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4月, 2008の投稿を表示しています

味覚に人としての尊厳を奪われる

同僚においしいパン屋を教わったので、さっそく試してみた。店内にはカフェも設けられている、いわゆるコジャレまくりなお店で、レジ打ちの女性も、いかにもといった感じで雇用者の「コジャレパン屋ステレオタイプ」がよく分かる体裁となっている。これが見るからにうまそうで、食べる前から予定調和的に「やっぱりおいしかったです」と言うのが分かり切っているつまらなさもあるのだけど、ともあれ何故に僕はこうまでゴタクを言いたがるのかというと、理由がないわけではない。 杉並で貧乏生活をしていたとき(今も大して変わらないけど)よくお世話になっていたパン屋があった。サンドイッチが2ピースで120円、しかもお野菜たっぷりで、家庭で作るような水分でしなしなになった感じの、商品を並べているお店だった。パンの耳ご自由にお持ちください、は当然のこと、それを揚げて砂糖をまぶした子どものお菓子を一袋30円で売るようなお店だよ。パン屋なのに割烹着を着たおばあちゃんが店番をしているようなお店だ。ところがある日、その数十センチも離れていない鄰に、本場で修行しましたみたいな、普通の小麦粉でいいだろうというところに全粒粉とか使ってみせる、いちいちメニューの下に素材を書き記してアレルギーにご注意くださいと先進ぶる、もちろん味にも自信があって、そして恥知らずにも道ばたにバターのいいにおいをまき散らすような、そんな訴求力のある商品くささを垂れ流すコジャレたパン屋ができてしまった。そういう仁義なき戦いは自由が丘とかそういうところで勝手にやれよ!ここは新宿線沿いの比較的低所得層が住む場所なんだよゴラ!と妻と二人で気炎を上げていた。僕と妻は、絶対その店で買わないぞと、たった二人の力なき不買運動を展開することになった。 しばらくお世話になっていたパン屋に通い続けると、明らかに客足が遠のいているようで、夕方に入ってもあの売れ筋サンドイッチが残っている。自由にお持ちくださいのパンの耳もいつの間にかやらなくなってしまっている。砂糖をまぶしたパンの耳を揚げたものは、ビニール袋のなかで古そうな油がしみ出している。だれがみても斜陽である上に、そのお店の同じく割烹着を着た若女将の盛り盛りのおしろい(丸尾末広の描く昭和の女性みたいな感じの怪しい色気がある)が、ナチュラルメイクとかじゃない方向に明らかに薄くなってきていて、化粧をしないで店に立つこともあ

テノリオンが欲しい

もしいま自由に使える潤沢な財源があったら、僕はテノリオン(→ TENORI-ON | ヤマハ株式会社 )がほしい。子どもの情操教育にとオクサマを籠絡しようとひそかに画策しているが、そのまえに情操教育特定財源の閣議決定を! 見てくださいこの直感的なインターフェイスを。16×16の盤面に表示される光の明滅が音楽とリンクしていて、簡単に音楽を作ることができますよ。ここで紹介されている操作法一覧(→ 操作法 )が素敵すぎます。直感的インターフェイスのアナログ界の雄がテルミンだとすれば、こちらはデジタル界の雄ですよ。これはもうこれからの情報化社会を生き抜く、新時代のお子様の豊かな創造性を伸ばすのに最適ですよ。早期英才教育ですよ。どうですかオクサマ。 つーか何が早期英才教育だよアホが。そうじゃなくて、僕がこの楽器を使って「コンピューターおばあちゃんfeat.今年101歳になる僕のリアルおばあちゃん」でパフューム顔負けのおばあちゃんにauto-tuneかけまくりのアレンジで天テレに出演するもくろみにぜひご協力いただきたいわけであります。 このビデオ(→ ファンクションボタンの機能 )の操作例を見ながら、12万円は高い(おもちゃにしては)、高すぎると嘯く僕であった。レンタルとかしてくれないのかな。

