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センス・オブ・ナンダー?

よしながふみ「大奥」(→ amazon )を1から3まで一気読み。ユーゾッタさんをはじめ、最新巻が面白いというので、ここのところよしながふみ旋風が脳内で巻き起こっている身としては速攻で飛びついてしまった。いやー、超面白かったー。いろいろ面白いんだけど、まずは、若い男子にだけ伝染する疫病のために男女比がアンバランスになってしまった江戸時代、女性中心の社会が出来上がってしまったという実験的な設定に眼目があるんでしょうね。センス・オブ・ジェンダー賞(→ wikipedia )とかいう初めて耳にする賞を受賞しているようだし(センス・オブ・ワンダーのもじりか)。寺沢武一がセンス・オブ・ワンダーは古典に見出せとしたように、よしながふみは幕藩体制に見出せと。いや違うか。姫である三代将軍家光と還俗坊主の恋物語も萌えるものが(初めて使ったこの単語!)あるが、やっぱり至るところに仕込まれているジェンダーバイアスへのチクリとした一刺しからして、ジェンダーものとして明確に意図されて描かれてるよ、近代文学の人~!よくできてるからこれ。つかこの人慶応の大学院にも進んだ人だったんだ(→ wikipedia )。慶応萌え~。←全然使い方を間違えている。

12/24 バリ(最終)

日本に戻る道すがらバリのデンパサールに1泊させてもらうことに。バリの観光コースをフルコースで案内してくれるという!パプアのセンタニ空港から来たのと同じようにティミカ経由でデンパサールへ。疲労困憊の中、意識とびとびで観光地を回ったんだけど、マッサージくらいしか記憶に残っていない…。あと道端で食べまくった果物、マンゴー、バナナ、マンゴスチン、ランブータン…。 ああ、そうだバリ文字の看板。バリ語って存在そのものを知らなかったんだけど、オーストロネシア語の一種らしい( wikipedia:ja , wikipedia:en )。すでに実家に帰ってきているのでレファレンスがない。外語大のAA研に教則ホームページが開設されている( バリ語教室 )。同じ著者によるバリ文字についての概説( バリ文字 , PDF)によれば、インド系文字の流れを汲むようだ(詳細は インド系文字系図 )。wikipedia:enの Balinese Script では、アラビア文字のようなアブギダ(子音主体の文字で母音は記号によって補助的に示す, wikipedia )であることが示されている。インド系の文字を使用しているというのは、16世紀ごろにもたらされたというヒンズー教の影響と考えてよいだろうか。というわけで、 babad bali や balinese alphabet, language and pronunciation というサイトを手がかりにこの看板を読むと、「オーム、sua…」やっぱ読めない。やめやめ。 パプアでの日記をつけていたのは、PCではなくwillcomの w-zero3 。締め切り間近の原稿もこれに突っ込んで、旅路に少しでも進めようと思いきや、無理無理無理。日記が関の山だった。ダラダラメモ書きしてきたパプアについての日記はこれにて終了!

病院行脚、新宿ラーメンカフェ清水山下

病院行脚。12/10、12/22、12/28と今月は順調に3回の偏頭痛を迎え、さすがにおかしいだろうこれはということで池袋日大病院で診てもらう。結果、まあMRI撮るけども典型的な偏頭痛、以上、とのこと。連続で起こったことは、まあ疲れてるんじゃないですかって、何か心当たりありますかって、どっちも覚えがありまくりだったので事なきを得た(のか?)。薬は?と尋ねられたので、この10年間医師に言われて金科玉条のように守っている「偏頭痛の発作は始まったら止めようがない、薬を飲んでもムダ、ただ耐え抜くのみ」を話した。医師は驚いて「それはものすごく驚きますね」と。10年前から偏頭痛に効く薬はあるし、痛みが始まったら痛みを抑える薬を飲むものですよ、あなた痛みを我慢してきたんですかと。それはこちらの方が驚きますよ。そんなものがあるなら毎度使ってましたよ、痛みに耐えて授業を敢行する(補講がいやだから)ということもありませんでしたよと。ええー。誰がそんなことを言ったんですか?と尋ねられたので「お医者さんです」と即答したら苦笑い。 僕はどっちかというと痛みとか辛さには敏感でとても嫌なのだが、我慢する能力には長けている、と思っている。小さい頃から保健室の病室を見上げたことが何度もある。あれとかこれとか変な病気がちょくちょくあって、そのたびに早く通り過ぎろーって思って育った結果、耐性が高くなった。それが良かったかどうかは分からないが、偏頭痛に為すすべなく10年を耐えることができたのは、そのおかげなのだろう。自慢にならない話だが。 というわけで救いの薬を処方されることになった。あとは個人の血管の太さに見合った薬があるとのことで、あなたの血管を調べるためにMRI撮りましょうというわけ。MRIは池袋のメディカルスキャニングセンターで。それにしても、病院もMRIんとこもどっちも意を尽くしたかつ要点を押さえたかつ相手に伝えようとする気持ちのある説明で、納得して得心して安心できた。 常日頃思っていることだけど、山形の病院や役所や警察の犬とかはいっつも説明が下手、というかきちんと説明する気ねえだろ君らと。満足したのは現在通いつめている鍼灸医くらいだ。関東だから説明力高いとか言うつもりもないけど、説明力の高い人にちょくちょく会える体験はいまのところ関東だけだ。山形での、結果だけ通達しようとする態度は、本当にどう

12/22 papua最終日

早くも授業最終日となった。片言でしかやりとりしていない生徒との別れも、名残惜しい。できるだけ生徒の名前をたくさん覚えるよう努力した3日間だが、実際半分くらいか(25名程度が3クラス)な。彼らのオリジナルの名前は綴り字規則を完全に覚えていない僕にとってはやや難しい。何遍覚えようとしてもどうしても覚えられなかった名前、ヤミネラとアンセリナ。 授業終了後、お決まりの写真ラッシュとなった。ここでフラッシュを浴びすぎてまさかの偏頭痛勃発(というか正確には発作直後のめまいと吐き気)。前兆の暗点に似た状況を作り出すことで偏頭痛が起こるとは意外。このところやっぱり頻度が高い。まあ疲れてるしな。 午後は某大学日本語センターの歓迎を受ける。定期的に開かれているオープンのコースらしく、別れたばかりの生徒たちの顔もちらほら見える。上達している子とそうでない子との違いが、一つにはこういうところに通えるかどうかの経済力にあるよなあと思う。 ホテルで少し休息してから、夕食までの時間、本屋と野菜果物市場へ。本屋では地図とインドネシア語の地図、おみやげのインドネシア語版コミックを買う。ジャンプコミックもモーニングのコミックもサイズがやや大きくて薄い。市場ではまたもバナナ、それとアボガドを買う。買い食いしながら、残った分は夕食のお別れパーティー会場で食べてしまうつもり。 フェアウェルパーティーが7時スタートだったのに、我々が本屋を出たのは7時半で、さすがに感覚がパプア化しつつあった。まあ30分遅刻でちょうど良いくらいでしょとか何とかいいながら到着するとまだ1人しか来ていない。結局開始は8時半近く。人間の大きさでパプアに負けた…。

12/21 papua, 観光の一日

仙台出張からこのかた休む暇が全くないまま5日目、ようやく休日が取れた。パプアは人口の8割がカトリックなのに、少ないムスリムの休日のために、公的機関はすべて休みとなるようだ( wikipedia-インドネシア-祭日 の項目によれば、中華系・ヒンズー教徒・ムスリム・仏教・キリスト教の祭日がそれぞれ定められていて、多宗教への権利保護?みたいなことになっているのが面白い)。街は中東の音楽に乗せてコーランらしき読経がひびき、また近づく真夏の聖誕祭の聞き慣れたメロディー、でもリズムは南国らしいどこかゆったりとしたアレンジで、多宗教多音楽が綾をなしている。 落書き3種。ピューと吹くジャガーみたいのと、インドネシア語?によるものと、すきっ歯の人間。 午前中は空港近くのセンタニ湖へ。2台の車に分乗したのだが、僕の乗った車はどういう配慮かパプア人ばかりでなんかもうすごく楽しい。日本語とインドネシア語を混ぜ混ぜで会話。言語圧が低いのが気持ちいい。センタニ湖にはいくつも島があり、周辺も含めていろいろな部族と言葉があるようだ。湖に到着後、モーターボートで島の一つに向かう。モーターボートでは日本で教えたことのあるバニアイ族の男性からエカリ語を教わる。パプア諸語のなかでは決してマイノリティではないのだが、日本からきた僕が一言二言エカリ語を話すのを聞いて大喜びしていたのは、身体化した母語が他者に模倣され反復される喜びか。数詞も録音する。wikipediaの パプア諸語 の項目が増えてる!昨年見たときは全然だったのに。英語版のほうが若干詳しいか( Ekari language とかね)。米国アマゾンで購入したことないのであれですけど、"Papuan Pasts: Cultural, Linguistic and Biological Histories of Papuan-speaking Peoples."(→ amazon )なんての出てますね。 湖面にせり出した水上家屋。生活廃水をバケツにためて湖面にえいやっと。洗濯は湖に腰まで使ってゴシゴシやってた。体を洗う人も…。生活のための湖ですね。 湖の奥まったところにある島では、パプアの伝統的な主食 サゴヤシ の精製?を行っていた。葛湯をもう少しもったりさせた感じにして食べる。 到着した島では地元のおじいさんに昔話を聞く。国生み伝

