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7月, 2011の投稿を表示しています

放射線量が高い地域に出張する際に求めたいこと

前のエントリ niji wo mita: 放射線を希釈する空気の力 では、僕の所属する職場が比較的放射線の計測値が高い地域に出張を求めるに際して、(現状では)何も対策をしていないことをややナイーヴに書いた。しかし、実際に高い放射線が検出されている場所へ出張へ行く際に、組織としてできることは何だろう。そしてこの手の議論がもめるポイントは何だろう、ということを改めて考えてみる。 * * * * * 危険か安全かを検討することは、程度尺度であるから現状では難しい。程度尺度に「ここから危険」のラインを入れられるだけの統計的なデータはまだない。人体と放射線の因果関係データを目にすることができるまで、何年もかかるだろう。放射線の測定値も、どこがどのような目的で出すかによってまちまちだ。ミニホットスポットがどこにどれくらいあるかも分からないし、天候によっても左右される。 したがってここが危ないということは定義できるわけがない。そのようなことを組織に求めることもできない。だからといって「行ってもいい人に任せる」というのは無責任だ。それは自己責任への議論のすり替えであって、危険国に勝手に渡航することとは訳が違う。職務で行かされる以上、最大限の安全を検討する責任を負うことは組織の役割であるはずだ。 では何を求めればよいか。現実的に我々が今求められることは、何をおいても記録を残すことだろう。つまり訪問した人間がどれくらいの放射線に被曝したかの概算を出しておくということだ。現状、予算・時間コストでもっとも現実的なやり方で構わない。もう少し強い言い方をすれば、なかったことにさせないということだ。原発で下働きをさせられていた人たちの中には、本人の証言によれば、雇用の登録がなされなかった( 『野宿労働者の原発被曝労働の実態』をテキスト化していただきました 山谷ブログ-野宿者・失業者運動報告-/ウェブリブログ )。そのため電力会社は何の補償もしていない。もちろん被曝量のデータもとっていない。したがってその死はある意味で無駄死にだったし、誰も責任を取る/取らせることができなかった。 記録を取らなければ何の対策も取りようがない。だからまず記録だけは取ることを義務付けて欲しい。放射線量が特に高く計測されている地域だけでよい。記録の方法は最低でも次のようなものか。 ・その日の出張先の空間放射線量(文科省発

放射線を希釈する空気の力

喉元すぎれば熱さを忘れつつある今日この頃、放射線の脅威が日常の雰囲気の中で何倍にも希釈されて、何を言ってもしゃーねーし、な雰囲気を楽しめる日本すげえなと日々思いがつのりつつありますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。本日、職場で放射線をめぐるちょっとしたいさかいがあって、たぶんこれってうちだけじゃなくて日本全国同じなんだろうなあと思った次第。 要は、相馬市や福島市や郡山市に出張に行け、いや行かない、というそういう話です。出張に行けと命じる方は、「微量の放射線なら問題がないから行っても大丈夫」「行くかどうかは個人に選ばせるので、不愉快なら断ってよし」が論拠。放射線はたぶん危険(笑)だと思うけど、後は人それぞれの感覚を尊重しますよ、という空気読みまくりの日本らしい現場です。「行きません」と断言する人への、ああうるさいことを言うやつがいるという空気に続いて、「じゃあ私が行きます」という人が賞賛されかけたのでさすがに何人かでストップかけました。山本七平『空気の研究』(→ amazon )を読もう。僕は、まずこれは完全な欺瞞だと思います。なにこの泥を被った奴が偉いみたいな雰囲気。この場合の泥かぶりは百害あって一利なしです、と。 こういう空気を醸成しようとする背景には、放射線に関わる客観的な数値を一切自分で調べようとしない態度に貫徹された、ある種の人間主義があるなと思います。出張に行ってもらいたいと言った本人は「放射線のことは全然分からないので」と言い、しかし情に訴えるような熱弁を振るう。実際、低量放射線が体に与える影響について、データがないために公式の見解は出されていない、ゆえに巷で言われる「正しく怖がる」ことができないのは分かる。しかしどうせ分からないから、ということを、怖がってもしょうがない、調べてもしょうがない、だから大丈夫と転化させて行くのは人文系大学教員として素晴らしい態度だと思います。わずかの放射線でクドクド会議でうるさいことを言うやつがいるなあ、とこれまた日本的なニヤニヤ目配せをするやつがいてですね、「分かった分かった、じゃあ俺が行くよ」みたいな雰囲気です。ここは紛れもなく日本ですね。 相馬市や福島市や郡山市の放射線量は、公称値ではあるけれどもウェブで簡単に見ることができる。またボランティア組織が独自に計測した地表、1mなどの測定値も見ることができる。人体にどれく

