録音してみんなに聞かせたいよこの親バカが。このしいたけをみんなに味わわせたい。 そんな子ども1歳11カ月の発音エラーを語っていいですか。上の子は音韻論の概説書類でよくみる「テレビ→テベリ」「エレベータ→エベレータ」みたいなのが多かった。CV音節レベルの転倒や、C音素(しかも素性の近い)レベルの転倒が多かった。しかしこの1歳11カ月は、9か月?あたりから、響きの弱い母音や、いわゆる母音の無声化を起こしている音節ごと落として発音する。単語のなかで響きの強い母音を中心にして、なんとなく言葉を認識しているみたいだ。分節音が分節化していないというか。 面白いのは、音節は落ちているのに、子音の素性だけが生きて、隣接の音節と融合して新しい音節を作っているところだ。具体的に言うと、「食べる」のことを彼女は「パる」と発音し、「パらない」「パぁたい」などと活用する。この「パる」はおそらく…図みたいな感じ。説明するのがめんどいので図示。第1音節の子音tの無声性と母音情報が残り、第2音節の子音bの両唇性と合体。というか、これは第2音節が落ちて、その情報の一部だけが逆行同化したと考えるのだろうか。類例を思い出せないので、これだけでは言語習得のデータとしてあまり意味がないのだが。

自分もマイノリティかもと疑ってみる

16日の発達障害を持つ学生への支援セミナーは、教職員にきちんと理解してもらうことの難しさ、受け入れ態勢を作ることのむずかしさ、という点で大変参考になった。発達障害の個別性への対応と、ユニバーサルな姿勢の両極において、対策を練らねばならないとの由。敬服すべき事例を聞くことができて良かった。 しかしこういうマイノリティへの対応という話になると、「対策」という善意の顔に潜む「分類」に話がシフトし、「発見」の「方法」だとかが議論される不毛さ。発達障害はそのスペクトラム性(発達のなだらかな凹凸)に特徴がある、というのが近年の貴重な論点である、つまり誰しも生得的に抱え得ることだ、とさんざん発表されたのに、自分はまるで選良であるかのごとき目線で語る方々がいらっしゃるのには本当に閉口する。バカと発達障害をどう見分ければいいのか、とか、発達障害の学生が大学にいることが問題ではないのか、とか、どの学部に分布しているのか示せとか、耳を疑う質問も複数あった(偉い先生方からね)。臨席していた心ある専門家による、「自分に似ているやつ、と思えば発見できるよ」と辛らつなユーモアで少し溜飲が下がったが。 病や障害は生理的・身体的な基盤を持つ、と無批判に語られることが多い。しかし病や障害は、常に社会から発見されるものだった。逆にいえば発見されなければ、病でも障害でもなかった。むろん、近代的な意味では、発見されることで社会の同質性から外れたことを自他ともに説明でき、ひいてはそれがある種の社会的摩擦を予防したり緩和したりする。しかし発見されることで、対象を作り出し、囲い込み、場合によっては囲い込んだ対象をカルト化させることでは、むしろ摩擦を作り出す(この10年くらい盛んに言われる「共生の欺瞞」も同じ)。落語の与太郎には嫁さんがいて社会に普通になじんでいる光景があることを思い出すべき。 つまり「彼ら彼女ら」を「私たち」に言い換え、同じ目線の延長上に捉えなければ、どのような対応をしても本質的な対応にはつながらないのではないか、と考える。精巧なチェックシートによる判別ができたとしても、意味はない。発見するのは、つねにチェックシートを眺める「あなた」でしかない。だから、「どうすれば発達障害の学生を見分けられるんですか」という、セミナーの主旨を全く理解していない教員への解答は、「あなたもマイノリティかもしれない、と

首いたい

借金的な意味合いでないほうのあれで、朝起きたら首が回らなくなってた…。完全に寝違えた。この状態で本日も仙台方面に出張。そしたら某所から首の骨骨折したとの一報が…。これは祟りに違いない(本人は10日後ごろに飲みらしき約束を取り付けようとしている生命力ぶり。自重しろよ…)。 仙台では、障害を持つ学生受け入れについてのシンポジウムが行われる。昨今、大学ではこういう出張に行くのもフツーの仕事なんだぜ、と。水曜日には発達障害支援センターのかたとミーティング。ホントはどこの部署が請け負う仕事だったんだ?

コーヒーと合うのは乳酸菌発酵食品

東京駅大丸の地下で購入したチーズたっぷりのキッシュを食べつつ、コーヒーを飲んでいる。キッシュがおいしく食べられる意味でコーヒーと合う。が、僕にとって真にコーヒーと合う、というのはこういうのではない。 以前からずっと思っているのだが、「コーヒーに合う」だとか「コーヒーと合う」という現象には、細かく見れば「食べ物主役系」「コーヒー主役系」「共に高め合う系」の3系、亜種を入れれば4つの合わせ方がある。なお、以下に示す「香り」はモノ自体から感じられるアロマじゃなくて、口から鼻に抜けるときに感じられるフレーバーのこと。 コーヒーによって食べ物の味や香りが引き立つ コーヒーが食べ物の味や香りを押し流す コーヒーの香りが引き立つ コーヒーと食べ物の味や香りが共に引き立つ 1番目の主役はコーヒーではなくて、食べ物の方である。僕はこれはあまり体験したことがない。コーヒーのほうがおおむね香りが強いので、その香りに勝って主役になれる力があって、かつコーヒーとかち合わない食べ物がなかなかないからだと思う。1番目の亜種である、2番目はよくある。本日のキッシュがこれ。クリームやチーズの強い乳製品は生臭みと裏表であるから、度を過ぎると飽きたり気持ち悪くなる。だから口の中の香りが蓄積しないように、どこかでリセットしてやる必要があると思う。コーヒーで口の中をリセットすれば、改めて乳製品の香りをゼロから味わえるという意味で、1番目のような主役を引き立てる役割を持つ。油脂を多く含むナッツ類との組み合わせも同じ。 3番目ではコーヒーが主役になる。のだが、これも僕はあまり体験したことがない。そもそも香りを引き立てるというのは、本来それが持っている良い香りや味を強調するために、①そうでない香りや味を殺す②主役の香りや味を相殺しない方向性で主役の香りや味との落差を示す(差異化)、という2つを意味するはずだ。コーヒーにとって、①そうでない香りや味というのが、いわゆる雑味であるとすればきちんと淹れれば出てこない。苦味や刺激的な感じだとすればミルクと混ぜればいいのだが、僕の主観ではそれはむしろミルクが主役になっているように感じる。 4番目もなかなかない。が、僕にとってはぬか漬けとコーヒーがこれに該当する。2番目みたいに「押し流す」ことが全くなくて、質量ともにバランスが取れた新しいフレーバーが誕生する感じだ(同じ発酵食

ほとんど訪書旅行

母校で玉篇写本を見る。影印では使うけど、国宝の原本を見るのは初めてだった。神保町に移動して古書店めぐり。図書館でガツガツコピーした影印本が安く出ていたので購入する。えー。コピーしたの無駄じゃんか。うれしいけど。 エチオピアでカレー後、「一般の人にも来やすい工夫」との触れ込みである古書展を冷やかして、やっぱり敷居高いよと思いつつ(投機的な目的のプロがうごめいてるんだから当たり前だ)、せっかく近くだしってことで秋葉原へ。3年ぶりくらい?また変わってるなー。数メートルおきに立っている道しるべがごときメイド風女性に、台湾のビンロウ売り小姐を思い出す。どっちも取扱商品の効能は幻覚作用だろうが。神保町から秋葉原近辺には、頭おかしそうな人がたくさんいて楽しい。 歩き疲れたので少し休憩して、上野の asahi.com : 朝日新聞社 - 冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展 ( 東京都美術館 )。まあ一応のつもりが、ちょっと驚く規模の展覧会だった。影印叢刊がようやく完結したことの記念とのことで、国宝重文級がこれでもかと400数十点並ぶ。日本語史のテキストとして有名なやつがたくさん。それにしても800年間、展示されていない分も含めて、これだけのテクストをよく蓄積したものだと思う。ずいぶん見たと思って、そろそろ終わりだと思ったらまだ1/3くらいで、最後は閉館の雰囲気に押されるようにして駆け足で見た。いやー満腹。 文献は権力のあるところに集中する、というのを東京で、という意味でも体験したし、冷泉家や五島家という意味でも体験した。とりわけ冷泉家の展覧会では、そもそも書くこと自体も権力を背景とすることをまざまざと見ることができた。現代でも、書くことは、大まかに言って時間と金によって階級化されている。紙や筆が今と比べ物にならないほど貴重だった過去においては、言わんやをや、だ。書かれたものに基づいて構築する日本語史は、そうした背景に不可避的に制限を受けていることを、改めて忘れずにおこう。

五島・後藤・語頭のゴトーづくし

五島美術館 から母校の図書館に戻るおり、久しぶりにカフェゴトーに。りんごとサツマイモのタルトが異様においしい!のだけど分量ありすぎて、一食分くらいの満腹具合になってしまった。焦げたカラメルとシナモン、りんごとサツマイモの酸味と甘み。実際、これ晩御飯で良かったな。この後の晩御飯がほとんど食べられなかった。 今野真二『文献日本語学』(→ amazon )を半分くらい読む。亀井孝、小松英雄的な文献へのまなざし。ただし小松英雄『徒然草抜き書き』みたいな表現に踏み込んだ分析ではなく、狭義の国語学に基づく文献学。いや、文献学に基づく狭義の国語学といったほうが正しいか。 帯に「アプローチ」「提言」とあるように、方法論のためのアイディア集と読める。語頭語末の文字遣いについて、「使い分け」とはそもそも何かといった原理のレベルから批判するようなものって、小松英雄以降、正面から論じたものって他にあるかな?文献研究者の、特に初学者向けとして良いテキストになるかも。

せめて引き出しに入れるべき

宿泊に使っている初めての某所APAホテルは、ビジネスホテルなのに大浴場あり、朝食豪華でお値段オトク、なのに入室してから折に触れて視界に入ってくるこれ…。机の上に会長のヤバメの書籍と一緒に立ててある。ああ…。忘れてた。メンバーズカード作っちゃったよ。 田母神論文で問題になった例の件は、アパグループだったよね…。社長の強烈なインパクトに気を取られて、うっかりしていた。商売と政治的主張はせめて表向きは切り離せばいいのに、ととりあえず眼前の事態に思いつつも、宿泊料も活動資金になるんだろうなあと思うと、次はないなと思う。ロケーションもサービスも気に入ってたのに。

やっぱり拙速はいかんよね

まとまった時間と、細切れになった時間とでやれることは違う。細切れになった時間でやれるのは、作業程度のことであって、ある種のパースペクティブも批判的思考もいらない。けれども、まとまった時間でしかやれないことをやるためには、その時間を作るためのライフハック的(笑)工夫が必要だったりするし、仕事量全体を見据えた「引き受け量」調整が必要だったりするのだが、不足な事態が常に起こりうるような状況だと、ごめんもう水が溢れます状態のコップにさらに水を注がなければなぜかパソコンの上をゆっくりと通過中の別のコップが溢れて大変なことになります、だとか、表面張力ギリギリのコップを持って100メートルダッシュせよみたいな状況だとかが時に起こったりする。 さあ長い弁解の前置きが終わったところで、自分史上最強のダメ会議資料であることが分かりつつもそのまま出さざるを得なかったため、久しぶりに自分が院生時代にゼミ演習でボコられるがごとき事態を招いたことを開陳するよ。しかもその後始末をする間もなく出張へ。電話で敗戦処理のお願いをしつつ新幹線は上京。二日間冷や汗かき通し。最悪の重ね塗りの結果、事態は沈静化の一途をたどりつつある模様。さあ開き直って文献調査の合間に五島美術館に行くぞー! (追記) ダメ会議資料、やっぱ次の会議を通らなかったみたい…。やっぱり拙速はいかんよね…。