ぐるぐる

帰国後すぐセンター試験の説明会、雑務を中途半端にこなして研究室の忘年会のため高田馬場に。あれとかこれとか全然終わってない。荷物をかばんに手当たりしだい突っ込んで、沙村広明「無限の住人(22)」(→ amazon )、迫稔雄「嘘喰い(6)」(→ amazon )を購入して新幹線に。と思ったら、狙っていた時間に乗れず、忘年会にちょっと遅刻した。欠席した会議の資料と宿題を渡される。原稿のほんとうのデッドラインが近づいている。2週間後生まれる子どもの検診で超音波測定による赤ちゃんの画像を見る。超似てる、僕に、女の子。妹のガン手術がひとまず終わる。転移部分の切除完了とのこと。お見舞いまだ。実家に届くように注文していたBOSEのヘッドホン(→ amazon )が届いている。音がすごくいい。あらゆることに、感傷的にならずに粛々と、という決意。

12/20 市場ぶらり旅

仕事を終えてから港の鮮魚や野菜を取り扱う市場を訪れる。おみやげにウルルン滞在記で知られるワメナのペニスケースを大小取り混ぜて買いまくり(あとで好きなサイズを選んでもらう趣向)、自分のおみやげにはピンと来ないくせに香辛料の山を見てつい財布の紐を緩めてしまう。一通り買いそろえると店の男性が困った顔で隣の店を指さしている。薄幸そうな女性が不機嫌な顔をしていた。彼女は自分の子供まで連れ出してフォトジェニックな状況を演出したのに、自分の店で買い物をしてくれないことに拗ねているようだった。気づけば周りの店の人たちが彼女にものすごく気を使ってこちらを見ている。こういう空気の読み方は、これが商売のテクニックだと仮にしても、つい乗りたくなるものがある。大きな額の紙幣しか残っていないのでそれを伝えると女性は困惑した表情で、お釣りがないことを伝えてきた。すると周りのお店の人たちがいっせいに手をさしのべて両替役を買って出た。 魚市場。カツオに似た魚がたくさん揚がっていた。カメラを向けて「フォト、OK?」と尋ねると、かっこいいポーズを取るからそこを撮れというが、あんましあれだったな~。なのでふつうに魚の写真。 スパイス天国。胡椒をたくさん買う。 フォトジェニックな状況を演出しようとして子供にいやがられるお母さん。買いますからー。 パプアと聞くと、諸星大二郎『オンゴロの仮面』でしょ絶対。コドワみたいなのがいっぱいいるパプア。仮面もこんな感じ。パプアニューギニアの原住民が日本で有名になったのって、やっぱり本田勝一以降ですかね。 夜は屋台料理。これが結構高かったようだ。屋台だから安いというものでもないらしい。とはいえ今回は経費はすべて予算で下りているので、その辺の庶民感覚を実感する機会はほとんどない。

12/19 ポスト植民地

パプア州は金属資源の利権をめぐってというか、インドネシアやアメリカの視線が交差したところにバランスを取っているため、政治的にも経済的にも不安定であるようだ。ポスト植民地で、かつ日本への心情は悪くない人間が一定数いる一方で、新しい支配層との関係は良好ではないという点で台湾と似ている。市場を歩くと親しげに日本語で話しかけてくる人たちもいる。

12/18 得意・不得意

初めての授業が終わって、パプアの教員向け研修。パプアの多くの日本語教員が日本語教育を専門的に学んだわけではないので(日本の外国語教員の多くがそうであるように)、我々の教え方を通じて彼ら彼女らのスキルを向上させることが目的だった。もっとも我々の中では本当に日本語教育を専門にしているのは一人だけ。僕もそっち方面は見よう見まねレベルに日本語学の知見を独自に組み合わせた、はなはだ心許ないものではある。おまけに日本語教育で語られる日本語に未だなじめないということもあるが、良い言語研究者は良い言語教育者を兼ねることができるという言葉に自分の怠惰さごまかしてもらえるような気もして、片足を突っ込んでいる次第。 僕がパプアでの仕事に参加して今のところ感銘を受けているのは、草の根レベルの交流に尽力してきた先達のハートと仕事の仕方である。草の根レベルとなると世界各地のボランティアの人たちなわけだが、ともかく学校教育の枠内とは異なる次元で日本語の習得と上達を図っていて、それが実質的(に少なくとも感じられる)な人的交流を生み出していることに、ねじ伏せられてしまった。彼ら彼女らのノウハウと専門的に習得された日本語教育、やや専門がずれたところにある日本語の知識、それぞれ得意・不得意な領域がある。 ジャヤプラの中心街。地元のパプア系、ジャワ系、中華系がいる。 マンゴー。 お昼に食べたパダン料理。辛い。パダンに限らず、パプアでは鶏肉の料理がほとんど。宗教は、カトリック、イスラムが多い。 豚肉を揚げて、唐辛子を乗せたもの。 サンバルと呼ばれる薬味みたいなもの。唐辛子とライムのようなもの、あとはトマトなどと和えてある。パプアではどこに行ってもこのサンバルがついて回る。さわやかな辛みで、癖になってしまう。

1216-17 仙台からジャヤプラまで

仙台空港からグアムまで5時間、グアムからバリのデンパサールまで3時間半、デンパサールからティミカ経由センタニまで6時間、そこからバスで2時間でインドネシアパプア州都ジャヤプラ到着。 拡大地図を表示 山形から仙台空港までを入れれば片道24時間以上の強行軍でへとへとになるも、自分にとっての新世界のインパクトでにわか元気に。地平線の限り広がるニューギニア島の原生林や、頂上に氷河を冠するジャヤ山など地球丸だしな感じで、あからさまな非日常空間にテンションが急上昇。 ジャヤプラではそのまま各所を表敬訪問する。国際交流協会と短大のコラボ企画であるが、パプアのことなんかほとんど知らない我々はただ連れてゆかれるのみ。パプアと山形の交流が戦後の遺骨探しに端を発しているとか、戦中は激戦区であったとかにわか知識は詰め込んだ。もちろん国語としての日本語教育が他と同様行われたらしいということも聞いている。ただ過去の歴史をきっかけにしながらも、パプアにも山形にも全力のコミュニケーションをしようとしている人たちがいて、経済的な交流も視野に入れながら、等身大目線を忘れない「異文化」交流を進めているということは、それはそれとして不可侵の価値のあることだと思った。結局は、当たり前のことだが、日本語が何のためにどうやって話されるのかということなのかもしれない。

出発前にメモ

■24日まで戻りません。パプア州(→ wikipedia )に日本語を教えに行ってきます。関係の方どうぞよろしくお願いします。 ■本康彦「ワイルドマウンテン(5)」(→ amazon )が、ますますくだらない展開になっていて笑った。このマンガ、あいかわらず最高だと思うんだけど、その最高さを伝えるのは難しい。子供向け楽屋落ちメタフィクションを装いつつシニカル、ときおりベタに熱い展開となる、その落差かなー。主人公のいい加減さとかかなり共感できるし。これ読んだのでしばらくはマンガ欲を我慢できるかも。ハンターハンターも10週で再び休載状態になったので、心おきなくジャンプも休める。 ■先日触れた(→ 2007/12/09民謡チップチューン超イカス )kokiriko bushiが収録されているCANTATA No.147(→ Far East Recording )には花笠音頭のアレンジも入っていて、面白い。ただ残念なのは付属DVDが中途半端なところ。一番楽しみにしていたkokiriko bushi(→ youtube )がオープニングのところしか収録されていない。だったらyoutubeみたほうがいいよ…。 ■今回は諸事情あってパソコンを携帯して行きません。向こうにパソコンがあれば、ちょくちょくレポートできるかもだけど、そんな暇があるかどうか。ではひとまず。

昼ビール・ヤッチマイナー

明日からのインドネシア行きのために仕事を猛然と片づけるはずが、週頭の偏頭痛もあってなかなかはかどらない。出張2本をこなしつつ、書類の消化もどうにか目処が立ってきた。これで何とか…。 仙台出張の帰り、山形では食べられそうにない洋食にビールをつけてえいやっとごちそう気分。疲れを取らないと。山形行きのバス停が見つからないのは、市バスに比べて都市間バスが不当におとしめられているからではないかと愛憎入り交じった不満が噴き出してます。 インドネシア語の語学エッセイ、あとちょっとで読み終わる。そしたら明日だ。

買い物ラッシュ

偏頭痛後の平衡感覚を失った状態では気持ちよく読めるはずもないよしながふみの対談集(→ amazon )、リメディアル教育のツールとして検討すべく購入してみたnintendo DS(→ amazon )、音声研究の現場で使われつつあるDATの後継者Roland 24bit WAVE/MP3 Recorder R-09R(→ amazon )。ひもとく時間がほとんどないないない、恋じゃない。そしてそのまま今週は出張が2件、そいで3件目はいよいよパプアなのだが…。超不安。

来訪頻度高くない?