おそるべし天テレ

先日購入したパフュームのCDに付属しているDVDを、妻に隠れてこっそり見ようとしたら、ポリリズムのフリができるとか言い出してどういうことかと小一時間問いつめてみた。天才テレビ君に出演していたのを子どもと一緒に見たらしい。あの幾何学的で時にエロい装いのダンスをうちの子どもも…。家族ではまるという事態だけはなんとしてでも回避せねば。オクサマのだけはすっかり別物で面白かったので許可の方向で。 DVDのほうは無事日の目を見ました。

polyrhythm/two months off

やばい。perfumeがジワジワ来ている。しかもCDで聞いてピンと来なかったのに、youtubeで動画で見ていると来るなあ。ポリリズムのチョコレイト・ディスコもすごく格好良く聞こえて(見えて?)しまう。聴覚だけでは脳の気持ちいいところをいじりきれなかったのに。僕の耳にはわりあい単調で刺戟や展開に乏しく聞こえていた曲に変なフックが与えられてしまった。まんまと釣られているっぽい。しかし中毒性が…。思えば修士の時にMAXにはまるというおかしな事態を迎えたのもヒッパレで見たダンスがきっかけだった…。 と思ったらこんなマッシュアップが。 そしてポリリズムのBPMを上げて、誰かアンダーワールドのtwo months offとマッシュアップしてくんないかなー。 いまさらですがこのビデオクリップ、ものっそい気持ちよさそう。

パフュームGAME

えー、まぁ四の五の言わずに書きますが、とうとうパフューム買っちゃいました。アルバム「GAME(DVD付)」(→ amazon )。何をやっとるんだと。だってムネカタさんのところで魅力たっぷりに語られてたし、何より CDJournal.com - インタビュー - 進化するテクノは、とんでもないポップ・ミュージックに――Perfume、“バキバキ!?”なアルバム『GAME』が登場。 であると、つまりバキバキであると! 僕は別に中田ヤスタカもカプセルも追いかけていない者なんですが、バキバキのテクノにボーカルが乗るということについては食指が動いてしまう者です。折良く、このところ3月から聞きまくっていたバップ期前後のジャズから、そろそろ東北も沈丁花が終わりを迎えつつある季節になったのでテクノいっときますか(なぜか春の芽吹きとともに電子音が欲しくなる)と、SYSTEM7"LIVE TRANS MISSIONS"(→ amazon )を聞いて気勢を高めているところでした。 (左がパフューム、右がシステム7。テクノ界はこういうデザインは流行りなんでしょうか) しかるに!パフューム聞いてみて、バキバキというオノマトペの曖昧さを思い知ったわけです。僕はバキバキって、音数が少なくてアタックの強いヨツウチの低音リズムがゴツンゴツン来る、音圧が脊髄反射を呼ぶハードコアテクノみたいな感じだと思っていた訳なんですが…。音飾も含めてかわいすぎて、いい意味で裏切られました。僕の感覚ではバキバキではありません。ありませんが、この辺がメジャーとそうでないものとの分水嶺なのかなーとは思いました。 お馴染みの曲は別として、セラミックガールはテクノな琴線にも触れるかなー。

偏頭痛、元気で留守がいい

久しぶりに偏頭痛のことを書いておこう。抑制薬のテラナスが功を奏してなのか、季節が変わったからなのか、家族と同居するようになったからなのか、あるいはそれ以外の要因が効いているのか定かではないが、偏頭痛の発生頻度が激減した。薬効か、気圧や気温の変化か、それとも愛か(というか安心?によるストレス軽減)。いずれにせよ、生活に不具合は全くない。 3月の10日ごろに大きいのが一度来てから、先週大きいのが一度来るまで、テラナスも「今日はなんとなく危ないな」という時以外飲んでいない。先週来た大きいのも、寝ているうちに前兆を終えていたようで、明け方に頭痛で目が覚めたということから推定しているのであって、偏頭痛であったという確証はない。 偏頭痛は、起こらないときはそれはそれで忘れているのだが、視界に黒い何かが横切ったときなどは「あ、来るかも」と思って冷や汗をかいてしまう。低血圧気味で少しふらつくときもヒヤッとする。このPTSDにも似た(笑)感覚はほんとうにいやなもので、早く忘れてしまいたいと思う。 それにしても要因は何なんだろう。来年もこの季節にラッシュが来れば季節性のものと分かるわけだし、過剰なストレスが訪れたときであればそれと分かる。予後は様子を見ながら、ってとこだろう。もっとも、全然再訪して欲しくはない。どっかで勝手に達者でやってくれ。

