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10月, 2007の投稿を表示しています

MS-Wordの出荷時設定どうにかせえよ

 MS-Word大嫌い。余計な仕事を増やすから。これはそういう記事です。  なんでさあ、MS-Wordはデフォルトの設定で余計なことをするのかな。行頭に箇条書きのための「・」を入れて文を作成して、改行すると自動的に次の行も箇条書きが設定されるのかな。行頭にスペースを入れてインデントを調節しようとするのも不慣れな人の特徴だけど、それで改行すると次の行も勝手にインデントされる。不慣れな人はそれをまたスペースで調整しようとしてドツボにはまる。  もちろん、こうした迷惑極まりない機能は設定で変えることはできるけど、パソコンに不慣れな人間にとっては設定変更という解に至るのも困難だ。こうしたトラブルは、パソコン初心者に起こりがちなことだけど、実はパソコンスキルの問題ではなく、日本の文書の書き方が原稿用紙発想であることに由来する。印刷結果が先にあって写植でもやるような感覚で書類作成するからね。内容と書式が発想上分けられていない。でもそれはそういう発想が改められるべき旧弊というわけではなくて、それが日本のやり方なんだってこと。  だから、マイクロソフトは日本出荷用の分はデフォルトで改行しても前の段落の書式を一部継承しないような設定にすべきだ。そうでないとスペースが混じりまくって滅茶苦茶な書式を前に収拾の付け方が分からなくなって途方にくれる人が今後も多数出てくる。日本では今後も原稿用紙を使った小学校教育を続けるだろうから、この発想は将来的にも日本の書類作成の基層となるだろう。  どつぼった人を助けるのにはもうマジで辟易。ねえ、エディタで文書を書けよ。どうせ本当に見栄えが必要な書類じゃねえんだろうが。ちょっとしたメモまでワードで書くなんてどうかしてるよ。いっそTeXでも覚えてください。つきあってらんね。

ムーヴィンアワゲロ

 榎本俊二『ムーたち(2)』(→ amazon )、幸村誠『ヴィンランド・サガ(5)』(→ amazon )、羽生生純『アワヤケ(3)』(→ amazon )、しりあがり寿『ゲロゲロプースカ』(→ amazon )。感想はいずれ。

iPod問題

 同僚にiPodを借りた。iPodで楽しんで曲を聴くのは初めて。素人が音質にどうこう言うなと叱られそうだが、以前iPodをためさせてもらったときに、音の悪さにがっかりした覚えがある。mp3の圧縮が問題なのかiPodが問題なのかその辺は専門のかたの御高説をうかがうとして、素人の僕の感覚では少なくとも5年位前とは音が全然違うように思った。ヘッドフォンだけボーズの(→ これ )に代えると、利便性だねーとか言えていたのが、おおっ実用にも耐えうるな、というレベルに。いいかも。出勤はど田舎ゆえの車だし、来年は家族が山形に来るので関東との電車による行き来もずっと減るだろうから、どれくらい使うか分からないのに購入意欲だけは跳ね上がってしまった。どうする。

はんぶんずっこ

 共同研究の書類が上がって、学生の添削の山も一段落して、あとはあれとあれとあれ。アマゾンで注文した『実践エスノメソドロジー入門』がなかなか面白い、のだけど寝ないと風邪が治らない30代半ば。きちんと栄養を取って睡眠もそれなりに取っているのに、なぜ治らないのだろうかと溜まった仕事の前で焦燥感と、本やマンガの誘惑とに身を引き裂かれる思い。人生の苦難の半分はまちがいなく自業自得です。残りの半分はたぶん自業自得です。寝ます。

右脳左脳

 時計回りに見えれば右脳型、逆に見えれば左脳型らしい(→ The Right Brain vs Left Brain )。   carnation,lily,lily,rose+ に教わった。最初、どちらに回っているか見極められなくて、じっと見ていたら左回りに見えた。どうしても左回りにしか見えないのでアクセスしたipなどの情報によって自動的に回り方を切り替えているのかと思っていた。しかしぼーっと見ているうちに、これはやっぱり見え方によって右回りにも見えることが判明。僕の場合、無理やり右回りに見ようとするとちょっと目が疲れる感じがする。左回りで見ると楽ちんな感じ。回転を変えるためのコツは、向かって右側の画面に女性の手が回りこんだときに、向こうへ行くように見るか、手前に向かってくるように見るか、そこだけを思い込み続けながらじーっと眺め続ける。突然逆に回るように見えますよ。どういう仕組みかは分からないけど。  コメント欄には、これはトリックだ!って書いている人がいて、その次にいやこれはトリックじゃないよって書いている人がいる。人間の思い込みは強い。