さわやかな月曜日の朝に、偏頭痛の前兆が来た。もう目の前きらきらしてます。閃輝状態が続いているうちに、仕事を終える!というかそろそろ画面が見えない…。暗転したら頭痛の嵐だー。今日、仕事できっかな。前回からペースはやすぎでちょっと心配だなー。

松本克己・世界言語のなかの日本語

松本克己『世界言語のなかの日本語 日本語系統論の新たな地平』(→ amazon )が猛烈に面白くて、ちょっと仕事を圧迫している。著者はいわずとしれた元日本言語学会会長だった方。雑誌論文ではスルーしていたので、著者の主張は初見だった。この10数年分の論文を本にまとめたもの。忘れないうちに、以下メモ。 本書の主張は、従来不明だった日本語の系統関係による位置づけは、比較言語的手法に基づいていては無理な話で、言語類型論的な手法を用いれば、ユーラシア大陸東沿岸部から南洋諸島をぐるっと回って、北米・南米大陸の西沿岸部あたりまで広がる「環太平洋言語圏」が描けるのだ、という壮大な構想を打ち立てるところにある。そして、この手の話題にほぼ素人であるぼくが言うのもアレだが、それなりの説得力があった。 比較言語学の手法は、AとBの2つの言語について、主に音素の対応から祖語を設定し、時代を遡行して、いわば言語の親縁関係を推定していくものである。「インド・ヨーロッパ語族」などの考え方に用いられた理論として有名。ところがこの手法では、せいぜい5000年から6000年を探るのが最上限で、その先は無理だという。根拠は、スワデシュの言語統計学の成果、すなわち2つの言語が分岐してから約1000年で同源の基礎語彙が20%ほど失われる、という計算を6000年まで推し進めると、93%が失われて残りがわずか7%になってしまう。あらゆる言語には約5%くらいは偶然に一致する言葉が含まれることからすると、2つの言語が同系であるかどうかは言えなくなってしまうということにある(清水義範みたいに英語と日本語が同系であるというギャグも言えてしまう)。 5000年から6000年まで遡れるといっても、近隣に同系の言語があって、だとか、ものすごく古い歴史資料が発掘されていてだとか、いろいろな条件が整った場合の最上限なのだろう。文献資料が1000年前くらいまでしか遡れず、近隣との系統関係が不明な日本語の場合、本書では比較言語学の手法は有効ではないと結論付けている。 一方、言語類型論の手法は、音素のようにわりあい変化しやすいものではなく、語順など変化しにくいものを比較の対象とする。本書で松本氏は1万年前あたりまで言及しようとするので、言語類型論の射程はかなり深いと言えるのだろう。ちなみに人類の言語獲得がおよそ5万年前とも10万年前とも

イチジクと鶏肉

一日中自宅で本読んだり仕事したり原稿書いたりネットしたりして、外出せず。冷蔵庫の中身もそろそろ尽きてきていて、と思ったら冷凍庫にイチジクと鶏肉。昼に作った大根とゴボウの味噌汁と。イチジクと肉類は合うね。胡椒たっぷりもイチジクのややスパイシーな香りと相乗効果。そろそろ買い足さないとだ。

民謡チップチューン超イカス

なにこれ!すっげーかっこいいんだけど。富山民謡のkokiriko bushiがこんなことに。音楽もすごいんだけど、ビデオがもろ好み。「Stevie Wonderの Don't You Worry 'Bout A Thing をカバーした Incognito ヴァージョンをさらにチップチューンでカバーして民謡界の至宝、金沢明子の"こきりこ節"マッシュアップ」( DIGITAL DJ による)だそうで、もはや複雑すぎる上に口の中で渾然一体となっているので、ここは元ネタさぐることなどせず、うまい!もう一杯!と言えばいいんじゃなかろか。ともあれ僕の好みを幾重にも重ね塗りしたひとつのかたちといえよう。 興味しんしんでこのビデオ作ったアーティストのことを調べていたら、寺田創一という方なんだそうで( Far East Recording )、プロフィール見てみたら、あれもこれもかって感じで有名な方だったんですね。ってsumo jungleの人だったんだ!1996年。懐かしいなあ。早速サイトからCD+DVDで注文をかける。バッハのカンタータ147番のマッシュアップ(なんすか)、競艇の歌"fortunate 1 mark"も貼り付けちゃう! やっばい、ホントにイカスわこれ。語彙の貧困さが露呈したね。

正座してください

約2ヶ月ぶりに鍼灸院に行った。もうこのところ体がガチガチで全然動かなくて、横になってもろくろく眠れないし、立ってればきついしで、もともと体の疲れに鈍感な僕にもはっきりと分かるいろんな蓄積を、来週からやってくるハードスケジュールの前に取り除いておかないともうダメと思ったのだった。山形で2件目で出会うことができた(相模大野の導師は4件目で出会えた)腕のいい鍼灸師さんにぐいぐい柔らかくしてもらう。お灸と鍼と指圧のフルコースで3時間。特別サービスだった。カトウさんためすぎ、これは大きな病気になってもおかしくない体だよ、と言われてしまった。実際思えば、肋間神経痛に似た何かが先週は訪れていたな。 相模大野の導師が疑似科学をやまほど使ってくるのに対し(でも効いた気持ちになるし値段は適切だからもう深くは考えない)、こちらの鍼灸師はできるだけ科学的であろうとし、また説明責任を果たそうとする。その徹底した態度に時折「もーうっるせーなーアハハ」と思ったりもするのだけど、結果的に僕はこの人をすごく信頼するようになった。そんな彼に僕は全然非科学的なことを思っていて、鍼灸治療のたぐいは術者とのメンタルな相性が重要で、「あ、なんかいやだな」と思っていると全然気持ちよくならない。この、ある種の合わせみたいのが、ぴたっと合うと、一つ一つの治療が全部気持ちよくなる。術者は男ですよ、いや、つうか性別関係ねえ、エロいこと考えた奴、その場で正座。 いつもいつも思うんだけど、ちょっと疲れがたまったなという段階で、適切に体のシグナルを読み取って休みが取れる人ってすごいと思う。ちうわけで仕事仕事!

窓から蔵王を見れば

研究室の窓からいつも見える蔵王には、ときおり比較的低い位置に雲がかかっていて、これが山を見慣れない関東者としてはとにかく絶景。デジカメで撮影してもこの感じは伝わらないだろうなあと思っていたが、ふと思い立って、3枚の写真をパノラマ合成してみたらこの感じがあの感じで実現した感じだ(→ panorama factory利用法 )。君に伝えたかったこの光景。どうだ。すごいだろう(クリックするとおっきくなるよ!)。

この写真なーんだ?

はいクイズ、これなんの写真でしょう? 答え:山形の空を覆う低い雲。自分で携帯で撮影しておきながら、サムネイルを見るたびに「なんだこの雪景色は?」と思うので、そんな気持ちを皆さんにも共有していただきたく存知候。 留学生が、山形の人は、他の地域の日本人より背が低い!理由はぜったい空が低いからだ!と主張していたのはユーモアとしても、やっぱり空は低い。このものすごい圧迫感は、雪国はみな共通しているものなのだろうか。

よしながふみ「きのう何食べた?」

荒木飛呂彦「スティールボールラン(14)」(→ amazon )、乙一「The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day」(→ amazon )、すぎむらしんいち「ディアスポリス-異邦警察(6)」(→ amazon )、松本克己「世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平」(→ amazon )と「よしながふみ「きのう何食べた?(1)」(→ amazon )を購入。マンガだけざっと読んだ。あと立ち読みでジャンプSQの、荒木飛呂彦の読みきりとフジリューの。 どれも豊作って感じでおなかいっぱいだったなかで、ひときわ面白かったのが、よしながふみ「きのう何食べた?」だった。 モーニング連載中からオクサマとこれ面白いよねって、めずらしく意見が合った作品で、いやーもう何だこれ。ゲイのカップルが送るハートウォーミングホームコメディって装いに、話題としてはマイノリティから見たチクチクとしたあれとかワハハとかを交えつつ、おうちで作るごはんでしめる奇跡的な作品です。おうちで作るごはんの最高峰は五十嵐大介「リトルフォレスト」(→ amazon )だと今でも思ってるけど、というかリトルフォレストは日常という感じでもないんで立ち位置は特殊だとすれば、こっちが現時点での暫定チャンピオンということにする。 こんなふうにおうちごはんマンガに惹かれるものがあるのは、僕もおうちごはん(とかそれっぽいものが)この9年くらい好きだからだ。山形に越してきてから、土地の雰囲気もあってか和食を作ることが増えてきて、ますますおうちごはんぽい感じになってきた。 ところで9年前つったらあれだ、シミズがうちにふらっと来てメシ食わせろ~なんて言うんで、じゃあなんか作る、みたいなそういうシチュエーション(僕がごはん作るからうち来い、みたいなのも半々くらいあったな)を覚えたころだ。以来、ややそれは定式化している。なわけで、「きのう何食べた」的な心性にはわずかの既視感もおぼえつつ、いちばんヒットしたシーンは主人公がパートナーの帰宅を待ちつつ夕食の準備を進め、こう思い悩むところだった。 あーコレ盛り付け雑だけど この方が男っぽいのか? それともオバサンぽくて男らしくないのか?(p.112) 思わず声に出して笑った日本語だった。僕も全く同じ事で時々立ち止まります。こういう選択

酒田の雪は横に降る

話には聞いていた横に降る雪というのを、突発的な出張で初体験。内陸から月山を越えて庄内に出るとものすごい横風で車体が揺らぐ。夜の雪山越えもちょっとした新鮮体験だったけど、横雪はすごい。日本は広いなあ。雪は上から下に降るものとは限らない。 今朝になってホテルから窓の外を見ると雨が横向きに降っている。東京式アクセントでは「雨」の発音をするときに、「ア」が高く「メ」が低い、なぜなら雨は高いところから低いところに降るからなのだ、というある種の言霊的な言語実体論が俗解として存在すると聞いたことがあるけれども、ここではそれが通用しない。もっとも、これの反証は、東京式アクセントの地域では、「雪」も上から降るのに?ですむのだが。

