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5月, 2012の投稿を表示しています

山田芳裕『文庫版 度胸星』

山田芳裕『文庫版 度胸星(1)-(3)』(→ amazon )を購入。90年代の連載時も読んでいたし、単行本も持っていたけれどまた買ってしまった。久しぶりに読んでみると、有色人種の大統領がいたり不況時に税金が宇宙開発費に回されることへの反対運動など、未来への予見が当たっているなあと思うこともしばしば。火星探索に向けた宇宙飛行士の試験もの、という意味ではモーニングで連載のナントカ兄弟の原型にもなっているのかね。 それにしても、山田芳裕が描く面白さは、ストーリーより、マンガの表現法に自覚的な所にあると思う(メタ視点がある)。山田芳裕のマンガを読めば、パースの取り方が異常だったりすることには誰でも気づくだろう。線もまた独特で表現に富む印象を持つ。でも本作の表現上の白眉は、多分誰がどうみても超立方体「テセラック」の描き方だろう。四次元の存在であることが示唆されているテセラックは、三次元ではあり得ない振る舞いをする。距離の感覚が三次元である我々では捉え切れないわけだが、マンガのお約束である遠近感を敢えてぶち壊すことで我々に「四次元の存在」であることを伝えている。二次元でね。ゆえにこれは映画では再現できないし、再現しようものならとたんに陳腐な作品になるだろう。 マンガの手法にメタな視点を持ち、それを描くのはふつうギャグマンガが専門フィールドだけれど、SFもハマりどころを見つければきっちりハマるもんだなあと改めて思った。四次元を二次元で書いてみせる方法は、短編「ウルトラ伴」でも実験的に描かれていたことは、ファンなら誰しも思い出すだろう(と書いていらっしゃる方がここにも→ 度胸星 )。 ストーリーというか、脚本もよくできているように思う(登場人物の魅力の描き方、エピソードのつなげ方など)。名作。 四次元を三次元の我々が「類推」のちからを借りて理解するには、以前触れたことがある( niji wo mita: 血液型ハラスメントというのはマジで存在するか )。

学問ノススメ(ポッドキャスト)

今年の前期は車で2時間くらいの距離のところまで非常勤なのだが、車の移動があまり好きではない。それは手持ち無沙汰になっちゃうからなのですね。音楽では間が持たない。昨年度は新幹線で移動する非常勤だったので、本読んだりできるのがすごく良かった(というか間違いなく都市部の読書を支えているのは電車による通勤時間)。それで、試しにポッドキャストを聞くようにしてみたらこれがはまった。 iPadに突っ込んだのはまずラジオ版「学問ノススメ」 ラジオ版 学問ノススメ Special Edition 。しりあがり寿、横尾忠則、高橋源一郎、川上未映子、内田樹、梁石日などラインナップはすごく贅沢で、まだ全部は聞いていないけれど、「なんかやってる」気持ちを保ちながら職場まで到着することができた。ポッドキャストっていいですね。ラジオ番組のおいしいところだけ抜いている点でものすごくインターネット的な感じがするけれど。あとは「ヴォイニッチの科学書」と「JUNKサタデーエレ片のコント太郎」を入れています。 ヒントは先輩がジョグしながらiPodに科学番組を入れて聞いているという話を聞いたこと。僕も体を動かすことは好きだけれど、体を動かすこと自体を目的とするのはなんかもったいない感じもあって、大好きな自転車でさえ基本的には通勤のかたちで生活に組み込んでいるわけですが。 「学問のススメ」で本日聞いたのは、高橋源一郎(『悪と戦う』について)と川上未映子、梁石日、渡辺謙。それぞれに良かったのだけど、ただインタビュアーにはもうちょっとがんばっていただきたい!作家が難しいこと言うのはしかたがないことなんで、わかんなかったらわかんなくていいじゃんか。分かったように相槌打って無理に番組成立させるより、分かろうとする姿勢で組み合ってほしいなあ、と思うのでした。じゃないと面白い対談にならないし、学問ノススメというタイトルなのに実質的なコメントが何も引き出せないことにもなる。梁石日の回なんて残念すぎるうえに質問や共感の言葉もちょっとどうかなあと思う連続でした。すごく良かったのは、高橋源一郎と渡辺謙ですが、両者ともほとんどインタビュアーなしで語り倒していました。聞き手を語り手が圧倒している感じ。 一方で、先日読んだ『ラップのことば』は聞き手とアーティストがうまく噛み合った良いインタビュー集だった。ヒップホップの

