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2011の投稿を表示しています

帰省時にやりたいこと/来年もまたよろしくです!

ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』(→ 天皇の逝く国で【増補版】:みすず書房 )。途中まで読んだ。オーラル・ヒストリーに基づく質的研究の良書でありながら、読み物として成立している。うまく言えないけれど、読んでいて気持ちいい。初めから日本語で書かれているものと思ったら翻訳だった、というくらいに文章も読ませる。読み終わったら感想を書きたい。 あとは読む暇があるだろうか、 [改訂第5版]LaTeX2e 美文書作成入門 のOpenTypeのところと、ユニコード関連のところ。自分の研究で今年地殻変動があったのは、データをjisからunicodeで記録し始めたこと。共同研究者との関係からズルズルとそうなったのだけど、ユニコードと文字鏡フォントをTeX上で表示させることはできるのかどうか。 XeTeX - TeX Wiki なども見ている。漢字文献、というか歴史文献資料を研究している人たちは電脳処理をどうしているのか?というと、ネット上での情報は少し古いように見えるかな。TeXを使って論文を書く人自体が以前にもまして貴重種になりつつあるのかもしれない。既存のワープロソフトでもはやいろいろできちゃうからね。そして僕も今年はMS-Wordの軍門に降ったのだった。 さて、簡単な片付けをして、これから関東に向かう。先に関東に行っている家族を、正月明けに車で連れ帰るために、ひとり長距離ドライブ。BGMは岡村ちゃんほか。 ひとまず2011年のniji wo mitaはこれにて終了です。ほんとうに投稿数が少ない年だった。体験の種類や質と投稿数は相関がある。来年は元のレベルくらいには戻したい。一年間どうもありがとうございました。実名でお付き合いの方も、ネット上でしかご存じない方も、来年もどうぞよろしく。皆様のご健康とご多幸をお祈りして。

いろいろよく分かんなかった一年

まだ一年は終わっていませんが、明日は実家に戻るのでここで一区切りです。 今年度はいろいろよく分かんない感じでした。ひとつは前期に関東で非常勤講師をやったこと。いい経験にはなったけど、ずいぶんめまぐるしかった。そして何より震災の影響、とくに放射線の話は脳に常駐していて、ほとんど何も解決していない今、当然のことながらすっきりしてはいない。何をしていても、次の3つを気にしていた。気がつくと検索していたり記事をたどっていたりして、夜などはあっという間に時間を食い尽くす。 ・福島第一の事態把握 ・放射線の人体への影響 ・山形の放射線量 放射線被曝の話は誰もが考えて、かつ表現して良い話なのに、それによって生じる物理的・心理的な集団の分断なども、重たい問題として常に頭の中にあった。口に出したいけれど、出してどうなる?という自問が口を開くことをどこか押しとどめている。 山形は地震津波にしても放射線にしても激甚被災地に近いわりに被害が少ないので、被害の多少が分断の話に容易に結びついてしまう危険性が常にある。早川さんの発言などは、このブログでも時折話題にするイマココ性からいえば明らかに分断を生み出すという点でたしかに問題なのだけど、彼の偽悪的かつ露悪的な物言いは長期的に問題だと誰も言えないのではないか云々。物を言えば大なり小なり分断は起こるものであって、できるだけ分断を起こさない物言いを心がけることは必要であっても、だからといって慎重さを装って静かにポジション確保に勤しむのも嫌なものだった。このあたりはどれくらい逡巡したか知れない。 じゃあきちんと自分の社会的立ち位置から発言できたかというとそうでもなく、やっぱり少なくとも自分の中で落とし所はそれなり決めた上でないと決断して発言するのは難しい。 職場の方も大なり小なり被害を受けているわけで、それへの対応が時間と体力を削り取っていたのもあった。しかし通常の業務の中に震災や放射線とは別の、とにかく通常の業務の体裁をなして忍び込んでいるので、ただいつもの仕事が増えたかのようにぼんやりと感じる自分がいて、いやそうではないだろうとたまに目が覚める。 まあこんな感じなので仕事はたくさんこなしたように思うが、質の方は全般的に粗悪だったとも思う。自分の専門の研究は思わしくなかったし、仕事も空回っていたかな。なんかもう今の

メガネっこクラブ

年内の仕事も終わり、近いところの原稿仕事も書き上げ、あーいますっかりやることがなくなっている。と思ったら気持ちの上で次のことを考える精神的な余裕が少しできたような。友人と待ち合わせの途中、まずはボワボワの髪の毛を切るか、ユルユルのめがねを直してもらうか考えて、よしメガネだと思った矢先に店頭の安いメガネをほぼ衝動的に購入してしまった。だって安いよ、Zoff(→ メガネ(眼鏡・めがね) | Zoff(ゾフ) )。標準のレンズとフレームセットで7000円台って安い。ショーウィンドウの前面に陳列するフレームはどれも若者がかけるようなシャレオツな太くてカクカクした感じのものばかりで気後れしたが、隅っこの方にあるフツーのやつをお試しで購入した。  いまかけてるやつはもうフレーム調整ではダメなくらいになっていて、すぐ鼻の下の方に降りてきてしまう。ただでさえ髪の毛が白くなってきたのに、マジでおじいちゃんに見えちゃうのはおいしいと思いつつもクイッと上げるのがめんどいからね。 所持しているメガネから度数を測って、同じ度数のレンズを在庫から取り出して、視力を測ることもなく30分で受け取り。すげーなー。これまでかけてたやつだって2万円というのは安い気がしたもんです。ただ、安いやつだとちょいと重めのレンズですね。何千円か払えば、あとでグレードが上のレンズと交換してくれるってどういう仕組。

Orbital 新作

Orbitalが新しいアルバムを出すそうですね。 ::: BEATINK Official Website / Beat Records / Orbital ::: によれば、2009年には再結成があり、ツアーもこなしていた模様。2年の滑走期間を経ての新作で離陸という流れですね。 新作の一部、Neverという曲が公開されています。

AndroidのGoogle Ime

Android用のGoogle Imeがようやく出ましたね(→ Google 日本語入力 - Android マーケットのアプリ )。ずっとShimejiを使っていましたが、速攻で乗り換えました。Google Imeの実力はPCのと変わりがないです。インターフェイスも悪くないです。最近パワフルマシンと比べてややロートルとなってきた(まだ一年なのに…)Is05でももっさり感がなくサクサク動くのが、Shimejiとの大きな違いに感じます。 というわけで、IS05の使いやすさがぐっと上がってます。

ユニコードでデータセットを作る

共同研究で入力しているエクセルシートには、漢字や漢語が並ぶ。この10年くらいに、各研究者がいろいろな段階で入力を始めたデータが、混在している。15年くらい前には漢字文献を取り扱うには、今昔文字鏡を使うのがスタンダードだった。JISの第2水準までに含まれるのは6800字程度だが、歴史文献に現れる漢字をカバーすることは到底無理だった。今昔文字鏡は発売当時8万字、いまや16万字を誇る。 ところが今昔文字鏡は「人間が目で見て分かるため」の処置をしており、文字コードとは対応していない。同じコードを持つ文字に異なるフォントをかぶせることによって、擬似的に複数の漢字を表示しているだけだ。これが漢字データを電子処理しようとすると障害となる。それで諸橋大漢和辞典番号や大字典番号などを併記しておき、それを軸として他のデータセットとマッチングさせることが通例だったのではないかと思う。TeXで文字鏡フォントを使うときも文字番号は諸橋大漢和辞典番号だったので、データ管理をするにはこのやり方がとっても便利だった。 ところが共同研究者となると漢字処理はいろいろ独自に対処しているので、このやり方を一方的に押し付ける訳にはいかない。今昔文字鏡だって安くはない。また入力もそれなりに面倒であるし、慣れない人は「一斉にMS明朝を適用したら変になったよ」みたいなことを起こす。むにゃむにゃあーだこーだやっているうちに、漢字字体研究の人たちはあっさりユニコードに基づいたデータベースを作成するようになってしまった。office 2003の段階でユニコード対応となったことも大きなきっかけだったろう。「これからはユニコードってホント?」などと様子見をしているうちに、マジでユニコードの世界になだれ込んでしまったようだ。 すると途中まで入力していたデータが、あるところから突然unicodeになってしまうわけで、完成間近になって全体を振り返ってみると極めて不均整なことになってしまっている。我々は文字コードや漢字のフォルムを研究しているわけではないので、このあたりはかなり無頓着にやってきた。しかしあんまりこれだと使い勝手が悪い。こりゃ直していかなければならんなということで、ひとつひとつデータを見ていくと、かなりユニコードにカバーされていて驚く。ユニコードに含まれていないのは10%くらいか。 歴史文献に現れ