5歳の誕生日

子どもの5歳の誕生日ということで実家に帰る。大きくなるのは早いなあ。来月にはもう一人生まれる。またこうやって成長の早さに驚くのだろう。昨晩仕事も途中に新幹線に飛び乗った。晩御飯を家族と食べるつもりだったが仕事に見切りをつけたのが夕方だったので、結局新幹線のなかでまっずいコンビニ弁当を食べながら慣れないビールで仕事を続行。当然満足にできるはずもなく、実家に戻ってからも仕事。 今日は誕生日プレゼントに購入したウルトラマンかるたと、妻が購入した子供用腕時計でまずまず子どもはゴキゲンだった。ウルトラマンかるたでは子ども相手に一切手加減しない妻の猛攻に父子やや引き気味となるも、果敢に戦う子ども。最後は悔し泣き。まだ文字は読めないくせに、怪獣やウルトラマンのイラストをたよりに戦う。5回くらいやると文句を覚えて、取るまでの速度が上がる。もちろん腕時計もちょっと大人気分で得意げ。 予約していた誕生ケーキを取りに行きがてら散歩。太平洋側の空はとにかく高い。公園で紙飛行機をとばしまくるおじいさんと出会う。研究を重ねているらしく、とにかく飛ぶ。所沢は航空発祥ということで、大きな公園に行くと簡単な模型飛行機を飛ばす人たちがたくさんいたりして、飛行機人口の高さが特徴であると密かに思っているのだが、裾野が広い分無駄にレベルが高い。 首の下部分にある切りかけに輪ゴムを引っ掛けて飛ばす。広告紙で作られているにもかかわらず、よく飛ぶ。初速が大きいため手を離すといったん視界から消え、空高くに一点を補足すると大きく弧を描いてゆっくりと滑空しながら降りてくる。飛行機おじさんはレクチャーも上手で、羽のちょっとした折り目や角度で飛び方が変わることを教えてくれるので、5歳と34歳はケーキを忘れて飛行機飛ばしまくり。 山形は積雪もあったのに、所沢はもみじの盛りを迎えている。外気の冷たさも山形に比べればとてもやわらかい。 明朝からの仕事を控えて、夕方に山形に向かう。以前はどうということもなかったのに、物心もついてきて別れ際によく泣く。5歳の記念に泣き顔を激写。自分もおばあちゃんと別れるたびに大泣きしてみなを困らせていたことを思い出した。来年からはいよいよ一緒の暮らしが始まるからね、と説明したら黙ってうなづいていた。 次はクリスマスね!

おかゆ超うまい

一週間前にスーパーで生秋ジャケを購入して、冷蔵庫に保存しておいたものを、一昨日ソテーにして食べた。パック内でにゅるっとしておる状態だったが、食えるでしょ、賞味期限は偽装するから悪いのであって、1週間先まで大丈夫って表示すれば余裕でしょ~という緊急時の普遍的な常識で(このところずっと緊急時です)食ったところ、予想に反して超当たった。軽い脱水症状が2日続いています。今朝はおかゆ。

秀丸+祝鳥

先々週あたりから、原稿を書くエディタを サクラエディタ から 秀丸 に変更した。秀丸はフリーソフトじゃないところがイヤだったのだが、TeX用マクロの 祝鳥 (のりてふ)がものすごく優秀なので、導入を決意。これがものすごく便利。 これまでのエディタ遍歴は、 TeraPad →TexEditor→サクラエディタ。それぞれに長所や短所があるが、基本的にウインドウの大きさを変えたときに改行を合わせてくれるかということと、TeXを使い始めてからはTeXが乗りやすいか(というかTeXのためにカスタマイズをできるだけしなくて済むかどうか)、文書の構造をツリー表示してくれるかといったことを選択のポイントに置いている。 で、これまでniji wo mitaもHTMLタグをずっと書いていたところにブログに乗っかったら、タグを挿入するのが超面倒になって、合わせてTeXのタグもできればタグ辞典とか見ないで済ませたいなーとは思っていた。そこでちょくちょく調べていたら、条件にぴったり合うエディタ+マクロに出会ってしまったという話。 それにしてもemacsで動く「野鳥(やてふ)」のwin移植版「祝鳥(のりてふ)」は、名前も継承していて形態素「鳥(てふ)」を持っている。鳥の歴史的仮名遣いは「てう」なのであって、TeX(テフ)の発音を擬似表記するなら「蝶(てふ)」のほうがふさわしいと思うんだけどどうだろう。

ざわざわ

週末は土曜も仕事で、日曜だけ休み。予定表を見てみたら、約1ヶ月前から週末に家で休めていた痕跡がない。ものすごく久しぶりの休みだったかもしれないと思った。そりゃあ原稿も進まないと言い訳の一つもしたくなるわけです。言い訳になんないな。 昨日は部屋にあふれた洗濯物をひたすら片付けまくった。もう山形では外に洗濯物を干すことができにくい気候であるうえに、一日のうちの何度も天候が変わるので、一人暮らしの身では外に干して外出することはまず無理。部屋干しがうまく行かないために、最近は軽く乾かした洗濯物を暖房機の前に散らして、乾かすというものすごい技を導入(燃焼は室外で行うタイプなので温風だけが室内に運ばれる)。このところ寒いからユニクロで温か素材の服をガバッと買って、これまた暖めるために暖房機周辺に置くものだから相乗効果で2週間で10キロ痩せる!ごときみるみる状況が進行したわけです。結果、部屋中に衣類が散らばって、まるで台風後の林みたいなひどい状況に。 このほか、モスバーガーで原稿をグワッと進ませて、本屋でボーっと立ち読みして同僚とメシ食いに行って、家で原稿を進めるぞーと思ったら実家のトラブル処理が舞い込んで気を取り直す間もなく突然の眠気で倒れるように就寝。 今朝研究室のドアあけたらデスクトップPCのiTunesがかかりまくりでガンズのParadise Cityに迎えられる。一昨日部屋を出たときに記憶が一切ない。スイッチつけっぱなしまくりの廊下まで音がもれまくりの状況。受講生の2人からメールにて、親御さんが倒れたので休ませてほしいと。週の頭からざわざわしている。

ユリイカ総特集・荒木飛呂彦

まずは小学校のころから読み続けている荒木飛呂彦が批評誌で取り上げられるようになった時間の流れにツーンとした思いを抱く…わけでもないが、ユリイカに取り上げられたのは感慨深いものがある。こないだは青学の学園祭のトークライブに出演されたそうで、語られるだけのマンガの歴史となったということなのだろう。 「ユリイカ 2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦~鋼鉄の魂は走りつづける」(→ amazon )、喜び勇んで画像も出しちゃうぞっ。 ジョジョといえば、というか荒木飛呂彦といえば、マンガ史ではその構図やコマ割りの独特さ(といい意味での気持ち悪さ)が特徴的で、今回の特集ではやっぱりその点を取り上げる論考がいくつかある。読み応えありそうで、これは楽しみ。 まー、これを自分で気づけずに、同僚にプレゼントされたのがうれしい反面、悔しくもあるわけで…。沖縄に現を抜かしている場合ではなかった(ちがうか)。

雪到来

沖縄から帰ってみれば、山形は雪が降りしきる。一晩立って家並みはすっかり雪化粧。25度から2度への転落、沖縄も東北も同じアイヌ・エミシ系という講演があったばかりなのに、この気温差は如何に。冬用タイヤに替えていないのは、11月に雪が降ることを想定していなかったよそ者の悲しい悲しいお話です。

オカルトついでに東北発

ごめん、ここはネタブログでは決してないのですが、これはクリップしておきたい。東北発のカルト集団…。秋田県湯沢市の新しい話題がこれか…。せつねえ。謎のセックス教団における、オカルトと右翼の親和性というのもありげな感じだが、それにしてもなぜ湯沢? 日本における「リトル・ペブルの共同体」 「神が望むなら…やるんです」 ( zakzak ) 日本の右翼と神主の若者たちへ もともと上品とはいえないこのサイトがさらに下品なものに…。許してたもれ。

オカルトの帝国

ひめゆりの塔というと、かつて上石神井で通い詰めていた(というほどでもないか)沖縄料理のお店でおばちゃんから「ひめゆりの塔に行くと霊障で具合が悪くなるからやめたほうがいい」と言われたことを思い出す。曰く、首が痛くなるだの、めまいがするだの、わけもなく涙がぽろぽろ出てくるだの。ところが僕は事故後1年経つのにそもそも鞭打ちの後遺症があるし、飛行機の恐怖でいまだゆらゆらしていたし、悲惨極まる歴史の爪あとを目のあたりにして涙を流すし、期せずしておばちゃんの言ったとおりになったのだった。ともあれ、田口ランディの言う「悲しみのための装置」ではないけれど、あの場所で起こったことを受け止める装置としてオカルト的言説が用いられることはあるだろう。  さてそこで、というのはあまりに不謹慎極まりないかも知れないが、同僚から借りた『オカルトの帝国 1970年代の日本を読む』(→ amazon )は高度成長期の終末とともに日本に立ち現れた心霊ブーム、妖怪ブーム、UFO、超能力ブームを丹念に読み解いたもの。読んでないけど expop で紹介されていた『UFOとポストモダン』(→ amazon )なんかと同じ枠組みに基づいて書かれているように思った。  余談だが阪神大震災で幸いにも無事だった友人から、「なぜ自分が生き残ったのかというと、それは運命からの生きろというメッセージなんだ」とか「選ばれたんだ」とか言う話を聞いたことがある。また僕が昨年追突事故に巻き込まれて首を痛めたときも、その半年前に偶然訪れた山形の心霊スポットの影響であることをわざわざ伝えに来る学生がいた。インパクトのあるできごとにさらされると、非合理的な世界を持ち出し、秩序の回復を図ろうとするのは普遍的なことなのだろうと思う。

