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9月, 2009の投稿を表示しています

G'z One

新しい携帯を買った(G'z One G'zOne CA002 | 携帯電話 | KDDI株式会社 )。2006年から使い続けた以前の携帯は、特段使えなくなったわけではない。というか全然使える。が、強いて言えばメールの振り分けメモリがいっぱいになったこと、一度も変えていない電池から液漏れが確認されたこと、修理保証の対象期間が終わっていること、PCとの連携がうまく行かなくなったこと、くらいかな。PCとの連携については、thinkpadをx200に買い替えたとき(x40は妻用になった)、赤外線での携帯とデータのやり取りができなくなっていた。ゆえに、買い替え機種の条件は第一にbluetoothだった。 多くの人が感じているだろうけれど、携帯のオーダーメイドというのはできないものか。僕みたいに長く使うユーザーは少し高くてもある程度は納得して購入すると思うのだけれど。本当はストレートタイプが良かったし、ワンセグとか音楽機能もマジいらない。G'z Oneのおもちゃ機能もコンパス以外はいらないなあ。bluetoothでストレート、写真とメールと電話だけ、みたいなのが欲しかったけど、ないのね。デザインと機能が自分にマッチするものってなかなかないのではないか。iidaとかかっこいいけど、絶対に壊して使えなくなる自信があったので却下だし。 さて、bluetoothの設定方法メモ。 携帯電話>アクセサリ>bluetooth>初期登録 自動探索でPCがディテクトされるので、パス適当に入力してOK PC側のタスクトレイにbluetoothのアイコンがポップアップするのでクリック 携帯に入力した適当なパスをPC側にも入力 タイミングが合わないと接続が切れるので、何度かトライ PC側で認証を保存する設定にしておくと、以後は簡単 基本的に受信側を先に立ちあげておいて、それから送信作業を行う PC側の送受信はアクセサリ>Bluetooth ファイル転送ウィザード

『海獣の子供』ポストカード

五十嵐大介周辺日誌 のイベントで、ポストカード一式をもらいました!担当編集の方、お疲れ様です。 出張から疲れて戻ってきたタイミングだったので輪をかけてうれしい。『海獣の子供(4)』(→ amazon )発売フェアの一環ということなので、宣伝をしておかないと! 読むと海に行きたくなるけど、海中にはこんなでかい生物がいるならちょっと引く、というテイストの作品です。「海の世界の神秘は深まり、地球の命の物語へと広がってゆく」(アマゾンの紹介より)なんてまっすぐなことがいえないブログで本当すいません。ほんっとすいません。

盛岡フェザン

盛岡出張。ジャジャ麺だの、盛岡冷麺だのを食す。写真は駅ビルのフェザン。片仮名で書けばそうなるところをローマ字表記すればFEZANとなるはずを、FES゛ANと書く遊び心。もはやローマ字ではなく仮名的用法ということになるか。アルファベットがすでに持っている清濁の別を敢えてなかったことにして、補助的用法で濁音であることを示す。表現意図は何かあるのかな。wikipedia(→ フェザン - Wikipedia" target="_blank"> )にも特に記述はない。

ワイルドマウンテン

忘れたころに発売の、本秀康『ワイルドマウンテン(6)(7)』(→ amazon )。舞台は中野区のから突然香港へ!相変わらずとぼけた絵が素敵な作家なんだけど、ネームのとぼけ具合も最高。どういうわけか今回は香港でシリアスな展開を繰り広げていて、とぼけ度は低い。けどシリアスな展開のなかに絶妙な加減でとぼけが仕込まれているので、画竜点睛ってこういう感じだなーと思った。