紅に染まったこの俺を

なぐさめるやつはもういない。 近所の丘から。こういうのが自転車の距離で楽しめるのは山形の醍醐味。

日本のマラーノ文学

四方田犬彦『日本のマラーノ文学』(→ amazon )を、島根からの帰途に読んだ。ユダヤ人は蔑称であるマラーノ=豚と呼ばれるその出自を隠して生きなければならない、歴史的経緯があった。同じように、出自を隠して「仮面のアイデンティティを被りながら執筆を続けてきた者がいるはず」(p.21)とする。 日本人という物語を演じながら文学的活動を続けてきた者がいるはずだ。彼らが出自をめぐって抱え込んでいる両義的な回避と拘泥の構造を、従来の在日文学論とは別の角度から見つめてみたい。(同頁) 出自を隠すという生存方策、表現活動を論じることは、特定の出自を持つ者や集団を対象とすることでもっとも意味あるものとなるだろうが、僕は出自を隠すことを要求する側へのインパクトを考えた時、対象範囲をもっと広げることにも意味があると思う。つまり出自を隠すこと自体は、さほど特殊な状況を設定しなくても小さな歴史の中にでも発生しうることである。そこから語ることを出発すれば、語られたメッセージは広い射程で届くのではないかと考えるのだが。

最強の飛行機

先週、山形から島根まで学会に行った。もちろん問題となるのは飛行機である。山形空港から伊丹までの路線を体験し、小型飛行機の揺れを知ってからは、恐怖のタガが外れてしまって、ほとんどあらゆる飛行機がダメになりそうな勢いなのだ。ゆえに「全て陸路」をさんざん模索したが、どうしても仕事との折り合いがつかない。泣く泣く羽田まで新幹線、羽田から飛行機を選択したのだった。 行きは天気が良かった。揺れも少なかった。しかし帰りは折悪しく例の寒波で天気は大荒れ。天気予報を見ながら大変嫌な思いをしながら空港に到着。グランドのひとに、揺れの持続する時間と大きさを具体的に説明してほしいと頼む(最近は必ずこれをやってます)。1時間のフライト中、最初と最後の20分がテーブルの上に飲み物を置けない程度で、真ん中の20分はシートベルトのランプが消えない程度っである、と的確な説明をいただく。迷わず笑顔で往復チケットをキャンセル、陸路を選んだ。 が、出雲空港を出たのが14:30。松江駅から岡山まで地元の特急、岡山から東京まで新幹線と乗り継いでも、東京から山形行きの最終は終わっている。ので高速バス。結局13時間かかったが、電車の長旅は本も好きに読めるし、ゆっくり眠れるし、もう好き放題の大臣旅行でザマーみろ飛行機。早朝4:00の山形駅からタクシーで帰宅する凱旋パレード感。ちょい眠りして仕事してやったわこのアホ寒波が。 という勢いで、今後は国内は行けるところまで陸路しかないな、と腹をくくったところ、たまたま電話をよこした幼馴染のパイロット野郎が「いや飛行機は揺れるのが普通でお前の恐怖はまだ揺れ世界の入り口」とでも言わんばかりの嘲笑ぶり。逆に、航空業界は、俺が考えた揺れない飛行機を真摯に開発するべきと申し上げた。パイロット野郎が言う、(1)揺れは速度に2乗する、(2)翼面積の大きい方が揺れる、(3)パイロットだけが知っている機体の重心位置は最も揺れない、の3つの条件で考えた最強の飛行機はこれです。 マジで開発しろよな!

科研費LaTeXに感謝

科研費LaTeX - 2010(H22)年度版 (2009年秋応募分) の書式に則って、どうにか書類を完成させた。今年は代表で申請ということで、自分の好きなフォーマットでやらせていただいた。ワードで作成するときもいったんエディタで書いてワードに貼ったり、手直しするときも段落ごとエディタにコピーして編集してから貼り直す、ということをやっていたので、最初から最後までエディタで書けるのはとても楽だった。仕上がりもきれいで申し分ない。論文をTeXで書く者にとってこれほどありがたいものはない。構造と内容に集中できる楽さはワードでは味わえないだろう。実際、これまでで一番少ない労力で書類を作成することができたと思う。 出来上がっている書式に書きこんでコンパイルするだけでできあがる、とはいうものの、全くの初心者にはお勧めできないとも思った。インストール自体にしても、ちょっとした文字装飾にしても、やはり最低限のTeXの知識は必要だろうし、ワードに慣れ親しんだ人ではwysiwyg文化からエディタ文化に慣れるまでの時間も必要だろう( 科研費LaTeX FAQ で丁寧に対応されているが、TeX文化?なのかジョークが曲者)。 ちなみに、ワード書類にブーブー言っている僕ら世代だが、科研費LaTeXの前身であるTeXマクロの作成秘話を読むと(→ 青木健一、"不条理の薔薇「科研費マクロ」", bit 2, 58 (1999) )、恐るべきことに手書きの時代があったことが分かる。もうそれだけで先人には全く頭が上がらない。これを?申請のたびに手書きで7部も?しかも自分で申請書を製本?正気の沙汰ではない。この記事が書かれた1999年頃に僕も申請して見事に落ちた(そしてトラウマになった笑)競争的資金があったが、一太郎とワードの書式をダウンロードして使うものだった。所持しているワードのバージョンが異なるために思うような印刷結果が得られず、文科省の担当部署に違うバージョンはないのか?と電話したこともあった。返事は言わずもがなの「仕様です」。泣く泣く他人から当該バージョンがインストールされているパソコンを借りた覚えがある。しかし手書き時代を思えば「ありがたいと思えよ」と言わんばかりのあの対応も分からないではない。 将来的には申請書のエントリーシートみたいなやつと同様に、Webブラウザ上でP

携帯どこか分かるかな(30点)

子どもの書いた絵が県立美術館に飾られたというので見に行った。県内の各地から選ばれた絵が、学年ごとに100枚くらいあったか。どれも個性豊かでー、と言いたいところだが、同じような構図が多いなあと思う。まれにトレーニングを積んだらしき絵もあるが、ことごとく受賞していない。期待される「子どもらしさ」に反しているのだろう。うちの子の絵は、期待される「子どもらしさ」に反していない一枚であった。妹が仕事で作るポスターで「子どもが書いたふうの絵が欲しい」というのに見事に応えた連作の一枚を、学校でも書いたもののよう。まあこの手の展覧会はそういうものだ。 美術館前では葉を赤く染めた桜の木が敷地を彩っている。秋っぽい。そして秋っぽい感じを演出するかのような家族っぽい。下の方の写真は赤い携帯が木の葉に擬態している設定。桜の葉を携帯に挟み込んでみたり、乗せてみたり、下敷きにしたりしてみた。 そして最後はそのまま放置して帰宅したところ心やさしい美術館員から妻に電話があった。よくその擬態見つけられたな!じゃなくて、よくその電話番号が妻のものだって分かりましたね!じゃなくて、忘れずに帰れよ!でしょうね。山形では失くしたものや落としたものは必ず帰ってくる。前住んでた隣の市では、鍵かけない人多いみたいだったしなあ。 落ち葉の中に携帯を埋めて行方が分からなくなる事件は、数年前町田市でも起こしました。その時も秋でした。

眠い

締切まで残り一週間を切りつつ書類作成は遅々と進む。 合間の立ち読み。喧嘩商売の救いと潔さのなさに落ちる。悪党の終わり方としては、無限のシラを見習って欲しい。 合間の上村一夫。赤い方が一葉裏日記の再録で落ちる。短編集は組み合わせが肝だが、昭和の流れに突如幕末の余韻漂う明治初期は戸惑う。

上村一夫2冊

上村一夫『紅い部屋―上村一夫晩年傑作短編集1980-1985』(→ amazon )と、『白い夏―上村一夫初期傑作短編集1970-1972』(→ amazon )。せっかく買ったヴィンランド・サガ最新刊が完全にかすんでしまった。昭和の濃厚な香り。

モスのコーヒーが転生

良く行くモスのコーヒーがおいしくなっててびっくりした( MOS BURGER はじめての「W認証」コーヒー、モスから。 )。モスといえばコーヒーがマック以下という、バーガーのうまさとバランスの取れないところにかわいげのあるお店だったのに、これじゃ完璧すぎて面白くないじゃないか…。嘘、普通にうれしい。おかげさまで書類がはかどったような気持ちになれた。嘘、普通にはかどらなかったよ…。素直になれよ自分…。

はまった

なんだかのなんだかで優勝したという東京03をユーチューブで見てみたら自分の好きな笑いであることを確認したうえで数時間ぶっ通しで見ているうちになんかすこし鬱状態っぽくなってきた。このラーメンズっぽさはそして73年生まれっぽさは何だろう。 飯塚さんの最後の表情がとてもいい。 これからモス行って書類書いてきます。

科研費LaTeX書式のありがたさ

今年は初めて使ってみる、 科研費LaTeX - 2010(H22)年度版 (2009年秋応募分) 。ご存じ、ワードだと体裁がめちゃくちゃになってしまう、悪評高い書式がTeXだとすんなりサクサク。もっとも、中身が辛いところではありますが。気づけば、一太郎は書式として用意されていないのですね。なんかもう、どこから言えばいいのか分からない感じです。 で、うかうかしていたら、政権交代のあおりが、 平成22年度科学研究費補助金の新規募集課題の公募停止について-日本学術振興会 にも。

またも…

曲がいいのに、クリップみたらがっかりのパターン。何この悪趣味なビデオは…。歌詞の軽薄さとかは好きなのに。ビデオまんまじゃねえかよ、と一人で突っ込む朝。CDだけ聞いとけばよかった、m-floのSummer Time Love。試しに音だけ切ってこのビデオを見ると、何だろうこのシュールさは。その昔見たDeee-Liteのわけわかんないビデオみたいだ(そしておしゃれ音楽に対する理解のなさをここでご開陳)。 そのほかcosmicolorに収録されている曲のことごとくが、ビデオはチープ&悪趣味に見えてしょうがない。何あのボニー・ピンク。何あれ。一人でがんばったクラス委員長にみんな謝ってよね!