戦跡めぐりとか

学会中日のお楽しみ観光は、せっかく初めての沖縄なので首里城とか!と思ったら80歳になる師匠の企画コースで南部戦跡めぐり。戦争体験者の教育的配慮というか、広島で学会のときに原爆ドーム行かずに厳島神社で鹿と戯れていた僕を牽制すべく、ひめゆりの塔とか見て来いよと。 ひめゆり平和祈念資料館 。書籍などでちょっとは知ってはいたけど、とにかくこの資料館はよくできている。太平洋戦争の最終防衛ラインに立たされて日本の「周縁」として切り捨てられた残酷さは、左翼的に語られる反戦メッセージとは別に、決して忘れてはいけない歴史的事実だということを改めて思い知らされた。 沖縄県平和祈念資料館 は、平和を訴えるべく沖縄受難の歴史的事実のレイヤーを何枚も重ねて、琉球王国から戦後沖縄までの歴史が俯瞰できるようなつくりになっていた。主レイヤーはやはり近代以降の同化政策と太平洋戦争、米軍基地であるが、特に同化政策に用いられた「国語」と「方言撲滅運動」についての資料が見られたのは良かった。本物の「方言札」も初めて目にすることができた。  というような歴史の暗がりを体験することで消耗した体力を取り戻すべく、連夜店みせで泡盛。地元のじいさんやおかみさんと意気投合して飲んで語る。行く先々で「お兄さん地元の人?」とか言われるのは、空港に降り立ったときから、白い土や植生、彫りが深く浅黒い人々の顔を見るにつけ親近感を抱いていたよ。何しろ「本土」より台湾のほうがずっと近いからね。気温25度前後、半そでですごしていたのが、山形に戻ってみれば初雪。このギャップのダイナミックさがー、とか語りたくなるのは、学会講演会も含め、アイヌ・エミシなどからプロトジャパニーズを語ろうとする言説を浴びてきたからでしょうか。

飛行機の恐怖を乗り越える橋頭堡

日本語学会で沖縄。例によって、最大の関門は飛行機であるが、今回は意外なほどに怖くなかった。前回山形空港から大阪に向かったときは、盆地ゆえであろう上空の気流の乱れと機体の小ささがあいまって、途中下車を真剣にお願いしたいほどの恐怖だった。今回は仙台発だったので、太平洋側の穏やかな気流と何より大きな機体による安定が幸いしたのだろう。畏友soraが「軽自動車とクラウンほどの違い」と言った事は本当だった。  とは言うものの、やっぱり全く怖くないわけではなくて、離陸時や着陸時のゆれは、それこそ安定して怖い。今回も恐怖から逃れるために、なぜ怖いと思うのだろう、怖いと思う意識のありかはどこかなどと真剣に考えていた。  僕はとにかく機体の上下左右への揺れがもたらす、生理的な浮遊感や何かに乗り上げる感じが嫌いだ。生理的な、と書きつつも、この恐怖は普遍的なものではなくて何だか分からないけど僕の中で構築されてしまった恐怖であって、ゆえにその構築物をぶち壊すことも可能である、と思おうとしている。事実、飛行機の中ではそんなことばかり考えている。だから気をそらすために激しい音楽を聴いてみたり、わざと違うことを考えてみたり、いろいろ試すわけだが、いざ離陸着陸となるとその恐怖が意識に立ち上ってきて、すべてを覆ってしまう。  というわけで、今回もギリギリガールズな感じではあったが、発見もあった。それは、着陸時の揺れが、高度が高いときと低いときとで恐怖の大小の違いとなって現れるということだった。構築物と思いたい、しかし生理的な恐怖かもしれないという思いから逃れることができない状態から一歩進めたことは、心の近代化(笑)としては大きな一歩である。実は、今回仙台空港に着陸する直前、風の影響だと思うが、激しく揺れた。エンジン音も大きくなったり小さくなったりを繰り返していたし、左右に何度も傾いていた。操縦士も大変だったと思う。本来ならば、それ級の揺れに直面すると僕は全身の筋肉がこわばって、内臓がギュッとなって、手足の平から汗がじとーっと出てくるのに、わりあい平穏な心で着陸を受けとめることができた。同じ揺れが、高いところと低いところとで感じ方が違うということは、恐怖は生理的なものではない、すなわち克服可能であるということが分かったのである。  正直、ここを読んでいる人にはすさまじくどうでもいいことだろうが、僕にとっ

リアルサラリーマン金太郎

本宮ひろしが描くようなストーリーが本当にあるものだ。大学時代の友人が、7億円の登記書を歌舞伎町で拾って社長に届けたところ、うちの会社で働いてみないかという話になったという。その友人がまあ破天荒なヤツで、頭も良くてアホみたいに体力があるくせにテンションの高低が激しくて、勤めたり勤めなかったり、自営業をはじめたり辞めたり、思いついたように資格を取りまくってみたりと話題に事欠かなかったのだが、たぶん好き勝手やらせてもらえるような男気溢れるポジションをもらったようなので、つうかそれこそが本宮ひろし、サラリーマン金太郎なわけなのだが、何より心配なのは7億の登記書を落とす社員を抱える会社に未来はあるのか。と、学生時代に2万円のバイト代を落とした僕がいうのだった。

オトコ昴、バレエ経験者?

くそうっ。忙しいのに、 munekataさん のとこで見つけてしまった衝撃動画。かれこれ10回以上は見ています。ハイレベルにバカをやるとどうしてこうも引力のあるものに仕上がってしまうのか…。このアムロレイ氏、呉大学の学生さんらしい。ローカル世界の宝だと思います。あまりに最高だったので貼り付けておきます。トークも行けるのかよ…。 アイドル界の新星 アムロレイ 第2幕 アイドル界の新星 アムロレイ 第4幕

「思ったり。」旋風

言語についてはわりあい保守的なうちのオクサマまでがとうとう「と思ったり。」を使ったので、ここまで来たのかと思った。 この「思ったり。」、僕の感覚ではこの1年のあいだに急速に広まった用法だと思う。もともとは「行こうと思っ たり 、やめようと思っ たり した」などのように、複数の動作がかわるがわる行われることを意味する形式なのだけど、新しい使い方では 1) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなと と思ったり 。 などのように用いる。WEB世界では毎日お目にかかる用法だ。そして、新しい用法が生まれるということは、そこには新しい意味機能が付与されているということだ。この場合は、叙述の断定を避け、あいまいにしようとする、いわゆる婉曲用法というやつだと思う。たとえば、広い意味での婉曲を表現するものには「~と思って。」「~みたいな。」などがあるが、そこに「思ったり。」が参入したということになる。 2) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかな と思って 。 3) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかな みたいな 。 2)も3)もちょっと古い感じがするが、1)と同じように使えそうだ。 4) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなと思う。 4)は婉曲表現なしの、つまりボカシなしのむき出しの形。ということはリアルでエグイ、とかいう話ではなくて(スマン)、少なくともある種の「かわいげ」はなくなる。それぞれ来歴は違えど、類似した表現となっている。 ところで、僕はこの表現がちょっとむずがゆい。何でむずがゆいんだろうとずっと考えていたのだが、思わせぶりなところがむずがゆいんだな、と今日気づいた。つまり「~たり」という表現はもともと複数の動作がかわるがわる行われることにあるので、「~と思ったり。」という表現には、記されていない他の動作があることを暗示されてしまうのだ。 だから、1)には、「家でご飯を作る」以外に何かやりたいと思っていることがある(だけど今は言わないよ)、ということを推測させられてしまう。表現主体には、おそらく「家でご飯を作る」以外の何かは想定されていないだろうが、かつてこの表現自体が持っていた機能の残り香はまだ漂っている。語られてはいないが、語っていない何かがありそうだということが、「(だけど今は言わないよ)」を共起する。それが思わ

モスライスが新種の椅子に見える

背もたれがうねうねブヨブヨする感じの新しさでな。気持ち悪い。 つーわけでモスで仕事なわけだが、理由は自宅が寒すぎるからです。家の正面にそびえたつ蔵王山頂は今朝とうとう白くなってた。はえーよ。しかも同僚が言うには今週末には初雪かもよーだって。はえーから。今年の冬も寒いんだろうな、山形の人はフツーとか言うんだろうけど。雪かきも大変なんだろうな、山形の人はフツーとか言うんだろうけど。おまいら、山形のフツーは関東のフツーじゃねえんだよ! 理不尽なほどに当たり前なツッコミしか思いつきません。 現状、最低気温が5度近辺なんですが、すでに自宅自室では温風ヒーターと電気ストーブが動いています。寒くなると最高気温が0度で「今日は暖かいね」とか言うんだ山形のフツーは。そのころ、関東のフツーは、石油ストーブも稼動して、3方向からの無差別同時攻撃で最終フツー決戦を乗り切るんだろうなあ。