キラキラしてたりホグホグしてたり(マンガ)

今月は何があろうとマンガは大豊作だった。なぜならば何があろう冨樫義博『HUNTERxHUNTER(28)』(→ amazon )が発売されたから。「人間の底知れない悪意」がひとつテーマなのだけれど、冨樫は「底すら無い」とおっしゃる(時折言語感覚は近いけどそれ違う、がある)。ここで核兵器使っちゃって、29巻では放射能汚染が話のポイントになるわけで、いま発売すると不謹慎の批判が雨あられのようにあるかもないかも。 あるある?あるあるー。ないない?ないないー。と不謹慎なのは地獄のミサワ『カッコカワイイ宣言!2』(→ amazon )と『ヤング!ヤング!Fruits』(→ amazon )のせいです。フルーツのほうはご存知大人気ブログ「女に惚れさす名言集」(→ 地獄のミサワの「女に惚れさす名言集」 )から。個人的に笑いのつぼに入った作品が収録されておらず残念だが、くだらない描きおろしの対談などがある。 そして入江亜季『乱と灰色の世界3』(→ amazon )がキラキラしていてホグホグした。もう絵が大好きです。いい気持ちになる。マンガ的なオンとオフの切り替えも好き。総じて好き。なのだけれど、この巻は正直、中身がないにもほどがある。次の巻を期待しています。

足と手を動かして頭も動かせ

Extremeの"III sides to every story"(→ amazon )を5月くらいからずっと聞いていて、全14曲、3部構成というアイディアはもしかして自分の授業構成に影響を与えているかも知れないと思う。いや無意識にパクったかもしれない。mine, yours, everythingという3つのフェーズ。パクリではなくリスペクトですな。 逆にこのアルバムの構成に従って授業を構成したら面白いかも知れない。 "Warheads" 「シンジは核弾頭を持つか」セカイ系のはじまり "Rest in peace" 死にまつわる個人の決定権がどこまで敷衍されるか "Politicalamity" 政治と権力 "Color me blind" 人種と差別 "Cupid's dead" メディアリテラシー "Peacemaker die" 社会と表象 "Seven sundays" 若者とニート(笑) "Tragic comic" 文化と表象 "Our father" 宗教とパターナリズム "Stop the world" ゼロ年代におけるセカイ系 "God isn't dead?" 近代における宗教の意義 "Rise'n Shine" バブル経済と日本経済の凋落 "Am I ever gonna change" 個人と社会、間主観性 "Who cares?" オヒトリサマの誕生 と、どうでもいい朝を迎える。誰がこの授業を担当するというのか。 昨日、お前の余命は後3年という夢を見た。「えっ、じゃああれもこれも終わんない、どうしよう」などとtodoをどう埋めるかを考える夢なんですよ、などと臨床心理の先生とかみのやまのそばをすすりながら、「ああそれはあなたの仕事量というより、仕事の質が拡散しているということかもしれませんよ」、あっいまカウンセリングモードに突入しました?ずるずる、うまいっすねこのそば。 案外ひとは死なないし、でも死んじゃうときは唐突に死

ローリー・バウワー、ピーター・トラッドギル編『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」をくつがえす』