ディスレクシア

ディスレクシア(失読症,難読症)のことを長い間ディスクレシアと勘違いしていた。今朝、ニュースを見ていて突然気がついた。こんなの原語にかえってみれば、Dyslexiaなんだから、言葉を意味するラテン語のlexが形態素に含まれているわけで、レクスのつらなりを間違えるはずがない。ええっ、と思って杉本亜未『ファンタジウム』(→ amazon )を開いてみると、確かにディスレクシアと書いてある…。いままで何を勘違いしていたんだ…。実家の酒屋のおばちゃんがいつもキュラソーのことをキュソラーと言っていたことを、そして中学の美術の先生がいつも左右対称のことをシメントリーと言っていたことを、専門家のくせに間違えんなよと思っていたことが、こうして我が身に降りかかる。音位転倒の悲しさよ。

Heartland

缶ビールより瓶ビールがおいしいっての常識ですか?いまお気に入りのハートランドに限らず、瓶ビールがおいしい。瓶の処理にだけ困るけれど。夕食の残り物とか、大量に買ってある三陸沖で上がったオキアミをちょっとレンジで温めてつまみにする。 今日は台所回りの片づけをやっているうちに明朝の食事の仕込みなどにまで手が回り始めて。栗の炊き込みご飯と、茄子と油揚げの煮びたし、小松菜のおひたし、なめこの味噌汁といったラインナップの準備完了。ちょっとベタすぎるかなあ。よしながふみなら、味のバリエーションがないと批評するはずだ。 先輩と師匠から出版予定の本を下読みしてくれと依頼があった。喜んで引き受ける。しかし分量がすごいので結構大変。どちらもその筋では第一線の論考なのでひたすら勉強になる。と思っていたらそのうちの一章が雑誌に掲載される。師匠の論文はキレッキレだった。なのに分かりやすい。こういうのを自分も書かないとなあと思う。 その他にもいろいろ読んでいるけど。マンガとかはそのうち。音楽は、なぜかm-floのcosmicolorを。並行してもちろんヤマタツも。JOYは通り抜けて、it's a poppin' timeの坂本教授のピアノが泣ける。 昨晩、流氷に押しつぶされて死にそうになる夢を見た。流氷に飲み込まれて這いあがれないだろうと感じたとき、ああ死ぬな、ということをやたらにリアルに感じた。内臓がつぶされて口から血反吐を吐いて死ぬ、そうやって生が終了するということを瞬時に理解し生を諦める自分がいると思いつつ、ギリギリのところで氷の山を義経ばりに飛び超えてどうにか生を得る。あの時、刹那、僕は死ぬことを完全に受け入れた。そんな夢を見るのは初めてだし、これまでもそのような形で死を受け入れたことはない。ああ驚いた。

G'z One

新しい携帯を買った(G'z One G'zOne CA002 | 携帯電話 | KDDI株式会社 )。2006年から使い続けた以前の携帯は、特段使えなくなったわけではない。というか全然使える。が、強いて言えばメールの振り分けメモリがいっぱいになったこと、一度も変えていない電池から液漏れが確認されたこと、修理保証の対象期間が終わっていること、PCとの連携がうまく行かなくなったこと、くらいかな。PCとの連携については、thinkpadをx200に買い替えたとき(x40は妻用になった)、赤外線での携帯とデータのやり取りができなくなっていた。ゆえに、買い替え機種の条件は第一にbluetoothだった。 多くの人が感じているだろうけれど、携帯のオーダーメイドというのはできないものか。僕みたいに長く使うユーザーは少し高くてもある程度は納得して購入すると思うのだけれど。本当はストレートタイプが良かったし、ワンセグとか音楽機能もマジいらない。G'z Oneのおもちゃ機能もコンパス以外はいらないなあ。bluetoothでストレート、写真とメールと電話だけ、みたいなのが欲しかったけど、ないのね。デザインと機能が自分にマッチするものってなかなかないのではないか。iidaとかかっこいいけど、絶対に壊して使えなくなる自信があったので却下だし。 さて、bluetoothの設定方法メモ。 携帯電話>アクセサリ>bluetooth>初期登録 自動探索でPCがディテクトされるので、パス適当に入力してOK PC側のタスクトレイにbluetoothのアイコンがポップアップするのでクリック 携帯に入力した適当なパスをPC側にも入力 タイミングが合わないと接続が切れるので、何度かトライ PC側で認証を保存する設定にしておくと、以後は簡単 基本的に受信側を先に立ちあげておいて、それから送信作業を行う PC側の送受信はアクセサリ>Bluetooth ファイル転送ウィザード

『海獣の子供』ポストカード

五十嵐大介周辺日誌 のイベントで、ポストカード一式をもらいました!担当編集の方、お疲れ様です。 出張から疲れて戻ってきたタイミングだったので輪をかけてうれしい。『海獣の子供(4)』(→ amazon )発売フェアの一環ということなので、宣伝をしておかないと! 読むと海に行きたくなるけど、海中にはこんなでかい生物がいるならちょっと引く、というテイストの作品です。「海の世界の神秘は深まり、地球の命の物語へと広がってゆく」(アマゾンの紹介より)なんてまっすぐなことがいえないブログで本当すいません。ほんっとすいません。

盛岡フェザン

盛岡出張。ジャジャ麺だの、盛岡冷麺だのを食す。写真は駅ビルのフェザン。片仮名で書けばそうなるところをローマ字表記すればFEZANとなるはずを、FES゛ANと書く遊び心。もはやローマ字ではなく仮名的用法ということになるか。アルファベットがすでに持っている清濁の別を敢えてなかったことにして、補助的用法で濁音であることを示す。表現意図は何かあるのかな。wikipedia(→ フェザン - Wikipedia" target="_blank"> )にも特に記述はない。

ワイルドマウンテン

忘れたころに発売の、本秀康『ワイルドマウンテン(6)(7)』(→ amazon )。舞台は中野区のから突然香港へ!相変わらずとぼけた絵が素敵な作家なんだけど、ネームのとぼけ具合も最高。どういうわけか今回は香港でシリアスな展開を繰り広げていて、とぼけ度は低い。けどシリアスな展開のなかに絶妙な加減でとぼけが仕込まれているので、画竜点睛ってこういう感じだなーと思った。

BURRN! 創刊25周年

こないだ暇つぶしに入った書店で目にしたBURRN!(→ amazon )の表紙。ビリー・シーンの老けぶりと対照的に全然かわんねえエリック・マーティンに誘い込まれるように、ひっさびさに購入してしまった。 大学院に入る時に買うのをやめたから、10年以上ぶりになる。大学のころ定期購読していた雑誌は、マンガ雑誌を除けばBURRN!だけだった。うちの奥さんに大学時代定期購読していた雑誌を尋ねると、SAPIOとPLAYBOYだけ、ってのは何で僕と結婚したのか自分でも不思議だよ。そのままネットユーザーに落ちていたら、完全にネトウヨ(笑)への流れが形成される!と思いつつ、そっかBURRN!もまあマッチョな雑誌ではあるなと一人で腑に落ちた。 で、話はBURRN!に戻るわけだが、創刊25周年記念ということで、一大クロニクルが特集されている。懐かしい単語に涙しながら(ゼロ・コーポレーションとかね)、自分が自律的に選択したと思いこんでいたことがそうでもなかったんだなとか、あのとき感じていた雰囲気はやっぱりそうだったんだ、なんてことが分かって面白かった。言ってみれば、完全にブームの流れの中にいたってことだ。MTVブームに乗っかってハードロックやメタルの隆盛が頂点に達しているころに参入して、衰退期に離脱した。 80年代のどん詰まりに、昭和が終わってSKID ROWが出てきたころからハードロックを聴きはじめた僕にとっては、確かにLAメタルはもう古くてカッコ悪い感じがしていたし、ギターの早弾きかっこいいけど、新しいスターがあんまり出てこないなあと感じていたこと。でもMTVを録画しまくって、この筋のバンドが出れば大喜びするとか。93年ごろからハードロックもメタルもあんまり面白くないなあ、と感じていたのは自分の内面的な変化が大きかったということよりも、マーケット自体が縮小して、メインはグランジとへヴィロックに移行しつつあったということとか。当時僕はやたらとメロディアスなものばかり追いかけていたので、結局そういう絶滅危惧種はゼロ・コーポレーションのいい顧客になったのだった。デスメタルが後にメロディック・デスに発展していくのを、存在自体が矛盾じゃんとか思って傍目に笑っていた、その価値観が非常にBURRN!に影響されていたんだな、とか。まあ、当時もBURRN!読みながらそんなことを何となくは感じていたけども

完璧に人の世

山形市の位置する村山地方は四方を山に囲まれた盆地。山向こうに日が落ちたあと、山際がぼんやり明るくなるのだけど、雲が山際に張り付いているときは、加えて幻想的な雰囲気になる。山形で見られる光景の前景には、全国どこでも見られるMAXバリュの光!これぞ人の世(笑)。

思ってたよりフツーですね

榎本俊二『思ってたよりフツーですね (1)』(→ amazon )。本人の自伝と思いきや、この1巻はむしろ編集の小林さんの方が脇役として光る。編集の小林さんのコメントが切れまくっているのだが、榎本俊二の観察による切れなのだが、小林さんおもしれーんだろうなあと読ませる榎本俊二。そしていつも通り異常に良いテンポがギャグ漫画と同じく炸裂しまくりというわけである。1小節分に満たない感じでコマが進むので、グルーブ感出まくりというか。でもシュールギャグものと違ってきちん説明があるので、分かりやすいミニマルテクノみたいな感じだよ!内容は自伝が少し、編集さんとの戦いが少し、映画がたくさん。映画のところは全然分からなかったけど、読後感はかなり気持ちいい。

ポテンヒッツ

ジョージ秋山『銭ゲバの娘プーコアシュラ 完結編』(→ amazon )、手塚治虫『MW』(→ amazon )、しりあがり寿『でも、まぁいいか。』(→ amazon )『そこはいきどまりだよ。』(→ amazon )を新幹線の中で読む。 とりあえず言えることは、しりあがり寿の本高すぎ。1冊1300円くらいするよ。装丁や紙質がいいくらいで、もっと安くてもいい。内容はしりあがり節で悪くはないけど、やっぱり高い。ジョージ秋山のは、銭ゲバの後日談が前半。ジョージ秋山が自分で書いているように失敗作だなあ。アシュラの完結編はまあこうなるだろうというオチ。わざわざ書くほどのものでもないと思う、という意味でコレクター本。MWは昔読んだことあるけど、映画化もあってかまた読みたくなって。村上龍のコインロッカーベイビーズとものすごく似ていると思って検索したら同じことを感じた人が山ほどいた。MWはベトナム戦争用に日本に隠された毒ガス、龍のダチュラは旧日本軍。でも考えてみたら、「軍が極秘に開発した毒ガス」というモチーフは繰り返し使われているような気もする。

見えない世界こそ

研究発表終了。理論的背景の不備を糺された感じだ。見えているところの論旨ではなく、見えないところを確かめることでより大きな実りを得るのが(建前上)研究発表なので、その意味では有意義だった。あることを言うためには、その背景に当然答えられなければならないことがある。今後に向けていろいろ準備しないと。 ところで、 竹熊君、“紙”はもう、ダメだよ…(前編): たけくまメモ あたりの、マンガ業界は現在パラダイムシフトの波にさらされているという話、またそれに疑念を呈する 竹熊さんから反論をいただいた: マンガ家Sのブログ 話、自分の業界に当てはめて考えてしまった。たぶん似たような現象が、人文社会学・人文科学業界にも起こっていると思う。

あなたの人生の物語

テッド・チャン『あなたの人生の物語』(→ amazon )に収められている短編、表題作である「あなたの人生の物語」が衝撃的に面白かったので紹介したい。知的冒険や知的実験に興味がある向きはぜひぜひと思う。優れたSF作品に与えられる各賞を総なめにしているように、この作品はまずSFとして評価されているようだが、狭義のサイエンス・フィクションを越えて面白い。 ガワとしてのSFを取りだせば陳腐なものだ。地球にやってきたエイリアンと言語学者が対話をする。対話を通じてエイリアンの言語形式を自分のものとした言語学者は、時間を越えて事象を認知する力を身につける、といったもの。しかしよくできたSFの背後には、言語学に対する理解と、人間の言語が人間の認識世界を作り出しているということに対する深い内省とがあるように思われる。そこが知的に興奮できるところだ。 * * * * * 主人公の言語学者が対話を強いられるエイリアンの外見は人間のそれとはまったく異なる。 一個の樽が七本の肢に接合されて宙に持ちあげられているように見えた。放射相称の形態をなし、肢はいずれもが腕としても脚としても用いることができる。わたしのまえにいる一体は四本脚で歩きまわり、あとの三本は腕として側方に巻きあげられていたが、隣りあっている腕はなかった。ゲーリーは”それら”を七本腕(ヘプタポッド)と呼んだ。〈中略〉全周に眼が配されているから、あらゆる方向が”前方”にあたっているのだろう。(pp.187-188) この身体的特徴が、ヘプタポッドの言語(特に書記言語)を規定している。人間がリニアに物を考え、そのことが時間という概念を高度に派生したことは、たとえば前に注意を払いながら動いていけるように、目や足が配置されている身体的特徴と無関係ではない。主人公がヘプタポッドの言語を学習して理解したのは、ヘプタポッドの身体的特徴がもたらした非リニアで複数の事象を同時的に把握する認知方式だった。 ヘプタポッドは我々人類の一部がそうであるように(書記言語を持たない言語は持つ言語より多い)、音声言語と書記言語を持つ。ヘプタポッドは人間と違う身体構造であるから、人間用の音声記号でその言語を記述できないので、サウンドスペクトログラフを見ながら音素を決定し、音素を手掛かりに語を決定し、文法カテゴリーを発見していく。また発見された文法カテゴリーは人類