駄菓子全然懐かしくない

ここんとこ家で原稿を書いたりして気が滅入ったりしているわけだが、お茶やコーヒーのお供に東ハトオールレーズンばかり食べている。お菓子の類はほとんど食べない口なのに、ストレスですかね。たまーに昔に食べた懐かしいお菓子が食べたくなってしまう。キャラメルコーンとか。ライオネスコーヒーキャンディーとか。某友人と我がオクサマは銀ビスでわいわい騒いでいた下井草の夜。3年くらい遅れて懐かし菓子熱が来ています。70年代生まれ、この指とーまれ、って感じでしょ。 考えてみると、いわゆる駄菓子は懐かし菓子ではないなー。そもそも、駄菓子屋があるような路地で遊ぶ、といった体験はじつは僕にはほとんどない。親父が引越しマニア(笑)だったために、団地とかマンションとか都市周辺郊外に新設された新興住宅地ばかりを渡り歩いていて、ゆえに三丁目の夕日的な生活イメージは皆無。ってかあれは昭和30年代だから40年代後半生まれの僕は違うわけだが。そんなわけでああいうのを古きよき昭和みたいなイメージで語られるのには非常に違和感がある上に、気づけばジャスコのたこ焼きやもそういう駄菓子屋的S30的イメージで売っていてショックだった。あの手のイメージはいま売れどころなんですか? おっと話がいつもどおりズレまくったが、駄菓子屋がある風景って都市公団がやってるような団地には全然なかったよ。なので、三丁目の夕日もそうなんだけど、昨今の駄菓子ブームも僕には作られた感があって、全然なじめません。なんであれが昔懐かしい味なんだ。懐かしがっているのは誰なんだ。懐かしいっつったら東ハトオールレーズンだろうがよ。あ、やっと元に戻った。

MS-IME2002がふっとぶ

ノートPCで使っているMS-IME2002の登録辞書が突然飛んだ。出荷時の初期状態に戻ってしまった。デスクトップPCに1年前くらいの辞書バックアップが取ってあるので、辛うじて復活したが、この1年間に登録した新しいことばが失われたのは大変痛い。MS-IME2002が突然ぶっとぶことについては、nlog(n)の MS IME に登録した単語がごっそり消えた の記述に詳しい。どこかにフリーで堅牢なIMEはないものかと思いつつも、バックアップを取らなかったことを悔やんでみた。IMEに堅牢さを求めるというのもおかしな話とは思うが…。いや、やっぱおかしいでしょ。 辞書を復旧しながら、この昨年までに研究論文で取り扱ってきた固有名詞と、この1年で取り扱ってきた固有名詞にさしたる違いがないことがわかって、そんなものかと思った。言語の史的研究はモードが変わっていく速度がかなりゆっくりとしているので、社会学や現代思想などのジャンルとは比べるべくもない。30年前くらいの参考文献を取り上げることも普通にある。以前、社会言語学の人が、ある領域について、「10年前の文献しかないなんて全然進んでないよねー」などと語っていて、生き馬の目を抜く早さってこういうことだろうと思ったことがある。新しい用語の誕生も、ジャンルによってずいぶん違うのだろう。ともあれ、研究面で1年前にリセットされても大丈夫、というのは安堵しつつも複雑な心境。 一方で、仕事の環境が変わったために、新たに登録した人名や組織の名前、仕事上のジャーゴンが失われたのは残念。こちらは新たにひとつずつ登録するしかないか…。

右脳左脳の実験

10/23の「右脳左脳」(→ エントリ )で取り上げた画像について、トリックではないか?という疑いが消えないので、ちょっとした実験結果を。 休み時間を利用して30人くらいの学生に同じ(一台のPCから複数のモニタに映し出される環境で)画像を一斉に10秒ほど見てもらったところ、半々くらいの割合で「右回り」「左回り」という回答が得られた。さらにそのまま眺めてもらうと、逆周りに見えてきただのずっと同じ方向に回っているだのという回答が得られた。したがって、この画像にトリックはなく、見ている人間の処理の違いによって右回りや左回りに見えるということがわかる。また、逆周りの見方に切り替えられるか、切り替えられないかには個人差があることがわかった。以上。

MS-Wordの出荷時設定どうにかせえよ

 MS-Word大嫌い。余計な仕事を増やすから。これはそういう記事です。  なんでさあ、MS-Wordはデフォルトの設定で余計なことをするのかな。行頭に箇条書きのための「・」を入れて文を作成して、改行すると自動的に次の行も箇条書きが設定されるのかな。行頭にスペースを入れてインデントを調節しようとするのも不慣れな人の特徴だけど、それで改行すると次の行も勝手にインデントされる。不慣れな人はそれをまたスペースで調整しようとしてドツボにはまる。  もちろん、こうした迷惑極まりない機能は設定で変えることはできるけど、パソコンに不慣れな人間にとっては設定変更という解に至るのも困難だ。こうしたトラブルは、パソコン初心者に起こりがちなことだけど、実はパソコンスキルの問題ではなく、日本の文書の書き方が原稿用紙発想であることに由来する。印刷結果が先にあって写植でもやるような感覚で書類作成するからね。内容と書式が発想上分けられていない。でもそれはそういう発想が改められるべき旧弊というわけではなくて、それが日本のやり方なんだってこと。  だから、マイクロソフトは日本出荷用の分はデフォルトで改行しても前の段落の書式を一部継承しないような設定にすべきだ。そうでないとスペースが混じりまくって滅茶苦茶な書式を前に収拾の付け方が分からなくなって途方にくれる人が今後も多数出てくる。日本では今後も原稿用紙を使った小学校教育を続けるだろうから、この発想は将来的にも日本の書類作成の基層となるだろう。  どつぼった人を助けるのにはもうマジで辟易。ねえ、エディタで文書を書けよ。どうせ本当に見栄えが必要な書類じゃねえんだろうが。ちょっとしたメモまでワードで書くなんてどうかしてるよ。いっそTeXでも覚えてください。つきあってらんね。

ムーヴィンアワゲロ

 榎本俊二『ムーたち(2)』(→ amazon )、幸村誠『ヴィンランド・サガ(5)』(→ amazon )、羽生生純『アワヤケ(3)』(→ amazon )、しりあがり寿『ゲロゲロプースカ』(→ amazon )。感想はいずれ。

iPod問題

 同僚にiPodを借りた。iPodで楽しんで曲を聴くのは初めて。素人が音質にどうこう言うなと叱られそうだが、以前iPodをためさせてもらったときに、音の悪さにがっかりした覚えがある。mp3の圧縮が問題なのかiPodが問題なのかその辺は専門のかたの御高説をうかがうとして、素人の僕の感覚では少なくとも5年位前とは音が全然違うように思った。ヘッドフォンだけボーズの(→ これ )に代えると、利便性だねーとか言えていたのが、おおっ実用にも耐えうるな、というレベルに。いいかも。出勤はど田舎ゆえの車だし、来年は家族が山形に来るので関東との電車による行き来もずっと減るだろうから、どれくらい使うか分からないのに購入意欲だけは跳ね上がってしまった。どうする。

はんぶんずっこ

 共同研究の書類が上がって、学生の添削の山も一段落して、あとはあれとあれとあれ。アマゾンで注文した『実践エスノメソドロジー入門』がなかなか面白い、のだけど寝ないと風邪が治らない30代半ば。きちんと栄養を取って睡眠もそれなりに取っているのに、なぜ治らないのだろうかと溜まった仕事の前で焦燥感と、本やマンガの誘惑とに身を引き裂かれる思い。人生の苦難の半分はまちがいなく自業自得です。残りの半分はたぶん自業自得です。寝ます。

右脳左脳

 時計回りに見えれば右脳型、逆に見えれば左脳型らしい(→ The Right Brain vs Left Brain )。   carnation,lily,lily,rose+ に教わった。最初、どちらに回っているか見極められなくて、じっと見ていたら左回りに見えた。どうしても左回りにしか見えないのでアクセスしたipなどの情報によって自動的に回り方を切り替えているのかと思っていた。しかしぼーっと見ているうちに、これはやっぱり見え方によって右回りにも見えることが判明。僕の場合、無理やり右回りに見ようとするとちょっと目が疲れる感じがする。左回りで見ると楽ちんな感じ。回転を変えるためのコツは、向かって右側の画面に女性の手が回りこんだときに、向こうへ行くように見るか、手前に向かってくるように見るか、そこだけを思い込み続けながらじーっと眺め続ける。突然逆に回るように見えますよ。どういう仕組みかは分からないけど。  コメント欄には、これはトリックだ!って書いている人がいて、その次にいやこれはトリックじゃないよって書いている人がいる。人間の思い込みは強い。

南斗紅鶴拳

 来月の学会出張のために旅行会社に出向いたら、ちょっとあり得ない名前の記述ミスがあって面白かった。僕は名前に「鶴」の字が含まれるのだけど、名前欄には「鶴」であるべきところが「通」と(それでも振り仮名欄に「カク」とあったことには激しく突っ込みたかったが)。そのようなミスを誘導する何かを僕は言ったろうか?と思うに、「漢字はトリのツルです」が「漢字はトーリのツウ」と聞き間違えられたんだろうと気づいて苦笑。今後このようなことを引き起こさないために、「笑福亭鶴瓶の『鶴』です」「賀茂鶴(広島の酒)の『鶴』です」「竹鶴(ニッカ)の『鶴』です」それか「「男塾に出てきた飛燕の、鶴刺千本の『鶴』です」とかがいいんですかね。どうですかね!漢字の説明で困ったときはこのサイトだ。 漢字説明ジェネレータ 。

自虐の詩

 業田良家『自虐の詩 上・下』(→ amazon )。声に出してわんわん泣いたマンガって吉田秋生『BANANA FISH』の番外編「光の庭」以来で、風邪をひいて弱っているからだとしか思えないと照れ隠しに書きたいくらいに泣いた。持病の発作的な泣き方で、ようやく落ち着いたふー。これに太刀打ちできるのは芸風的にサイバラくらいだろう。二階堂正宏『極楽町一丁目』(→ amazon )みたいな、あるいは和田ラヂオミーツ尾崎方哉みたいなワビサビペーソス系かと思って油断してたらどんでん返しされた。やばい書いててまたもアレな感じが…。うわーん。例によって映画のほう(→ 公式サイト )にはほとんど興味ないふりするが(実際のところはこらえしょうがないだけです)、堤幸彦監督で阿部と中谷なのでミーハー的な根性がふつふつと。  84年から90年の連載ですか。この時期は吉田戦車『伝染るんです』とかホイチョイ『きまぐれなんとやら』とかが調子ぶっこいてた、僕が妙に嫌いな浮かれたスピリッツ最盛期と重なっていて、明らかに本作は時代の空気を読んでないな(笑)。リアルタイムの衝撃ってどうだったんだろう。4コマ形式を生かしたギャグだったのが、後半から過去と現実を行き来して、最後はストーリーマンガとして一気呵成に突き抜ける。wikipedia「 4コマ漫画 」の項目を読むと、登場人物の関係がさほど変化せず物語が水平方向に枝葉を広げて行くタイプと、時間軸に沿って(ときに遡ったりして)物語が垂直方向に延伸して行くものがあるようで、本作は間違いなく後者。4コマストーリーものが増えていくのはこれ以降だろうか。4コマではないけれど1989年以降にはヤンマガで連載の「ヨシイエ童話」も読んでたなあ。あれとかぶる時期にこんなに濃いマンガを描いていたのか。 (追記)  この、4コマギャグからストーリーへの展開にやられたのは、こうの史代『長い道』(→ amazon )に近いものがあると思った。あっ、思えば似ているところがたくさんあるね!

