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4月, 2009の投稿を表示しています

尺八カオス

こういうのいいなあ。途中、カシオレイターで尺八の首ふりみたいな効果を生み出しているところ、というよりありていにチョーキングですか、これは。しびれます。そこで気づいた。首ふりはチョーキングであるということに。あ!DS-Korg使ってるじゃん!そういう使い方だよ、そういうの!同僚にねえ、DS-Korgで講習会やってる人がいんの。こういう展開できないかなあ。そして何この画質の良さ。 ちなみに Far East Recoding ではCANTATA No.147に付属していたDVDが全然ダメでね。youtubeに全編上がってるのに、どうしてDVDには一部しか入ってないの?金出しているほうにいいもんつけろよ!もう!といいつつ、新しいCDもポチっとしそうで怖い自分がいる。 そしてすっげーかっこいいkokirikobushiのアレンジバージョンが出ていますよ。誰ですか、このスチールドラムを叩きまくっているおじさんは。かっこよすぎます。 オリジナルはこちら。

越境した日本語―話者の「語り」から―

真田信治『越境した日本語―話者の「語り」から―」和泉選書(→ amazon )を読んだ。120ページくらいのフィールドワークノートといった感じで、さらっと読める。が、記されている内容は、台湾、ミクロネシア、朝鮮半島、サハリンなどで聞いたインタビューを文字に起こしたものであって、体験談てんこ盛りな分、とにかく濃い。占領下の日本語体験の残滓と新たな姿が、「日本語」で語られる。日本語学だけでなく、文化研究などの人も読む価値あり、というか持っておく価値ありと思う。 僕がこの手の事柄に興味があるのは、もちろん日本語学に携わる人間としての責任ということもあるけれど、自分の身近な人の体験談によって既に得られている知見に別の光を当ててくれるからということが大きい。台湾については母方の血筋から聞く体験談、サハリン方面は旧満州とのからみで引揚げ組だった父と祖母の体験談、というふうに。体験談としての物語が、学問的手続きで形になるのも、言うまでもなく楽しい。 ということで、知的興味も掻き立てられるし、身近な人の体験談が立体的に見えるようになるし、仕事でもどうせ使わせていただくことになるし、個人的にはいいことづくめのはずなのだけれど、拭えない不安や真田氏との考え方の違いもあって少し苦しさも残る。 * * * * * 不安のひとつは、これらの談話に幾度か立ち現れる「日本時代が懐かしい」とか「日本の教育は良かった」という体験談である。考えにくいことだが、著者ら(調査チームは複数人数で構成されている)がそのような談話を選択的に配置したこともあり得る。しかし前書き・後書きの真田氏の言葉からはその蓋然性は極めて低いだろう(わざわざこんなことを僕が書くのは、こうした植民地下の日本語を戦争肯定の根拠の一つとする考え方が、業界の中にあるから)。だとすると、「日本語」が話せる人(および話そうとする人)自体が、すでにそういう文脈の中に置かれていると考えるのが自然だろう。話せない人・話そうとしない人は、植民地下ではサバルタンであったのではないか、というか逆にサバルタンだったからこそ日本語から遠い位置にいたはずだ。植民地下に限らず、制度としての日本語は、とりわけ周縁において階層を作り出した(ている)のだから。何が言いたいかというと、この本での語りを目にした人間には、「日本の教育は良かった」という部分を取り出して、植

康本雅子って人

くくっ。仕事の直前なのにはまってしまった…。康本雅子って人、初めて知った。もう最近こういう情報から完全に取り残されていますな。で、omodakaで知られる例の人。昔、このブログでも YouTube - kokiriko bushi を紹介したことがある。コメントはあとで。 で、メモ。 康本雅子(やすもとまさこ)公式ウェブサイト | Masako Yasumoto Official Web site 。