南斗紅鶴拳

 来月の学会出張のために旅行会社に出向いたら、ちょっとあり得ない名前の記述ミスがあって面白かった。僕は名前に「鶴」の字が含まれるのだけど、名前欄には「鶴」であるべきところが「通」と(それでも振り仮名欄に「カク」とあったことには激しく突っ込みたかったが)。そのようなミスを誘導する何かを僕は言ったろうか?と思うに、「漢字はトリのツルです」が「漢字はトーリのツウ」と聞き間違えられたんだろうと気づいて苦笑。今後このようなことを引き起こさないために、「笑福亭鶴瓶の『鶴』です」「賀茂鶴(広島の酒)の『鶴』です」「竹鶴(ニッカ)の『鶴』です」それか「「男塾に出てきた飛燕の、鶴刺千本の『鶴』です」とかがいいんですかね。どうですかね!漢字の説明で困ったときはこのサイトだ。 漢字説明ジェネレータ 。

自虐の詩

 業田良家『自虐の詩 上・下』(→ amazon )。声に出してわんわん泣いたマンガって吉田秋生『BANANA FISH』の番外編「光の庭」以来で、風邪をひいて弱っているからだとしか思えないと照れ隠しに書きたいくらいに泣いた。持病の発作的な泣き方で、ようやく落ち着いたふー。これに太刀打ちできるのは芸風的にサイバラくらいだろう。二階堂正宏『極楽町一丁目』(→ amazon )みたいな、あるいは和田ラヂオミーツ尾崎方哉みたいなワビサビペーソス系かと思って油断してたらどんでん返しされた。やばい書いててまたもアレな感じが…。うわーん。例によって映画のほう(→ 公式サイト )にはほとんど興味ないふりするが(実際のところはこらえしょうがないだけです)、堤幸彦監督で阿部と中谷なのでミーハー的な根性がふつふつと。  84年から90年の連載ですか。この時期は吉田戦車『伝染るんです』とかホイチョイ『きまぐれなんとやら』とかが調子ぶっこいてた、僕が妙に嫌いな浮かれたスピリッツ最盛期と重なっていて、明らかに本作は時代の空気を読んでないな(笑)。リアルタイムの衝撃ってどうだったんだろう。4コマ形式を生かしたギャグだったのが、後半から過去と現実を行き来して、最後はストーリーマンガとして一気呵成に突き抜ける。wikipedia「 4コマ漫画 」の項目を読むと、登場人物の関係がさほど変化せず物語が水平方向に枝葉を広げて行くタイプと、時間軸に沿って(ときに遡ったりして)物語が垂直方向に延伸して行くものがあるようで、本作は間違いなく後者。4コマストーリーものが増えていくのはこれ以降だろうか。4コマではないけれど1989年以降にはヤンマガで連載の「ヨシイエ童話」も読んでたなあ。あれとかぶる時期にこんなに濃いマンガを描いていたのか。 (追記)  この、4コマギャグからストーリーへの展開にやられたのは、こうの史代『長い道』(→ amazon )に近いものがあると思った。あっ、思えば似ているところがたくさんあるね!

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

 赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(→ amazon )読了。民俗誌(エスノグラフィー)的な読みものとして、またはある種の実録ものとして大変面白く読めた。「童貞処女が結ばれる美しい結婚像」が近代以降の虚像であるとするには十分な鉄槌だけど、これをもって近代以前の農村における性規範が客観的に描けているかというとそれはチガウと思った。文化人類学の参与観察でいわれる、「観察者の視点が対象を大きく規定する危険」が全体的にどんより漂いすぎ。生き生きとした会話のやり取りも、ドキュメントを書き溜めてではなく、記憶をたどって物語的に再構成したもの(であることがわかる)。こういう質的研究(⇔量的研究)は研究者の体を通って出てくることについて最初から客観性を確保することなんて考えず(そんな客観性なんて信じてないから)、むしろ研究者が対象との相互行為を通じて構築された物語?を分析するってところが醍醐味なんだろう。  とか思ってたら思い切り量的な研究であるところの抜き刷りが届いた。自分用抜き刷り渡されても本当に困る。誰かにあげる予定のない包みがこうして部屋の片隅にまた積まれる…。論文なんてそもそも雑誌で読めばいいと思うし、必要なら自分でコピーするでしょう、というのはあまりに相互行為を重視していない発言ですかね。

