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7月, 2008の投稿を表示しています

EDEN最終話

遠藤浩輝『EDEN』(→ amazon )の最終巻(18)を読んだ。 10巻くらいはついて行って、描写の残酷さと低体温な感じに閉口して読むのをやめてはいたものの、アフタヌーンで最終話が掲載されたという情報を耳にしたあたりから結末を読みたいなという気持ちが高まって、久しぶりに単行本を購入した。近未来的なSFを基調とした主人公の成長譚といった形式を取りつつ、これまた近未来的な多民族社会の到来と、権力の再構成、新たな覇権主義などが細かに作り込まれた世界観が展開される様相は、初期の連載中から今っぽいなあと思っていた。というのも11年前の話。このniji wo mitaが立ち上がる1年前の話だ。 たぶんそこここで言われていることだろうが(検索はしていない)、エヴァンゲリオンを物語としてきちんと作るとこうなるのかなという印象がある。遺伝子工学だの、人類の無意識の融合体コロイドだの、神秘主義を主体としたカルト集団だの、そして父と子。もしかしたらこうしたガジェットはSFとしてはかなり古いのかな。まあ約10年前の今っぽさだものな。個人的には、(ネタバレ注意!)人類が新しい宇宙の誕生を目にするあたりは、理系に憧憬を抱く文系として、相当興奮した。偏頭痛の前兆で視野がゆがんでも、重力レンズ効果?と笑い飛ばせるくらいの気炎の上げ具合。 もっかい購入し直そうかなー。小さな子どもの教育上は、非常に良くないマンガなのですが。

がっつけ2008

後味の悪い仕事をして、ケッタクソわりぃなと思いながら、頼まれた買い物をガッツリすませて、帰宅してすぐ一袋100円のシシトウと卵で炒め物を作る。へたを丁寧に取る。卵は近くの農家が作ったこぶりで黄身がぷりぷりの。卵はよく熱した油でさっと炒めて、いったんボールに取り置きあとでシシトウと合わせる。シシトウは油でしなしなになるまで炒める。カキ油と砂糖醤油で味付け、最初に日本酒を小さじ1で香り付け。アルコールは飛ばす。お皿にがばっと盛る。続いて鶏の胸肉を5ミリくらい幅に切る。中華鍋は十分に熱して、ごま油で炒める。まだ芯に火が通っていないくらいで引き上げる。皮ごと千切りにしておいたニンジンと新ショウガを炒める。何となく火が通ったら鶏肉を混ぜて塩をさっとふる。最後に酢をたっぷりとかけてお皿にこんもりと盛る。妻が作ってくれていたナス焼きとキュウリの即席漬けも並べて、ご飯をかっ込む。で、15分。空腹の子どもも妻も気づけば気持ちも凪模様の僕も、なんとなくセーフの気持ち。 山形に来て2年間、あれほど杉並で振っていた中華鍋をほとんど使わなくなっていた。山形の食材の雰囲気に合わないだとか、和食を求める水なんだとか、思いつきでいい加減なことをたくさん考えたが、要は食べてくれる人がいるかいないか、ただそれだけの問題なのだと思った。中華料理は基本的にそういう設計思想のもとに作られ続け、食べられ続けてきた食事なのだ。