そんなに山菜取れないって…

asahi.com:外国産山菜を「国産」と偽装-マイタウン山形 だって。外国産山菜、あるある山形、と思わずうなづいた。これ、ちょっとせつねえな、と。 新庄市って一人あたりの市民所得が235万7千円(国民所得が287万8千円、山形県が242万7千円:平成17年度)で、東北地方ではまあ善戦しているほうだけど、全国36位(平成19年度)の県民所得を、たぶん新庄市はさらに下回っている。新庄市が位置する最上地方は県内でも貧しくてね…。このIT時代、おととしだかにブロードバンドを普及させることが目標に掲げられていたよ。それでも秋田の人からは、山形は山形市とか新庄市とかあってキラキラしてる、って言われるからさらにせつねえ…。 だからといって偽装が正当化されることは全くないけれど、とにかく、しょっぺえなあと。山菜料理を食べさせる「有名店」が山形にいくつかあるんだけど、店の裏側に回ればハングルとか中国語とかが印刷された段ボールが積み重ねられてたりするみたい。県民もそれを分かってて、味と雰囲気を楽しんでて、国産じゃねえとか野暮なこと言ってないし。自分ちじゃあ地元産のものを食べてても、お店じゃあ国産とかオーガニックとかあんまり聞かない(むしろ地元産が「無標」)。餃子騒ぎのときはさすがにだったけど。都市部は供給がおっつかないから、国産だけに依存したんじゃ間に合わないでしょ。まして山菜なんか栽培はしてるけど他の野菜みたいに大量には作れないんだし、作ってる地元だって輸入するっての。国産がどうのと騒ぐヒステリックな反応具合って、都市部と地方と比較する研究とかないのかな。 で、何が言いたいかっていうと、偽装はよくない。けど輸入ものを食べないわけには行かないんだとしたら、国産じゃないと売れない=偽装せざるを得ない状況って、どうなの?と。

このところのPCメモ

えーと、メモですが。 ■僕のスキル的な意味で、OpenOfficeが実用に耐えるようになってきた。仕事もOpenOfficeで困る局面はほとんどなくなりつつある。いまんとこ困ったのは、Excelでマクロ組んであるファイルが開けないとか、ワードの罫線表示が少しおかしいとか、細かい仕様の違い基づいていそうなところだけ。テクニカルなことが詰め込まれているファイルのやり取りが頻繁に生じる環境だと厳しいかもしれないとは思う。パワポもアニメーションとか使うのは全く無駄だと常日頃考えているので、っつーか要は紙芝居なわけだから、演出は演じ手がやればいいということで。スタイルの使い方がOpenOfficeの肝だというのも少しずつ分かってきた。MS製品よりいいところもあるかも。 ■Windowsのガワをまるっきりクラシックスタイルに変えたら、なんとなく挙動が早い。vistaやっぱり重くて、秋に出るwindows 7つーんすか?どうなんでしょう。ともあれ、余計な演出とかないからシンプルで気持ちいいし。肉をそぎ落として、骨だけですが不器用っすけど。Wiiの時代にファミコンが流行るみたいな感じか? ■プロジェクタにPCをつなぐと、単独に戻ったときに表示がおかしくなっているのが嫌だったんだけど、クラシックスタイルに変えたらそれも起こらなくなった。何なんだろう。

狭山丘陵

とっておきたいいまそこにある風景、というナショナルジオグラフィックの特集に狭山丘陵が取り上げられていた( 環境と自然 - 特集:日本の自然 - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト )。ここはかつて実家があった場所で、よく遊んだ思い出がある。 特集 - 第3回 狭山丘陵「トトロの森」(3/3) - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト で触れられるのは、いわば立ち入りが許されている場所であって、地元の子どもは鉄条網を破って湖の近くまで遊びに行く。実際水難事故なども時折起こったから、危険な場所でもある。が、子供にとってはそういう場所だから楽しいということもある。防空壕もかつてはたくさん残っていた。村上龍の小説にも、毒薬を隠す場所にここの防空壕跡が使われていた。湖のほとりを歩くと、自然の中でとつぜん人家の痕跡にぶつかる。狭山湖は村を沈めた人造湖だから。かつての実家のお隣に、移動を余儀なくされたおばあさんが住んでいた。ダム湖に故郷を奪われた悲哀はご多分にもれず。