ぱぺぴぷぱむぱむ

このところyoutubeで出会った、80年代テイストな映像を。「パペピプ♪パピペプ♪パペピプポ♪」。コンピューターおばあちゃんみたい。ロリータ演出な発声にほんのわずかイラッとしないこともないけど、耳に残ってしまうわけです。アラフォー狙いでどんぴしゃりに釣られてみるのも悪く無いでしょう。 アニメ「べるぜバブ」のエンディングのようで。我が家の小学3年生も興味津々です。 で、歌う佐々木希の滑舌が悪いなどと言われていますが、じゃあおまいら「きゃりーぱみゅぱみゅ」ってきちんと発音できたことはあるんか、と問いたい。僕は全然です。「きゃりーぱむぱむ」か「かりーぴゃむぱむ」のほぼ二択です。拗音性というか口蓋性が前後の音節にずれてしまうわけで、まったくよくできた早口言葉だと思います。つーかそもそも「ぱむぱむ」が言えない。この語をあと300年くらい放置プレイしておくと「ぱうぱう」に音韻変化を起こしかねない勢いです。 ウェイウェイウェイポンウェイポンポンです。このナンセンスぶりと、テクノパンクフォント(いい加減に命名)です。POLYSICS先輩の「コンピューターおばあちゃん」かと(このPVの製作過程が 大原大次郎 omomma™ に!)。 アラフォー子持ち家族の親子を撃ちぬく企画って、やっぱりわかっていても乗っちゃうものですね。この企画(→ ナタリー - [POLYSICS] 大人も子どもも楽しめる童謡カバー集 )とか、絶対楽しいって分かるもん。買わずに耐えていますが!

楊逸『おいしい中国―「酸甜苦辣」の大陸』

野村進『島国チャイニーズ』(→ amazon )に出てきた楊逸のエピソードが興味深く、芥川賞受賞作『時が滲む朝』(→ amazon )と『おいしい中国―「酸甜苦辣」の大陸』(→ amazon )を購入した。お風呂でダラダラ読んだのは『おいしい中国』。帯には、「中華料理で文化を味わう」「餃子」「腸詰め」「ワイン」などの文字が踊る。 すわよだれダラー、いやこの場合ダラーではなくユエンか、などと思うことはなくてですね、読んでみたら確かによだれユエンだったのだが、それ以上に文革で下放された知識人家庭に育った子どもの体験記でした。ハルピン都市部から思想改造のため農村にやられて、寒さに耐える話とか、カフェ本にない重厚さ。僕も学生時代に冬のハルピンに行ったことがあるが、零下30度くらいの激烈な寒さである。豆油がなくなって亜麻油を料理に使ったら家族が全員めまいを起こした、といったエピソードなのに、楊逸ってあっけらかんと書くので、ふわっと読めてしまうのね。 とはいえ別に政治的な背景はあくまでも背景でしかなく、メインは子供時代の楊逸視点からの活き活きした貧乏生活と、お母さんが作ってくれた料理の数々。ただしカフェ本っぽい装丁の本書からは良い意味で裏切られて、なんというか貧乏な時代に手をかけて作った家庭料理のオンパレードなのですね。油饼(→ 油饼_百度百科 ),烧饼(→ 烧饼_百度百科 ),酸菜炖粉条(→ 猪肉酸菜炖粉条做法[图解] )とか中国東北料理とか、読んでて山形市の中華料理店「好吃再来」(→ 好吃再来(ほ つ ざい らい) - 中華料理 (山形県山形市) | 山形まるごと情報サイト☆ヤマガタウェイ )を思い出し、近いうちにに行こうと強く思った。「好吃再来」の酸っぱい白菜の肉炒めは死ぬほどおいしいので東京の人とかも来るといいと思います。 それで、うまそげな中国東北料理が乱舞する中で、ひときわ興味を持ったのが「玫瑰饼」というもの。玫瑰というのはハマナスのことだそうだ(→ 玫瑰(当て字・熟字訓) (はまなす) - 関心空間 )。え?宗谷岬のあのハマナス?ということで、あの花は食べれるのですね。楊逸の本では、70年代になって改革開放政策(文革もう疲れたよ~)でちょいと福利厚生とかも大事じゃんの雰囲気のなか職場のピクニックでハマナスを摘みまくったとある。それをお母さんが

扁炉

今年の忘年会は、扁炉(ピェンロー)をやろうといま心に決めましたので、関係者はどうぞよろしく。 扁炉 ピェンロー:妹尾河童さんによる旨すぎ白菜鍋 (←この写真やばすぎ)

見逃したライブを悔やむタイム

何の気なしにyoutubeサーフィンかましてたら、矢野☓上原が昭和女子大人見記念講堂で公開録音をやっていて、しかもCDまで出していることを知った。慌ててアマゾンで2枚買ったけど後悔はせず(笑)。つか新品は売り切れ入荷待ち、中古ならすぐなので両方アタックかけました。Get Together ~LIVE IN TOKYO~(→ amazon )。ジャケットも素敵。 収録曲を見ると、 1. CHILDREN IN THE SUMMER 2. あんたがたどこさ 3. ケープコッド・チップス 4. リーン・オン・ミー 5. 学べよ 6. 月と太陽 7. リンゴの木陰で 8. ラーメンたべたい 初回限定ではDVDがついていて、ラーメンたべたいが収録されているようだ。「とんこつ」バージョンだといいな、と思う。 公開録音では、もっとたくさんやったみたい(→ 矢野顕子×上原ひろみ@昭和女子大学人見記念講堂 - ルーツな日記 )。セットリストを見ると、2006年のときと少し重複がある。あのときはNHKで放送されただけでCDにはならかった。なので、やりなおし?みたいなニュアンスがあるのかな。リンク先ではアンコールからのテイクについて感想があるけど、CDには収録されていないようで、うらやましい限りです。 2人はこの会場で2006年12月に演奏している( d0612 、12月8日)。その時のセットリストはかなり贅沢だった。 上原ひろみ 1. Desert on the Moon 2. My One and Only Love 3. ひとりぼっちはやめた 4. Tom and Jerry Show 矢野顕子 1. 中央線 2. きよしちゃん(新曲) 3. ばらの花 4. ごはんができたよ Duo 1. Children in the Summer 2. あんたがたどこさ~アフロブルー 3. Living with You 4. Very Early 5. はこ 6. Deja Vu 7. ラーメンたべたい アンコール 1. そこのアイロンに告ぐ 2. Green Tea Farm きよしちゃんが新曲だなんて時代ですね。そしてこの時もGreen Tea Farmやってたんですね。自分が行ったことあるライブでこ

三兎追うものは一兎をも得ずです?

授業内での言語調査、1日目終了。今年は調査項目をがっつり入れたので、参加してくれた人たちが「楽しかったー」と帰っていくことに安心しつつ、でも学生にはもうちょっと負荷がかかるやり方でも良かったかもなと思う。  僕は方言研究が専門ではないので、最初からがっつりとした研究論文を書くつもりではないスタンスで調査項目を作っている(もちろん授業でやるからには基本的な調査リテラシーを身につけさせることが目的だから、そこはぶれない)。だから調査協力者への負荷が比較的軽い調査票が出来上がるのだろう。ま、それはそれで。 学生には調査だけど調査にするな、話を聞くつもりでいっぱいコミュニケーションしながらやれ、と伝えてある。調査結果のフィードバックもやるけれど、答えて楽しかったという印象を残したい。学生にもちゃんとコミュニケーションできたという手応えを残したい。その上で調査結果もきちんと残したい。  方言研究を専門にしている人の話を聞くと、授業で本気のがっつり調査をやっちゃう場合もあるけれど、協力者の満足感も学生への教育的効果も全部コミコミで狙う人も、そうでない人もいるので「人それぞれじゃん?」ということらしい。これまで参加させてもらった調査で、かなりやばいもめ方をした調査もあった。なんちうかですね、科学的調査を標榜しても相手はやっぱり人間だ、という極めてベタなことなんですよね。  だからラポール大切、とは言うものの、たぶんそれと同じくらい調査内容と密接な関係があると思われ。用法とか使用度とかは協力者側に「教えてあげている」ポジションを用意しやすいのだけど、音声調査とかだとかなりそのポジションは作りにくい。なので学生と授業で大規模音声調査とか考えただけでクラクラするわけです。 さてそこで協力者側から、「来年はおらだのことばを音声で残したい」と来た。ありがたくて涙出ます。音声データベースを作るのはやってみたかった。でも方法はじっくり考えないとですね。調査は明日もう一日。

Bonsai meets Otaku. It's a new traditional style !