ものすごい東部オリエンタリズム カンフー・パンダ

久しぶりに時間を取って、上の子どもと2人で映画を見に行った。見たのは、カンフー・パンダ(→ オフィシャルサイト )。 このところ、我が家はカンフー・ハッスルだのカンフー・サッカーだの、カンフー・麻雀だの、例のB級カンフーブームが来ている。オクサマが酔拳時代からのジャッキー・チェンファンということもあるので、遺伝的な影響もあって子どももカンフーが好きなのだ。そして他人事のような顔をしている父親はというと、往年のサンデーマンガ、松田隆智/藤原芳秀コンビの『拳児』(→ amazon )の気合いの入ったファンである。じゃあもう家族そろってカンフーじゃん、というとつまりそういうことだ。 カンフー・パンダのストーリーはとてもわかりやすい。町のラーメン屋の息子たるパンダが、1000年に1度現れる伝説の龍のカンフーマスターに選ばれた。デブで根性なしのパンダが?と本人も兄弟弟子たちもびっくりする中で、強大な力の暗黒面に引きずり込まれた兄弟子と対決するために、ご都合展開を迎える。以後ネタバレになるのであれですが、やっぱり東洋の神秘ネタだと、アメリカはスターウォーズになってしまうのかね。オイディプスのシークエンス、そして内なるフォース。 後ろに座っていた子どもたちはケラケラずっと笑ってたし、ドリームワークスの面目躍如たるアクションシーンには確かにかっこいい。パンダがとつぜん「自分を信じて」カンフーに目覚めて伝説のカンフーマスターになっちゃうくだりも、90分のお話だからいいんだ。うちの子どもも喜んでたし。 ここにツッコミを入れるのは野暮以外の何者でもないのだが、そろそろ東部オリエンタリズムは本気でアメリカになめんなコラと突っ込みたい。「自分を信じろ」とは、カンフーの教えとはむしろ相反した教えではないか。エゴを捨てて宇宙と一体になるのが、梵我一如たる究極の到達点であると、拳児のじいちゃんも言ってるぞー。ドリームワークスは拳児全巻、オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』嫁。ほんでカモメのジョナサン読んでもっかいフラワームーブメント池。じゃなーくーてー。70年代どころか20世紀前半まで戻って間主観性からやりなおせやコラ。 (追記) 老子の大阪方言訳を久しぶりに再発見。ちょうど7年くらいまえに、このサイトを一生懸命に読みあさっていた。こういうとき大阪方言ってずるいよねー(いい意味で)。 「 老子 第7章

夕顔のスープ

夕顔って、丸のままでは関東ではほとんど見なかった気がする。干瓢の材料としては見かけることはあったけれど、同じ瓜でいえば冬瓜のほうが有名。秋田や山形で食べる夕顔は、長夕顔とも(→ 長夕顔の種 長かんぴょうの種 長ゆうがおの種 参照)呼ばれ、冬瓜をずっと細長くしたような形をしている。 この近辺では煮物にするのがポピュラー、というか、おそらく山形の地物は何でも煮物にすることが可能でもあるのだが、我が家では冬瓜と同じように台湾風スープにしてみた。味はあまり変わらない気がする。 〈あまり親切とはいえないレシピ〉 (1)ニンニクとネギを刻んだものを少量の油で炒める (2)豚バラ少量を2センチ程度の幅に切って炒める (3)夕顔は皮をむいて、一口大に切っておく (4)あれば干しエビ(蝦米: 蝦米 )、なければ干し椎茸を戻しておく (5)沸騰したお湯に(1)-(4)を入れて1時間ほど煮込む (6)お酒と塩、胡椒だけで味付け (7)片栗粉でとろみをつける お皿の上に見えるのは、なすとキュウリとソーセージのサラダ、トマトを湯むきして冷やしたもの。まあただの冷やしトマトなわけだけど、皮がないとつるんとデザートみたいにして食べられる。五十嵐大介『リトル・フォレスト』(→ amazon )に書いてあったレシピ。

KORG DS-10が届いた!

KORG DS-10( 製品紹介 | KORG DS-10 | AQ INTERACTIVE )が届いてしまった…。これはやばすぎる…。説明書をざっと一読するも、こういう機材を扱ったことがないので、書いてあることが分からなすぎる。とりあえずフランジャーのデプスを上げて、ウェットにする…やばい、ロケットが海に向かって打ち下げられている気がしてきた。 ともあれ、電子音楽は下手の横好きでつまみの類をいじってみる。はっきり言えることは、全然わかんないけどこーれーはー楽しい!名前が分からなくても、音とつまみの対応さえ分かれば、それなりに分かってくる(そして分からないことはやっぱり分からないことが分かる)。カオシレーターみたいな機能もついていて、うねる、うねるよ! 発売前からアマゾンにはコメントが立ち並ぶ状況で、シンセファンのおじさんたちが色めき立ち夜な夜な夢に見ていることが推測されるわけだが、そんな折り、 日本初 KORG DS-10 セミナーの動画 - webdog というブログを発見。すごい勉強になります。 説明書によれば、シングルプレイモードのほかに、何台もの合奏が可能なマルチプレイモードがあるじゃないですか。これをたくさんのひとでやったらもうすごい鼻血が出ると思うます。思うます。