やっと見つけた…

 大学3年生ごろ、某所でアルバイトをしているころに創刊したスーパージャンプで連載されていたマンガの情報をネットで見つけたのでメモ。「大人のないしょ話 ~トビーとエルカのドキドキ日記~」。  国会図書館にでも行って確かめればいいんだけど、そこまで情熱がわいてくるわけじゃなくて、でも気になってしょうがなかったマンガ。13年前から、あのマンガはいったい何だったんだろうとずーっと思っていた。これ短期集中連載で、読者の声欄でも惜しまれながら終了した作品だったと思う。で、当然作者は何者?という疑問の声もあったのに、編集部は「作者の意向で正体は明かさないことでよろしく」みたいなコメントだった。手塚っぽい絵柄から、手塚プロ関係の人かと思ったりもしたのだった…。作者の上北ふたご(→ wikipedia )はアニメーター出身なんだね。 479 名前: 家庭教師じゃなくてメイドさん 投稿日: 2000/11/09(木) 16:36 >429 1994年発売のスーパージャンプに掲載された 「大人のないしょ話 ~トビーとエルカのドキドキ日記~」 ではないでしょうか。 当時、私も手塚プロっぽい絵柄だと思ってました。 短期集中連載にするには惜しい作品だったと思います。 作者の上北沢ふたご氏はこの作品が初連載だったそうですが これ以降の作品はあるのでしょうか。 ( 身元不明漫画捜索願スレ )より

銭ゲバ90分

 ジョージ秋山『銭ゲバ』(→ amazon )が文庫化されたので、やっと読むことができた。1970-71年の作品。人生の苦難が自分だけのものであって、他の人からの安易な共感も心をさらけ出して誰かに許しを請うことも、決して許さずに自分を守りきった最終章は、30年以上経つのに普遍的な力を持つなあと思う。  昨年『アシュラ』(→ amazon )が読めたのも幻冬社文庫のおかげ。このほか『教祖タカハシ』『日本列島蝦蟇蛙』『告白』あたりも読みたいので幻冬社さんに期待したい。ちくま文庫あたりでもいいや(無理でしょうね)。リアルタイムで読めたジョージ秋山は『海人ゴンズイ』『浮浪雲』『ラブリン・モンロー』『フィッシュ・ラーゲ』『戦えナム』くらいだけど、どれもキモトラウマで各誌連載では避けるように読んだりしていたのに、院生活終了ニート以上フリーター未満生活のなかで突然肯定的に読めるようになった。遅すぎる、と我ながら思うが、読めずに逃げ切る「幸せ」な人生というのもあり得たと思えば、この「不幸」を喜ぶべきか。

論理は言語じゃない

 うわっ、マジですかー。思わずウェブ魚拓を取ってしまった。 「 新入生に「日本語の文章講座」、論理的思考力を育成…早大 」(→ yomiuri online )。何に驚いたって、「日本語を専門的に学んだ大学院生が添削」ってところ。 「日本語の文章講座」では、2か月間、毎週違う課題が与えられ、添削は、日本語を専門的に学んだ早大の大学院生が担当。論文の提出と添削はインターネットを通じて行うことが検討されている。一つの新聞記事に対し賛成や反対の立場から書かせたり、自分で決めたテーマについて論理構成を意識して記述させたりするという。  それって日本語学の人ではないよね。だとするとどのジャンルの人を指すのだろう?どの大学でも、「文章表現」みたいな授業は日本語学よりもむしろ文学の人が担当するように思うがどうか。日本語学の人でも、まあできるけども、日本語を専門的に学んだ人=日本語学の人だとするとそれはちょっと違うのではないかと思った。  ていうかこういうときに言われがちな「日本語」って、論理構築力であったりするので、誤解を生むと思う。こうやって記事にされちゃうと、強化されるべきは「日本語」ってことになって、ほらすぐに母語は大事って言い出すでしょ。もちろん論理は言語で構築されるし、論理そのもののは言語に制約されているのも分かるけど、論理が言語そのものというわけじゃないんだから。

cocco途中まで・natsumen

 とりあえずアマゾンから届いたcoccoのアルバムを順番に聞いている。1997年のブーゲンビリア、1998年のクムイウタ、2000年のラプンツェルあたりは、あーこれcoccoの曲だったんだと当時の雰囲気を思い出したりした。結構ラジオで聞いていたんだなと思う。学生にcoccoのボーカルって誰ですかとか聞かれるんだけど、coccoはバンド名だと思われてるのかな?  軽妙洒脱な心躍るようなリズムやメロディはない。椎名林檎と並ぶタマだというamazon評を読んだので、なんとなく椎名林檎的なものを予測していたが、椎名林檎よりずっとおかしくて素敵な領域に近いように思う。情念や怨念に関してこれだけ正直に歌えるなんて、恐ろしい人だなあ。公式サイト(→ cocco official site )をクリックしてゆくとポップアップで立ち上がる本人のビデオを見てやっぱりそうだと確信した。  よーしあとはサングローズとザンサイアンだと思ってたら、NATSUMENの "never wear out your summer xxx!!!"(→ amazon )が届いてしまった。部分的には聞いたことあるけど、アルバムとして聞くとまた違ったように聞こえるのが不思議。この人たち(元BOAT)の音楽ジャンルを問われるといつも困る。まああえて言えば、サイケカオスエモプログレ?いやプログレはないか。