その他、台湾で気になったことを少し。台湾って、妻がちらと見た現地のニュース番組で昨年からの経済成長が110%ですって。ソースはと思ったらあった(→ [世] 実質経済成長率の推移(1980~2011年)の比較(台湾、日本) )。経済音痴な僕ではここから読み取れることはほとんどないけれど、台湾が日本より伸びているのは分かる。そしてそのことは数字の上だけではなくて、実際に行ってみた感じと合致している。いい家、いい車に乗っている人がすごく増えている印象があった。7年前と感じが違う?! 高級自転車に乗っている人たちもいっぱりいるし…。円高にものを言わせて一台購入したいくらい。 僕が一番感じたのは、いとこやその子供たちが日本語を学ぶ気をさらさらなくしていたことだった。少なくとも7年前は、社交辞令レベルであったとしても「勉強してみようかなー」という声は耳にした。今回はそれが全くない。それよっか英語がずいぶん浸透している様子で、高校生も英語がかなり上手(といっても英文学が好きなんじゃなくてコミュニケーションが好きってんだから、どこも一緒だよね)。今回は「いやー、日本語はね、ウフフフ」(意訳)という反応。 普段、日本に来ている台湾からの留学生から、僕が受ける印象はオタク系が多いということ。若い子は日本のアニメやマンガがみんな好きなのかと思ってた。そしたらそうでもないのな!口はぼったい感じもあるが台湾の親戚はアッパーミドルクラスの人が多くて、彼らの子どもは「ドラゴンボール?何ソレ」「ワンピース?聞いたことない」という。でも台湾101の地下おもちゃ売り場にはたしかにでっかいルフィのポップがあったし、ホテルのレストランでウェイトレスやっているいかにもいーかーにーもfujoshiな感じの子は「ルフィ大好きです!」「日本語はアニメで勉強しました!」との話だった。 つまりお話を6段階くらいすっ飛ばして考えると、やっぱり東さんが言うようにCool Japanなんてもう過去の遺物、しかもハナっから狭いターゲットを対象としたマーケットで、しかもしかも最初から金にならん世界なのかもしれん。 世界に誇るメイドインジャパン と経産省がのたまうことにどれくらい期待して良いのか…。 しかしやはり台湾にも趣味人というのはいるもので、日本の江戸時代に大ブームを起こしたBonsaiと平成時代

国立台湾文学館の母語文学

台南で面白かったのは足裏マッサージ、じゃなくて国立台湾文学館(→ 國立台灣文學館 ;日本語も選択できる)だった。平常展「台湾における母語文学常設展覧会」(→ 台湾における母語文学常設展覧会 | 国立台湾文学館 )には次のようにある。 台湾は多元多族の島であるため、それぞれの母語文学を持たす特色がある。本展示は台湾語と客家語と原住民それぞれの言語で表した文学の豊かさを参観者に分かりやすく、楽しめるように作り上げました。そして、母語文学が台湾文学における存在価値を認識してもらいたい。 いわゆる台湾語も書記が十分に整理されていないので、アルファベット表記を交える(このエントリの写真だけは全てクリックすると600pxlに拡大できます)。よく誤解されるが台湾の公用語は北京語に似た言語(北京語話者と十分に意思疎通ができる)であって台湾語ではない。1945年以前は日本語を除けば台湾語がマジョリティであった。台湾語も語族的には漢語の一種ではあるが表記法が定まっておらず、母語話者の主観では「台湾語は口頭語であって書けるものではない」とのこと。しかし近年台湾で高まっている母語運動の気運もあって、表記法も検討されているようだ。台北淡水にある真理大学の台湾文学系では、表記法確定の試みを続けている(→ 九年一貫鄉土語言教育 台語羅馬字進修教學網站 )。書記言語としてのポジションを確立することは、ダイグロシア的な階層関係のなかで言語をより高い変種に位置取りすることを意味するので、これは貴重な取り組みと言える。 母語運動は客家語や、各原住民(PC的にはまずそうだが現地の言い方を借りれば)の諸言語にも同じ気運が高まる。 客家語版『星の王子さま』も。 原住民文学もあったが、アルファベット表記だった(写真はなし)。文学ではなく日記で目を引いたのが次の写真。 貴重な内容なので、左のページを試みに少し翻刻してみる。 三月十七日星期■(七)上午雲下午大雨 目を醒と外は已経に明るい.馬上寝具を片付て窓を打 開し東の空■を眺れば雲におほわれ■■た太陽の光 線がもれてゐる.吃早飯以後クリスチヤンサヘ君か本を持ちなか ら遊びに来た.今日(ルビ:コンチ)は?先生は何所へ行く?と言ふと今日一中自分 と(書入:遊ぶ)さうてある。なんと自今は嬉しからそうれて一日■中彼氏と談話 し夕方雨が

法事・道教入り仏教

台湾2日目、台湾高速鉄道(新幹線)にて台南に向かう。 新幹線の中で見かけたシール。漢字文化圏を共有しながらのおもろいところは、お約束の「ずれ」ですね。 駅前には自転車(Giant)の人たちがたむろう。中秋節ということもあり、昼間はのんびりとしている。街中はロードバイクやクロスバイクをたくさん見かける。有名ブランドの自転車のパーツはだいたい台湾で製造されていることと関係があるか。 今回の台湾来訪のメイン、祖母の法事と親戚との交流、などなど。台湾のお寺は道教と渾然一体となっていて、お寺の屋根には道教のキャラクターがあしらわれているものも多い。もちろん仏像はある。 でも商売の神様、関羽も一緒に祀られていたりする。 法事では皆でお経を唱える。檀家は頭に入っているようだが、僕らには経典が渡される。読経は台湾語、おそらく文言音。日本のような単調なリズムではなく、跳ねるようにリズミカルに読み上げる。メロディもある。檀家は黒衣をまとう。お坊さんの指示するタイミングで、床に三叩頭。 祖母の位牌。お寺に位牌が陳列されているうちの、ひとつとなる。 骨壷はこんな感じ。つまりお墓センターみたいなものがあり、ロッカーにも見えなくもないところへ、完全封入される。ラオスの玉(ぎょく)でできた壷に収められた後、二度と開かないようにロッカーに封入される。その後、紙銭を皆で焼く。 その後、宗廟へ。母方の姓は頼というのだけど、頼の一族が宗廟を作って管理をしている。碑の記述によれば、清代に福建省から渡ってきたようだ。数えてみると僕で10代目らしい。 2代前が住んでいたという三合院。建物がコの字型に配置されている。北京の四合院の一つ欠けている形。 この日、一番の食べ物は肉そぼろや野菜を煮たものを、おこわで包んだもの。ひとつで十分お腹いっぱいになる分量。 豆醤(トウジャン)と組み合わせる。まあ正直、歓待の料理が続くと疲れるので、ほんとうはこれくらいで十分。 お約束の。

台北へ・ゲイパーティー

4人家族になってから初めて台湾に向かう。山形、東京、成田が一番長かったかな。台湾に行くのに気持ちのハードルが低いのは、自分にとって半分のルーツがあるということ以上に、成田からの飛行機が余り揺れないことにあるのではないかと思う。でも今回はいくつかのスポットでやや大きな揺れがあった。昨年の12月、インドネシアへの出張で飛行機の恐怖を不思議な形で克服してしまってから( niji wo mita: 恐怖を克服するために )、あれは夢なのかどうかもう一度本当に確かめないうちにはやはり安心するわけには行かないと思っていた。して、結果は、やっぱり克服できていた。揺れればいい気持ちはしないものの、以前のように体が硬直するような恐怖はない。生理的反応とすら思っていたことが、治療や事件がないままにある日を境にスパッと断ちきれて、違う世界を味わうことになろうとは人間は不思議なものだ。 台北桃園空港にて、村上隆チックなアートに遭遇。 * * * * * 初日、鳥スープのお店にて台北チームの親戚から歓待を受ける。 濃厚すぎ。激烈においしかった。どうも豚足も入っていて、それゆえにコラーゲンたっぷりなスープの表面になっているよう。 へちまとにんにくの炒めもの。沖縄もへちまは食べますよね。 このあたりはよくあるよくある。シャンツァイを食べたの、どんくらいぶりだろう。 日本では「法事などで山のような親戚に会って、顔と名前が一致しないけれど適当に話題を合わせる」みたいな体験に乏しい。台湾でのこれがそれなのだな、と思う。あなたのことは小学生の頃から知っている、誰々と喧嘩して大泣きした云々。僕が台湾に時折来るようになったのは23歳以降なので台湾を意識するのもかれこれ15年のこと、今度は15年前以降小さかった台湾の親戚の子供たちが大きくなって、僕のほうが君らのことは小学生の頃から知っている、大学での専攻は?などと聞く立場に。かわえーのー。 ホテルに戻り、僕と子供2人が眠った後、深夜の台北を妻は散歩していたらしい。翌朝、戦利品の傘を見せてもらう。ホテルの下の方のフロアでは、クラブでゲイの大パーティーが行われていたようだ。にぎやかなことで。