ギャラクシー銀座

週末は子どもと2回も山に登って、すっかり筋肉痛のniji wo mitaです。山形はようやく桜も8分咲きって感じで、暖かい。昨晩、トマトと卵の炒め、茹で鳥とワサビ菜の中華風和えもの、中華スープ、チャーハンと作りまくった。気持ちが妙に落ち着かない、ので、先月購入してから何度も読み返している長尾謙一郎『ギャラクシー銀座』(→ amazon )を再読しているうちに偏頭痛が始まって寝た。『ギャラクシー銀座』ってそれそのものが偏頭痛の前兆みたいな、いやーな不安感と気持ち悪さを持つ作品なのに、こういう作品に限って中毒性があるのはなんでだろう。 この作品はギャグ漫画ではないのではないかと思う。何か、サイケデリックかつ不条理な仕掛けの中に、きっと意味があるんだろうと思って繰り返し読んでいるのは、果たしてよい読み方なのかどうか。部分として笑えるところはあるが全体としては笑えない。ネット上を漂いながら良い解説や良い批評を探しても、まったく見つからない。これを批評するのって力量が試されるぞー。批評家さんとかが本気で読んで、作品の持つ不条理具合な仕掛けを読み解いてくれないかなあと思う次第です。ちなみに僕が一番好きでかつ嫌なのはコニーちゃんと、コニーちゃんに蹂躙されているときの竹之進です。こえー。 (追記) アマゾン(4巻)のカスタマレビューにそれっぽいものが。やっぱりただの不条理じゃない何かがあるとも読めるんだ。当方、ぜんぜんその「何か」が読めないんですが、直観でその存在を読んでますよ。もう野生の勘に脊髄直下あたりがびんびん来てます。全然当てにならない僕の直観、インテュイションが!とりあえず「遅れてきたのにどうもあいつは反省の色がないセカイ系」と言っておこう!ノリで!

この世でいちばん大事な「カネ」の話

これまた出遅れたけど、さくっと読んだ西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(→ amazon )。これは職場と家に一冊ずつ置いておきたい本かもしれない。 売り込み通りどのページを開いても、切れば血の出るような話ばかりだが、なにげに胸を突かれたのは「ギャンブルで負けても笑え」って話だなー。といってもギャンブルの話としてではなく、ケツを割るなという人生訓として。それと鴨ちゃんが亡くなる直前にわずかに実現したという、温かな家庭の話。心底泣けた。合掌。

「向こう側」と「こちら側」

ニキ・リンコ×藤家寛子『自閉っ子、こういう風にできてます!』(→ amazon )を途中まで読んでいる。高機能広汎性発達障害の人と係わりができたので、研究室隣人の専門家に初心者に分かりやすいやつをお願いしたら、この本が出てきた。自閉症、高機能発達障害、アスペルガーの違いも全然分からないところからのスタートだが、稀有な本だなーと思いつつ、超面白い! 帯には「自閉の翻訳家と作家が今こそ語る独特の身体感覚と世界観」とあるように、この本の眼目は、自閉ではない人たちの知らない世界認識が、自閉ではない人たちの言葉で語られている点にあると思う。つまりそれって、僕らの言葉では語りきれない世界認識が自閉の人たちにはあるのだけれど、でもそれを僕らの言葉で敢えて語る=翻訳するならこうなるという、異文化体験でもある。自閉についてよく言われるコミュニケーション「能力の欠如」というのも、そう書けばそれきりだけど、どうやら自閉側の世界から見れば「欠如」ではない違う世界の見え方が存在しているようだ。 それをよく表しているのが、本書によく出てくる「定型発達の人」という言葉である。自閉「症」という病認定は「こちら側」のシステムから出ているに過ぎない。ある集団を「健全」と認定するために要請された外部としての「病」というレトリックなわけで、外部とされた側から「健全」を逆照射した場合の呼び名というのを作り出すことは可能である。「定型発達」という言葉の定義や意味は厳密に本書に書かれていないし、ネットでもすぐには見つけられないが、ざっくりと「健常者」の訳語として用いられているようである。「お定まりの型で発達した人たち」という、ややひねりのある呼び名なのかもしれない。こういう集団に呼称を与えるやり方は、集団内部の個人差を見えなくしがちだが、自閉の人たちにも個人差がある。この本は自閉の人同士の対談形式をとっているので、それが良く分かる。身体感覚や他の人との関わりの持ち方なども、ずいぶん違うようだ。そう考えると、やっぱり「定型発達」という言葉には少なからず含むところがあるんだろうなと思う。 * * * * * googleで「 定型発達者 」という言葉を検索すると、自閉側から定型発達者を理解・解釈しようとする研究や試みがいくつかヒットする。「向こう側」から「こちら側」がどのように解釈されようとしているか、を知ることで