行けなかったTeXユーザの集い

そういえば締切日と重なっていたので行けなかったなあ。 TeXユーザの集い 2009 は、8月29日だった。僕は論文はTeXで書くんだけど、自分が書きたいやり方のギリギリが分かっているタイプで、仕組みまで理解している口ではない。だから開発としての関わりはできない末端ユーザー。でも文系研究者がTeXで何をやっているか、特に文献研究者が何をやっているかということに関しては、隣の芝生も見てみたい。 サイトでは予稿集がPDFで上がっているので発表内容を窺い知ることができる。「BibTeX のスタイルファイルをカスタマイズするツールの開発について」という発表は本気で聞きたかった。BibTeXのカスタマイズは難しくて結局僕は使っていないのだ。これぞTeXというくらいに便利な機能なのに、参考文献の参照の形式は学会や雑誌等でかなり異なっているために、カスタマイズをしっかり行わなければならない(理系世界では学会ごとにスタイルファイルが提供されているところもある; 学会スタイル等 - TeX Wiki )。しかるにカスタマイズが難しい。誰かが簡単なツールを考えてくれたらいいのにと他力本願に思い続けていたのだった。予稿集によれば、「著者名+年」という僕の領域でよく目にするタイプの引用法には対応していないらしい。残念。発表資料も公開してくれないかな…。

2009年8月20日ごろのこと

僕はほとんど毎日夢を見たことを記憶しているほうで(夢の内容ではなく見たこと自体)、夢の印象で一日のテンションが左右されることもあったりする。ただいくつか覚えている夢もある。というのも、パターン化というかシリーズ化している夢があるからだ。友人のシミズにも聞いたことがあるが、繰り返し見る夢の型みたいなものがあるというから、多くの人にあることなのかもしれない。二人とも共通しているのは悪夢のパターンなので、小さいころ何かあったのかなと思う。 僕が見る悪夢のパターンにタイトルをつけるとするなら、「ぜったいに開けてはいけない家の奥の扉」になるだろう。夢の中で僕は子供になっていて、ぜったいに開けてはいけないと知っている扉がある家で暮らしている。その扉を開けたら家族がめちゃめちゃになることを知っている。扉は地下室に通じている場合もあるし、倉庫に通じている場合もあるし、屋根裏に通じていることもあるが、万一開けてしまったらとてつもなく悪いことが起こってみんな死ぬのだ。そしてその原因はかつて家族が行ったとても恐ろしい秘密とつながっている。それはぜったいに知られてはいけない。しかし扉を開けたらその秘密がばれて、秘密が生み出したとてつもなく悪いことが外に飛び出して、みんな死ぬのだ。こんな感じのストーリーがいつもテーマとなりバリエーション豊かに肉付けされ繰り返し繰り返し変奏される。夢の最後はいつも扉を好奇心で開けてしまう。だいたいそこで目が覚める。目が覚めると絶望的な気持ちになっている。もう何もかも終わった、もうみんな死ぬんだと思う。起きてしばらくして、ああこれは夢だったんだ、助かった、と思うが一日のテンションはどん底。 2003年のころ、初めてシミズにその話をして、これは一体何なんだろう、何かすさまじい秘密を両親は抱えているのではないかと笑い話をしたことがある。以後もそんな夢を見続けた。いい年して、絶望感で目が覚める、みたいな。 そのカラクリが、今年の8月20日にたまたまネットで妖怪人間ベムの新しいシリーズの存在を知って、昔を思い出しているときに分かった。これって妖怪人間ベムの第3話なんだ!どう考えても第3話としか思えない符合ぶり。鳥肌が立った。何十年も僕を不安に陥れてきた夢の正体見たり枯れすすき。次にこの夢を見た時には、僕はベムのステッキ、ベラのムチ、ベロの爪で扉の中にあるものをテッテ的に

1979年10月ごろのこと

僕が1979年の10月ごろ何をやっていたか。子供と同じ小学校1年生のころか?鉄腕アトムの新しいシリーズがやっていたころ、僕は中京テレビか何かの夕方の再放送で妖怪人間ベム(→ 妖怪人間ベム - Wikipedia )を見ていた。ちょうど第3話だったはずだ。秋口くらい、もう日が暮れるのが早くて、そのころ住んでいた家は愛知県の片田舎の、立てつけの悪くなった古い貸家だった。かつての家主が植えた朽ちかけた桜の木や藤棚のあつらえてある家で、子ども心に薄らぐらい家だなと思ったものだ。藤棚の下で桜を見ていると、時折あの青と赤のイボがある毒々しい毛虫が膝の上に落ちてきて、泣いて誰かに取ってくれと叫んだりした。シロアリが土台を食ってしまったために柱の中がボロボロなのを見て驚いたりもした。当時から両親は共働きだった。母は末妹となる三人目を身ごもっていたが、遅くまで働いていたように記憶している。そんな中、妹と二人テレビを見ていたのだった。で、当時のことをなぜ覚えているかと言うと、妖怪人間ベムの第3話がすごくこわかったからだ。 第3話の内容は、実はきちんと覚えていないが、なんとなく強烈な記憶の断片がある。村に定期的に化けものが現れる。化け物がやってくると村人が死ぬ。そこへベム一行が現れる。化け物を退治すべく詳細を村人に尋ねても、一様に押し黙ったままで口を開かない。そうこうしているうちに化け物が現れるがどうしてもベムたちは倒せない。おかしいと思ったベムはどこかから妖力が流れ込んでいることに気づき、その源を探す。源は13と番号付けされた墓場だか倉庫だかだった。中には頭がい骨があり、それが呪いの力を放っていた。かつて村人が何かの理由でよってたかって殺してしまった女の怨念が化け物を生み出していたのだった。 幼心に、その怨念の「感じ」はとても強烈だった。呪いの波動は複数の女性のうめき声として演出されていたし、頭がい骨から発せられる怨念の放射はとても嫌な色の組み合わせで描かれていた。小学校一年生にとって、その演出はどこをどうとっても悪夢として完璧だった。そうなると夕方の古い家は恐怖を掻き立てる装置が満載で、塗り壁のくすみから床板のギシギシいう音まで何から何まで怖くなる、ので、当時のことを今でも思い出せるのだった。 以後、不思議なことに、たまたまテレビをつけるとそのシーンに出くわした。学年が変わって、違う

8月14日のこと

話題のETCで実家に帰る。ホントに1000円だ!(いや、実際は1600円だったけど…)と驚く。後に報道されるように自動車が唸るように連なっていて、地方は焦土と化すからみんな都心へ逃げろ!みたいな行列をたどっていくと、その先には事故車処理。帰省ラッシュと逆方向だからね。混むのがおかしいんだ。結構居眠り運転をしている車に出くわすこともあって、蛇行運転している車をそっと抜き去る瞬間、起きろ!って意味でクラクションを鳴らしたら驚いてハンドルを切ったためか壁に激突、を数回繰り返して目を覚ましてまたまっすぐ走り始めた。ほっといて大事故を起こすのを考えたら、と、ちょっと罪悪感を禁じえない自分に言い聞かせる。 実家では祖父母からのプレゼントということで小学校一年生にドラクエ!いやあ、分かるかな、と思いつつ、心配そっちのけでストーリーなんてほとんど分かってなくても楽しんでプレイしてる。ストーリーを先に進めるとか、自分を強くする、みたいなゲーム世界の暗黙の了解が分かっていないので、たまに敵を倒したり装備を見た目カッコ良くするのが楽しいみたい。子供は平坦な世界を生き抜くのが上手だ。 ゲーム取り上げられて説明書を読みながらふてくされる 話題のすれ違い通信、パーキングエリアでちらほら。ネットで書かれているように田舎になればなるほどすれ違えない。Wi-Fi通信はネット環境が自宅にあるか、マクドナルドとか大型電化製品店に行かないと楽しめない。分かっちゃいたけど現実世界の格差がゲーム世界にそのまま移行している。友達は少ないし貧乏だけどあいつゲームだけはすげえ!という感じで友達を作れた子供はもうきっと出てこないんだろう。どこまで歩いても現実ばっかりだ。 で、ねえ、小学校一年生視点に立つとドラクエってこんなに難しいんだってことがよくわかる。まず漢字が読めない。全てに振り仮名あるわけじゃないし。漢字が分かっても語彙のレベルがやや高いかな。2ケタの数字がきちんと読めて今どれくらいの数か把握できないと回復のタイミングが分からなくてすぐ死ぬ。MPの節約とかも。泣きのストーリーもよく分んない。でも僕らだってそうだったし大人になってから振り返ってみてあのゲーム実はすげーみたいなこともよくあったから。天使なのにどうして盗みを働くのかも分からないし、職業が神様に与えられるのもよくわからない。分からないことが分かるの繰

8月30日のこと

もう時系列が存在しなくなったかのような思い出しブログなのである。 終わったことだがどうにも憤りが収まらないのは、再考裁判官の国民審査じゃなくて最高裁判官(うまい誤変換と一瞬スルー)の国民審査って、あれ白票が信任で×が不信任というちょっと誘導的な投票法で知られているじゃないですか( 最高裁判所裁判官国民審査 - Wikipedia )。こちとら素人だし判例も知らないし判断なんかできないというのが大方のところだろう。なので棄権したいという声も一つの選択だし、そもそも棄権も権利の一つだ。ところが棄権する方法が存在していることを、投票場所の人たちが知らないという話を聞いてビビった。これは山形マジでディスらしてくださいYO!。それどころか最初棄権を認めようとせず、こちらが強く言ったら「そんな人もいるんだなあ」とか言いながらようやく受け取ったという。その場にいたら厳重抗議だと思う。だって、めんどくさい言い方すれば、選挙権の侵害だろう。ってことは…とかもっとめんどくさいから言わないけど、田舎だからねえなどと許されることではない。百歩退いて審査法に問題があるとは言っても、担当者は勉強しておいてほしい。

8月5日のこと

シミズと久しぶりに夕食。これまた久しぶりに吉祥寺(山形に移り住んでから初めて!)。ショックだったのは、西武国分寺から逆方向の中央線に乗りこんでしまったのに、日野に到着するまで気付かなかったこと。山形ボケすんのも大概にしろって感じです。すげー遅れて、パルコ下でマンガを漁る。品ぞろえが違うなー、とつくづく思う。マンガも本も、並んでいる中から選ぶから、並べる方も並べ方に工夫を凝らす、これが都市の良さ、というかその並べ方のセンスにお金を出しているのだとも思う。その後、オクサマへのシャツを選ぶ。男二人して何をやっているのかと。パルコの上の方のフロアを歩いて、あーなんかもう俺たち世代違うかも、と気づく。そしてくぐつ草でカレーとビール。なんてことはないことのに嬉しくって書いちゃったよ。 このときは『もやしもん(8)』(→ amazon )を読んだ直後で、どうしても地ビールを飲みたかったのだった。そしてこの写真はシミズが最近ハマっているとかいう一眼レフ。デジカメにデジカメ用ではないレンズを付けるのが流行っているとか、そういう話だった。で、僕はと言うとオリンパスのPEN(→ E-P1 )が欲しい。

