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2月, 2011の投稿を表示しています

春の訪れ

職場から自宅に自転車で向かうおり、顔に当たる夜風が痛くないことに気がつく。真っ暗な田圃道を通りゆくと、突然カラスが羽音を立てて飛び立った。少し前までは、溶けかけた雪が田んぼを覆っていて、鳥が羽を休めることはできなかった。沈丁花の香りが漂っているような気がして、そんなはずはないと思う。

健全なシステムの一因子であると信じること

所属の短大で地域のシンポジウムがあった。で、大学がなぜ地域を看板に出すとこけるか、よく分かったことがある。我々大学関係者が呼んでいる「地域」は、多様な魅力を発見してほしい、新しい魅力を発見してほしい、あるいは連携してほしいというけれど、そう声高に言う自称「地域」とは多くの場合ある種の既得権益に結びついた集合体なんだな。だから、一歩もその「地域」から降りる気がない。大学も本当はその既得権益集団からおいしい汁を吸いたいから、本気で地域と付き合う気もない(おいしいところと付き合いたい)。 何かと何かが交流するということは、どちらも主体が変化するものであって、そうでないのに交流し続けるものは基本的には搾取だ。地域との交流はそこにこそ気を付けないと、きっとうまく行かないのだろうと思うし、だからこそほとんど地域社会住民は地域おこしを真に受けていない。そこに地域社会のシステムの健全さを見る。このシステムはそう捨てたものではない。きちんと淘汰されるものは淘汰される。 もっとも、マクロで見れば、それが何がしかの具体的・抽象的インフラにつながっていくケースもあるだろうし、そこから否定してかかるわけではない。しかし、そうか、ここで言われている地域とは、全然多様な視点に基づく地域ではなかったな、ということがよく分かって面白かった。 僕は大学と地域の連携には広い意味で賛成しているし、だからこそすでにささやかながら色々なところで関わりを持っている。それをナイーヴに降りるつもりはない。自称「地域」の人たちに何かを言わないのであれば、たぶんすでに僕らは降りている。それは、大学のエライセンセイが上からモノを言うのではなくて、対話の次元にきちんと身を置くということだ(相互に権力の差分をできるだけ減らすよう努力して)。そうできるためのポジションを死守することが、もし大学と地域の連携がありうるとして、地域と付き合える大学の主体として正しい姿なのだと思う。そうでない地域連携は、たぶん違う形で、違う何かから別の搾取を生み出しているだけなのだ。 そしてそれはこの健全なシステムを持つ僕らの社会がいずれきちんと淘汰する。僕も、このブログの記述も、そのシステムの中の小さな不確定因子の一つなのかもしれない。そう思えたら、少しだけ気が楽になる。

雪溶けの家

週末はまたも妹夫婦の家に。なぜか知らんが、本当に落ち着くわー。写真をぼちぼちあげときます。 この机でだらだら仕事したりすんのがいい。この机をくれ。でも置き場がうちにはない。 こいつが頻繁にアップデートとか言わなければもっといい。ウインドウズをたまに立ち上げるとすぐこういうことになるからね。作業を開始するまでに30分以上かかるってどういう。 連休の雪も溶け始めて。 つららになれなかった雪解けの滴り。 この晴天が太平洋側の醍醐味だよねえ。 日陰にはまだ雪が残り。 ガラクタ置き場兼作業場みたいな場所。子供の頃よく忍びこんで探検した、みたいな(記憶を捏造)。 正体不明なショーケースみたいな棚。 お風呂のために薪割り。スコーンと決まるとすごく気持ちいい。 たったこれだけなのに翌日は腕に力が入らない。腰も心もとない感じ。日野晃(→ 日野武道研究所 )さんの身体の使い方に興味があって、薪割りの動画をちょっと前にずっと見ていた。 足のほうから力を伝えていって、手まで持ってくるイメージ。少し参考になったかも。薪割りをずっとやっていたら、妻から「フォームが変わってきた」だって。 まあ、ここで何がやりたいというわけでもないんだけど。子どもも思い切り遊べているので、親としても気が楽なんだなー。