September kills

毎年恒例の、内輪の研究会発表を終えてきちんと辛辣なコメントをいただけて(涙)、学内の広報材作成が間に合って、石巻の出張が終わって、盛岡での講演が終わって、さあ仙台のスタバで元同僚待ち。昼ごはんを食べようとのこと。仙台に大変お詳しい元同僚であるだけに、さぞかしおいしいお昼ごはんなのであろうな!なのであろうよ!というわけで、スタバでずっと待ってるんだけど!  「ごめん待った?」「ううん、全然」  BLか。ほんで明朝はやくから家族全員で台湾に向かいます。先遣部隊からは「異常なし」「暑い」「おいしい」などの戦果報告があいつぐ。いちおー祖母の法事☆です!原稿直しと授業計画の宿題を抱えながら、行く前から仕事できない感がプンプンであります。

朔ユキ蔵『黒髪のヘルガ』

朔ユキ蔵『黒髪のヘルガ』(→ amazon )を出張帰りの新幹線で読む。1冊読み切りは移動時間にぴったんこ。エロティクスF掲載をちらと見たことはあったけど、こういう話だとは思わなかった! で、この作品は『少女ギターを弾く』(→ amazon )以来、性欲とは何かを暴力的な筆致でテーマにし続けた朔ユキ蔵のひとつのアンサーだなと思う。所有、独占、憎しみの起源をSFファンタジーをベースに語る。朔ユキ蔵がシリアスものをきちんと最後まで書いたのも新鮮だった。ネタバレなしで読んだほうが面白いので、ここではあまり書かないけど、今年のベスト10冊には入ると思う。

中国語 ime on ubuntu10.04

ubuntu10.04で中国語imeを使う方法。mozcに相当する中国語google ime pinyin(→)はwin対応のみだったので、今回はスルーです。中国語はサボってたからもうほとんど使えないけれど、来月所用があって台湾に行くので、向こうの親戚とメールにてやりとりをしなくちゃなんない。英語と中国語をまぜまぜでの会話になるだろうし、メールも同じ。 僕はibusから使ってます。標準だと賢いimeが入っていないので以下のリンクを参考にインストールします。システム>システム管理>言語サポート から中国語を追加し、それからibus(scimでもいいですが)から中国語pinyinを追加します。設定はかなり簡単です。 Ubuntu8.10でWord,Excel,Picasa3等のWindowsアプリを動作させる方法: ubuntuで中国語入力(簡体字・繁体字) 為什麼? : Ubuntu10.10で中国語(簡体・繁体)入力 你好。可以用漢語拼音打繁體字!也可以打简体字!

地面を「じめん」と表記すること

twitter経由の話。 ***** 「ぢ」「づ」は、現代仮名遣いでは基本的に認めていませんが、連濁によって生じた場合には残してもよい、としています(その他の例外則は 現代仮名遣い:文部科学省 をご参照ください)。鼻血を「はなぢ」とするのは「ち」が連濁によって「ぢ」になったとみなせるからです。そうでない場合は、原則的に「じ」で書く。かつて歴史的仮名遣いでは「ふぢの花」と表記したものも、これは連濁によって生じたものではないから「ふじの花」と書く。 ところで地面を「じめん」とするのはどのような理由によるか、というとこれが説明が難しい。地は「ち」なのだから「ぢめん」でいいではないか、という理解もある。これにたついての現代仮名遣いの説明は、「これは連濁によって生じたものではないから「じめん」が本則」、ということです。 現代仮名遣いの、「じ」「ぢ」「ず」「づ」に関わる基本的な考え方は、 「ぢ」「づ」は使わない。表音主義を基本とするから。 ということに尽きます。ただし現代仮名遣い以前の表記習慣に中途半端に配慮したので、 連濁に関わる場合などは(語源意識との整合性から)「ぢ」「づ」を使うことも認める。 でした。 歴史的仮名遣いはおおむね中古の仮名遣いを規範とする姿勢を取るのですが、地にはチとヂの表記があります。歴史的仮名遣いを記せば「地面」はヂメンです。単独でも地を「ヂ」と表記されることもありました。つまり連濁と関係なしに「ヂ」という表記(発音としても[di]と推定されている)があったわけです。 ところがこれを丁寧に説明する過程で、「地は漢音でチ、呉音でヂ、すなわち連濁と関係なくもともとヂという発音が古代に存在していた」というエピソードが入る(このエピソードは正しいです)ことがなぜか誤解されて、「もともとジと表記されていた」とか「もともとジと発音されていた」などという誤謬がネット上に散見されます。 「地面」のよみが「ぢめん」とならず「じめん」になるのはなぜ? - 国語 - 教えて!goo とかね。ベストアンサーついてますが(笑)。 地面という字はなぜ「ぢめん」ではなく「じめん」なんですか? - Yahoo!知恵袋 、これは惜しいけどミスリーディングを誘いますね。[チ]と[ジ]があったんじゃなくて、[ti]と[di]がそれ

仕分け見直し対象プリキュア!

娘が3歳。プリキュア大好き。つきあって毎週仕方なく見ている。仕方なく見ています。仕方ないんです。あなたとは違うんです。古いか。ハートキャッチデビューなので、スイートで2作目です。 そんでツイッタで知った、 プリキュアの戦闘シーンすげえwwww : ニコニコVIP2ch 。昔のプリキュアはほとんどドラゴンボールかと見紛うばかりのバトル少女ものだったのですね。初代なんて震脚&合気道で拳児かと思った。バトルリアリズムとでもいうか。ハートキャッチは非常にマンガ的で、シリアス展開もそれほど重たくなかった。スイートも今のところ軽みがあります。 で、スイートは敵キャラのセイレーンが仲間になったところでオープニングがアレンジされました。新キャラがエレキギターの使い手なのでロック調になったのはいいのですが、歌詞がもんのすごい震災キャンペーン。新キャラどこ行ったというか、震災オリジンな歌詞に新キャラ後付けまちがいなしです。ものすごい急ハンドル。HunterxHunterが原爆による放射線汚染を正体不明の有害物質に舵を切ったのと逆方向の急ハンドル( スィートプリキュアの新OPについて。 - Yahoo!知恵袋 )。 こんなんもあったけど( プリキュアから被災地へ応援メッセージ - YouTube )。被災地の子供心にはぐっとくるものがあろう。プリキュアは国民の税金で運営されています、という伝説のネタもあった( ワラノート移転跡地 蓮舫「本当にプリキュアは17人も必要なんですか?」 )。プリキュアの応援に蓮舫が感動しようものならまたも炎上ですか。

さよなら荒木

荒木飛呂彦『奇妙なホラー映画論』を読んだ(アマゾンにリンク貼るのやめる)。荒木がホラー映画を好きなのは、作品を見ていればオマージュだかパクリだかのオンパレードなので、誰でも知るところだと思う。そんな荒木がホラー映画をたくさん見ました!ということがよく伝わる。量が質を上回る時があるとしたら、やっぱり量が質に転化するときしかありえないなあと思ったよ。つまり量は量でしかないってこと。それから、この人は演出の専門家なのであって、良い編集者に巡りあえて初めて作品が作品たり得たんだなあってこと。つまり浦沢直樹と本質的には同じ箱に入る人。 本はそれなりに目を引く所があるけれど、なんかもうダメだあ、って思う時ってあるでしょ。荒木がベタぼめする『プレシャス』という映画を、超絶偶然のタイミングで奥様が借りてきたので一緒に見た。これをホラーとして傑作と位置づけるのは、もう荒木作品読めなくなっちゃうくらいにダメだった。この人は演出のことだけを考えて、大家になっちゃったんだなあ。だったら演出家に徹してくれほうがよかった。『プレシャス』だって演出の特異さ(があるとして)に言及すればよかった。この本はホラーの演出については面白いけれど、時折見せようとする「ホラー映画本質論」については完全失敗している。 僕はそのむかしスティーヴン・キングが好きだった。荒木も好きだと書いているけれど、その好きは全然違う好きだったんだなあと思ったよ。確かに『IT』とか『ドロレス・クレイボーン』とか出てこないもの。それは「読みの違い」として処理できた。でもゾンビの本質と併置される語り方に『プレシャス』を掲げて、「これは誰がどういおうとホラー」とするのは、もうあかん。この人のマンガはもう読めないかも。