愛はあってもお店がありません

同僚とお花見。近所の斎藤茂吉記念館で満開の桜を。同僚に子どもを見てもらったりした割には、自分でも追い駆けっこした分の疲れが全然でかい。これが年ってことか…。 帰宅してソファーでどっぷりよしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』(→ amazon )読了。YながとS原は最後にくっつくのかどうなのかが終始気になるマンガであった。食い物主体のマンガであり、杉並区のお店に言及があるという点で、久住昌之・谷口ジロー『孤独のグルメ』(→ amazon )も思い出す。行ったことがあるお店がちょくちょく入っているのもガッツリつかまれました。 このマンガ、面白いしおいしそうなんだけど、この「○○というお店の××がおいしいから食べに行こう!」みたいな感覚のほうが懐かしすぎて…。もちろんかつて住んでいた阿佐ヶ谷近辺が出まくるということもあるんだけど、ひとくち食べて目が覚めるようなというか、ありがたくって涙出てくるようなというか、そういうのがやっぱり山形での生活圏にはないなあ。一食に頑張って5000円くらい出して、これ食べたから今月も頑張れるね!みたいな生活が気兼ねなくできるようなるといいねと言ってた生活から5年くらいがたったのに、いまだにそういう生活ができてない…(飲み方面ではあるけども)。決して山形の食べ物がおいしくないわけではなくて、体に染み渡るわー、ってのはむしろ山形のが優れているんだけど、そういうのじゃないんだよね…。なんつーか、宇宙の秩序が円のかたちで循環しはじめたことが舌の直感で分かるというかね…(わかんねえよなー)。

結構かわいい女の子がreconstructionされている

とりあえず突っ込んでおこう。CNNニュースから ネアンデルタール人の「声」を再現、米研究者 ですと。 (CNN) 約3年前に絶滅したと考えられているヒトの仲間、ネアンデルタール人の「声」を、米フロリダ・アトランティック大学のロバート・マッカーシー准教授が再現、オハイオ州で開かれていた米国自然人類学会で公開した。 2005年ごろに、つーか! 下らんツッコミはさておき、ネアンデルタール人の骨格から声を再現という試みは、明後日音声学の授業やんなきゃいけないからやっぱ気になるわけよ。ニューサイエンティスト電子版に掲載の記事(→ Neanderthals speak out after 30,000 years - 15 April 2008 - New Scientist - )によれば、1970年代にも頭蓋骨から喉頭のサイズを推測してどんな感じの発声か言及することがあったそうだけど、今度は声道から作り直して/e/を発声させてみたと。その声が これ だってんだけど、うちの子がゲップをしたときのような声だなー。この論文ではたとえばbeatとbitの違いのような、きっついiとゆるいiとは区別できないくらいの発音だって書いてあるけども、チンパンジーと現生人類とを分ける重要な調音機構上の特徴、すなわち咽頭の発達や、下顎と舌筋の連携とか唇の筋肉とかはよく分かっていないので、どれくらい複雑に分節音を発音し分けられたかは分からないよね。 このあたりの議論が盛り上がっているのは、昨年にネアンデルタール人には特に会話に関わる言語能力と関係が深い遺伝子(現生人類にはあってチンパンジーにはない)があることが分かったから。じゃあネアンデルタール人も現生人類と同じように言語音声でコミュニケーションしてた?みたいに思うじゃん。もっともそういう遺伝的条件が整っていることが、ただちに能力の表れとは解釈できないわけで、やれ大脳の大きさはでかかったからしゃべれたんじゃないか(同記事)とか、いや前頭葉はそこまで発達していないはずだ(→ ネアンデルタールはことばを話したか? )とか色々ありますね。 この記事に紹介されている、チューリッヒ大学にあるとかいうネアンデルタール人の女の子の模型が、現生人類とあんまり変わらない顔立ちになっているのが印象的。