標準語の方が言葉の規範性が高いように思う

加藤重広氏「標準語から見る日本語の方言研究」(『日本の危機言語―言語・方言の多様性と独自性』,北海道大学出版会,2011所収)を読んだ。「標準語の背後に強い規範性があり、その規範性が書き言葉を基盤にしていること」によって、標準語の話者のほうが音声主体の方言話者よりも強い規範性を持つのではないか、という指摘が興味深い。ここで具体例として挙げられているトピックスのひとつが「二重ヲ格制約」といって、「花子が太郎をグラウンドを走らせた」と言えないというおなじみの話。だが、形態上の格を表示せずに「花子が、太郎、グラウンド走らせた」なら言えてしまう。また本書によれば二重ヲ格制約がゆるいケースはいくつかの方言で観察されるという。話を端折るが、要は書き言葉、およびそれを基盤とする標準語では形態上の格を常に表示することが正しいと思われるために、二重ヲ格制約が強い制約として現れるのではないか、という指摘である。 書きことばは書き手が客体化してモニターしやすいだけでなく、論理的たらんとする不断の圧力を受けている。重複表現に過敏に反応するのはその象徴的な例であるが、書きことばと最も親和性が強く、書きことばの規範性に強く影響される標準語の場合は、書きことばの規範性が運用や適格性判断にも直接反映することを指摘したいのである。(p.252) これには共感を持って首肯できる。端的に、山形と東京の人を比べると、ある意味では東京のほうが細かい言葉の使い方に異様にうるさい、と感じることがあるからである。ある意味というのはたとえば山形でもそういう局面に出くわすことはあるが、「周縁こそ中央の権威性が過剰に働く」ことによってそれが現れることがあっても、層が違うように思うからだ。このことは、書きことばに日常的に接することができる社会階層が、その地域のどれ位を占めているかという産業構造、所得と社会階層も含めたナイーヴな問題にも直結しており、標準語と方言が地政学的な力に大きく影響を受けているということでもある(言葉にうるさい「文化人」が都市部に集中しているのも同じ)。もっとも、東京の人のほうがうるさいかどうかは僕の周辺数メートルの人間関係でのことだから根拠を持って言えることではない。しかし標準語で考える文法性判断ではアウトなことが方言で言えてしまうこと、について書きことばの規範性の影響を考えることは大アリだと思

長谷川町蔵×大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』

長谷川町蔵×大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(→ amazon )面白かったー。2011年10月に初版が出て、もう4刷なのもうなずける。 ツイッターでごちゃごちゃつぶやいたけれど、ヒップホップの歴史が歴史を支えた機材と場の観点から語られていく仕組み。菊地成孔のジャズ解説本に近いテイスト。菊地成孔のような祭りの主体としての語りだけではなくて、引いた目線が強調されているのが入門者にはありがたい。というのもこの本は対談形式で、ひとりがヒップホップに造詣の深い音楽ライター(長谷川氏のほう)、もうひとりがどうしてもヒップホップが好きになれなかったけど最近好きになったというアメリカ音楽研究者なのですね(大和田氏のほう)。後者の視点によりそって読めてしまうのが良かった。それでいて大和田さんはアメリカ音楽史の研究者でもあるようで、カルスタ的な切り口で解説を加えてくれるのがまさに「文化系のため」。粗野でリア充で爆発しろでマッチョなヒップホップを、きちんと「僕ら」が受け入れられるようにしてくれる。 ただ、ここに書かれているのはブロック・パーティー期から東西海岸、すなわち西海岸のギャングスタ、ほんで色々あって今のヒップホップというアメリカの流れ。なので、強烈に知りたくなるのは日本のシーンはどうだったのよということ。お二人の仕事ではないだろうけれど、もし機会があれば日本のヒップホップシーンのこともこうやって読んでみたい。 本書を通じて分かったのは、ヒップホップでは「場」の要素がすごく強いということだった。そもそもレペゼンという言葉からして地元愛バンザイなわけで(ようやく意味を知った)、ヒップホップを外巻きに見ている我々が往々にして揶揄する「俺とダチ」「ダチは大事」みたいなことは、音楽自体が地元のやんちゃな人間関係を支えとして生まれたことからすれば当然の表現と言える。文化系男子はまさにそれがうざいので、それゆえに敬愛するうすた京介のマンガによく見られる「ヒップホップフォビア」的なくだり(『ピューと吹く!ジャガー』(→)に見られるハマーの徹底したオレ語りとか)には僕も強く共感したわけだ。 閉鎖的な距離の近い人間関係は逆に敵を外部に作ることで盛り上がるわけで、ヒップホップの技術でもって「オレのほうがスゲエ」をやりあうことが技術の底上げにもつながり、プロレス的な楽