偏頭痛の経過:半年を過ぎて

偏頭痛が頻発化して半年が経過した。かかりつけの病院で大量にもらった、虎の子の予防薬テラナスも、頭痛を抑えるイミグランも使い果たした。一区切りの時期を迎えたところで、この半年の経過をメモしておきたい。 まず、偏頭痛の頻度はこの3ヶ月については1月あたり2回程度におさまっている。半年前は1週間に1度(多いときで2度)だったので、日常生活には問題がない程度になったと言える。理由は、偏頭痛の起こるタイミングが予測できてきたので、効率的にテラナスを服用できるようになったことと、環境の変化によるストレスの軽減にあるのではないかと考えられる。 タイミング、つまり誘発要因には個人差があるので、ここにそれを記すことは頭痛に悩む他の人にはあまり役に立たないかもしれない。僕の場合は「お酒を飲んで夜更かしをする」+「翌朝睡眠不足で仕事に出る」の組み合わせはかなり発生の頻度を高める。これに、翌日に「スポーツなどで体を激しく動かす」が加わるとまず確実に頭痛が起こることが分かった。だから、遅くまでお酒を飲んだ翌朝にはできるだけテラナスを飲むようにすることで頻度を抑えることができた(たまに忘れちゃうとひどいのね)。 また、短期的な引き金がタイミングだとすると、長期的な引き金=バックグラウンドも大きい。たとえばよく言われることだが、僕の場合も、仕事上のストレスが確実に関係していることが帰納的に分かっている。家族と一緒に住むようになってから、ストレスがいくぶんか軽減された。これによってある期間に集中して頭痛が起こることはなくなった。 全体的に頭痛の頻度は減ったが、頭痛が起こるバリエーションが一つ増えた。それは、睡眠中の頭痛である。睡眠中なので閃輝や暗点などの前兆を認識することはないが、強烈な頭痛で目が覚めることはあった。偏頭痛の強度が弱いときは、翌朝ぼんやりとした頭痛と吐き気だけが残っているということもあった。 さて、昨日、山形の大学病院で新たに薬を処方してもらったわけだが、いくつか変化があった。 まずテラナスが取り扱われていない。同じカルシウム拮抗剤であるミグシスを代わりに処方してもらった。それから、薬の服用についてこれまでとは異なる示唆を受けた。これまではテラナスを一日2回服用して経過を見るということだったが、これからはできるだけテラナスに頼らない方がよいということである。というのも、ある種の依存

この年齢で書くことではないな

仕事、抱え込みすぎな状態になっておるな、と本日、他人事のように発見した。本来抱え込みがちな性分なので、そうならないように気をつけてはいるつもりだったけども、こなさなければならない仕事量が増えると、こなすために抱え込みの穴にはまりこむ罠。体のシグナルとまでは行かなくとも、ほら、ブログの更新が異様に低下しているところから見ても、なんか違うぞと思うべきであった。仕事を開く方法を考えねば。抱え込みながら達成した高い結果と、抱え込まずに達成した低い結果は、間違いなく低い結果の方に大きな意味があると思おう。高いが意味がない結果があるんだということを強く思おう。抱え込みの穴にはまりこまないために。 ・他人への不満が増える ・〆切ギリギリの仕事が増える ・理不尽な状況への沸点が下がる ・自分が回さないと回らないかもと思いこむ ・やりたいこととやらなければならないことの違いが判断しにくくなる こういうことって、大丈夫なときは全然どうとも思わない。大丈夫じゃないときは気づけない。だから大丈夫なときと、大丈夫じゃないときの端境期でないと、気づけないことなのかも。これをサインだと思おう。 自分が出しているサインではないものに、「何となく周りの人の目線が優しくなる」というのを挙げておきたいけど、まあオチにはならんな。