西洋骨董洋菓子店

よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』(→ amazon )。これ売れたんだろうなあ~。分析本まで出ているもの。今年は吉田秋生『海街diary 1 蝉時雨のやむ頃』(→ amazon )といい、女性コミックが来るぞ、というお告げなのかとでも言わんばかりの当たりよう。端的にうれしい。 大人になって自分の中にある何かを回復していく話って、男子のマンガがでっかい何かになるのと同じくらい、女子にとって売れる漫画の普遍的なテーマなんだろうか(ゲイと食べ物、という点でも女子の普遍的テーマなのだろうか、とか言って袋だたきに遭いそうな図))。ほんでも、「やっぱり思い出せねえし忘れられねえし怖いんだよ!」と言いつつ「さてケーキでも」で閉めるところは凡百の作品とは違うなあ。割り切った回復も解決もねえけど食い物ならここにあるぜ!みたいなん。全然知らなかったけどドラマ化されてたのねー。今年の夏にはアニメ化もか(だからこれまで探しても全然見つからなかったのに突然書店に並んだわけね。ドラマ化アニメ化には心底興味がないけどこういうメリットがあると)。 よしながふみは『昨日何食べた?』(→ amazon )以来のにわかファンでしかないのだけど、妙に昔から読み込んでいたマンガ家のような気がしてしまうのは、例によってやられているからだけなのだろうか、食べ応えあった満腹感。実はさっき書店で『愛がなくても喰っていけます』(→ amazon )を買って帰宅したら、オクサマに「またマンガぁ?!」とあきれられた。すごまれた、とは書かないところに配慮。 おいしいもの作りたい~。おいしい牛すじ肉のポトフ作ろうと思って、米沢牛のすじ肉グラム100円で買ったの~。

ウィスット・ポンニミット

なんかもう学内業務による一斉波状攻撃にてタジタジの僕は、荒れ狂うパトスをすべてマンガに費やすべくヤケ買いを決めたのだった。萩原一至『バスタード最新刊(25)』(→ amazon )、ウリエルの暗黒体崩壊にて連載当初と同じマンガとは思えない鬼の書き込みで破壊曼荼羅ご開帳。正体不明のオカルトマンガだった惣本蒼『呪街(2)』(→ amazon )はサイキックアクションになってて分かりやすくなった反面、あんま面白くなくなったよ。今時の超能力ものは脳のハッキングがカッコイイということでしょうか。そしてよしながふみ『西洋骨董洋菓子店 全巻』(→ amazon )は、やっとみつけたよ~。『フラワーオブライフ』だっけか?も含めて目下課題図書となっています。買うだけ買ってまだ読んでねえ。 そして今回の大当たりは、ウィスット・ポンニミット『ブランコ(1)(2)』(→ amazon )です。マンガ読みなら自称も含めて絶対後悔しないと思う。IKKI、いい仕事しすぎです。どうやってこの作家を見つけて来たんだろう、と思って検索かけてみたら横浜トリエンナーレの顔だったりする有名な人なのね。タイでは名の知れたアニメ作家なんだ。日本でもたくさん出してるなー(→ ウィスット・ポンニミット/amazon )。 絵柄は、スヌーピーで有名なチャールズ・モンロー・シュルツと、根本敬と、森繁ダイナミックと、本秀康とを足して、吾妻ひでおをふりかけた感じ。要するにヘタウマということなんですが、マンガの記号的表現自体を愛する君たちマンガ読みなら全編愛せるに違いない。だから君も読むんだ。 主人公ブランコちゃんが持つ「人の怪我や痛みを引き受けてあげられる」という乙一とか言っちゃだめな不思議な能力が話の接点となる短編連作。お母さんが宇宙人に連れ去られてお父さんが自作UFOで追っかけていって一人取り残されて、過失致死で終身刑を食らったおじいさんがウンチで小説を書いて、優しさが欲しくて自宅までやってくる沼がいて、ふうせんおばちゃんが記憶を消してくれる。こんなふうに斜に構えてしか紹介できない性格なんであれですが、愛まみれです。清濁併せのむ感じで。清濁併せのんで愛まみれ。この節操のなさは、タイの猥雑から生み出されたものなんでしょうか。最高すぎる。