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

 赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(→ amazon )読了。民俗誌(エスノグラフィー)的な読みものとして、またはある種の実録ものとして大変面白く読めた。「童貞処女が結ばれる美しい結婚像」が近代以降の虚像であるとするには十分な鉄槌だけど、これをもって近代以前の農村における性規範が客観的に描けているかというとそれはチガウと思った。文化人類学の参与観察でいわれる、「観察者の視点が対象を大きく規定する危険」が全体的にどんより漂いすぎ。生き生きとした会話のやり取りも、ドキュメントを書き溜めてではなく、記憶をたどって物語的に再構成したもの(であることがわかる)。こういう質的研究(⇔量的研究)は研究者の体を通って出てくることについて最初から客観性を確保することなんて考えず(そんな客観性なんて信じてないから)、むしろ研究者が対象との相互行為を通じて構築された物語?を分析するってところが醍醐味なんだろう。  とか思ってたら思い切り量的な研究であるところの抜き刷りが届いた。自分用抜き刷り渡されても本当に困る。誰かにあげる予定のない包みがこうして部屋の片隅にまた積まれる…。論文なんてそもそも雑誌で読めばいいと思うし、必要なら自分でコピーするでしょう、というのはあまりに相互行為を重視していない発言ですかね。

やっと見つけた…

 大学3年生ごろ、某所でアルバイトをしているころに創刊したスーパージャンプで連載されていたマンガの情報をネットで見つけたのでメモ。「大人のないしょ話 ~トビーとエルカのドキドキ日記~」。  国会図書館にでも行って確かめればいいんだけど、そこまで情熱がわいてくるわけじゃなくて、でも気になってしょうがなかったマンガ。13年前から、あのマンガはいったい何だったんだろうとずーっと思っていた。これ短期集中連載で、読者の声欄でも惜しまれながら終了した作品だったと思う。で、当然作者は何者?という疑問の声もあったのに、編集部は「作者の意向で正体は明かさないことでよろしく」みたいなコメントだった。手塚っぽい絵柄から、手塚プロ関係の人かと思ったりもしたのだった…。作者の上北ふたご(→ wikipedia )はアニメーター出身なんだね。 479 名前: 家庭教師じゃなくてメイドさん 投稿日: 2000/11/09(木) 16:36 >429 1994年発売のスーパージャンプに掲載された 「大人のないしょ話 ~トビーとエルカのドキドキ日記~」 ではないでしょうか。 当時、私も手塚プロっぽい絵柄だと思ってました。 短期集中連載にするには惜しい作品だったと思います。 作者の上北沢ふたご氏はこの作品が初連載だったそうですが これ以降の作品はあるのでしょうか。 ( 身元不明漫画捜索願スレ )より

銭ゲバ90分

 ジョージ秋山『銭ゲバ』(→ amazon )が文庫化されたので、やっと読むことができた。1970-71年の作品。人生の苦難が自分だけのものであって、他の人からの安易な共感も心をさらけ出して誰かに許しを請うことも、決して許さずに自分を守りきった最終章は、30年以上経つのに普遍的な力を持つなあと思う。  昨年『アシュラ』(→ amazon )が読めたのも幻冬社文庫のおかげ。このほか『教祖タカハシ』『日本列島蝦蟇蛙』『告白』あたりも読みたいので幻冬社さんに期待したい。ちくま文庫あたりでもいいや(無理でしょうね)。リアルタイムで読めたジョージ秋山は『海人ゴンズイ』『浮浪雲』『ラブリン・モンロー』『フィッシュ・ラーゲ』『戦えナム』くらいだけど、どれもキモトラウマで各誌連載では避けるように読んだりしていたのに、院生活終了ニート以上フリーター未満生活のなかで突然肯定的に読めるようになった。遅すぎる、と我ながら思うが、読めずに逃げ切る「幸せ」な人生というのもあり得たと思えば、この「不幸」を喜ぶべきか。

論理は言語じゃない

 うわっ、マジですかー。思わずウェブ魚拓を取ってしまった。 「 新入生に「日本語の文章講座」、論理的思考力を育成…早大 」(→ yomiuri online )。何に驚いたって、「日本語を専門的に学んだ大学院生が添削」ってところ。 「日本語の文章講座」では、2か月間、毎週違う課題が与えられ、添削は、日本語を専門的に学んだ早大の大学院生が担当。論文の提出と添削はインターネットを通じて行うことが検討されている。一つの新聞記事に対し賛成や反対の立場から書かせたり、自分で決めたテーマについて論理構成を意識して記述させたりするという。  それって日本語学の人ではないよね。だとするとどのジャンルの人を指すのだろう?どの大学でも、「文章表現」みたいな授業は日本語学よりもむしろ文学の人が担当するように思うがどうか。日本語学の人でも、まあできるけども、日本語を専門的に学んだ人=日本語学の人だとするとそれはちょっと違うのではないかと思った。  ていうかこういうときに言われがちな「日本語」って、論理構築力であったりするので、誤解を生むと思う。こうやって記事にされちゃうと、強化されるべきは「日本語」ってことになって、ほらすぐに母語は大事って言い出すでしょ。もちろん論理は言語で構築されるし、論理そのもののは言語に制約されているのも分かるけど、論理が言語そのものというわけじゃないんだから。

cocco途中まで・natsumen

 とりあえずアマゾンから届いたcoccoのアルバムを順番に聞いている。1997年のブーゲンビリア、1998年のクムイウタ、2000年のラプンツェルあたりは、あーこれcoccoの曲だったんだと当時の雰囲気を思い出したりした。結構ラジオで聞いていたんだなと思う。学生にcoccoのボーカルって誰ですかとか聞かれるんだけど、coccoはバンド名だと思われてるのかな?  軽妙洒脱な心躍るようなリズムやメロディはない。椎名林檎と並ぶタマだというamazon評を読んだので、なんとなく椎名林檎的なものを予測していたが、椎名林檎よりずっとおかしくて素敵な領域に近いように思う。情念や怨念に関してこれだけ正直に歌えるなんて、恐ろしい人だなあ。公式サイト(→ cocco official site )をクリックしてゆくとポップアップで立ち上がる本人のビデオを見てやっぱりそうだと確信した。  よーしあとはサングローズとザンサイアンだと思ってたら、NATSUMENの "never wear out your summer xxx!!!"(→ amazon )が届いてしまった。部分的には聞いたことあるけど、アルバムとして聞くとまた違ったように聞こえるのが不思議。この人たち(元BOAT)の音楽ジャンルを問われるといつも困る。まああえて言えば、サイケカオスエモプログレ?いやプログレはないか。

ミニマルGT

 旧サイトでも触れた(07/07/28参照)ことだが、ここ山形村山地域は無アクセント地域である(単語のアクセント位置が決まっていない)がゆえに、関東で弁別できていたアクセントだけを異にするミニマルペア(最小対→ wikipedia )の聞き間違いと、それによるコミュニケーショントラブルが起こることがまれにある。これは僕が有アクセントの言語話者であり、アクセントに依存した談話理解をしていることによる。これぞまさに異言語接触というやつだなあとつくづく思う。  ところで、無アクセント地域の言語話者はミニマルペアをどうやって処理しているのだろう、お互いに誤解したりしないのだろうか、と常々思っていたことが、今日仕事のなかでのちょっとしたやり取りの中で観察できた。 印刷物について2色カラーの配色をどうするか、という会話で、「じ」の色をどうするかという文脈が発生した。「字」(高いアクセント)の色と背景の「地」(低いアクセント)の色の2つの意味が、どちらも同じくらいありえる状況である。つまり文脈だけではどちらか判定できない状況が生じたわけだ。説明に当たっていた女性は、「地」を表すために「文字じゃないほうの「じ」なんですが…」と切り抜けたのだった。  簡単にいうと、ミニマルペアの取り違えによる誤解が生じそうになると、補助的な表現を加えるということだ。でもそれって、有アクセントの世界でも普通に起こっていることだよね…。