放射線量が高い地域に出張する際に求めたいこと

前のエントリ niji wo mita: 放射線を希釈する空気の力 では、僕の所属する職場が比較的放射線の計測値が高い地域に出張を求めるに際して、(現状では)何も対策をしていないことをややナイーヴに書いた。しかし、実際に高い放射線が検出されている場所へ出張へ行く際に、組織としてできることは何だろう。そしてこの手の議論がもめるポイントは何だろう、ということを改めて考えてみる。 * * * * * 危険か安全かを検討することは、程度尺度であるから現状では難しい。程度尺度に「ここから危険」のラインを入れられるだけの統計的なデータはまだない。人体と放射線の因果関係データを目にすることができるまで、何年もかかるだろう。放射線の測定値も、どこがどのような目的で出すかによってまちまちだ。ミニホットスポットがどこにどれくらいあるかも分からないし、天候によっても左右される。 したがってここが危ないということは定義できるわけがない。そのようなことを組織に求めることもできない。だからといって「行ってもいい人に任せる」というのは無責任だ。それは自己責任への議論のすり替えであって、危険国に勝手に渡航することとは訳が違う。職務で行かされる以上、最大限の安全を検討する責任を負うことは組織の役割であるはずだ。 では何を求めればよいか。現実的に我々が今求められることは、何をおいても記録を残すことだろう。つまり訪問した人間がどれくらいの放射線に被曝したかの概算を出しておくということだ。現状、予算・時間コストでもっとも現実的なやり方で構わない。もう少し強い言い方をすれば、なかったことにさせないということだ。原発で下働きをさせられていた人たちの中には、本人の証言によれば、雇用の登録がなされなかった( 『野宿労働者の原発被曝労働の実態』をテキスト化していただきました 山谷ブログ-野宿者・失業者運動報告-/ウェブリブログ )。そのため電力会社は何の補償もしていない。もちろん被曝量のデータもとっていない。したがってその死はある意味で無駄死にだったし、誰も責任を取る/取らせることができなかった。 記録を取らなければ何の対策も取りようがない。だからまず記録だけは取ることを義務付けて欲しい。放射線量が特に高く計測されている地域だけでよい。記録の方法は最低でも次のようなものか。 ・その日の出張先の空間放射線量(文科省発

放射線を希釈する空気の力

喉元すぎれば熱さを忘れつつある今日この頃、放射線の脅威が日常の雰囲気の中で何倍にも希釈されて、何を言ってもしゃーねーし、な雰囲気を楽しめる日本すげえなと日々思いがつのりつつありますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。本日、職場で放射線をめぐるちょっとしたいさかいがあって、たぶんこれってうちだけじゃなくて日本全国同じなんだろうなあと思った次第。 要は、相馬市や福島市や郡山市に出張に行け、いや行かない、というそういう話です。出張に行けと命じる方は、「微量の放射線なら問題がないから行っても大丈夫」「行くかどうかは個人に選ばせるので、不愉快なら断ってよし」が論拠。放射線はたぶん危険(笑)だと思うけど、後は人それぞれの感覚を尊重しますよ、という空気読みまくりの日本らしい現場です。「行きません」と断言する人への、ああうるさいことを言うやつがいるという空気に続いて、「じゃあ私が行きます」という人が賞賛されかけたのでさすがに何人かでストップかけました。山本七平『空気の研究』(→ amazon )を読もう。僕は、まずこれは完全な欺瞞だと思います。なにこの泥を被った奴が偉いみたいな雰囲気。この場合の泥かぶりは百害あって一利なしです、と。 こういう空気を醸成しようとする背景には、放射線に関わる客観的な数値を一切自分で調べようとしない態度に貫徹された、ある種の人間主義があるなと思います。出張に行ってもらいたいと言った本人は「放射線のことは全然分からないので」と言い、しかし情に訴えるような熱弁を振るう。実際、低量放射線が体に与える影響について、データがないために公式の見解は出されていない、ゆえに巷で言われる「正しく怖がる」ことができないのは分かる。しかしどうせ分からないから、ということを、怖がってもしょうがない、調べてもしょうがない、だから大丈夫と転化させて行くのは人文系大学教員として素晴らしい態度だと思います。わずかの放射線でクドクド会議でうるさいことを言うやつがいるなあ、とこれまた日本的なニヤニヤ目配せをするやつがいてですね、「分かった分かった、じゃあ俺が行くよ」みたいな雰囲気です。ここは紛れもなく日本ですね。 相馬市や福島市や郡山市の放射線量は、公称値ではあるけれどもウェブで簡単に見ることができる。またボランティア組織が独自に計測した地表、1mなどの測定値も見ることができる。人体にどれく

キラキラしてたりホグホグしてたり(マンガ)

今月は何があろうとマンガは大豊作だった。なぜならば何があろう冨樫義博『HUNTERxHUNTER(28)』(→ amazon )が発売されたから。「人間の底知れない悪意」がひとつテーマなのだけれど、冨樫は「底すら無い」とおっしゃる(時折言語感覚は近いけどそれ違う、がある)。ここで核兵器使っちゃって、29巻では放射能汚染が話のポイントになるわけで、いま発売すると不謹慎の批判が雨あられのようにあるかもないかも。 あるある?あるあるー。ないない?ないないー。と不謹慎なのは地獄のミサワ『カッコカワイイ宣言!2』(→ amazon )と『ヤング!ヤング!Fruits』(→ amazon )のせいです。フルーツのほうはご存知大人気ブログ「女に惚れさす名言集」(→ 地獄のミサワの「女に惚れさす名言集」 )から。個人的に笑いのつぼに入った作品が収録されておらず残念だが、くだらない描きおろしの対談などがある。 そして入江亜季『乱と灰色の世界3』(→ amazon )がキラキラしていてホグホグした。もう絵が大好きです。いい気持ちになる。マンガ的なオンとオフの切り替えも好き。総じて好き。なのだけれど、この巻は正直、中身がないにもほどがある。次の巻を期待しています。

足と手を動かして頭も動かせ

Extremeの"III sides to every story"(→ amazon )を5月くらいからずっと聞いていて、全14曲、3部構成というアイディアはもしかして自分の授業構成に影響を与えているかも知れないと思う。いや無意識にパクったかもしれない。mine, yours, everythingという3つのフェーズ。パクリではなくリスペクトですな。 逆にこのアルバムの構成に従って授業を構成したら面白いかも知れない。 "Warheads" 「シンジは核弾頭を持つか」セカイ系のはじまり "Rest in peace" 死にまつわる個人の決定権がどこまで敷衍されるか "Politicalamity" 政治と権力 "Color me blind" 人種と差別 "Cupid's dead" メディアリテラシー "Peacemaker die" 社会と表象 "Seven sundays" 若者とニート(笑) "Tragic comic" 文化と表象 "Our father" 宗教とパターナリズム "Stop the world" ゼロ年代におけるセカイ系 "God isn't dead?" 近代における宗教の意義 "Rise'n Shine" バブル経済と日本経済の凋落 "Am I ever gonna change" 個人と社会、間主観性 "Who cares?" オヒトリサマの誕生 と、どうでもいい朝を迎える。誰がこの授業を担当するというのか。 昨日、お前の余命は後3年という夢を見た。「えっ、じゃああれもこれも終わんない、どうしよう」などとtodoをどう埋めるかを考える夢なんですよ、などと臨床心理の先生とかみのやまのそばをすすりながら、「ああそれはあなたの仕事量というより、仕事の質が拡散しているということかもしれませんよ」、あっいまカウンセリングモードに突入しました?ずるずる、うまいっすねこのそば。 案外ひとは死なないし、でも死んじゃうときは唐突に死