BURRN! 創刊25周年

こないだ暇つぶしに入った書店で目にしたBURRN!(→ amazon )の表紙。ビリー・シーンの老けぶりと対照的に全然かわんねえエリック・マーティンに誘い込まれるように、ひっさびさに購入してしまった。 大学院に入る時に買うのをやめたから、10年以上ぶりになる。大学のころ定期購読していた雑誌は、マンガ雑誌を除けばBURRN!だけだった。うちの奥さんに大学時代定期購読していた雑誌を尋ねると、SAPIOとPLAYBOYだけ、ってのは何で僕と結婚したのか自分でも不思議だよ。そのままネットユーザーに落ちていたら、完全にネトウヨ(笑)への流れが形成される!と思いつつ、そっかBURRN!もまあマッチョな雑誌ではあるなと一人で腑に落ちた。 で、話はBURRN!に戻るわけだが、創刊25周年記念ということで、一大クロニクルが特集されている。懐かしい単語に涙しながら(ゼロ・コーポレーションとかね)、自分が自律的に選択したと思いこんでいたことがそうでもなかったんだなとか、あのとき感じていた雰囲気はやっぱりそうだったんだ、なんてことが分かって面白かった。言ってみれば、完全にブームの流れの中にいたってことだ。MTVブームに乗っかってハードロックやメタルの隆盛が頂点に達しているころに参入して、衰退期に離脱した。 80年代のどん詰まりに、昭和が終わってSKID ROWが出てきたころからハードロックを聴きはじめた僕にとっては、確かにLAメタルはもう古くてカッコ悪い感じがしていたし、ギターの早弾きかっこいいけど、新しいスターがあんまり出てこないなあと感じていたこと。でもMTVを録画しまくって、この筋のバンドが出れば大喜びするとか。93年ごろからハードロックもメタルもあんまり面白くないなあ、と感じていたのは自分の内面的な変化が大きかったということよりも、マーケット自体が縮小して、メインはグランジとへヴィロックに移行しつつあったということとか。当時僕はやたらとメロディアスなものばかり追いかけていたので、結局そういう絶滅危惧種はゼロ・コーポレーションのいい顧客になったのだった。デスメタルが後にメロディック・デスに発展していくのを、存在自体が矛盾じゃんとか思って傍目に笑っていた、その価値観が非常にBURRN!に影響されていたんだな、とか。まあ、当時もBURRN!読みながらそんなことを何となくは感じていたけども

完璧に人の世

山形市の位置する村山地方は四方を山に囲まれた盆地。山向こうに日が落ちたあと、山際がぼんやり明るくなるのだけど、雲が山際に張り付いているときは、加えて幻想的な雰囲気になる。山形で見られる光景の前景には、全国どこでも見られるMAXバリュの光!これぞ人の世(笑)。

思ってたよりフツーですね

榎本俊二『思ってたよりフツーですね (1)』(→ amazon )。本人の自伝と思いきや、この1巻はむしろ編集の小林さんの方が脇役として光る。編集の小林さんのコメントが切れまくっているのだが、榎本俊二の観察による切れなのだが、小林さんおもしれーんだろうなあと読ませる榎本俊二。そしていつも通り異常に良いテンポがギャグ漫画と同じく炸裂しまくりというわけである。1小節分に満たない感じでコマが進むので、グルーブ感出まくりというか。でもシュールギャグものと違ってきちん説明があるので、分かりやすいミニマルテクノみたいな感じだよ!内容は自伝が少し、編集さんとの戦いが少し、映画がたくさん。映画のところは全然分からなかったけど、読後感はかなり気持ちいい。

ポテンヒッツ

ジョージ秋山『銭ゲバの娘プーコアシュラ 完結編』(→ amazon )、手塚治虫『MW』(→ amazon )、しりあがり寿『でも、まぁいいか。』(→ amazon )『そこはいきどまりだよ。』(→ amazon )を新幹線の中で読む。 とりあえず言えることは、しりあがり寿の本高すぎ。1冊1300円くらいするよ。装丁や紙質がいいくらいで、もっと安くてもいい。内容はしりあがり節で悪くはないけど、やっぱり高い。ジョージ秋山のは、銭ゲバの後日談が前半。ジョージ秋山が自分で書いているように失敗作だなあ。アシュラの完結編はまあこうなるだろうというオチ。わざわざ書くほどのものでもないと思う、という意味でコレクター本。MWは昔読んだことあるけど、映画化もあってかまた読みたくなって。村上龍のコインロッカーベイビーズとものすごく似ていると思って検索したら同じことを感じた人が山ほどいた。MWはベトナム戦争用に日本に隠された毒ガス、龍のダチュラは旧日本軍。でも考えてみたら、「軍が極秘に開発した毒ガス」というモチーフは繰り返し使われているような気もする。