いま超絶欲しいもの

昨日かっこいいこと書いてみたのにすぐこれだ。音楽といい、からくりといい、最高の一品を見つけた。購入できるのであれば絶対に購入する。暗黒ピュアネス。 いや、これこそが速度や量に値踏みされない価値、プライスフル。

速度や量に価値を値踏みされない方法で。

「私たちは指数的に成長する時代に生きています」と言われても、なかなか実感は湧かないものだ。具体的な数値を言われてもピンと来なかったりさえもする。 "Did You Know"和訳 - 西尾泰和のはてなダイアリー を読むと(via. 2009-04-03 - 東京永久観光 )、速度と量のイメージはできる。 知っていましたか? * 2010年に需要のある仕事上位10位は * 2004年にはまだ存在していませんでした。 * 今私たちは学生を教えています。まだ存在しない仕事に備えて。 * まだ発明されていない技術を使って * まだ知らない問題を解く仕事に備えて。  こういうのは、仕事柄、針がちょいと振れる。一方で2010年に需要のある仕事上位10位は2020年の仕事上位10位に入っているだろうか、とも思う(いや、この動画の伝えるスピードからすれば2015年の上位10位すら怪しい)。この動画は、その速度と量にさらされている世界にはどんな意味付けがなされるのだろうか、と〆られている。どうだろう。ラジオやテレビ、もうちょっと前なら出版文化の出現といった、技術が認識を変える事件は何度も我々を訪れたわけだが、ネットの出現はそれらと根本的に質的に異なるのかどうか。あるいはここで語られる、速度と量を備えた変化自体が質的な変化をもたらすのかどうか。 もたらすのかもたらさないのか直ちには分からない。しかし速度と量が今後ある程度は指数的に伸び続けていくことには変わりがないだろう。その一方で、「今私たちは学生を教えています。まだ存在しない仕事に備えて」こそを、真剣に考えなければならなくなるだろう(「備える」ためではないかもしれないが)。変化の速度の先端に存在しないもの、変化そのものではないが変化と無関係ではないもの、変化を生み出すものを。それを考えるのが、人文系学問の仕事のひとつなんだと思う。速度や量に価値を値踏みされない方法で。

非常に微妙な話

4月2日の記事、非常にデリケートな問題を茶化して書くべきではなかったと今になって反省。背景も情報も十分にここには記していないので(っつかさすがにできない)、ある種のポジショントークに見えてしまったかもしれないことも反省(コメントくださった方、コメントはありがたく思うけれど、そんなわけでちょっと事情は違うのよ)。 でも書いた責任もあるので、少しだけ記しておく。政治レベルで日本と某国の関係がどう転ぼうと、草の根レベルでの交流は人と人の努力で続けられるもの。そこへ国の論理や筋論を持ち込まざるを得なかった時に、それはそれとして受け入れたとしても、なお交流を続けるための誠意と説明がそこにあるのかということを心配していたのだった。「日本だから」というコメントもいただいたが、友好関係を続けることに尽力してきた出席者の顔が見えているときに、説明のない慣例を続けるのは悪意と取られても仕方のないことだと思うし、筋論はあまりに誠意がないと思う。 うん、しかし、この件は実は決着がついた。結論からいえばある部分ではこの件についてすでに互いの了解が取れているようだったし、取れていない部分については誠意のある説明をする準備があるということだった。つまり、たぶんこれって、互いの気持ちは分かっている、だからこそあえて深く突っ込み合わない領域がある、というような話で、根本的に大事ことがあることはそれとは別に了解し合えているからいいんだ、という微妙なラインの話の付け方だろうと思う。若僧心配すんな、俺たちは大丈夫だからと言われた気持ち。実際大丈夫かどうかは知らないが、トップの心意気に応じないのも人として野暮ではないかと。あちらもこちらも、ついでにそちらも立てるにはこういうやり方しかないのだなと思った。