ふつつ二日酔い通い

 仕事のファイルが見当たらない…。デスクトップに置いておいたのをうっかり削除してしまったらしい。らしい、つうか一時間後に使うファイルなんですが…。ゴミ箱は定期的にからっぽにしているので、急遽ファイル復旧ソフトで検索掛けまくるも処理が遅くて間に合わない予感。というわけで新たにファイル作成にいそしむ30代男性(ふつつか通い)のキータッチはいつもより気持ち多いミスタッチを交えつつ微妙に汗ばむ心地ぞする。

いろんな使い方があるね

 サーモスの真空断熱携帯マグ(→ amazon )が重宝している。500MLなので、マグとは言いながら一人暮らしにはほとんどポットとして活躍しているんだけど。コーヒーメーカーで淹れたコーヒーをサーバーに置きっぱなしにしないで、すぐにマグに入れると、変な酸味もエグみも出てこないし香りも落ちない。出先にも持って行けるので大変便利。もちろん熱燗は入れちゃダメです。ダメですよ。ちうわけで、仕事仕事ー。

ちゃんと返還してください。

HUNTERxHUNTERが今週も掲載されてるよ…。こんな喜びがこの1年半あった廊下。いや内。どういう変換だ。しかも宮殿突入前の濃密な心理戦がすごすぎる。突入3分前にしていまだ予測できる可能性を最大限模索し続ける主人公たち、功名心と限られた仏性じゃねえ物象でストーリーを組み立てようとする敵脇キャラとか溜まんない門があるね。待って他界があったよ。どうにかなんないのかこのMS-IMEのアホは。

CiNiiの読みがサイニイって微妙

 どうしても聞きたい学会発表があって、東大へ。東大侵入は院生のときに、友人と原書の輪読会やってたとき以来だった。思えば、赤門って一度もみたことなかったかも。発表はいろんな意味で有意義だったんだけど、それよっかかつての友人が大著を上梓していて驚いた。すごいなー。で、その友人の名前で検索かけてみたら、 CiNii(Nii論文情報ナビゲータ) にぶつかった。これ、検索結果をbibtexの形式で表示できるのだね。気づかなかった。メモメモ。本文自体もいくつかはPDFで公開されている様子。でも理系とか経済系の論文がほとんど。まれに日本語学でもPDFが公開されてると思ってクリックすると新刊紹介が表示されてガックリ。これが訓点語関係の論文だと本文が公開されてるけど有料で残念(知ってたけど)。研究論文をお金で購読するって、どうなんだろう。ざざっとPDF公開されてる医学系の論文をクリックする限りは、課金はなされないようだ。研究論文って購入する性質のものだっけ?  TeXで論文書くくせに、bibtexはいまのところ使っていない。理由は末尾の参考文献を提示するところで、著者名,刊行年,論文名,雑誌名・号数などを自分のスタイルにカスタマイズできないので(そういうののスキルがないので…どなかたご存知でしたら教えていただきたいです)。一時、やっきになってトライしてたんだけど、そこに時間をかけるなら中身を書こうと逃げました。

「和梨」という言い方、する?

 ラフランスの季節になったので、お世話になっている人たちに数箱送った。第一陣。これから本格的なシーズンになるらしいのでいずれ地元のお店はラフランスだらけになるのだろう。  果物立県の山形では梨のことを「和梨」というようだ。少なくとも関東の感覚では、梨といえば日本の梨のことを指すから、特に和梨とは言わない。言語学には音韻論から発達した有標と無標という考え方があって(→ 標識の項目 ,wikipedia)、自然なものには標識がつかない=無標[unmarked]、特異なものには標識が付く=有標[marked]という考え方をする。例えば、エビは海に住んでいるものの方がより自然と考えられており、川には普通住んでいないと考えるので、川に住むものを「川エビ」と言って(最近食べてないなあ)、海に住むものを「海エビ」とは言わない。人間の脳は、世界をフラットに見ているわけではなくて、特殊と認知されるものに特殊なラベルを当てることで(特殊なラベルを当てることで特殊と認知されるともいえる)、認知活動の労力を最小限にとどめているわけである。  「和梨」という言い方は、(国内最大の採録語数の)日本国語大辞典にも採録されていない。おそらく、本来は限られた業界での言い方なのだろう。洋梨が日本に入ってきた段階で、外来種と区別するために作られた言い方と推測される。それが、果物の流通業などを通じて広まった言い方なのかもしれない。山形でこのような言い方が人口に膾炙するのは、流通業の他に、スーパーなどで日本の梨と同じ頻度で西洋梨を見ることがあるという状況が絡んでいるのだろう。つまりここでは日本の梨は関東その他で感じ取られているような自然さではなく、西洋梨と同程度に特殊と感じ取られていると考えられる(c.f.「西洋からし」に対して「和からし」とは言わない)。  こうした有標と無標の政治性(多い方が自然で当たり前)に対抗するために生まれたのが「政治的に中立な言い方」[politically correctness](→ ポリティカル・コレクトネス ,wikipedia)で、chairmanがchair-personと言い換えられたりするやつだが、まさか梨がポリティカリーコレクトで和梨って言われるようになったわけじゃないよね。

受容できたりできなかったりの日々ですが

「田舎暮らし なじめず眠れない」(→ Yomiuri Online 内)これはちょっと笑えない…。  40歳代主婦。子どもが2人います。東北地方の小さな町に住んでいますが、なじめません。県庁所在地まで車で2時間以上、電車は1時間に1本です。  私は関東地方で育ち、独身時代は海外出張も多い生活でした。結婚する際は、交通の便もよく、文化施設も多い県庁所在地に住む予定でしたが、夫の仕事の関係で今の町に住むことになりました。  義父母は近くに住んでいて、毎日訪ねてきます。私は手料理でもてなします。私は自分の実家へはほとんど帰れず、コンサートへ行ったり映画に行ったりということも望めません。世の中にこんな不便なところがあるのかという思いです。  子どものために明るく振る舞うようにし、庭に畑を作るなど前向きに暮らそうとしていますが、やはり落ち込んでしまいます。(下略)  この人、東北生活何年目だろう。映画やコンサートに行く機会がなかなかない、というのは、もともと映画にほとんど行かない僕としても分からなくはない(ないない尽くしの文章だなこれ)。都市から地方に移ってくると、まるで過去の自分がエスタブリッシュされていたかのような錯覚に陥るので、新しい自分を劣化ととらえてしまう結果、凹むんだろう。要は新しい場所で新しい価値観を構築できるかという問題なんだけど、これは口で言うのは簡単だがなかなか難しい。  でも、実はこの相談者に一番共感できる、きっついのは、「義父母は近くに住んでいて、毎日訪ねてきます。」ってところ。義父母が毎日、というところはさておき、なんだかご近所に監視されているような気になってくるんだよね…。より正確に言えば、ご近所の価値観で自分が日々測られているのが分かるんだよね…。なので、コメントを付けている心療内科医の次の言葉は、ちょっと的はずれに思えてしまう。 主婦、母親という仕事をきちんと責任を持ってなさっているあなたが、自分の時間を作ることは決してぜいたくやわがままではありませんよ。精神科に行くより、コンサートに出かけることをお勧めします。  それは全く正論なんだけど、それがまたある種の価値観で測られてしまうというデフレスパイラル…。そんなことよりも、同じ価値観を持つ友人を緊急に探すことをお勧めします(笑)。俗っぽい言い方だけど、視線に踏みこたえるには理解者を1人でも増や

なぜいまさら?

 昨晩、どういう経緯かすっかり忘れたが、youtubeでcoccoを流しているうちに、アマゾンでガバッと購入していた。やばいなー。ブーゲンビリア(→ amazon )、クムイウタ(→ amazon )、ラプンツェル(→ amazon )、サングローズ(→ amazon )、ザンサイアン(→ amazon )、つーわけで復帰後1枚目、4部作合わせて5枚。ユーズドストアで集めたら、5枚で送料合わせて6千円くらい。以前からこのひとを、いつでも瞳孔全開的な天然危険性を帯びているということで、やや遠巻きに眺めてきたのだが、やっぱりそういうひとに僕ははまりやすい、はずである。なぜいまさらcocco?そしてちょっと前にはハルカリとスチャダラにはまっていた僕に、なぜいまさら?どれもこれまで敬して遠ざけてきたものばかり。

首痛い

 生活のリズムや食事内容を整えながら、書き物の方も遅々としながらも再開。今朝は、荒れ放題だった庭を少し手入れして、ご近所さんにも生きていますアピールをしつつ、たまっていたゴミも始末する。やってみてやっぱり首が痛い。むち打ちの余震がまだ続いている。今日は鍼を予約しているのでちょっとくらい無理してもどうにかなるだろうと思う。そろそろ、追突事故の件も示談してしまいたい。保険屋さんとのゴタゴタが喉につっかえている。今朝は、一昨日作ったおでんと、昨晩作ったマイタケとヒラタケの炊き込みご飯、ししとうとエノキのおみそ汁。

ダッシュ帰宅

 偏頭痛後の軽いめまい、文字を読んでいる時の酔った感じなどがなかなか取れない。一日で終わるような小さな仕事なら問題ないが、ある程度の準備やスパンを必要とする仕事となると気持ちが負けてなかなか手に付かない…という状態を打開すべく、職場にはできるだけ遅くまでいない作戦で、とっとと夕方に帰宅してきちんと食事を作ってお風呂に入ってさあ仕事、の合間がここ。毎日夕食が9時過ぎって一昨年からすると考えられないな。体に良くないに決まっている。写真で説明すればこんな感じ。 レンコンとヒラタケのおみそ汁、鮭のムニエル・甘なんばん・エノキ、おでん、自家製梅酒。あれ、ここまでがんばるつもりだったかな?体はすっかりくつろいでいる様子。頭はちょっといい意味でぼんやりかなあ。