ローリー・バウワー、ピーター・トラッドギル編『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」をくつがえす』((→ amazon ))を読んだ。もう少しつっこんだ議論が読みたかった、というのは無理な希望なのかもしれない。原書"Language Myths"が出版された1998年から10年の歳月が流れたことなのか、アメリカの言語を廻る言説と日本のそれとの違いなのか分からないが、本書はことばに普遍的な「正しさ」などない、との相対主義に徹している。90年代以降のポストコロニアル批判ブームが終わった現在では、相対主義のポジション取りをする研究は今読むとちと古い。もっとも、言語研究者の大御所が名を連ねているだけあってケーススタディ的に見れば面白いし、言語事象としては知的興味をそそられるものが並ぶので一読に値するとは思う。 Q13に「黒人の子どもはことばが貧しい?」という章がある。この本の主旨に従い、結論はもちろん貧しくはない。言語そのものについては。そう見せているのは社会のマジョリティがそのように社会を構築したからだ、とある。実際本当にそうだ。しかし言語研究者のこうした結論は多くの場合無力だなあと思う。もちろん研究者の仕事は「対象」を「客観的に」明らかにすることにあるという立場もあるだろうが、時にそういう立場こそが特定の言説擁護に加担してきたこともまた広く知られることだし、それ以上に大学に職を持つことの社会的責任から完全に逃れられるわけでもない。社会はこういうふうに構築されている、そう事実めいた物言いをしたあとで、歯切れの悪い、座りの悪さをやはりどこかで感じてしまうのではないか。 niji wo mitaが相対主義ではない力を!と考えたいのはこの点にある。大学教員が、というより研究者のある種の素養として(つまりタコツボ化した専門領域としてではなく、広い意味で、社会を考えることに時間とお金を費やすことが許されている者として)社会にコミットするときに、相対主義的な物言いにとどまることは、衒学に身をやつすような気持ちになってしまうのだ。たとえば会社のオッサンの論理にジェンダーがどう立ち向かうか、ペーパーテストに満ち溢れる「正しい」言語イデオロギーによりよい代替案をぶつけることができるか、すなわちある種の無意識な社会的プラグマティズムにこちらから戦いをどのように、どれ

is05:オールリセット

is05をオールリセットすると挙動が良くなるという話。オールリセットの手順はauの公式サイトに基づいた(→ KDDI au: その他 > IS05をリセットする )。 問題は、さしてアプリをインストールしたわけでもないのに、容量不足のコーションが出るようになったことだった。同様の問題はすでに色々報告されている。「 価格.com - 『空き容量不足 オールリセットで解決 手順 覚書』 シャープ IS05 [グリーンxブラック] のクチコミ掲示板 」でも複数の報告が挙がっている。初期不良なのかも知れないし仕様なのかもしれない。いずれにせよ、これを打開するにはオールリセットが良かった。 オールリセットをすると初期状態に戻るので、必要なデータはSDカードに移動しておく。僕はアプリもすべて入れなおしたが、人によってはSDに退避させるケースもあるようだ。僕はeasytetheringだけ購入のIDを紙に控えた。 オールリセットの結果、まず、プリインストールの余計なソフトが少しなくなる(何が残るかは IS05をオールリセットすると何が残るの? « 893064 を参照)。これで容量が少しできる。それから謎の容量不足コーションも出なくなり、ほぼ同じアプリ数なのに以前は「残り10MB」だったのが「残り280MB」に回復。また、容量不足のためにアプリのアップデートが滞っていたのも、改善された。 容量だけでなく、動きもずいぶん早くなった。is05は購入と同時にいちどオールリセットするのが良いのかも知れない。