ローリー・バウワー、ピーター・トラッドギル編『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」をくつがえす』

ローリー・バウワー、ピーター・トラッドギル編『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」をくつがえす』((→ amazon ))を読んだ。もう少しつっこんだ議論が読みたかった、というのは無理な希望なのかもしれない。原書"Language Myths"が出版された1998年から10年の歳月が流れたことなのか、アメリカの言語を廻る言説と日本のそれとの違いなのか分からないが、本書はことばに普遍的な「正しさ」などない、との相対主義に徹している。90年代以降のポストコロニアル批判ブームが終わった現在では、相対主義のポジション取りをする研究は今読むとちと古い。もっとも、言語研究者の大御所が名を連ねているだけあってケーススタディ的に見れば面白いし、言語事象としては知的興味をそそられるものが並ぶので一読に値するとは思う。 Q13に「黒人の子どもはことばが貧しい?」という章がある。この本の主旨に従い、結論はもちろん貧しくはない。言語そのものについては。そう見せているのは社会のマジョリティがそのように社会を構築したからだ、とある。実際本当にそうだ。しかし言語研究者のこうした結論は多くの場合無力だなあと思う。もちろん研究者の仕事は「対象」を「客観的に」明らかにすることにあるという立場もあるだろうが、時にそういう立場こそが特定の言説擁護に加担してきたこともまた広く知られることだし、それ以上に大学に職を持つことの社会的責任から完全に逃れられるわけでもない。社会はこういうふうに構築されている、そう事実めいた物言いをしたあとで、歯切れの悪い、座りの悪さをやはりどこかで感じてしまうのではないか。 niji wo mitaが相対主義ではない力を!と考えたいのはこの点にある。大学教員が、というより研究者のある種の素養として(つまりタコツボ化した専門領域としてではなく、広い意味で、社会を考えることに時間とお金を費やすことが許されている者として)社会にコミットするときに、相対主義的な物言いにとどまることは、衒学に身をやつすような気持ちになってしまうのだ。たとえば会社のオッサンの論理にジェンダーがどう立ち向かうか、ペーパーテストに満ち溢れる「正しい」言語イデオロギーによりよい代替案をぶつけることができるか、すなわちある種の無意識な社会的プラグマティズムにこちらから戦いをどのように、どれ

is05:オールリセット

is05をオールリセットすると挙動が良くなるという話。オールリセットの手順はauの公式サイトに基づいた(→ KDDI au: その他 > IS05をリセットする )。 問題は、さしてアプリをインストールしたわけでもないのに、容量不足のコーションが出るようになったことだった。同様の問題はすでに色々報告されている。「 価格.com - 『空き容量不足 オールリセットで解決 手順 覚書』 シャープ IS05 [グリーンxブラック] のクチコミ掲示板 」でも複数の報告が挙がっている。初期不良なのかも知れないし仕様なのかもしれない。いずれにせよ、これを打開するにはオールリセットが良かった。 オールリセットをすると初期状態に戻るので、必要なデータはSDカードに移動しておく。僕はアプリもすべて入れなおしたが、人によってはSDに退避させるケースもあるようだ。僕はeasytetheringだけ購入のIDを紙に控えた。 オールリセットの結果、まず、プリインストールの余計なソフトが少しなくなる(何が残るかは IS05をオールリセットすると何が残るの? « 893064 を参照)。これで容量が少しできる。それから謎の容量不足コーションも出なくなり、ほぼ同じアプリ数なのに以前は「残り10MB」だったのが「残り280MB」に回復。また、容量不足のためにアプリのアップデートが滞っていたのも、改善された。 容量だけでなく、動きもずいぶん早くなった。is05は購入と同時にいちどオールリセットするのが良いのかも知れない。

マンガっす、あとウシジマ

よしながふみ『大奥(7)』( amazon )は、アマゾンの書評がよくできているのでそちらを。吉宗の話です。『勇午 台湾編(1)』( amazon )もディープ台湾という感じでいまのところ面白い。台湾人の定義は、うん、マンガだからという程度。しかしネタ的になかなか危ない話なのでちょっとドキドキします。おおひなたごう『空飛べ!プッチ 完全版』( amazon )はおおひなたごうにしてはギャグ度が低め。少女漫画の雑誌に書いた連載みたい。打ち切られたものをきちんとまとめたらしく、打ち切りのところは確かにえぐい。ビームコミックスは総じて装丁が僕好みで、とくに本作は立体の工夫が施してあるので裁断したくないです。松本大洋『竹光侍』はゆっくり読んでいるのでいずれ。 そいから友人から借りた真鍋昌平『闇金ウシジマくん』( amazon が読んでて軽くブルーになるので、もう返すわ(笑)。全部読んだけど。ゼロ年代的な雰囲気は確かにあるけども、描かれ方がスピリッツ的すぎる(僕たちは社会の「その層のことはよく分かってますよ」的な、神の外部視点で社会事象をモノ化しつつ参与観察のような顔をする)。僕は週刊誌の中でスピリッツほどきらいな雑誌はないのですが、その理由がホイチョイ的でフジテレビ的で、あと三浦展的な感じです。つまり80年代バブル目線での若者描写という雑誌としての基本線、としてゼロ年代の僕自身が感じているわけで、これ自体が社会学的分析対象となるある種の当事者語りだと思ってください。そんなポジション取りをしたうえで言いますと、ウシジマくんの視点こそがスピリッツ的な視点であって、三浦的な視点です。なお真鍋昌平は20代の若者でこの批判はあたらないとの反論もあるでしょうけれど、これをスピリッツが成立させているところについての指摘です。自称初期ゼロ年代の僕はあらためてウシジマ=スピリッツ仮説にのっかり、ウシジマファック!と声高に叫んで筆を置きたいと思います。

LITE CUBE

隣人からいただいた謎の物体、LITE CUBE7(→ ライトキューブLITECUBE.jp(公式サイト) )。シャワーを浴びて水を飲もう、と思って、ああ、あれやってみよう、と。 3秒程度ごとに色がどんどん変わっていく。上から見たところも。 クリスマスの時期とかいいかもですね。

今井むつみ『ことばと思考』

今井むつみ『ことばと思考』(→ amazon )読了。刺激的な本だった。 言語学と人類学にまたがる領域に、「ことばと文化」または「ことばと思考」というテーマがある。素朴に言われるところの、文化や思考の多様性は言語と表裏一体という言説を、もう一歩踏み込んでやや挑発的に「文化や思考はことばに規定される」とした、いわゆるサピア=ウォーフの仮説(→ wikipedia )は、この領域では広く知られている。僕も学生時代に強く興味を持ち、色々読んだ( niji wo mitaから言語権まで 、など10年くらい前)。 どちらかというと文化人類学、哲学などの世界で論じられるこのテーマを心理学の方法と知見に基づいて科学的に分析した結果を一般向けにまとめたのが本書だ。グリースン『記述言語学』でも示される「虹の色は何色か」というおなじみのテーマも取り扱われる。サピア=ウォーフの仮説は、言語相対性仮説などとも呼ばれる。言語が異なれば見えている世界が違うという相対主義で、これと対極に位置するのがチョムスキーの生成文法やピンカーの言語本能説などの言語普遍主義だった。今ではサピア=ウォーフの仮説の仮説は、サピアやウォーフがいうほど強い根拠を持つものではなく、言語が世界認知に影響を与えるという程度の弱い仮説として受け入れられている。文化人類学者のバーリン(Brent Berlin)と言語学者のケイ(Paul Kay)が60年代末期に色感覚と色名には文化が異なっていてもある程度普遍性が認められることを明らかにした、というのもこの領域では有名な話。 そのことを心理学の手法に基づいて分かりやすく実証していることが本書のひとつの肝だろう。生物学的な性認識は言語的な性にどのように影響されているか、物の認識に可算名詞・不可算名詞を分ける英語などの感覚にどう影響されるか、といったテーマである。本書の結論は、やはり言語に影響を受けるということだ。本書の著者は発達心理学の研究がおそらくメインフィールドのようで、後半は子どもの言語獲得と世界認知の話へと移っていくのだが、これが前半よりもはるかにスリリングだった。たとえば数の認識に言語が関わっている話では、生後五ヶ月の赤ちゃんが数を数えることができているという研究が紹介されている。ただし認識できるのは3までで、それ以上は言語獲得を伴いながらでないと認識できないとのことだ