特殊能力

人にすでに聞いたことを、自分でわざわざ調べあげたりして、その発見の感動を教えてくれた当人に伝えるという驚異の特殊能力を自分が持っていることに気がづいた。「それもう言った」「私が教えた」「誰から聞いたと思ってんの?」、考えてみれば、人生の様々な局面でそんなシーンに遭遇し続けている自分は、超能力者だと思います。 さて、今朝は今朝とて進行方向別通行区分のCDをくれた山下くんに「あれ相対性理論に似ているって言われた」とか「手に入らないからすごい値段が付いているんだね」とか電話したら、それは僕にくれた時に全部言った、という(進行方向別通行区分は相対性理論のメンバーのひとが相対性理論に疲れたときにやるバンド)。特殊能力発動!このスタンドに誰か名前をつけてください。 ともあれ、聴けば聴くほど味が出る。車の中で、家族一同ずっとこの音楽をきいていて(3歳児が口ずさみ出すほどに)、うちのオクサマが「これは歌の初期衝動である(意訳)」とのたまうほどの評価をお出しになった。 むかし、むかし、おじいさんと、おばあさんが むかし、むかし、おじいさんと、おばあさんが むかし、むかし、ほおじいさんと、おばあさんが むかし、むかし、おじいさんとー もしも手塩にかけた、いもが、あおりいかなら もしも手塩にかけた、いもが、かものはしなら やべの、やべの、やべの、あべの、やべの彼女は43 (以下略;このあとの算数がすてき) とこういう感じが、うちのオクサマのいう初期衝動だということが分かっただけで人生もうけものです。古事記に記される和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」なみに衝動を感じるとのたまうオクサマとの、この結婚は心底大当たりだった。 このあとスチャダラパーを流したら、自意識が気に食わない、もういちど進行方向別通行区分を聞かせなさい、と。歌いたいから歌う!食いたいから食う!意味などいらねえ!というもはや地獄のミサワであろうかという価値観。俺もそう思えてしかたがないです。進行方向別通行区分のひとが、ホントは橋本なんだけど田中と名乗っているひとが、バンドの形を借りた濃密な遊びなんです(意訳)ということをおっしゃったそうだが、最高の遊びだと思いました。 進行方向別通行区分の話がいつの間にかノロケ話で終わろうとしているのが自分でも意味不明だが、今日は国生の日なので、いいということに

この道はいつか来た道

「まぶしい」と「うれしい」は似てるね、と3歳の娘が言う。語形上の類似は、品詞のグループの根拠なのだけど、逆の側から発見すれば、似ている不思議となってあらわれる。その、ことばとの出会いを、僕らは忘れている。 留学生から、インタビューに応えて欲しいというメールが来た。「お返事くださければありがたいです!」は、「ください」をイ形容詞の活用に類推した、いわゆる学習者の誤用。添削するのは簡単だけど、僕らも似たような道を歩み来た。その、ことばとの出会いを、僕らは忘れている。 昨年の研究会で聞いた発表に、小学校低学年の児童がやりがちな、鏡文字の話を聞いた(うちの子どももよくやる)。作文用紙の一行目に、「お」が左右逆さまになった鏡文字。次の行に、もう一度鏡文字。その次の行に、「お」の第一画を極端に右から初めている正式な文字。第一画を書いた直後に、鏡文字であることに気づいて、無理やり修正し、自分で正解に至ったプロセスがそこに読み取れる。そのまた次の行に、きちんとした「お」。文字との出会いを、慣れていくまでの道のりを僕らは忘れている。 成長した道のりを、僕らはすっかり忘れている。いまでは当たり前にこなせてしまうから。でもその途中では、たぶん驚きや、不思議に思う気持ちや、苦しい道のりを歩いたはず。正しさの適用、いまだ成長半ばへの叱咤の現場では、僕らは通った道を忘れがちだ。自分を思い出して、寄り添うような歩き方は、教育の現場に身を置く者だけの責務ではない。人事、採用担当の人も、学生を目の前にしたときに、そのことを少しだけでも思い出してほしい。