ミニマルGT

 旧サイトでも触れた(07/07/28参照)ことだが、ここ山形村山地域は無アクセント地域である(単語のアクセント位置が決まっていない)がゆえに、関東で弁別できていたアクセントだけを異にするミニマルペア(最小対→ wikipedia )の聞き間違いと、それによるコミュニケーショントラブルが起こることがまれにある。これは僕が有アクセントの言語話者であり、アクセントに依存した談話理解をしていることによる。これぞまさに異言語接触というやつだなあとつくづく思う。  ところで、無アクセント地域の言語話者はミニマルペアをどうやって処理しているのだろう、お互いに誤解したりしないのだろうか、と常々思っていたことが、今日仕事のなかでのちょっとしたやり取りの中で観察できた。 印刷物について2色カラーの配色をどうするか、という会話で、「じ」の色をどうするかという文脈が発生した。「字」(高いアクセント)の色と背景の「地」(低いアクセント)の色の2つの意味が、どちらも同じくらいありえる状況である。つまり文脈だけではどちらか判定できない状況が生じたわけだ。説明に当たっていた女性は、「地」を表すために「文字じゃないほうの「じ」なんですが…」と切り抜けたのだった。  簡単にいうと、ミニマルペアの取り違えによる誤解が生じそうになると、補助的な表現を加えるということだ。でもそれって、有アクセントの世界でも普通に起こっていることだよね…。

ふつつ二日酔い通い

 仕事のファイルが見当たらない…。デスクトップに置いておいたのをうっかり削除してしまったらしい。らしい、つうか一時間後に使うファイルなんですが…。ゴミ箱は定期的にからっぽにしているので、急遽ファイル復旧ソフトで検索掛けまくるも処理が遅くて間に合わない予感。というわけで新たにファイル作成にいそしむ30代男性(ふつつか通い)のキータッチはいつもより気持ち多いミスタッチを交えつつ微妙に汗ばむ心地ぞする。

いろんな使い方があるね

 サーモスの真空断熱携帯マグ(→ amazon )が重宝している。500MLなので、マグとは言いながら一人暮らしにはほとんどポットとして活躍しているんだけど。コーヒーメーカーで淹れたコーヒーをサーバーに置きっぱなしにしないで、すぐにマグに入れると、変な酸味もエグみも出てこないし香りも落ちない。出先にも持って行けるので大変便利。もちろん熱燗は入れちゃダメです。ダメですよ。ちうわけで、仕事仕事ー。

ちゃんと返還してください。

HUNTERxHUNTERが今週も掲載されてるよ…。こんな喜びがこの1年半あった廊下。いや内。どういう変換だ。しかも宮殿突入前の濃密な心理戦がすごすぎる。突入3分前にしていまだ予測できる可能性を最大限模索し続ける主人公たち、功名心と限られた仏性じゃねえ物象でストーリーを組み立てようとする敵脇キャラとか溜まんない門があるね。待って他界があったよ。どうにかなんないのかこのMS-IMEのアホは。

CiNiiの読みがサイニイって微妙

 どうしても聞きたい学会発表があって、東大へ。東大侵入は院生のときに、友人と原書の輪読会やってたとき以来だった。思えば、赤門って一度もみたことなかったかも。発表はいろんな意味で有意義だったんだけど、それよっかかつての友人が大著を上梓していて驚いた。すごいなー。で、その友人の名前で検索かけてみたら、 CiNii(Nii論文情報ナビゲータ) にぶつかった。これ、検索結果をbibtexの形式で表示できるのだね。気づかなかった。メモメモ。本文自体もいくつかはPDFで公開されている様子。でも理系とか経済系の論文がほとんど。まれに日本語学でもPDFが公開されてると思ってクリックすると新刊紹介が表示されてガックリ。これが訓点語関係の論文だと本文が公開されてるけど有料で残念(知ってたけど)。研究論文をお金で購読するって、どうなんだろう。ざざっとPDF公開されてる医学系の論文をクリックする限りは、課金はなされないようだ。研究論文って購入する性質のものだっけ?  TeXで論文書くくせに、bibtexはいまのところ使っていない。理由は末尾の参考文献を提示するところで、著者名,刊行年,論文名,雑誌名・号数などを自分のスタイルにカスタマイズできないので(そういうののスキルがないので…どなかたご存知でしたら教えていただきたいです)。一時、やっきになってトライしてたんだけど、そこに時間をかけるなら中身を書こうと逃げました。

「和梨」という言い方、する?