8月4日のこと

書きためてあったのを。 今年も山形の学生を連れて関東に連泊である。毎年、東京での学生の振る舞いや、人や物への感じ方が面白いなあと思って観察することになるのだが、昨年あたりから、そのある種の「異文化接触」への感じ方が僕の内部で少し変化してきた(ようやくとか言わないで)。当初は、うちの学生を、地方社会の外部を見ようとしない「異文化経験値」の低い側、ないし「異文化許容度」の低い側に配置していたものが、東京もそう変わらないかも、というふうに思うようになってきた。もちろん都市の方が多様性にあふれていることは間違いない。しかし都市が出会える多様性は、当然のことながらやはり都市という文脈の中での多様性にすぎないのであって、その文脈で捉えられない・にくいものは、異物として排除されたり周縁化されたりする。そしてそうやった追いやられたものには「マナー違反」とか「下品」というレッテルが貼られて構造は強化される。それって構造だけ見れば地方と全く同じだ。地方では追いやられたものに「変な人」というやや大雑把なレッテルを貼るだけのことだ。 電車の中でご飯を食べるとか、化粧をするというのは都市部でのレッテル。そしてそれは地方ではOKだったりするので、引率した学生はどちらもやりまくる。一瞬出遅れて、様子見よっかと放置した。そしたら案の定、そういうことに一言いいたいのだろうという表情がありありと分かる方々が何名か。なんか言われたら説明しよっかなー、と思っていたが事なきを得た。あとでホテルで、あれは少なくとも東京ではナシという人もいる、と伝えたら「早く言ってくださいよ、自分ら田舎者みたいじゃないすか押忍!」みたいなことを言われて、「マナー違反」「下品」のあとに「田舎者」レッテルを追加した。

沈夫人の料理店

深巳琳子が新作を書いていた。『沈夫人の料理店』(→ amazon )は、言わずと知れた『沈夫人の料理人』と世界がつながった話で、舞台は中国古典から租界時代の上海?に。相変わらずドSの沈夫人とドMながらの料理人の李三が織りなす胸の痛む異色料理譚だ。意地悪な状況に追い込まれれば追い込まれるほど料理の腕が上がる李三は、スーパーサイヤ人になると超一流の調理師になるのだが(笑)、沈夫人は絶対に褒めないし本性からドMな李三は日々従順かつ自虐的な人間へと落ちてゆくことで、今日もまた最高の料理が誕生する。相変わらず意地悪な状況を作り出し続ける深巳琳子に拍手。胸が痛みつつも、どこかニヤリとしてしまう腹黒さを持ちつつ、おいしい中華を本当に愛している人集まれ~。 (写真は「料理人」の方) 深巳琳子はデビュー作『他人の家』(→ amazon )では善意の悪気を書いていて、沈夫人シリーズでは逆に悪意の優しさを描いている。そういうのビミョーな線を表現するマンガって僕が領域とするマンガではなかなか目にしない。その意味でけっこう貴重なマンガだと思う。

終了とメモ

原稿終わった。内輪の雑誌なので70枚くらい書いた。ただ長ければいいってもんじゃないっていうか、長い分ジャッジありのところに投稿するみたいな練られた感じじゃなくて、資料研究みたいな内容。今回の原稿は、1つのことを論証するための論文ではないので、データは全部出した。掘り起こして公開するのも研究者の仕事だろうと考えて。でもなかなか皆さんデータを公開されませんね。業績を稼ぐ前にデータを流用されるのを抑止しているのだろうけれど、あんまりそういう空気が強くなるとそのディシプリン自体が停滞する。媒体はともあれどんどん公開すればいいのにと思う。 僕がいつも思うのは、データ乗り入れのプラットフォームが必要だということ。各人が自分の研究に適したデータ作成をするのとは別に、他のデータとフラットに扱えるためのプラットフォームがあればいいのに、と思う。昨年試作品を作ったけど、あまりいいものではなかった、というのと、共同研究だったので研究者間でデータ公開に対する温度差があってうまくいかなかった。温度差があることも含めていい勉強になったので、将来的にはプラットフォームを作りたい。で、そこで必要になるのはデータベースの専門家の協力なんだなー。理系の人脈を増やしたいので、情報系の学会とかに足を運ぶべきだな、ということで忘れないうちにメモしておく。

人間は進んで

衆院選だが。飲み屋でおっさんと隣り合わせになると、時々議論を吹っ掛けられる。選挙行け、と。行くけど白票かな、と。民主主義は個人が社会を作り出す方法と頭では分かっていても、根本のところで信用できていない。僕は「国民が」などという政治家が嫌でしかたがない。なぜ「私は」「私たちは」と言おうとしないのか。あなたも国民じゃないのか。あなたも個人じゃないのか。社会を変えるあなたは、社会とどうかかわろうとしているのか、といった小学生並みの素朴な疑問があとからあとから。思想が先に?思想の手先に?人間は進んで思想の奴隷になろうとするものじゃないだろう。

在宅日数

8月に入ってからの在宅日数が4日間。出張と出張の合間にわずかに家にいて、これから埼玉の実家に。データ入力とか原稿とかマンガとかのタスクが山積しているなか、川とか山とか行きたいのに!読んだ本の記事とかも書きたいし、ドラクエのすれ違い通信もやってみたい(そもそもソフト買ってないし)のに!

3 seasons in Yamagata

東北は梅雨明けなく秋に 03年以来6年ぶり - 47NEWS(よんななニュース) だって…。そんな気はしていたけどね…。ただでさえ短い東北の夏が全くないことに。 仙台管区気象台は10日、「東北6県は梅雨明けと判断できる時期がないまま、秋への移行期に入った」と発表した。梅雨明け時期は1951年以降発表しているが、特定できなかったのは、2003年以来6年ぶり。

五十嵐大介と福岡伸一

五十嵐大介『海獣の子供(4)』(→ amazon )と、福岡伸一『世界は分けても分からない』(→ amazon )を読んだ。大好きな漫画家である五十嵐大介は、おそらくデビュー作から一貫してロゴス=言語で規定される以前の「世界」を懸命にとらえようとする作家。数年前にベストセラー『生物と無生物のあいだ』(→ amazon )を著した福岡伸一は、抒情的な方法を駆使しながらロゴスで「世界」を構築しようとする研究者。両者は対極の立場にありながらも、生命を流れ・全体・動きとして捉える点で、同じ地平に立っているように思えて、奇妙な符合を感じた。 五十嵐大介は独自の世界観で、生物産出の表象としての海を装置として、我々の「生命」という虚構を描こうとする。宇宙・地球・生物をニューエイジ的視点でつなぎ合わせ、マクロ―ミクロの連続性から大仰に捉える。よくある構図ではあるけれど、ロゴス外をそのまま作品内で描こうとする五十嵐節の真骨頂がいよいよ発揮されつつある4巻は、やや拍子抜けだった3巻の認識を新たにさせた。一方、福岡伸一は前作よりも一層の抒情的表現を交えつつ、分子生物学の立場から、細胞の局所的・非俯瞰的な動きが全体を「動的平衡状態」(動き続けている秩序状態・またの名を自転車操業常態状態)に見せている研究成果を前作同様に、でも前作よりも濃いミステリー風味で紹介する。この「動的平衡」がとりもなおさず生命が営まれている状況だとして、その平衡状態が保たれなくなったとき生命は生命でなくなる。逆に言うと生命を生命たらしめているのは、この平衡状態を作り出している機構そのものであって、誰もが知るように原子レベルで比較すれば生物と無生物に明確な線は引けない、という構図である。そこにはミクロ―超ミクロの連続性から、「生命」という虚構を描き得る立脚点がある。 全体と部分を階層構造としてとらえる構図は、人文社会学の営みにもまま見られる。が、知的に面白く見せるには技芸が必要であって、それはなかなか難しい。2人の著者にその技芸をもたらしているのは、全体をとらえるために部分を凝視せず、部分を脱出しようとする姿勢(そいでもってそういう姿勢は往々にして周縁を歩ませることになる)なのだろう。

この1カ月やってたことと昨晩の体験

現実のniji wo mitaを知る人からは意外!と言われるのだが、昨年の身体健診でメタボ宣言を受けた。腹回り87センチで(メタボの規定がおかしいという説はともあれ)内臓脂肪が多いのだという。血液検査では脂質が高いとの結果で、極端な運動不足、それなりのストレス、夜遅い食事など当てはまる項目が多すぎ。で、検診前の悪あがきというだけでもないのだが、この1カ月、炭水化物を減らして、昼食をナッツのみに変えてみた。炭水化物が減った分、野菜と肉などを多めにして、全体の食事量が目立って減らないようにしてみたところ、あっさり4キロ減って、昨年より腹回りが7センチ減った。途中、3食ともナッツにしたときは抵抗力が落ちてうっかり風邪をひいた。注意して進めれば、運動をほとんどせずに適正な体重に戻るのが分かった。 で、夜遅い食事と酒の主要因である元同僚と久しぶりに飲んだ。はしごしてたどり着いた店が、ボウイとかレッドウォーリアーズとかジギーとかレベッカとかそういうのを売りにしたバーで、その趣味色の世代ジャストミートぶりと店長の生ギターに軽い衝撃を受けつつ、キャバとかスナックが入りまくっている雑居ビルになぜかようなお店がとやや腑に落ちないものが。「お客さん、このお店のカラオケって音がいいんですよ」とにじり寄る怪しげな自称同い年の女性が歌うプリプリがうまい。レベッカのガールズブラボー泣ける。で、また別の女性が歌う工藤静香が似すぎ。聞けばお店の人ではないという。何ここ。腕に自信のある人しかこないお店ですか。工藤静香に歌声が劇似の女性、最後はリクエストに答えてくれて抱いてくれたらいいのにを歌ってくれたのだが、店の人ではないというのに客(彼女も自称客である)あしらいが妙にうまく、かつカウンターに座っているあからさまに堅気でなさそうな客などからして、清算が大変心配になってくる。そのうちなぜか店内の女性が工藤静香バトルを始めるも、みなうまい。元同僚ととりあえずノリでグロリアを歌って、出よう、と清算をするために立ち上がると、自信がある曲があるからこれだけ聞いてほしいと留められ、Blue Velvet。はい、どうも的にやや急ぎ足に清算を終えると、意外にも普通の金額で、いったいこのマクー空間は何だったのかと。

このところのマンガメモ

がね、もやしもんの最新巻なのだよ。武藤の話が良くて、特に作中企画の地ビールの話、とても良くて。ビールが飲みたくなったのはもちろんとして、もやしもんの呼びかけに応じてくれたあれのあれとか、ネタバレになるから書けないけれど、大学が舞台のマンガとしてはこの巻がいちばん見せどころじゃん?みたいな盛り上がりを見せた。こういうのが、こういうのだよね(読んでない人には全く分からないだろう)。 尾玉なみえも円熟期に入ったのかと思わせる落ち着きぶり。大手誌、しかも少年誌でやってほしいネタがてんこ盛りであった。少年誌の書き手が一線を退いて青年誌で少し羽目を外して書く、というのが作家のキャリアを広げるありがちなルートでもあるのだが、尾玉はそれでいいのだろうかと思う。尾玉は本来、青年誌(あるいは成年誌か)的ネタを子ども世界に翻案して毒濃度そのまま、ガワだけ違うのが持ち味であるから、少年誌のほうが味が生きる。単行本だったら同じじゃん、というわけでもない。少年誌単行本のあのサイズで読めば、やっぱり味が生きると感じるのが極北マンガ道であるはずだ。 そしてファンタジウムがマンガ読みの間であまり話題に上らないのは、うーん、テーマがあまりにniji wo mita好みであるだけなのかどうか。マンガとしてというのとは違う次元で面白いことは確か。

この3カ月聴き続けた音楽

が、山下達郎だけ、という僕としては異常事態である。だいたい3か月持たず飽きるのが常態である。どうやらRCA/AIR時代が一番好きだということが分かった。ライブ盤のJOY、Disk2が良いというexpopの話は嘘じゃなかった。レッツ・ダンス・ベイビーが素晴らしすぎる。そしてライブ終盤あたり、声がジョージ・マイケルみたいだなあと思う。歌い声が好きなんだなあ。