雅から性欲へ、じゃなくておいしくて良かった話

UCCから出たジャパンプレミアムシリーズの新作「雅」がおいしい(→ 美(おい)しい香 雅| レギュラーコーヒー UCC JAPAN PREMIUM(ジャパンプレミアム)凛・艶・雅 )。キャッチの「香り立ち良く、コクのある味わい。メープルのようにやさしく、ほのかな甘み。」は、ほんとにほんのり甘みがある。スーパーで買う豆でおいしいお得感とあいまってなんか良かったので、HPをキャプチャ。 よく行くコーヒー豆屋さん(→ スイカフェ Sui-cafe + beans store 山形県山形市 焙煎工房 スペシャルティコーヒー専門店 )も、もちろん豆もおいしいのだけどキャッチの書き方がいつも上手だなあと思っていて、つい買ってしまう。香りや味を別の食べ物になぞらえて表現するというのは、僕はこの店で初めて体験した。ナッツ系の香り、フルーツ系の香り、チョコの香りなど、ちょっと新鮮。と思っていたら、コーヒーテイスティングの世界では、ある種の専門用語としてこうした言葉のラインナップが存在するのだね(→ コーヒーテイスティング用語|上海珈琲実験室・自家焙煎珈琲屋アルトコーヒー )。 肯定的な評価に用いられている言葉、ああ見たことあるある。独創性ということではなかったみたい。それでもやっぱり目を引くのはあるね。なかでも、口に含んだ質感で「きつく目の詰まったニットのような」ってどんなだろう。こうやってコーヒーを表現する語彙が豊かであるのは、気安く「文化的な香り」がするなどとは言いたくないけれど、実際楽しい。 * * * * * 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』((→ amazon )によれば、ピューリタン革命後の17世紀イギリスでは、アルコール廃絶運動とともにコーヒー・ハウスが隆盛を極めたそうだが、ご婦人からはコーヒー飲むと夫がインポテンツになるからやめろ、などとコーヒー反対運動が起こったとの苦笑いしちゃう話がある。ほんで18世紀フランスではヴェルサイユの貴婦人方に大受けしつつも、やっぱり性欲減退させる説が妻帯に厳しいカトリック僧侶にも受けて、というこの本はなぜ近代市民社会を性欲で語ろうとするのでしょうか。近代市民社会を作ったカフェ文化の話は、イギリス、フランスどちらの章も性欲の話で終わっています。 コーヒーといえば、昔アラブの偉いお坊さんが西田佐知子に歌を教え

宋本広韻データ

宋本廣韻データ を使う。昔あった電子広韻とか電韻200とか呼ばれていたものからすれば、隔世の感がする。ユニコードではIPA拡張があるので、音声記号での表示もできるし、表示される漢字の種類もたくさん。かつては蟹攝咍韻を表示するのに「口台」などとするほかなく、いまも僕が使っている登録辞書には「かい」と入力すると候補に出てくる(消すのがめんどくて)。 しかしこの 漢字データベースプロジェクト ってほんとすごいです。 niji wo mita: 恐るべし漢字字書データベース で触れた時のデータがこのなかに移動したのだね。かつては声調と調値の関係が漢文のひとたちの解釈であって、言語学的な解釈とは異なるものが記載されていたけれど、あら金田一春彦や頼惟勤が参考文献となっていて(おいしんぼ栗田さん的な余情表現)。

コントローラブル・ドッグ

長年の犬苦手症候群が友人のところで犬と交流を続けているうちに、なんかこう勘所がわかったような気がしつつあるかもしれない可能性が見えてきた。元来犬と猫のどちらをかわいがるかといえば、昨今の「犬と猫は必ず択一」みたいな派閥構成方法に則るならばもちろん猫であるのだが、犬も両立しうるかもと思うわけです。 犬の何が苦手である(あった)かというと、ずばり距離が近い!ってことなんですね。いや、ちょっと違うな、どちらかというと僕は距離が近い付き合いも生物全般(人間含む)において好きなのですが、相手から詰められると弱いのですよ。猫ならばこちらが近づいていって、なでなでしたり猫の気分が乗っているならだっこしたりできる。猫が寄ってくることは空腹時以外は滅多にない。しかるに犬は違う。オールウェイズ密着距離の強要であります。 相手がどんな美人(美しい人間という程度の意味です)であれ愛らしい犬であれ、その距離を詰めるのは主体的な私であって二人称であってはならないのです。俺こそがその距離を決める。なぜならばどうもコントロールできないものが怖い、という感じが僕の奥底でかなり強い電波を発しているからなのです。思えば小学生の頃、ニケツでチャリの後ろを担当した時もすごい怖かった。けど自分が運転しているときは大丈夫。天敵の飛行機も自分が操縦していると思えば、まだしも恐怖が薄れるのです。 しかしあのアンコントローラブルなお犬様!わたくしの顔を超ベロベロする「ゼロ距離」と、わたくしが腕を伸ばしてよしよしする「腕距離」についてはコントロールすることができるようになりました。その距離は俺が決める。この距離は完全に俺のコントロール下にある。すなわちコントローラブル・ドッグなわけです。至近距離であってもそこに程度の違いを見出してコントロールしたことにする、これは犬のコントロールに見せかけた自己コントロール術にほかなりません。やったぜ、自分。犬克服の瞬間であります。

OpenOffice3.2はCJK統合漢字拡張には対応せず?

やっぱり、OpenOffice3.2(on ubuntu10.04)では、ユニコードの拡張Bに属する文字は表示できないようだ。 [openoffice:6501] UnicodeのSurrogate Pair(Ext-B)対応の件 によれば、OpenOfficeがサロゲートペアに対応していないかららしい。 OpenOffice.orgは内部的にUnicodeで処理しているようですし、データ保存時にも Unicodeで記録していますが、現状ではSurrogate Pairに対応していません。 そのため、Ext-Bの漢字などを入力しても、正しく表示されません。WordやExcel でExt-Bの漢字入りのドキュメントを作成して、これを読み込んだ時も表示だけは されますが、Surrogate Pairを正しく処理していないため、通常に編集することが できません。 もちろん、現状においては、Surrogate Pairへの対応は緊要ではありませんが、  ・今後、日本国内での標準的文字コードとしてJIS X 0213の定着が見込まれている ・Windows環境などでJIS X 0213に完全対応するためにはアプリケーション側での  Surrogate Pair対応が必須  ・既にMac OS XはJIS X 0213完全対応を謳っており、Windowsも次期バージョンでの   対応が公表されている(Longhorn)  ・既にWindows XPやMS-IME2003やOffice2003はSurrogate Pairに対応しており、   JIS X 0213対応フォントさえあれば、Ext-B漢字を含めてすべてのJIS X 0213文字   を扱える  ・ATOK17/2005や次期一太郎(2005)もSurrogate Pair対応。来年2月の一太郎2005発   売時にはJIS X 0213対応フォントの無償公開が予定されている といった動きがありますので、おそらく2005年~2007年頃にかけてSurrogate Pair 対応が必要となってくるのでは?と思っています。 上記記述は2004年のものだが、2011年をもってしてもいまだ対応していない。このへんの技術的な理由はよく分からない。OpenOfficeの度重なる買収が関係しているかどうか。 Extens

木簡学会編『木簡から古代がみえる(岩波新書)』

木簡学会編『木簡から古代がみえる(岩波新書)』(→ amazon )。木簡と古代史にまつわる話題を分かりやすくまとめたもの。16人の著者が短いトピックスを連ねている。歴史書から見える古代と、木簡から見える古代が違うというあたりが木簡の面白さなのだろう。日本語学にとっては、おなじみの歌木簡(なには津、あさか山の歌)などの話しあり。木簡によれば万葉仮名の完成が従来の説より古い、7世紀中葉とある。犬飼氏が書くトピックかと思ったらそうではなかった。さらっと読めちゃう古代史の本、ということもできるか。