 ラフランスの季節になったので、お世話になっている人たちに数箱送った。第一陣。これから本格的なシーズンになるらしいのでいずれ地元のお店はラフランスだらけになるのだろう。  果物立県の山形では梨のことを「和梨」というようだ。少なくとも関東の感覚では、梨といえば日本の梨のことを指すから、特に和梨とは言わない。言語学には音韻論から発達した有標と無標という考え方があって(→ 標識の項目 ,wikipedia)、自然なものには標識がつかない=無標[unmarked]、特異なものには標識が付く=有標[marked]という考え方をする。例えば、エビは海に住んでいるものの方がより自然と考えられており、川には普通住んでいないと考えるので、川に住むものを「川エビ」と言って(最近食べてないなあ)、海に住むものを「海エビ」とは言わない。人間の脳は、世界をフラットに見ているわけではなくて、特殊と認知されるものに特殊なラベルを当てることで(特殊なラベルを当てることで特殊と認知されるともいえる)、認知活動の労力を最小限にとどめているわけである。  「和梨」という言い方は、(国内最大の採録語数の)日本国語大辞典にも採録されていない。おそらく、本来は限られた業界での言い方なのだろう。洋梨が日本に入ってきた段階で、外来種と区別するために作られた言い方と推測される。それが、果物の流通業などを通じて広まった言い方なのかもしれない。山形でこのような言い方が人口に膾炙するのは、流通業の他に、スーパーなどで日本の梨と同じ頻度で西洋梨を見ることがあるという状況が絡んでいるのだろう。つまりここでは日本の梨は関東その他で感じ取られているような自然さではなく、西洋梨と同程度に特殊と感じ取られていると考えられる(c.f.「西洋からし」に対して「和からし」とは言わない)。  こうした有標と無標の政治性(多い方が自然で当たり前)に対抗するために生まれたのが「政治的に中立な言い方」[politically correctness](→ ポリティカル・コレクトネス ,wikipedia)で、chairmanがchair-personと言い換えられたりするやつだが、まさか梨がポリティカリーコレクトで和梨って言われるようになったわけじゃないよね。

受容できたりできなかったりの日々ですが

「田舎暮らし なじめず眠れない」(→ Yomiuri Online 内)これはちょっと笑えない…。  40歳代主婦。子どもが2人います。東北地方の小さな町に住んでいますが、なじめません。県庁所在地まで車で2時間以上、電車は1時間に1本です。  私は関東地方で育ち、独身時代は海外出張も多い生活でした。結婚する際は、交通の便もよく、文化施設も多い県庁所在地に住む予定でしたが、夫の仕事の関係で今の町に住むことになりました。  義父母は近くに住んでいて、毎日訪ねてきます。私は手料理でもてなします。私は自分の実家へはほとんど帰れず、コンサートへ行ったり映画に行ったりということも望めません。世の中にこんな不便なところがあるのかという思いです。  子どものために明るく振る舞うようにし、庭に畑を作るなど前向きに暮らそうとしていますが、やはり落ち込んでしまいます。(下略)  この人、東北生活何年目だろう。映画やコンサートに行く機会がなかなかない、というのは、もともと映画にほとんど行かない僕としても分からなくはない(ないない尽くしの文章だなこれ)。都市から地方に移ってくると、まるで過去の自分がエスタブリッシュされていたかのような錯覚に陥るので、新しい自分を劣化ととらえてしまう結果、凹むんだろう。要は新しい場所で新しい価値観を構築できるかという問題なんだけど、これは口で言うのは簡単だがなかなか難しい。  でも、実はこの相談者に一番共感できる、きっついのは、「義父母は近くに住んでいて、毎日訪ねてきます。」ってところ。義父母が毎日、というところはさておき、なんだかご近所に監視されているような気になってくるんだよね…。より正確に言えば、ご近所の価値観で自分が日々測られているのが分かるんだよね…。なので、コメントを付けている心療内科医の次の言葉は、ちょっと的はずれに思えてしまう。 主婦、母親という仕事をきちんと責任を持ってなさっているあなたが、自分の時間を作ることは決してぜいたくやわがままではありませんよ。精神科に行くより、コンサートに出かけることをお勧めします。  それは全く正論なんだけど、それがまたある種の価値観で測られてしまうというデフレスパイラル…。そんなことよりも、同じ価値観を持つ友人を緊急に探すことをお勧めします(笑)。俗っぽい言い方だけど、視線に踏みこたえるには理解者を1人でも増や

なぜいまさら?