鬼のテレプシコーラ読了

山岸涼子『テレプシコーラ』(→ amazon )第1部全10巻、やっと読みあげた。書き上げた、という言い方が本気で艱難辛苦を乗り越えて、という意味合いを含むのなら、ここはもう全力で読み上げたと表現したい。 忙しいのと、中身が辛すぎるので1ヶ月以上かけてちょっとずつ読んでた。マンガ読むのにこれだけ時間をかけるのは、僕としてはそうとう異例なことだ。読み終わってみて、総合的に、やっぱりしんどかった。このしんどさに何となく覚えがあると思って色々思い出して見るに、三原順の『はみだしっ子』(→ amazon )か?なんつーかもう辛すぎる。こんな読後感のきつい作品は久しぶりかもしれない。なのにこれ、絶対また読んでしまうと思う。ううう…。まあここにウソは書いてない。ウソの話だけどウソはないのでよりきついというか。平成のこのご時世にこれだけごつい70年代臭のするきっつい作品を生み出すとは山岸涼子おそるべし。そりゃあ話題にもなるはず。読むきっかけをつくって下さったユーゾッタさんをお恨み申し上げつつ、感謝申し上げる次第。

揺るがず直観させつづけるもの

山形の夜はとても静かであるゆえに、夏の盛りであるにも関わらず、夜の雰囲気は全然矢野顕子が行ける、ということに3年目にして突然気付いた。東京に住んでいたときは全く聞く気にならなかったのに。気温や気候に応じて聴きたい音楽を選んでいるのは、音楽への欲求が身体の色々な感覚との調和を求めているからなのだろう。耳でしか聞けないはずなのに、人間の外界認知はそう単純ではないようだ。 話は変わるが、音楽について特権的に語ろうとする人がいるのはなぜだろうと思うことがある。音楽は誰か特定の人(たち)のものであると叫ばれる可能性を持つものであることは、音楽がどのように使われるかという含みでは理解できるが、誰かだけのものではないし、誰かの語りだけが特権的な立ち位置を保証されるものでもないはずだ。たぶん、音楽はどのようにでも語れる何かを持っている。社会やコードや文化でどれだけ解釈しても、そこから漏れ落ちる何かがある。もちろん、少なくとも僕がここで触れている音楽とは構築されたものであるから、構築主義的に解釈することはできる。でもそれだけではない、と直観させてしまう何かがある。それはおそらく、言語による認知世界の作り方と、音楽によるそれとが根本的に異なるからなのだと思う。 と、ほとんど何も言っていないような、論説文的には落第を喰らうような書き方だが、たとえば構造分析を行ったために「楽しかったものが楽しくなくなってしまった」と投げ出すことでもないし、逆に構造分析を矮小化して「全然音楽のことが分かっていない」と上から目線を決め込むことでもないと思うのだ。何をどうしたって、音楽はやっぱりそこに何かの存在を直観させ続けるはずで、そのことはどのように語ったところで何ら変わることではない。だから、何もおそれずに、誰もが好きなように音楽を、好きなだけ語ればいいと思う。

いいよ、いいんだよ、だめよ、だめなのよ

仕事まみれで身動きが取れない約3週間を過ぎた。一段落したので、久しぶりに余裕を持って子供と会話してみたら、この3週間で無アクセントコードを獲得していてマジ驚いた。うわー。うわー、というのと、ちゃったというのはまさに僕のモダリティ(広義の)を反映していて、まあ無アクセント地域として知られる山形県村山地方に住んでいるのだから十分に予測していたことだけど、やっぱりうわーなのであった。結局、僕はここに3年住んでいて、やっぱり関東共通語的な、有アクセント言語の持つ高い威信(prestige)を、脱構築(笑)できていないことが確認できたのだった。 それはそうとして、方言社会における方言と共通語のダイグロシア的使い分けよろしく、仮に無アクセント的しゃべりを獲得していても、少なくとも3週間前までは僕の前では有アクセント的しゃべりであったから、2つのコードを使い分けているのだろうと思っていた。今でも若干その残り香はただようが、無アクセントのコードが一人勝ちして使用領域を広げている気配。いいよ、別にいいんだよ、と言語研究の人は価値判断と無縁な顔をしようとする一方で、いやぜったい嫌だと価値判断の海にどっぷりと頭の先まで浸かってしまっているのであった。 (レンタルビデオのお店にて) 子供「仮面ライダーのカブトってつえーんだよ、知ってるお父ちゃん?」(カブトが平板らしきアクセント:山形的なピッチパタン) 僕「仮面ライダーカブトなら強いよね」(カブトをムキになって頭高で発音:非山形的なピッチパタン) ムダだと分かっています。いいよ、いいんだよ、だめよ、だめなのよ。引き裂かれる自己。