古典再入門―『土佐日記』を入りぐちにして

日本語学的にはちょっと古い話題なんだが、小松英雄『古典再入門―『土佐日記』を入りぐちにして』(→ amazon )読了。仮名文学が、基本的に漢字を交えずに成立していることのアドバンテージはこういふうに利用されているんだよ、という話。仮名文学は漢字表記によって意味を固定されていないために、ああも読めるしこうも読めるよう仕掛けられる=複線構造になっているというお馴染みの方法論で切り込む。今回も文献学的な知見、特に連綿による語境界表示、仮名字母の話を織り交ぜつつ、既存の注釈書や辞書をぶったぎっている。オチを先に言うようで恐縮だが、『土左日記』の「男もすなる日記といふものをゝんなもしてみむとてするなり」というよく知られた冒頭文の解釈を、掛け言葉として読み直してみると、「男文字(す)」「女文字」が浮かび上がる、そこから本文を読みなおすと教室で習ったのと違った読みが見えてくる、というお話。 知的興奮とともに、何か追いつめられるような重圧もわずかに感じるのはなぜか。本書を読んでいてこの感じ、別のところでも感じたことがあると思ったのは、橋本治だ。両者に共通しているのは、厳密な方法論。考えうる可能性をすべて挙げたうえで、緻密に査定し、蓋然性が高いもの以外を一つずつ確認しながら切り落とす。査定と切り落としの作業では、遠いところを迂回することもある。理路を見失わないようにさながら息を止めて誰かを尾行するかのような緊張があった。 一読してみて、瑣末なことだが意外だったのは、小松先生が石川九楊を肯定的に受け止めているらしいことだった。以前どこかで読んだ対談では、小松先生が自律的な言語変化を前提として語るのに対し、石川氏は言語が人為的に構築されたものであるという立場から語っていて、見事にずれている!と思ったものだった。石川九楊、積読になっているものをそろそろひも解かなければならないか。

直情反射はいかんとは思いつつも

マジで高野連つぶしたほうがいいんじゃないの? Weekly Teinou 蜂 Woman: 帽子をへこませるのがクール を読んで、またも不愉快な思いに共感した。つくづく高野連やばい人たちだなあと思う(→ 細まゆ禁止通達から5年、甲子園に太まゆ戻る : 選抜高校野球09 : スポーツ : YOMIURI ONLINE )。 日本高野連は2004年、まゆを細くそりすぎることを禁止する通達を出した。05年の選抜では、細いまゆの選手が目立つ2校を口頭注意しているが、今回はゼロ。「年々、細まゆの選手は減っている」という。 現場の一部の高校教員にはこれで苦労している人もいるんだろうなあ。で、それとは全然全く金輪際関係ないんだが、今度の入学式で司会を担当しているんだが「君が代斉唱」がセリフの中に入っていて、処置に苦慮しているところ。田舎の短大じゃあトップに特別な政治的信条があるわけじゃないんだ。ただ慣習に従って無意識にやっているだけなんだ。それが村社会というものなんだ。こないだ同僚が別のことに関して「無知と悪意は根本的につながっている」と吐き捨てているのがやけに気になっているだけなんだ。そういうことなんだ。今日のお昼はそば飯なんだ。いますぐに食わなきゃ俺たちいつかどこかで死んじまうんだぜ。

エイプリルフールの由来

今年はこのエイプリル・フールには乗らない、自分はそういうことを書かないぞと強く思ったことがある。それはエイプリル・フールの由来についての記述に触れたからだ。簡単にいえば、この日は『たった一度嘘をついてもいい日』だが、それは『だからその他の日は決して嘘をついてはいけません』という条件がつくものだからだ(→ エイプリルフールの由来 )。我が身を思い返してみれば昨年はどうだったか。そしてこれからの一年はどうだろうか。神仏にかけて今後も嘘はつきません、だから今日一日は存分に嘘をつきます、などと言えるだろうか。言えるはずがない。 だから今日は嘘をつきません。