 昨晩、どういう経緯かすっかり忘れたが、youtubeでcoccoを流しているうちに、アマゾンでガバッと購入していた。やばいなー。ブーゲンビリア(→ amazon )、クムイウタ(→ amazon )、ラプンツェル(→ amazon )、サングローズ(→ amazon )、ザンサイアン(→ amazon )、つーわけで復帰後1枚目、4部作合わせて5枚。ユーズドストアで集めたら、5枚で送料合わせて6千円くらい。以前からこのひとを、いつでも瞳孔全開的な天然危険性を帯びているということで、やや遠巻きに眺めてきたのだが、やっぱりそういうひとに僕ははまりやすい、はずである。なぜいまさらcocco?そしてちょっと前にはハルカリとスチャダラにはまっていた僕に、なぜいまさら?どれもこれまで敬して遠ざけてきたものばかり。

首痛い

 生活のリズムや食事内容を整えながら、書き物の方も遅々としながらも再開。今朝は、荒れ放題だった庭を少し手入れして、ご近所さんにも生きていますアピールをしつつ、たまっていたゴミも始末する。やってみてやっぱり首が痛い。むち打ちの余震がまだ続いている。今日は鍼を予約しているのでちょっとくらい無理してもどうにかなるだろうと思う。そろそろ、追突事故の件も示談してしまいたい。保険屋さんとのゴタゴタが喉につっかえている。今朝は、一昨日作ったおでんと、昨晩作ったマイタケとヒラタケの炊き込みご飯、ししとうとエノキのおみそ汁。

ダッシュ帰宅

 偏頭痛後の軽いめまい、文字を読んでいる時の酔った感じなどがなかなか取れない。一日で終わるような小さな仕事なら問題ないが、ある程度の準備やスパンを必要とする仕事となると気持ちが負けてなかなか手に付かない…という状態を打開すべく、職場にはできるだけ遅くまでいない作戦で、とっとと夕方に帰宅してきちんと食事を作ってお風呂に入ってさあ仕事、の合間がここ。毎日夕食が9時過ぎって一昨年からすると考えられないな。体に良くないに決まっている。写真で説明すればこんな感じ。 レンコンとヒラタケのおみそ汁、鮭のムニエル・甘なんばん・エノキ、おでん、自家製梅酒。あれ、ここまでがんばるつもりだったかな?体はすっかりくつろいでいる様子。頭はちょっといい意味でぼんやりかなあ。

私的スター登録4件目

 山形は一足お先に完全に秋の夜、というとどういうわけか焼き魚定食が食べたくなるわけだが、ついにいいお店を発見。物静かなおじいさんとおばあさんが二人で切り盛りしており、過剰な商業的なふるまいもないし、かといって無愛想でもない。これといった新しさやきれいさはないけれど、店内は細かく手入れされている。本日の焼き魚定食:赤魚の焼き魚、菊の花のおひたし、わかめの酢の物、おしんこ、おみそ汁、ごはん。料理も丁寧に作ってある。カウンターではマグロをつまみながら静かに生ビールを飲む、仕事帰りの単独女性客。  完璧です。同僚と二人で涙。こういう何拍子もそろったお店に出会うことは、母数の小さい山形ではほんとなかなかないことで。

『村上春樹にご用心』

 内田樹『村上春樹にご用心』(→ amazon )読了。内田氏の文章はネットでは拝読することはあるものの、書籍では初めて。でもこの本はネットに書いたものなどを取りまとめているので、結局はネット的?  村上春樹を「存在しないものを描くことで、存在しないものの存在を描いた作家」であるとするお話は、直感的に理解できるけれども、宇宙とか死者とかそういう話になると、とたんに田口ランディーにも似た「胡散臭さ」を感じてしまうのはなぜだ。たぶん、村上春樹の仕事が身体論的な装置を通じて紡がれたものであり、また読む者も身体論的な装置を経由して受容しているという、その身体論的な装置って何なんだよという隔靴掻痒感なのだろう。東洋医学との出会いを通じて、その身体論的な物言いについてある程度の心構えは出来ているつもりではあったが、一方でやっぱり胡散臭いなあという思いから逃れきることもできない。この手の「胡散臭さ」に対する嗅覚は、内田氏に言わせれば、既存の言葉でしか語ろうとしないからであって、僕(あるいは私たち?)がその対象を語るべき言葉に出会っていないから、ということになろうか。 「構造的な文学状況の変質」と加藤が指さすものが、もしほんとうに「構造的」な「変質」であるならば、それはそれを実定的に語ることばがいまだ存在しないような変質でなければならないだろう。もし、既成のことばですらすらと記述できるようなら、それは「構造的な状況の変質」とは言われない。「構造的な状況の変質」というようなことばは、そこで起きつつあることを語るための語法や語彙がまだない事態についてしか言われない。(p.180,「激しく欠けているものについて」)

過剰な読み取り?