見えない世界こそ

研究発表終了。理論的背景の不備を糺された感じだ。見えているところの論旨ではなく、見えないところを確かめることでより大きな実りを得るのが(建前上)研究発表なので、その意味では有意義だった。あることを言うためには、その背景に当然答えられなければならないことがある。今後に向けていろいろ準備しないと。 ところで、 竹熊君、“紙”はもう、ダメだよ…(前編): たけくまメモ あたりの、マンガ業界は現在パラダイムシフトの波にさらされているという話、またそれに疑念を呈する 竹熊さんから反論をいただいた: マンガ家Sのブログ 話、自分の業界に当てはめて考えてしまった。たぶん似たような現象が、人文社会学・人文科学業界にも起こっていると思う。

あなたの人生の物語

テッド・チャン『あなたの人生の物語』(→ amazon )に収められている短編、表題作である「あなたの人生の物語」が衝撃的に面白かったので紹介したい。知的冒険や知的実験に興味がある向きはぜひぜひと思う。優れたSF作品に与えられる各賞を総なめにしているように、この作品はまずSFとして評価されているようだが、狭義のサイエンス・フィクションを越えて面白い。 ガワとしてのSFを取りだせば陳腐なものだ。地球にやってきたエイリアンと言語学者が対話をする。対話を通じてエイリアンの言語形式を自分のものとした言語学者は、時間を越えて事象を認知する力を身につける、といったもの。しかしよくできたSFの背後には、言語学に対する理解と、人間の言語が人間の認識世界を作り出しているということに対する深い内省とがあるように思われる。そこが知的に興奮できるところだ。 * * * * * 主人公の言語学者が対話を強いられるエイリアンの外見は人間のそれとはまったく異なる。 一個の樽が七本の肢に接合されて宙に持ちあげられているように見えた。放射相称の形態をなし、肢はいずれもが腕としても脚としても用いることができる。わたしのまえにいる一体は四本脚で歩きまわり、あとの三本は腕として側方に巻きあげられていたが、隣りあっている腕はなかった。ゲーリーは”それら”を七本腕(ヘプタポッド)と呼んだ。〈中略〉全周に眼が配されているから、あらゆる方向が”前方”にあたっているのだろう。(pp.187-188) この身体的特徴が、ヘプタポッドの言語(特に書記言語)を規定している。人間がリニアに物を考え、そのことが時間という概念を高度に派生したことは、たとえば前に注意を払いながら動いていけるように、目や足が配置されている身体的特徴と無関係ではない。主人公がヘプタポッドの言語を学習して理解したのは、ヘプタポッドの身体的特徴がもたらした非リニアで複数の事象を同時的に把握する認知方式だった。 ヘプタポッドは我々人類の一部がそうであるように(書記言語を持たない言語は持つ言語より多い)、音声言語と書記言語を持つ。ヘプタポッドは人間と違う身体構造であるから、人間用の音声記号でその言語を記述できないので、サウンドスペクトログラフを見ながら音素を決定し、音素を手掛かりに語を決定し、文法カテゴリーを発見していく。また発見された文法カテゴリーは人類

行けなかったTeXユーザの集い

そういえば締切日と重なっていたので行けなかったなあ。 TeXユーザの集い 2009 は、8月29日だった。僕は論文はTeXで書くんだけど、自分が書きたいやり方のギリギリが分かっているタイプで、仕組みまで理解している口ではない。だから開発としての関わりはできない末端ユーザー。でも文系研究者がTeXで何をやっているか、特に文献研究者が何をやっているかということに関しては、隣の芝生も見てみたい。 サイトでは予稿集がPDFで上がっているので発表内容を窺い知ることができる。「BibTeX のスタイルファイルをカスタマイズするツールの開発について」という発表は本気で聞きたかった。BibTeXのカスタマイズは難しくて結局僕は使っていないのだ。これぞTeXというくらいに便利な機能なのに、参考文献の参照の形式は学会や雑誌等でかなり異なっているために、カスタマイズをしっかり行わなければならない(理系世界では学会ごとにスタイルファイルが提供されているところもある; 学会スタイル等 - TeX Wiki )。しかるにカスタマイズが難しい。誰かが簡単なツールを考えてくれたらいいのにと他力本願に思い続けていたのだった。予稿集によれば、「著者名+年」という僕の領域でよく目にするタイプの引用法には対応していないらしい。残念。発表資料も公開してくれないかな…。

