所属の短大で地域のシンポジウムがあった。で、大学がなぜ地域を看板に出すとこけるか、よく分かったことがある。我々大学関係者が呼んでいる「地域」は、多様な魅力を発見してほしい、新しい魅力を発見してほしい、あるいは連携してほしいというけれど、そう声高に言う自称「地域」とは多くの場合ある種の既得権益に結びついた集合体なんだな。だから、一歩もその「地域」から降りる気がない。大学も本当はその既得権益集団からおいしい汁を吸いたいから、本気で地域と付き合う気もない(おいしいところと付き合いたい)。 何かと何かが交流するということは、どちらも主体が変化するものであって、そうでないのに交流し続けるものは基本的には搾取だ。地域との交流はそこにこそ気を付けないと、きっとうまく行かないのだろうと思うし、だからこそほとんど地域社会住民は地域おこしを真に受けていない。そこに地域社会のシステムの健全さを見る。このシステムはそう捨てたものではない。きちんと淘汰されるものは淘汰される。 もっとも、マクロで見れば、それが何がしかの具体的・抽象的インフラにつながっていくケースもあるだろうし、そこから否定してかかるわけではない。しかし、そうか、ここで言われている地域とは、全然多様な視点に基づく地域ではなかったな、ということがよく分かって面白かった。 僕は大学と地域の連携には広い意味で賛成しているし、だからこそすでにささやかながら色々なところで関わりを持っている。それをナイーヴに降りるつもりはない。自称「地域」の人たちに何かを言わないのであれば、たぶんすでに僕らは降りている。それは、大学のエライセンセイが上からモノを言うのではなくて、対話の次元にきちんと身を置くということだ(相互に権力の差分をできるだけ減らすよう努力して)。そうできるためのポジションを死守することが、もし大学と地域の連携がありうるとして、地域と付き合える大学の主体として正しい姿なのだと思う。そうでない地域連携は、たぶん違う形で、違う何かから別の搾取を生み出しているだけなのだ。 そしてそれはこの健全なシステムを持つ僕らの社会がいずれきちんと淘汰する。僕も、このブログの記述も、そのシステムの中の小さな不確定因子の一つなのかもしれない。そう思えたら、少しだけ気が楽になる。