 留学生が行った企画に、自分のガイドブックを展示するものがあった。自分のプロフィールを日本語で記すという実践作業であるということと同時に、自分たちのことを知ってもらおうという企画意図なのだろう。イラストや雑誌の切抜きのコラージュなどが散りばめられていて、アーティスティックなセンスを感じさせるものもあった。そんな中で、日本語が敷き詰められた盤面に置石のように彼ら彼女らの第一言語≒母語で記される表現も散見された(アジアからの留学生が多いので中国語繁体字簡体字とかハングルとか)。そのように表現される紙面は、いわゆる多言語サービスであるとか、談話におけるコードスイッチングなどのように特定の機能として分析される何かではなくて、書き手の身体に基づいた声の現れとして、独特の強度を持っているように感じられる。  展示のなかには、日本語文の目的語となるような、機能上重要な要素だけが第一言語で記されたものもあった。この展示企画が、一義的には日本語を第一言語とする来場客に向けられたメッセージであることは確かである。でも、多くの来場客には分からないように目的語が彼ら彼女らの第一言語で記されているということは、意味の隠蔽などではなく、まして日本語でどう書いていいかわからなかったということでもなく、書き手のリアルな声の発露であるように思えてならない。もっとも、第一言語だけが身体からにじみ出た特権性をもつわけでもないので、留学生たちの日本語学習過程における、過渡的な現象を僕が過剰に読み取っているだけなのかもしれない。 (補記)  このniji wo mitaというブログを始めるにあたって、ブログでツナガレる世界に対する躊躇や、旧サイトを残すべきかどうかといったことについて幾許か考えたことがある。どちらも、僕がワガママに書きちらしたいことを、そのまま書きちらせる極々個人的な領域を確保できるか、ということだった。それは現実社会やネットの人間関係に影響されることを恐れる、ということよりも、できるだけ何か大きなものに依りかからずに、非俯瞰的に記録したいという心構え、自分なりに課そうとした制約の問題だったように思う(それが幻想であるにしても)。そういう意味では、結果的には「来場客」に分からない言葉が乱れ舞うことも多々あったし、これからも多分そうだろう。僕が過剰に読み取ったかもしれないことは、そうした大事な

一つ、終了ー。

三種類の楽器の夕べは、課題もいくつか残しながらであるが、まずまずの結果だったと思う。関係者の皆様には厚く御礼申し上げます。また機会があるなら違う場所で、お金を取れる企画として聞きたいなあ。ここで書いても仕方ないけどー。

淡い期待

 昨日の偏頭痛が本日にまでぼんやり持ち越されて、朝からデフォルトで脱魂状態。明日からの文化祭での仕込みで色々奔走。たぶん短大だから教員がここまで関わるんだろうと理解している。  ともあれ横田さんをお招きする馬頭琴・二胡・津軽三味線のイベントはどうにか、内容が組み上がった。本日のリハーサルでは、詰めの甘い構成を練り上げていくところも演者の皆さんに関わっていただいて、通常ありえないご迷惑をおかけしつつ、でもその過程も仕掛け人の一人として楽しませてもらったりして明日を迎える。同僚が楽器に目を奪われて、知的好奇心でぐいぐい前に出て行く様子は、そうそうそういう雰囲気作りたかったんだよー、って感じで、うっかり仕事を終えた気持ちになりそうだった。明日が楽しみ。 (補記)  明日のイベント前半では、異なる3つの楽器による各文化の表象をもとに、いかにも「異文化交流」であるような顔をしながら、セッションまがいの「交流」を行う。つまり実際にはそこには交流はなく、「交流」があるだけだ。それが後半に暗転直下、文化表象の中身が別のものに取り替えられて、インチキ花笠音頭をうたわせる。その落差を通じて、交流と「交流」のちがい、すなわち相互に変質しあうというinter-actionをポンと出してみせるとかそういう試みか。うまく行くといいなあ。