2009年8月20日ごろのこと

僕はほとんど毎日夢を見たことを記憶しているほうで(夢の内容ではなく見たこと自体)、夢の印象で一日のテンションが左右されることもあったりする。ただいくつか覚えている夢もある。というのも、パターン化というかシリーズ化している夢があるからだ。友人のシミズにも聞いたことがあるが、繰り返し見る夢の型みたいなものがあるというから、多くの人にあることなのかもしれない。二人とも共通しているのは悪夢のパターンなので、小さいころ何かあったのかなと思う。 僕が見る悪夢のパターンにタイトルをつけるとするなら、「ぜったいに開けてはいけない家の奥の扉」になるだろう。夢の中で僕は子供になっていて、ぜったいに開けてはいけないと知っている扉がある家で暮らしている。その扉を開けたら家族がめちゃめちゃになることを知っている。扉は地下室に通じている場合もあるし、倉庫に通じている場合もあるし、屋根裏に通じていることもあるが、万一開けてしまったらとてつもなく悪いことが起こってみんな死ぬのだ。そしてその原因はかつて家族が行ったとても恐ろしい秘密とつながっている。それはぜったいに知られてはいけない。しかし扉を開けたらその秘密がばれて、秘密が生み出したとてつもなく悪いことが外に飛び出して、みんな死ぬのだ。こんな感じのストーリーがいつもテーマとなりバリエーション豊かに肉付けされ繰り返し繰り返し変奏される。夢の最後はいつも扉を好奇心で開けてしまう。だいたいそこで目が覚める。目が覚めると絶望的な気持ちになっている。もう何もかも終わった、もうみんな死ぬんだと思う。起きてしばらくして、ああこれは夢だったんだ、助かった、と思うが一日のテンションはどん底。 2003年のころ、初めてシミズにその話をして、これは一体何なんだろう、何かすさまじい秘密を両親は抱えているのではないかと笑い話をしたことがある。以後もそんな夢を見続けた。いい年して、絶望感で目が覚める、みたいな。 そのカラクリが、今年の8月20日にたまたまネットで妖怪人間ベムの新しいシリーズの存在を知って、昔を思い出しているときに分かった。これって妖怪人間ベムの第3話なんだ!どう考えても第3話としか思えない符合ぶり。鳥肌が立った。何十年も僕を不安に陥れてきた夢の正体見たり枯れすすき。次にこの夢を見た時には、僕はベムのステッキ、ベラのムチ、ベロの爪で扉の中にあるものをテッテ的に

1979年10月ごろのこと

僕が1979年の10月ごろ何をやっていたか。子供と同じ小学校1年生のころか?鉄腕アトムの新しいシリーズがやっていたころ、僕は中京テレビか何かの夕方の再放送で妖怪人間ベム(→ 妖怪人間ベム - Wikipedia )を見ていた。ちょうど第3話だったはずだ。秋口くらい、もう日が暮れるのが早くて、そのころ住んでいた家は愛知県の片田舎の、立てつけの悪くなった古い貸家だった。かつての家主が植えた朽ちかけた桜の木や藤棚のあつらえてある家で、子ども心に薄らぐらい家だなと思ったものだ。藤棚の下で桜を見ていると、時折あの青と赤のイボがある毒々しい毛虫が膝の上に落ちてきて、泣いて誰かに取ってくれと叫んだりした。シロアリが土台を食ってしまったために柱の中がボロボロなのを見て驚いたりもした。当時から両親は共働きだった。母は末妹となる三人目を身ごもっていたが、遅くまで働いていたように記憶している。そんな中、妹と二人テレビを見ていたのだった。で、当時のことをなぜ覚えているかと言うと、妖怪人間ベムの第3話がすごくこわかったからだ。 第3話の内容は、実はきちんと覚えていないが、なんとなく強烈な記憶の断片がある。村に定期的に化けものが現れる。化け物がやってくると村人が死ぬ。そこへベム一行が現れる。化け物を退治すべく詳細を村人に尋ねても、一様に押し黙ったままで口を開かない。そうこうしているうちに化け物が現れるがどうしてもベムたちは倒せない。おかしいと思ったベムはどこかから妖力が流れ込んでいることに気づき、その源を探す。源は13と番号付けされた墓場だか倉庫だかだった。中には頭がい骨があり、それが呪いの力を放っていた。かつて村人が何かの理由でよってたかって殺してしまった女の怨念が化け物を生み出していたのだった。 幼心に、その怨念の「感じ」はとても強烈だった。呪いの波動は複数の女性のうめき声として演出されていたし、頭がい骨から発せられる怨念の放射はとても嫌な色の組み合わせで描かれていた。小学校一年生にとって、その演出はどこをどうとっても悪夢として完璧だった。そうなると夕方の古い家は恐怖を掻き立てる装置が満載で、塗り壁のくすみから床板のギシギシいう音まで何から何まで怖くなる、ので、当時のことを今でも思い出せるのだった。 以後、不思議なことに、たまたまテレビをつけるとそのシーンに出くわした。学年が変わって、違う