久しぶりの、子供との散歩

3月末に家族が越してきてから、両方の時間感覚などを合わせるのにお互いにそれなりの労力がかかりつつも、学期初めの多忙業務が一段落するまもなく授業期に突入。 合間を縫って、子供と上山市を散歩。取り残されて生きながらえている昭和と、遺跡となってしまった昭和の発見などあり。 商店街に面した廃屋の一軒から小路に入ると、小学生向け雑誌の看板が見つかる。書店だとは気づけないほどの荒廃ぶり。小路の先は寺町通り。 土曜の昼だというのに、お城のある月岡公園の無人ぶりも大したもの。芝生広場のある公園、天気よし。倒れ込む子供。 見ての通り。大気常時監視で思い出したが、関東では光化学スモッグ警報をよく聞いた。空気と水に全く申し分のない上山で何を測定しているのかは不明。 春先ということもあるのだろうか、ほとんど全く手入れをされていない薬草園。 サウンドノベルでお馴染みの弟切草(→ wikipedia )ですよー。ゴンゲー!ある登場人物の有名なセリフですが、ご存じですか? まあ、そうでしょうな。 山形では春先に食べる山野草、アマドコロ(→ wikipedia )。苦みと甘みがある。萎蕤(いずい)のことなんだ!本草和名にも載ってる古くからの植物みたい。ご存じですか? まあ、そうでしょうな。 月岡公園を降りて、しばらく歩く。下二桁だけで通用する地域社会、の名残? デズニーランド的なね。 ちうか、ブログ更新する時間をどうやって確保しつつ、仕事や研究の時間を確保するか。あれ?

いまさらですが

すっごく分かりにくいあれですみません。4月1日のはエイプリルフールネタをやってみたかっただけです。言語専門の人に本物だと思ってスルーされてしまったので、はっきりとウソであると書いておきます。以前、フランス語専門の人にウソフランス語を教わったとき、ほとんど同じ反応をしてしまったことを思い出しました。ウソと分かりにくいネタは面白くなくてダメだな。ごめんなさい。

第2のパロール

パロール研究会編『第2のパロール』(→ amazon )読了。近代言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913, wikipedia )が、言語の共時態において、ランガージュ、ラング、パロールの3つの局面を定義したのは有名である。シンボル生成としてのランガージュ、社会的規範の体系としてのラング、個人的側面としての言語実践であるパロールに加え、2000年代は第2、第3のパロール研究がめざましい。90年代から2000年代にかけて、認知言語学と脳科学の急速な接近により、抽象的な議論に収まりがちであったパロール研究に突破口が見いだされたことは記憶に新しい。 この分野の発展は、やはり榎本俊二(1968 - , wikipedia )の功績に負うところが多い。パロールの主体としての自己を「ファースト自分」と定義し、その自己をメタ的に眺める「セカンド自分」、さらに意識を高めるときにのみ現れる「サード自分」などの階層的な自己意識を枠組みとして、それぞれの階層によって実現されるパロールを「第2のパロール」「第3のパロール」などとした。著書「ムーたち(2)」(→ モーニング|連載マンガの部屋 )によれば、「ファースト自分はいわばダムみたいなもので そこからセカンド自分サード自分へと意識を分配しているんだよ」とあり、下位の階層がより上位の階層を産出していることが明らかにされているが、パロールでもこれと同じ現象が起こっているという。 たとえばいわゆる第1のパロールでは声帯振動による基本周波数(F0)がピッチを構成するが、第2のパロールではその10倍音、第3のパロールでは30倍音界王拳がピッチを構成するため、加老とともに可聴周波域が狭くなるとアクセントが識別しにくくなる(p.121)。第1のパロールでは子音と母音が言語音の基本単位となるが、第2のパロールでは母音のみ、第3のパロールでは鼻腔の響きだけが基本単位となる。したがって、早朝の布団が名残惜しい時間帯での夫婦間の会話において「ンンンー(おはよー)」「ンンン、ンンー?(ごはん、まだー?)」というような伝達が可能となる(pp.156-158)。第1のパロールでは談話においてフィラー(「えーと」「あのー」)が機能的に働くが、第2のパロールではフィラーが演歌のコブシのように波打つ音調で現れ、第3のパロールではフィラーだけがミニ