サイケな風景

 久しぶりに偏頭痛に見舞われ、半日ムダにした。前回が2006年6月、その前が2001年6月。今回は10月。季節の変わり目ということなんだろうか。  今回は予兆[prodome](前日あたりの原因不明な強烈なイライラ)、前兆[aura](閃輝暗点)がきちんとセットになっていた(→ JA7CIA Health より)。前日に荒れまくって仕事放り出して飲みに行ったのはそういうシグナルだったか、と都合いい言い訳を見つけてホクホクである。前兆は前回同様、 閃輝 のキラキラした激しいやつが視界を覆うタイプ。偏頭痛のいやなところは、頭痛と吐き気はもちろんのこと、それにも増して前兆が起こっている時の「これが収まったら来るぞ~」という感覚。必ず来ると分かっているものを待つのはどうもなあ。経験的には前兆の激しさと頭痛・吐き気の激しさは相関性ありなので、今回は超ブルーだった。  とはいえ、偏頭痛で仕事を休んでもなあ、どうせ補講あるしなあ、とか損得勘定してしまうあたりがしょうもない性分で、偏頭痛で死んだ奴はいないだろうと90分気合いで耐えてみた。やってみるもんじゃねえー。講義終了後、保健室のベッドに倒れ込む。次からは迷うことなく休む、絶対に。

祝・ハンター復活

 さっそく買っちゃいました、本日発売のハンターハンター最新刊(→ amazon )。 もう打ち切りかなあと思っていたので、先月連載再開&最新刊発売の知らせを受けたとき、本当に嬉しかったのでした。1年半前に連載がストップしたところまでが全て採録されています。単行本に長期の休載について一切触れていないこと、例によって単行本では直しが多数あること、でも内表紙は下書きをそのまま載せているケレン味、色々とニヤニヤポイントがありました。  明後日発売のジャンプから連載再開とありますが、いきなり原稿を落としたとかいう噂もネットには出回っており、依然として予断を許さない状況。

動的平衡

 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(→ amazon )を読む。理系の人なのに文章がうまい、なんて評判だが、専門的な話の合間にさしはさまれるアメリカの四季や街の描写など、僕の感覚ではいかにも理系っぽい感じの爽やかさだと思う。で、生命を特徴付けているのは、動的平衡というシステムにある、という考え方に違った観点で共感する。形式は平衡状態を保とうとするが、中身は動的に変化し続けているということ。  明日・明後日と旧友の横田さん(僕にとっては neo morinhuur の人、 あんめる通信 の人ではない)を招いて、馬頭琴と二胡と津軽三味線の異種格闘技戦を行うのである。ワークショップと銘打ってやるくせに、じつはまだネタが詰められていなくてさっき電話であーでもないこーでもないとやっていたわけだが、一応の落着があった。テーマは「なんちゃって花笠remix 2007」に決定。本物のインチキを目指すことで、インチキの本物をぶっとばすという構図のイベントだ、という。誰が仕切るんだこのテーマ。頼むよマジで。 http://www.yamagata-jc.ac.jp/osirase/2007/10/post_11.html  でもまああらゆる文化は動的平衡を保っているわけで、それこそが本物のインチキのココロのことよ。

噂で高まるエンジェル

 迫稔雄『嘘食い5』(→ amazon )、鈴木志保『船を建てる(下)』(→ amazon )、西島大介『ディエンビエンフー1・2』(→ amazon )。ディエンビエンフーが新たに1巻から書き直されているとは知らなかった遠い山形。  でもそれにも増して、書店で見つけておどろいたのは、遊人の『ANGEL』の新作( amazon )が刊行されていたことだった。90年代初頭に有害指定を受けた不朽の名作(嘘)が、主人公が33歳になって再登場!らしい。当時はただのエロマンガ島だったわけだが、新作もまあそうなんでしょうね、未読だけど。興味あるなー。女性の顔が劇画調になっているという噂もあり、どういう画風の変化だろうとますます興味が高まる。興味の、だよ。

蔵王水ルンバ

 もう1年半くらい、ずっと自宅で淹れるコーヒーがおいしい。理由はたぶん自宅の水道水なんだと思う。どうということのないコーヒーメーカーと、スーパーで買ってきた一山いくらみたいな豆なのに、すんなり飲めるから。職場で淹れるコーヒーは豆にかかわらず、あまりおいしく出来ない。  近所の人に聞くと、僕が住んでいるところは蔵王にあるダムから水をひいていて、やや離れた区画にひかれている最上川の水とは全然違うという。比較したことはないが、実際東京から越してきたときに、水道水のおいしさに驚いた。  というわけで何が言いたいかというとー、関東に住んでる方々がやれどこのコーヒー豆がおいしいだのどこのカフェがいいだのと書いているのに悔し紛れで書いただけー。その豆をこの水でぜひ。ぜひ!  余談だが、コンビニで売っている水だと、あまりおいしくなんないんだよね…。蔵王の水がとりたてておいしいわけでもなかろうに。そもそも各産地の水の味がコーヒーの味に劇的に作用するとも思えないので、結局謎なんだよね。