いろいろメモ

久しぶりに子どもを預かる。奥さんが所用で大阪なので、子どもにご飯食べさせて風呂入れて寝かせて、みたいなの。東京にいた時にはよくあったことだけど、子ども2人という状況は初めて。奥さんの苦労が身にしみるわ、みたいな。たった1泊だけど。お母ちゃんお母ちゃんと2人がわんわん泣くので、こりゃいかんなと思う。仕事と家庭のバランスは、もっと上手に取れると思っていた4年くらい前。行うは難し。 で、今日は甘口のドライカレーを作った。豚ひき肉と玉ねぎとピーマンと、あと卵の黄身を乗っけてアンパンマンみたいな顔を作って、これなら娘も食うだろうと。でもひき肉の食感がダメみたいで一口も食べてもらえず轟沈した。息子はおいしいと言ってくれたけど。うー、難しいな。辛いスパイスは使わず、ケチャップ多めにしたから味は大丈夫と思っていたら、食感か。

とりあえず終了

ふー。今回の原稿は結構しんどかったぞ。論集だけどチェックは入るのかな。とりあえず初校が楽しみ。さー寝る!次の締め切りが待ってたりすんだけど。この自転車操業からはもう逃れられないカルマティックワーク。

初めての換装

thinkpadのキーボードを3週間前くらいに娘が無邪気にむしり取ってからというもの、ただ上に乗っているだけの「。」キーが使いづらくてしょうがなかった。ワンセンテンスごとにタッチしなければならないキーなので不便極まりなかったが、IBMの部品センターにキーボード(送料等込みで9135円)を注文。換装が激烈に簡単で驚く。特定キーだけを換装することは無理だったものの、修理に出す必要もなく良かった良かったという結論。こういうパーツサービスもさることながら、おそらくユーザーが簡単に換装できるような仕様になっているのって他のメーカーはどうなんでしょうね。ああ、句読点にストレスを感じないってこんなに素晴らしい。しかも交換のために一度シャットダウンしたため、ポイントマウスの挙動が良くなってる!いつも使用→スリープ→使用を繰り返して、もう一月以上再起動かけてなかった。そうか再起動が良かったのか。締め切り延長をお願いしている原稿もこれにて急激に進捗する、かも。 液晶の修理に出している別マシン(thinkpad x40)もそのうち戻ってくるだろう。自分の研究のためのTeX環境がベストな感じにカスタマイズされているマシンなので、こちらも帰還が待たれる。いまゴリゴリ使っているx200はTeX周りのカスタマイズが十分じゃないんだよね…(書けるけど)。 Service Videos (換装方法をビデオで教示。すげえ。)

むむむっ

データ取りと基礎的分析が終わったところで関連研究書を読んでいたら、方針がガツっと固まった。げにあらまほしきは先達なり、を地で行くなこれ。あと2週間くらいで完成稿までたどり着きたい。無理を承知で贅沢を云えばまとまった時間が必要だが、本気で消耗戦を挑まないと。じゃあエヴァ見るなよって?いやそれは別だから。ほら原作と違うシンジ君を見てやる気出す、みたいな図式だってあるかもしんないわけじゃん?ねーか。

エヴァ破見たよ

多忙な日々が続くが、どうにか時間を作って、地元映画館のレイトショー(つっても9:00-11:00なわけだが)でエヴァンゲリオンの破を見てきた。序は数日前にテレビで見た。そういえば、テレビを3週間前に買ったのだが見るものがないので仕方なくエヴァを見たのだ。 で、劇場はいかにも30代みたいな客がずらりと座っていて笑う。10数年前、難解なストーリーの整合的解釈は誰よりも自分が正しいと思っていた、ような顔ぶれに見える僕ももちろんそう思っていた。僕の解釈は、「僕世界」の終焉で(そして世界系の始まり)「気持ち悪い」で歩きだす、みたいなわりと王道なもので、しかもそれで腑に落ちていたので、改めて物語としての終わりを描かれることで、いいようのない不安に襲われる。あれで良かったんじゃん、と思っていたのが、やっぱりきちんと不安の種が芽吹くところを見届けなければ、みたいなオブセッションになっている。明らかにアニメ版を分かっている人向けの進行なので、きちんと終わらせるから見てろ感が、ビシビシ伝わってきてそれがまた不安をあおる。 その不安は、あのアニメ版の決着から10数年の、自分の体験や価値観に見合うものであってほしいというすげー自分本位な欲望でもあるのだろう。30代半ば越えのオッサンが何を気持ち悪いことをと自分でも思いつつ、次の歩きだし方をどう見せてくれるのか、を期待する。

隆一じゃないほう

河村たかしの対抗勢力から、名古屋市市長選に出馬してみないかと頼まれるぶっ飛んだ夢をみた。絶対いやだから、特に街頭演説とか死ぬほど無理、と急ぎで断りの手紙を書いていたら、名古屋市の「市」の字を間違えて修正液を探し回っているところで目が覚めた。 まあ確かに河村たかしのことが気にはなっている。というかむしろ河村たかしの発言を取り上げるメディアの、方言の表象が気になっていた。もちろん河村たかし自身がメディアが取り上げるほど素では方言を喋っていいないのではないかという疑念もあるが、方言キャラとして取り上げたほうが読者受けはしやすいという意図もあってのことではないか。ところが最近新聞等で取り上げられる河村発言は、なんというか直接話法ではないことが多いように思える。愛される方言キャラという立ち位置ではなく、政策そのものをシビアに評価しようということなのかもしれない。という矢先の夢。わけわかんね。 しっかし、街頭演説がいやなのでお断りします、ってのが通ると思っている自分の頭の構造はどうなっているのか心配ではある。

スリラー尽くしにて追悼

フィリピンの刑務所の連中も、悪びれずによくやるな、と思う( 時事ドットコム:囚人たちが追悼ダンス披露=M・ジャクソンさんの「スリラー」-比 )。 こんなにかわいいスリラーがあってよいものだろうか。 ファイナルファンタジーの面々によるスリラー。 マサラ・スリラー。途中、襲われた女性が顔をひきつらせるシーンがあるが、まあいろんな意味でひきつるよねと思わせる名シーン。 そしてオリジナル。音楽の事もだけど、黒人の地位をこの人は紛れもなくあげたよね、という意味でも本当に尊敬する。

ホリエモン フランス書院にて

堀江貴文 | 諸行無常のセックス観 (via. finalventの日記 )。ホリエモンすげえ。だいたい全然諸行無常じゃないし。トランスジェンダーに興味があるとか言ってますが、これは字義通りではなくて、性倒錯の対象としてのトランスジェンダーであって。と、突っ込みを入れるのは野暮承知だけれども、相手が36歳だから一応突っ込みを入れておきたい。というか何がすごいって、ある意味板垣バキの世界。誰が一番強いか中学生が語り合うかのような世界観がそのまま36歳まで持続していることの、失敗例でもあり成功例でもあるホリエモン。もうすげえ。午前中からおなかいっぱいです。

100年たったらみんな死ぬ

なんか帰宅したら机の上にどーんと置いてあった包みの中には、松田奈緒子『100年たったらみんな死ぬ』(→ amazon )の上下巻が。畜生山下、山形では手に入らねえんだよ!あてつけか! で、もっさもっさと読みました。おもしろー。変な人がいっぱいだった。しっかし雑誌を作る現場ってこれどこじゃない頭おかしい人がたくさんいて楽しいんだろうなーと思うよ。そいで確かに三宅乱丈に似ているとも思ったけど、『いとしのエリー』で知られる高見マコっぽいなとも思った。目から「カッ」ってビーム出すとこいいよね。 月曜日はねえ、いろいろ雑誌の発売日だから大変なの。喧嘩商売ようやく決着ついたし、SQジャンプの松井優征の読み切り力抜けた感じだったし、アイ・アム・ア・ヒーローすっとぼけてるしさ。それで、明日の仕事の準備まだなんだよ。もおさー。ありがとう。

マンガでいえば冨樫

授業準備のためにfreemind(→ FreeMind活用クラブ - マインドマップをフリーソフトで )で内容をまとめていたら、思った以上に深みにはまってプレゼンファイルへの転換ができなくなってしまった。もういいやってことで、これで授業やるわ。ノートテイキング用に、HTMLファイル化してからドキュメントファイルにして部分部分虫食いにして配布。初めての試みだが、マンガでいうところの下書きということになりかねない。 任意のノードを選択的に全画面表示できたら、もしかしたらプレゼンファイルよりも構造把握には適しているかもしれない。プレゼン紙芝居の弱点は、どう工夫しても全体のどこを説明しているか、聞き手が抽象的に把握しなければならないところにある。もっとも普通の文章をはじめとしたスクリプトとはそういうものだけど。瑣末な内容よりも話の構造を理解してもらいたいなあといつも思っているので。 (追記) 教室のモニタがあまり大きくないので、結局文字を大きく見せるためには倍率を上げる必要があった。そうやって部分を拡大すると結局全体が把握しにくくなる。できるだけ全体の構造を見せてから詳細に入る順序を取ったが、構造がいつも見えるようになっているわけではないので、思ったほどの効果はないかもしれない。巨大な画面があるといいのになあ。

木簡から探る和歌の起源

犬飼隆『木簡から探る和歌の起源 「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』(→ amazon )読了。昨年出土して騒がれた「難波津」「あさか山」の両面歌木簡について「国語学」による位置付けを試みつつ、万葉集編纂から古今和歌集あたりまでの「うた」から「和歌」までの見通しを考察したもの。本書では、人々の間に取り交わされた素朴な「うた」が典礼用の「歌」となり、それが平安時代の和歌につながっていく、との仮説に基づいて、7~8世紀の木簡を歴史の中に位置づけようとする。 いわゆる啓蒙書なので読みやすいが、学会内輪ネタとかもあって興味深い。内輪的によくある「文学対国語学」のなかなかかみ合わない論戦のところは、個人的に懐かしい味わいがあった。物証にこだわる「国語学」からすれば、木簡のような物証そのものこそが学問的手法の原動力たり得るので、文学に対する舌鋒はキレッキレである。犬飼氏の主張は、韻文の表記は一字一音式は訓字主体式に先行するとのこと。文学の連中は木簡も見ずに紀記万葉、風土記の類だけで上代語るなよコラという図式である。が、なんというか上の世代の論争だなという印象を受ける。若い世代は改組改編の津波後の世界を生きているので、そもそも文学と「国語学」はとっくに手を組んで、むしろコミュニケーションとか表現とかメディアの人たちを仮想敵とした同盟を結んでいるのだ(嘘)。 閑話休題、本書の筋道と別のところでもっとも興味深かったのは、木簡にあらわれる万葉仮名は「記紀万葉とはことなる使用層を示し、発音の清濁を万葉仮名の字体で区別して書かない」(p.111)、「上代特殊仮名遣いの区別もずさん」(同)という記述である。犬飼氏は平城京東院西辺出土の一部のものを除き、7~8世紀の木簡には同様の傾向がみられるとする。そしてその理由を、歌が書かれた木簡は典礼などで口頭に読まれたあとは捨てられる一回性のものだったため、とする。万葉集が「晴」の様相であれば木簡は基本的に「褻」の様相であるというわけである。 この違いを表記態度の違いと見るべきか、口頭言語における規範意識の違いと見るべきか。たとえば仮名のように清濁を書きわけないシステムは、あくまでも表記の問題であって当時の人たちが清濁を分けずに発音していたわけではない。しかし上代特殊仮名遣いは、発音上の区別が失われるとされる平安期よりはるか以前に曖昧になっていたとい