マンガっす、あとウシジマ

よしながふみ『大奥(7)』( amazon )は、アマゾンの書評がよくできているのでそちらを。吉宗の話です。『勇午 台湾編(1)』( amazon )もディープ台湾という感じでいまのところ面白い。台湾人の定義は、うん、マンガだからという程度。しかしネタ的になかなか危ない話なのでちょっとドキドキします。おおひなたごう『空飛べ!プッチ 完全版』( amazon )はおおひなたごうにしてはギャグ度が低め。少女漫画の雑誌に書いた連載みたい。打ち切られたものをきちんとまとめたらしく、打ち切りのところは確かにえぐい。ビームコミックスは総じて装丁が僕好みで、とくに本作は立体の工夫が施してあるので裁断したくないです。松本大洋『竹光侍』はゆっくり読んでいるのでいずれ。 そいから友人から借りた真鍋昌平『闇金ウシジマくん』( amazon が読んでて軽くブルーになるので、もう返すわ(笑)。全部読んだけど。ゼロ年代的な雰囲気は確かにあるけども、描かれ方がスピリッツ的すぎる(僕たちは社会の「その層のことはよく分かってますよ」的な、神の外部視点で社会事象をモノ化しつつ参与観察のような顔をする)。僕は週刊誌の中でスピリッツほどきらいな雑誌はないのですが、その理由がホイチョイ的でフジテレビ的で、あと三浦展的な感じです。つまり80年代バブル目線での若者描写という雑誌としての基本線、としてゼロ年代の僕自身が感じているわけで、これ自体が社会学的分析対象となるある種の当事者語りだと思ってください。そんなポジション取りをしたうえで言いますと、ウシジマくんの視点こそがスピリッツ的な視点であって、三浦的な視点です。なお真鍋昌平は20代の若者でこの批判はあたらないとの反論もあるでしょうけれど、これをスピリッツが成立させているところについての指摘です。自称初期ゼロ年代の僕はあらためてウシジマ=スピリッツ仮説にのっかり、ウシジマファック!と声高に叫んで筆を置きたいと思います。

LITE CUBE

隣人からいただいた謎の物体、LITE CUBE7(→ ライトキューブLITECUBE.jp(公式サイト) )。シャワーを浴びて水を飲もう、と思って、ああ、あれやってみよう、と。 3秒程度ごとに色がどんどん変わっていく。上から見たところも。 クリスマスの時期とかいいかもですね。

今井むつみ『ことばと思考』

今井むつみ『ことばと思考』(→ amazon )読了。刺激的な本だった。 言語学と人類学にまたがる領域に、「ことばと文化」または「ことばと思考」というテーマがある。素朴に言われるところの、文化や思考の多様性は言語と表裏一体という言説を、もう一歩踏み込んでやや挑発的に「文化や思考はことばに規定される」とした、いわゆるサピア=ウォーフの仮説(→ wikipedia )は、この領域では広く知られている。僕も学生時代に強く興味を持ち、色々読んだ( niji wo mitaから言語権まで 、など10年くらい前)。 どちらかというと文化人類学、哲学などの世界で論じられるこのテーマを心理学の方法と知見に基づいて科学的に分析した結果を一般向けにまとめたのが本書だ。グリースン『記述言語学』でも示される「虹の色は何色か」というおなじみのテーマも取り扱われる。サピア=ウォーフの仮説は、言語相対性仮説などとも呼ばれる。言語が異なれば見えている世界が違うという相対主義で、これと対極に位置するのがチョムスキーの生成文法やピンカーの言語本能説などの言語普遍主義だった。今ではサピア=ウォーフの仮説の仮説は、サピアやウォーフがいうほど強い根拠を持つものではなく、言語が世界認知に影響を与えるという程度の弱い仮説として受け入れられている。文化人類学者のバーリン(Brent Berlin)と言語学者のケイ(Paul Kay)が60年代末期に色感覚と色名には文化が異なっていてもある程度普遍性が認められることを明らかにした、というのもこの領域では有名な話。 そのことを心理学の手法に基づいて分かりやすく実証していることが本書のひとつの肝だろう。生物学的な性認識は言語的な性にどのように影響されているか、物の認識に可算名詞・不可算名詞を分ける英語などの感覚にどう影響されるか、といったテーマである。本書の結論は、やはり言語に影響を受けるということだ。本書の著者は発達心理学の研究がおそらくメインフィールドのようで、後半は子どもの言語獲得と世界認知の話へと移っていくのだが、これが前半よりもはるかにスリリングだった。たとえば数の認識に言語が関わっている話では、生後五ヶ月の赤ちゃんが数を数えることができているという研究が紹介されている。ただし認識できるのは3までで、それ以上は言語獲得を伴いながらでないと認識できないとのことだ