8月14日のこと

話題のETCで実家に帰る。ホントに1000円だ!(いや、実際は1600円だったけど…)と驚く。後に報道されるように自動車が唸るように連なっていて、地方は焦土と化すからみんな都心へ逃げろ!みたいな行列をたどっていくと、その先には事故車処理。帰省ラッシュと逆方向だからね。混むのがおかしいんだ。結構居眠り運転をしている車に出くわすこともあって、蛇行運転している車をそっと抜き去る瞬間、起きろ!って意味でクラクションを鳴らしたら驚いてハンドルを切ったためか壁に激突、を数回繰り返して目を覚ましてまたまっすぐ走り始めた。ほっといて大事故を起こすのを考えたら、と、ちょっと罪悪感を禁じえない自分に言い聞かせる。 実家では祖父母からのプレゼントということで小学校一年生にドラクエ!いやあ、分かるかな、と思いつつ、心配そっちのけでストーリーなんてほとんど分かってなくても楽しんでプレイしてる。ストーリーを先に進めるとか、自分を強くする、みたいなゲーム世界の暗黙の了解が分かっていないので、たまに敵を倒したり装備を見た目カッコ良くするのが楽しいみたい。子供は平坦な世界を生き抜くのが上手だ。 ゲーム取り上げられて説明書を読みながらふてくされる 話題のすれ違い通信、パーキングエリアでちらほら。ネットで書かれているように田舎になればなるほどすれ違えない。Wi-Fi通信はネット環境が自宅にあるか、マクドナルドとか大型電化製品店に行かないと楽しめない。分かっちゃいたけど現実世界の格差がゲーム世界にそのまま移行している。友達は少ないし貧乏だけどあいつゲームだけはすげえ!という感じで友達を作れた子供はもうきっと出てこないんだろう。どこまで歩いても現実ばっかりだ。 で、ねえ、小学校一年生視点に立つとドラクエってこんなに難しいんだってことがよくわかる。まず漢字が読めない。全てに振り仮名あるわけじゃないし。漢字が分かっても語彙のレベルがやや高いかな。2ケタの数字がきちんと読めて今どれくらいの数か把握できないと回復のタイミングが分からなくてすぐ死ぬ。MPの節約とかも。泣きのストーリーもよく分んない。でも僕らだってそうだったし大人になってから振り返ってみてあのゲーム実はすげーみたいなこともよくあったから。天使なのにどうして盗みを働くのかも分からないし、職業が神様に与えられるのもよくわからない。分からないことが分かるの繰

8月30日のこと

もう時系列が存在しなくなったかのような思い出しブログなのである。 終わったことだがどうにも憤りが収まらないのは、再考裁判官の国民審査じゃなくて最高裁判官(うまい誤変換と一瞬スルー)の国民審査って、あれ白票が信任で×が不信任というちょっと誘導的な投票法で知られているじゃないですか( 最高裁判所裁判官国民審査 - Wikipedia )。こちとら素人だし判例も知らないし判断なんかできないというのが大方のところだろう。なので棄権したいという声も一つの選択だし、そもそも棄権も権利の一つだ。ところが棄権する方法が存在していることを、投票場所の人たちが知らないという話を聞いてビビった。これは山形マジでディスらしてくださいYO!。それどころか最初棄権を認めようとせず、こちらが強く言ったら「そんな人もいるんだなあ」とか言いながらようやく受け取ったという。その場にいたら厳重抗議だと思う。だって、めんどくさい言い方すれば、選挙権の侵害だろう。ってことは…とかもっとめんどくさいから言わないけど、田舎だからねえなどと許されることではない。百歩退いて審査法に問題があるとは言っても、担当者は勉強しておいてほしい。