品切れ

村上春樹『1Q84』、買おうかなと思ったところがもう遅い。山形では完全に品切れの模様(情報母数=1)。アマゾンも品切れ、どころか中古が定価の120%で売られている。資本主義すげーなあ。思えば以前パフュームのDVD付きCDも同じだった。まさかとは思うけど、投機的に買ってる人たちが?そろそろ書評がガンガン上がってくるだろう。その前に読みたいんだけど。

google map apiの続き

google map apiの続き。javascriptでxmlファイルを呼び出して表示する仕組みのを採択。携帯電話で取得したgps情報がdms形式であるのに対し、google mapではdegree形式であるのは、計算式でいくらでも変更可能と分かった([百分率の小数点以下] = [分] / 60 + [秒] / 3600)。なのでエクセルにdmsで記入させて式でdegree形式に変更する。携帯のgps機能はどんなに精度を高めてもやはり誤差が出る。市街地の看板のプロットは数メートルの誤差でも駄目なので、携帯のGPS情報はそのままでは使えない。と思ったら、auでgps情報をメール送信する際に、手作業で地図を見ながら微調整できることが判明ゆえ問題クリア。となると問題は山中の目印がないスポットでは、微調整ができないということだが、これは別途 Google Maps API 2: 座標の取得(Lat, Lng) にて、航空写真を使いながら完全手作業で位置を特定する。念のため携帯電話でもgps情報を拾って置く程度。

電王劇場版おもれー

子どもと「劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼が島の戦艦」(→ 公式サイト )を見に行った。っていうか電王は2作前のシリーズなのにいまだにこの人気。タイトルにディケイドの名前があるのに、9割方電王のキャラクタの話であって、ギリギリ広告もしてますよ程度のおためごかしディケイドだった。 これで客とれるんだから、いっそハードSF路線はやめて子供向けで行った方が成功するんじゃないですかね、と思ってしまう。今回の劇場版はデネブをめぐるスピンオフなのだけど、主役が子どもなので、ビルドゥングスロマンであり昔話でありドラえもんであり、勧善懲悪時代劇であり、完全にいわゆる鉄板な作品。どうあっても面白いだろうこれは。劇場のあちこちから子どもの歓声が聞こえる。 ただビルドゥングスロマンの部分は、山形的に微妙かも。だって、親の都合で田んぼばっかりの田舎に引っ越してきた東京の子どもが、成長して田舎の子供たちに一杯食わせるオチですよ。都市対地方の構図が、思い切り都市目線なのって、山形の子どもたちはどう見たんだろうと思う。うちの子どもは子どもゆえの適応能力で最近はほとんど山形化しているので、自己体験との妙な重ね合わせが心配だったけど、完全に杞憂でした。

携帯で撮影した画像のGPS情報、gMapへの登録メモ

携帯で撮影した画像に付けたGPS情報は et's Exif Viewer 2(PHPへの扉 ~ PHPのちょっとしたスクリプトなど) を使うことで閲覧可能となる。あとは XML を使った Google Maps API の一括サンプル: Seis Pesos をダウンロードしてXMLファイルからGPS情報を参照させると、独自のgoogle mapが完成する予定。できるかな。いろんなものがネットには用意されていて心底ありがたいなあ。

google map apiメモ

研究の片手間にやっている(いやこれも研究対象としつつあるかも)多言語看板のマップを作成しようと考えて、google map apiについて調べている。要は携帯写真のGPS機能をもとに、マップ上に写真をプロットできないかなあと考えているわけ。google mapやgoogle earthに写真がはりつけられるんだから、原理的には可能なはず。携帯電話のGPSとgoogleの地図とはともに世界測地系(dms84)に依っている。が、緯度経度表示形式が違うのに注意しなければならない。つまり携帯電話がdd.mm.ssなどのピリオド形式を取るのに対し、google mapはdegree度形式を取る。この変換をしないとgoogle mapでは正しく表示されない。 経度緯度の表示形式変換 のサイトを利用するなどして、変換する必要あり。

全く歯が立たなかった本

竹森俊平『資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす』(→ amazon )がとうとう読みとおせなかった(ということにして投げ出した)。1章の半分くらいでアウトです。基礎知識ないとこれは無理かも。いかに自分が経済の基本に知らんぷりしてきたかがよくわかった。出てくる術語がことごとくジャーゴンだったし…。ただサブプライムローンがどういうものかはそれなりに分かった。そんだけ。 で、留学生向け日本語関係の教材に、バブル経済と崩壊について書かれたハードコアなのがあるんだけど(毎年ここは留学生がすごく苦労する。当り前、教員も苦労してんだから)、その説明をするのに2ミリくらいは役立ったかも。

ゴンズイ

ジョージ秋山『海人ゴンズイ』(→ amazon )。1984年のジャンプ黄金期直前に連載していた怪作ってことで、読んでみたんだけど、かすかな記憶と全然違う。僕の記憶では、最後主人公は海の藻屑となって、無数の魚に身体を食われておしまいだったような…。それは別の作品ということなんだろうか。 で、読んでみて、復刊するほどの作品だろうかと思った。作りのいい加減さが不条理な読後感を生むので、当時の子どもたちにとってはトラウマだったろうが、だったら他の名作を復刊してくれよと思う。太田出版的な企画はもういいんじゃないか。ともあれ、B面の「ドハツテンツク」はまあまあ面白かった。一番面白かったのは、巻末の作者インタビューかな。ジョージ秋山の投げやりな感じがひしひしと伝わってくる。

買ってしまったヤマタツ

山下達郎「SPACY」(→ amazon )買っちゃった。1977年の作品、ということで80年代以降にテレビやラジオで耳にする印象と全然違う。ライナーノーツに本人による曲目解説が出ているのだけど、この人が当時音楽に対して何をチャレンジしようとしていたかが書かれていて、少し勇気が出る。

ヤマタツ三昧

ひょんなことでこの週末は、youtube経由、山下達郎三昧だった。ベストアルバム一枚持ってるだけで、ろくろくまじめに聞いたことがなかったけど、ライブすげー。こんなに歌を聴かせると思わなかった。以下、ヘッドホンつけてきちんと聞いたら涙が出てきたよ。シュガーベイブ時代の解散ライブとか、歴史的価値もすごいんだろうけど、それより声と空気。なんだかわかんないけど涙が。ああ。 YouTube - 山下達郎Performance 08-09 「01. Sparkle」「02. Jungle Swing」 YouTube - 山下達郎Performance 08-09 「06. ついておいで」 YouTube - 山下達郎 「What's Going On」 YouTube - シュガーベイブ 3/6 「粉糠雨」1976/3/31 ラストコンサート荻窪ロフト YouTube - シュガーベイブ 1/6 「パレード」1976/3/31 ラストコンサート荻窪ロフト YouTube - シュガーベイブ 6/6 「DOWN TOWN」1976/3/31 ラストコンサート荻窪ロフト

新型インフルエンザをめぐる情報

日本感染症学会緊急提言「一般医療機関における新型インフルエンザへの対応について」 。新型インフルエンザをめぐる情報でいいのを知った(via. 必読 - finalventの日記 )。弱毒性などと言うけれど、過去の事例と比較して、また現在の医療の力を勘案するとどれくらいの威力があるインフルエンザなのか、といったことが数値データをもとに説明されている。また、感染・罹患したらどうなりうるのかといったことも紹介されている。医療機関向けいうものの、一般向けとしても非常に分かりやすい。 内容 ① 過去の我が国における新型インフルエンザ流行の実態から学んでください ② 新型インフルエンザは、いずれ数年後に季節性インフルエンザとなって誰で も罹患しうる病気です ③ 新型が流行すると青壮年層の被害が甚大となるのには理由があります ④ 流行初期から一般医療機関への受診者が激増します ⑤ 重症例にはウイルス性肺炎よりも細菌性肺炎例や呼吸不全例が多く見られます ⑥ 一般予防策ではうがい、手洗い、マスクが効果的です ⑦ 医療従事者の感染予防にはサージカルマスク、手洗い等が効果的です ⑧ 全ての医療機関が新型インフルエンザ対策を行うべきです 感染性の高さもあってか、いずれ季節性インフルエンザとなり国民のほとんどが罹患するだろうと。しかもそれが死にいたるリスクは過去の季節性インフルエンザと同じくらいだから過剰な心配はいらない、そして免疫力がつくのでリスクは全体でみれば下がっていくとのこと。

シンプルでいいのかもしれない

通販で購入したターメリックとジンジャーパウダーを中心に、家にあったびん詰のナツメグ、コリアンダー、クローブ、ホールのホワイトペッパーを少し混ぜてカレーを作った。カルダモンは購入はしたけれど使用は見送った。前回同様レモングラスも少々。水加減がうまくいかなくて水分の多いカレーになってしまったこと、ホワイトペッパーがわずかでも辛さをもたらしてしまったことが課題。トウガラシを抜く代わりにせめて、と思ったがやっぱり駄目か。購入した本を見ると、クミンは入れとけみたいな情報が。 次回はターメリック、ジンジャーパウダー、カルダモン、クミン、レモングラスだけで行ってみる。目標はマレー半島のカレーっぽくて、辛くないやつ。 今日はうまくいかなかったけど、子どもには好評でモリモリ食べてもらえた。良かった。

しかしわたしはあなたと共にある

本棚にいい加減に差し込んである遠藤浩輝『EDEN』の1巻をオクサマが発見して、先が読みたいから残りを段ボール箱からサルベージせよとの命令。ミイラ取りがミイラ取りになって、思わず再読してしまった。久しぶりに読むと新しい発見があったりする。 EDENの面白さは、近未来SFの体裁をなしながら、世界の権力再編後にも生じている経済や生活の南北格差と、民族や宗教の対立をリアルに描いているところにあると思う。で、第16巻(→ amazon )の、105話~107話「Icon」という小さな話の連なりが、宗教的な美しさに彩られていて思わず背筋がぞわっとなってしまった。 以下、どんな話かっつーと、という話。 * * * * * この掌編の舞台はインド。世界観がかなり作りこまれているので簡単に説明するのが難しいのだけど、地球レベルの地殻変動の結果、被災者があふれるなかで、ヒンドゥーとムスリムの対立による無差別な殺し合いが続く。世界政府だか赤十字だかから届く医薬品などの救援物資や救助のための最新技術は、高い社会階層にばかりつぎ込まれたりするし、残りの物資も民族同士の奪い合いの憂き目にあって、災害時にも関わらず殺し合いが繰り返し起こる。「Icon」で主役として描かれるのは、物語では端役のラヴィ・シヴァン医師という登場人物だが、医師の職責を果たそうにも、手当をした矢先に虐殺されたりするので途方もない虚無感に襲われている。 で、EDENのSF設定であるところの、ウイルス進化がもたらした人類のあたらしい集合結晶体コロイド。コロイドは人間が作り出した民族や宗教、階層などの価値にかかわらない。したがって悲しみや絶望にさらされた弱き人々は、この世で生きるよりもコロイドとして生きることを選び始める。周縁として生きざるを得ない世界中の人たちは、絶望の末、こぞってコロイドに入ってゆく。医師であるラヴィも絶望に蝕まれ始めるころ、枕元にかつてコロイドに飲み込まれた妻が立ち、「こちら側」で生き続けることに疑問を持たされる。 そこへ、もう一つのSF設定であるところの、AIプログラム、マーヤが現れる。物語ではマーヤは預言者のような存在。マーヤは「世界を救うこと」が自分の目的であるといい、コロイドが作り出す新しい人類の可能性について説く。ラヴィは荒廃した丘の上で、コロイドに入ろうとするが、すんでのところで思いとどまり踵を

いやだなあ…

首都圏では新型インフルエンザの話が盛り上がっているようですが、山形では恐ろしいくらいに盛り上がっていません。職場では緊急対策委員会が開かれたのに、感染者が出たら考えるとの報告がありました。対策考えてないじゃん。しかも身近にインフルエンザの学生が出たのに「新型の検査は不要」と保健所が言ったから検査してないとかって、うーん、現場で有効なガイドラインがないために大騒ぎするのも問題だけど、学校って接触場面がすごく多いから「大丈夫大丈夫」ってのも問題じゃないの?しかもA型だし。保健所の判断を真に受けてもいいんだろうか(しかし素人としては信頼するほかない?)。こういうときは、保健所の判断を超えて、学生に再検査を促すべきだろうか、考えてしまう。 というわけでー。他の県でも「検査したら結果が分かっちゃうから検査しない」ことで、カウントされていないケースが相当ある、ってことが身近に想定できる。

日本の原子爆弾

アンティキテラの本のなかに、原子爆弾を作る研究をしていたのはアメリカだけではないとあって、読み進めるとそれは日本だ、という記述があったので驚いた。全然知らなかったです。無知蒙昧なヤカラで…。 日本の原子爆弾開発 - Wikipedia 理研八十八年史より で、完成ならずして東京大空襲で破壊されたウラン分離実験施設を、山形に再構築しようとした、というのも驚き。山形のどこにだよ。 ともあれ、アンティキテラの本では、やや不自然な流れで日本の原子爆弾研究に触れられていて、どういう言外の意味があるのかなと勘繰りたくなる感じでした。

アマゾンでスパイスを購入

山形でスパイスを探すのは大変そうだからネットショッピングかなあと思ってたら、アマゾンでも入手可能なのね。 niji wo mita: 東南アジア風カレー 以来、自分でカレーを作りたくて。市販のバーモントとかも好きだけど、もうちょいエスニックな感じのが食べたい。で、こないだ作ったのは子どもには少し辛すぎて不評だった。トウガラシが入っていない調合のためには、自分でスパイスを選ぶしかないよなあ、というわけで。とりあえずターメリックさえあれば、あとは自宅のスパイスを適当に調合するとして、せっかくだからカルダモン(→ amazon )も。注文し逃したクミンはまた今度にする。たぶん、ターメリック(→ amazon )とバイマクルーだけでかなりそれっぽいのが楽しめるはず。ああ、ネットって、音声情報と視覚情報に、においが乗ればもう完璧なのに! 合わせてこんなのも思わず購入してしまった(→ amazon )。まんまとやられた。

アンティキテラ島の機械

ジョー・マーチャント『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』(→ amazon )読了。finalventさんが書評されているのを読んで(→ [書評]アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ(ジョー・マーチャント): 極東ブログ , 2009-05-07 - finalventの日記 )すぐ手に入れた。アンティキテラの機械(Antikythera mechanism)の画像がネットでも公開されているので、以下( ファイル:NAMA Machine d'Anticythère 1.jpg - Wikipedia )。 中学生のころだったか、友人の家にあった「ムー」に掲載があったような記憶がある。つまりこれは、少なくとも20年前はオーパーツとしても扱われていた。20世紀初頭にアンティキテラ島沖海底からこれが発見されてから、紆余曲折を経てデレク・デ・ソーラプライスという研究者が最初の体系的な研究を行い、別の研究者マイケル・ライトが批判的に受け継ぐまでの時期。SFやオカルトで面白おかしく取り上げられた時期なのだと思う。90年代から00年代に、現代のコンピュータによる技術力でその正体が明らかにされるまで、より厳密にいえば2006年11月発行の「ネイチャー」誌で報告されるまで、この「謎」の機械はオーパーツファンのものだったのかもしれない。 本書のほとんどは、この100年にわたるアンティキテラの解明史に費やされている。ほとんどプロジェクトX的なノリなので、そういうのが楽しめる人は間違いなく楽しめるだろう。あるいは何かが解明されるプロセスが好きな人も楽しめると思う。僕はどちらかというと後者だった。ほとんど古代文字が解読されるときの興奮に近いものがあった(チャドウィック『線文字Bの解読』(→ amazon )とか)。 この機械が何をするものだったのかは、ネタバレになるので書かないが、「当時の科学に対する知識ではこれが作られたはずはない」ということは当時の天文学的な知識の水準に照らし合わせて、明確に否定される。本書では非常に精密な歯車の仕掛けが明らかにされるが、それは確かに約2000年前のギリシャに存在していた。とすると、これがオーパーツではないことの筋道立てとしては、この技術がどこに伝えられ、またどこで失伝したかことの後付けにかかっているだろう。 実は個人的に一番考え

入手したCDメモ

正月のPOLYSICS以来、新しいものは何も入手していない。家が音楽を聴ける環境じゃないこと、通勤時間が短いこと。職場のみんな帰った時間に一人で音量あげるくらいが関の山。新しいものの摂取がよどんでくると、僕の場合はあんまりよくない気がする。 ということで思い立ってツタヤに(購入じゃねえのかよ)。shimizuに薦められたミドリの「清水」(→ amazon )と、「あらためまして、はじめまして、ミドリです」(→ amazon )。私小説全開な歌詞に爆音と、うわさ通り確かにピアノですね。ジャケット、「あらためまして」のほうは山本直樹。「水中、それは苦しい」にも書いてたよね。

入手したマンガメモ

入手したマンガメモ。3か月分くらいかな。 ウィスット・ポンニミット『ブランコ4』、久保保久『読んでますよアザゼルさん3』、すぎむらけんいち『ディアスポリス12』、武富健治『鈴木先生7』、迫稔雄『嘘喰い11』、中村光『聖☆お兄さん3』、山岸涼子『テレプシコーラ2部2』、山岸涼子『ジゼル』、杉本亜未『ファンタジウム1~3』、伊図透『ミツバチのキス1』、青野春秋『俺はまだ本気出してないだけ1~3』、多田乃伸明『70億の針1~2』、久正人『ジャバウォッキー7』、さそうあきら『マエストロ1~3』、沙村広明『無限の住人24』、フェリーペ・スミス『ピポチュー1』、福島聡『機動旅団八福神9』、岩明均『寄生獣8(最終巻)』、よしながふみ『大奥4』、東村アキコ『ひまわり10』…あとなんかあるっけ。 いまさら?みたいなのも含む。連載誌のほうで最近記憶が熱いのは、ネウロの最終回と、先週の喧嘩商売、花沢健吾の変な新作くらいかな…。安定してうすたは同世代な匂いを強烈に発し続けてます。「俺カッコイイ」ものへの徹底したこきおろしと、3回くらい捻ってやっぱり愛してますみたいな。

ホジョー

最近、娘がヤバイ。というかむしろ僕の頭がヤバイ。ヤバイカワイイのである、と無駄に若者に迎合した物言いを試してみつつ話をそらしてみつつなのだが、1歳ちょいの娘を相手にいい加減な言葉(「君を一生大事にする」的なものではなくて、むしろ言語。赤ちゃんとしゃべるために僕が考えた誰にも通じない無意味語)をかましているうちに、定着してしまったものがある。「ホジョー」「ホジョジョホジョ」「ホジョジョイジョジョ」などがそれ。調子に乗って娘のことを「ホジョ山ホジョ彦」「ホジョぴょん」などと呼ぶうちに、最初から対応する意味内容を持たないホジョの使用場面がかなり拡散し始めた。 そして自分で始めたホジョなのに由来が全然分からないのである。時折、新しいへんてこな言葉を作り出してみたり、素っ頓狂な歌を鼻歌レベルで作曲する自分すげーと思っていたら、気づいたら元ネタが「ほのぼのレイク」だったことに気づいて愕然とする。あるでしょうみんなそういうこと。しかるにホジョが全然わからない。分からないが、喃語から人語へと進化中の娘がわりあいはっきりとした滑舌で「ホジョ」と言い出した。これといった意味内容と結び付けているわけではないので、ほとんどオールマイティーに使えるホジョを、娘ことホジョ山さんはとりあえず父親とコミュニケーションをとるための何らかの手段と認識してか、僕の顔を見て時折「ホジョー!」と挨拶をする。そして時にはネイティブスピーカーが相手の発音をゆっくり諭してやるときのように「ホウ、ジョーウ」と丁寧に発音して見せる。ヤバイ。ヤバイカワイイ。あ、そらした話が元に戻った。 いやー、言葉って本当にすごいと思いませんかみなさん。

標準語成立をめぐる読書メモ

何をいまさらという感じですが。講義で標準語成立のトピックスを扱うことに決めて、ダラダラ読んだ本。手に入れやすく、読みやすく、比較的最近のものということで以下。村田雄二郎・C・ラマール編『漢字圏の近代』東京大学出版会,2005(→ amazon )、安田敏朗『「国語」の近代史』中公新書,2006(→ amazon )、イ・ヨンスク『「ことば」という幻影 近代日本の言語イデオロギー』(→ amazon )。僕っていわゆる「国語学」として日本語学を学んだクチですが、「国語学」側からの文献紹介がないってどういうことかと。いちおう、真田信治『標準語はいかに成立したか―近代日本語の発展の歴史』創拓社,1991(→ amazon )もあるにはあるけれど。ちょっと古いので制度としての「国語批判」の文脈はない。井上ひさし?『国語元年』?ご当地として?あるけどパス。あと「国語を作った偉い人列伝」みたいな本もオールスルー。 で、いろいろ散読してきたものを改めて集中して読んだことで、少し頭の中で整理ができた。前島密から国字問題、言文一致から小学校読本、植民地獲得から周縁で先鋭化される国語教育という流れ。安田氏の本は、一連の著作の集大成なので入門書としてもいいかも。例によってカルスタを縦横無尽に利用しての近代国語批判だが、旧国語学からのベストアンサーはまだない気がする(あったら僕の勉強不足)。イ・ヨンスクは古典『「国語」という思想―近代日本の言語認識』の続編という位置付け、でいいのかな。村田雄二郎編のは、漢字文化圏の近代化についての概説だけど、ちょっとゆるすぎる感じ。中国白話文のところが面白かった。 のだけど、個人的には、江戸末期はまったく共通語がなかったのかというと、そうでもなくて、江戸の武家の言葉がなんとなーくゆるーく全国に通じていたのではないか、といった指摘が改めて興味深かった。やっぱり「国語学」の人なのかな、とやや自嘲的に「国語学」の文献をいくつか紐解いてみると、ヘボン『和英語林集成』第2版(1872,明治5年)の方言に関する記述に「江戸語を語る者は、教育のある階級の間では、日本国中どこにおいても少しの困難もなく理解されるであろう」(松村明『増補 江戸語東京語の研究』東京堂出版,1998,p.20の訳による)という記述のほか、そもそも幕末から明治にかけて編まれた、外国人のための日本語

「こばとの じゅばんん ともて だじい」では意外に読めず

ねとらぼ:確かに“読めてしまう”コピペに2ch住人が「人間すげー」と驚く - ITmedia News 。あはは、これすごいな。語頭情報が重要であるということは言語学的にはすでに良く知られている。けれど、こうやって文章を読めてしまう現実はやっぱり「人間すげー」です。 こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ? ちんゃと よためら はのんう よしろく 「こばとの じゅばんん ともて だじい」が読みにくいのは、4文字語もしくは助詞込み4文字以上なら音転倒があってもイケルけど、3文字語以下だと厳しいということでしょうね。語の長さが語の識別性を保証している、ということも言語学的によく知られたこと。すなわち、 語の長さによる識別性>音転倒による非識別性 となったときに、「読めちゃう」現象がおこるだのとおわもれる。 (追記) つまり「文字の順番が入れ替わっている」「最初と最後があっている」条件を満たすのは、最低4文字必要ということ。元記事では最後の文字も固定でしたが、見落としていました。 * * * * * たとえばこの話は、小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(→ amazon )での主張、すなわち土佐日記の「をとこもすなる日記」に「をとこもじ(男文字)」が隠れていることの蓋然性を高める根拠ともなるだろう( niji wo mita: 古典再入門―『土佐日記』を入りぐちにして )。