久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』

久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)』(→ amazon )。タイトル強烈(笑)!ケーススタディ的な失敗体験談+ノウハウ集。話の構図は「ハコモノ行政で儲かるのは行政と土建屋、あと地域再生関係者は都市部の僅かな成功例を地方社会に導入して大失敗、だからコミュニティ志向のカフェとかスローフードとかやるといいよ」的なもの。で、その筋はあるある話だし、間違っていないので、読み潰せる話。 気になっていたのは極東ブログの書評(→ [書評]地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?(久繁哲之介): 極東ブログ )の以下を読んだから。 これで地域再生は可能になるだろうか。読後、私が思ったのは、この「使える」提言を「使う」ためには、地域コミュニティーが生き返ることが前提になるだろうということだ。それは鶏と卵のような循環になっている。提言が目指すものこそ、地域コミュニティーの再生だからだ。もう一点思ったのは、本書が言及していないわけではないのだが、この難問には地域における若者と高齢者の再結合が問われていることだ。地域の若者の現実的なニーズと高齢者のニーズをどう調和させるか。そしてその二者の背景にある巨大な失業の構造はどうするのか。問題の根は深い。 やー、読んでみてそういう理想郷的なコミュニティーって成立するかな、と思うよ。もちろんfinalventさんが言う生き返りの大切さも、宮台的な社会的コストの重要性という意味において分かる。でも、山形に住んでみて、僕がよそ者だということの要因もでかいと思うけれど、地域コミュニティーのある種の閉塞感てすごい感じる。排他的な意味、ではなくてね。山形にもたくさんの地域コミュニティーがあるよ。でも著者が書いているような、カフェやスローフードにつながりうるような文化的背景や厚みをもったコミュニティーというと、たとえば子どもでつながる地続きのコミュニティーとは別物なのですよ。子連れファミリーが作り出すコミュニティーはあるけれど、著者が言う地域再生ってそこがゴールじゃない。極東ブログは「鶏と卵」というけれど、そして「生き返る」という表現を使うけれど、その循環の輪が成立するのか疑わしいこともあるわけで。これはもう歴史的な蓄積の有無が決定しているようにさえ思えてしまうこともある。 で、それは打破できないのかというとで

主に泣いてます(4)・Fantasium(7)

東村アキコ『主に泣いてます(4)』(→ amazon )がものすごいスピード感。トキばあとこももの(時にトキばあ単独の)コントが間(ま)という間を埋め尽くしていて、息を付く暇がない。よくもまあこれだけアラフォー狙いのコネタとキャラで埋め尽くせるものだと思う。『ひまわりっ』の終わりあたりの速度がここへきて加速している。そして全編ただよう水木しげる感は、天狗面の登場をもってつげ義春感にあらためて確定させていただきたいと思います。 杉本亜未『Fantasium(7)』(→ amazon )は、これっていい意味で分かりにくいだろうな、と他人事のように思った。で、ディスレレクシアの主人公が電子辞書を片手に文字を紙に書いていくシーンが、何かとても良かったよ。フレイレ系の研究者が、南米での事例報告をどこかでしてたのを思い出す。書き文字に基づく識字教育が持つ権威性と、ハードルの高さが、パソコンによって割合容易に越えられるという話だったと思う。現代社会にとっての読み書きとは何か、と。全能感にあふれた変な先生の登場とのすれ違いまくりな交流も、最初はどうだかなと思ったけど、今後が楽しみ。

長谷川英祐『働かないアリに意義がある』

長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(→ amazon )を読んだ。新書なのでさらっと読めたが、ビジネス書が並ぶ末尾の既刊書タイトルから推測するに、シリーズに反してハイブローな本だと思う。 内容は、真社会性生物であるがどのように社会性=群体性を遺伝的に保っているか、新しい研究結果を交えて一般向けに報告したもの。ビジネス書を選好するオッサン向けに柔らかく(そして時にエヴァを交えながら)書かれてはいるものの、きちんと研究に裏打ちされていて読み応えがあった。ムシが社会性を持ち利他的なふるまいをみせることについて、いまだ定説を見ないらしい「血縁説(血が濃い者を助けたほうが遺伝子を残す可能性が高まる)」と「群選択説(2個体でやった仕事は3以上の効果を発揮する)」との比較を通じて、生物の多様性を論じている。進化生物学のハミルトン則、倍数倍数性生物(人間みたく遺伝子2n同士が次世代を作る)、単数倍数性生物(遺伝子nと2nが次世代作る)など生物学に暗い人間にもテクニカルなことが分かりやすく書かれていて、うまいなあと思った。10年くらい前に流行った、働いているのは集団の2割だけという話も出てくる。 生物学の研究手法を人文学にも適用することは、僕の友人でもやっている人はいるし、また言語学でも古くは系統樹説があったし、今でも英語学の人の語彙拡散の説明に利用されることはある( KAKEN - 語彙拡散理論と生物変化理論-英語の史的発達に基づいて(11610512) など)。 また、個体は自分が見つけられる範囲にいる個体としか交配できません。このような変動要因まで考慮したときにどのような進化が起こるのかは、実はまだほとんど研究も理解されていないのです。(本書p.178) 音韻変化は一斉に生ずるという青年文法学派のお題目に従わない語群が生ずるのは何故か、といった問題を考える上で、語彙拡散(lexical diffusion)についてこれと相似形の説明を行うのを読んだことがある。つまり自分が出会える範囲の語群、という文脈だったように思う(記憶が曖昧)。つまり一般的な構造言語学で説明するような、均整のとれた共時的体系と共時的体系を並べて、その変化を論ずるような理路では捉え切れないものに光を当てる考え方ということになるか。というあたりになると、本書とはもう別の話題になってしまうが。

タモリと山下洋輔の出会い

あー。授業の教材をyoutubeで探していたらこういうのにぶつかっちゃうんだ。xVideoServiceThief( xVideoServiceThief Official Web site )でガンガンビデオをDLしておこうと思った矢先に一発目がこれですよ。タモさんの多言語ネタが欲しかったのですよ、本当は(見つけたけどね、やまほど)。 今でいう江頭だなんて。九州ネタということでしょうか。

dvipdfmx on ubuntu10.04

Ubuntu10.04でdvipdfmxが使えなかったので、以下を参照した。 Ubuntu10.04 dvipdfmx のエラー ** ERROR ** Could not find encoding file “H” | NAO No. 4 アモール・ファティ: 日本語を含むDVIファイルをPDFファイルに変換できるように日本語フォントを追加 論文のTeXファイルをコンパイルするのにはいつもWindows環境でやっている。理由は3つあったが、(1)がクリアされたので残り2つ。 (1) dvipdfmxの使い方が分からない (2) 文字コードの設定の仕方が分からない (3) 文字鏡フォントの設定の仕方が分からない それにしてもある時にトライして全然ダメだったとしても、後にやってみるとクリアされることがあるのは不思議。知らないうちに経験値がたまってきているのか、あるいはWEB上にトラブルシューティングの記述が増えてきたからなのか、少しずつクリアできることが増えてきている。emacsも使うし、参考書片手にviを使うこともある(つかsudo viで苦しまなくてもsudo emacsを使えばいいのも最近知った)。トライ&エラーを繰り返して、ある時突然できるようになる。何か、閾値があるのだろう。 残る問題のうち(2)は簡単に解決できるのだろうということは、 Emacsの文字コード指定 などから分かっている。あとはそれを支える他の知識が育ってきた時、バシッと使えるようになるはず(楽観的!)。それと、文字鏡フォントは曲者なのだが、たぶんWindowsとインストール方法は同じで、設定ファイルとパスの通し方とかで苦労するのだろうと思って後回しにしている。 ずっとubuntuをいじったりしているのに全然上達しないのは、集中して本気で学んでいないからなのだろう。unixの基本的なところからやれば氷解するだろうに、商用OSがいやだから、という根本が不純な動機であるがためになかなか進まない。生活や仕事に必要な大抵のことはもうubuntuでできるし、どうしてもwinが必要なときは職場のパソコンを使う。研究の下準備もubuntuだが、論文のコンパイルだけがたったひとつ抜けない大きなトゲのよう。 今日は家族と外出もしたけれど、昼寝もしたりして休憩がてらパソコンをいじっていたら、ひとつクリアできた。

言葉の権力性脱構築、両面からのアプローチ

元同僚の職場で催された、方言の権力性や、背後に潜む本質主義を撃つ、みたいな内容が大変面白かった件。 もちろん、面白かったというのはギリギリのネタをやってくださったからである。地域の人達を招いた一般公開講座で、方言の権力性や本質主義を撃つことの高いリスクとうらはら。ええっ、って感じかも知れないが、東北方言についてはスティグマの問題もあるけれど、地方分権の背後にある郷土愛的な土俗ナショナリズムがコミュニティ強化の名のもとに、方言の力を借りて本質主義化していくことはよくある。地方:中央の構図、スティグマ克服もあって、なんというかある種の被害者ポジションをとりながらこの話は展開する、ぶっちゃけこの議論ってとりわけよそ者に取ってはタブーなのですよ。方言称揚は「失われたコアの回復」という機能、物語という筋も確かにあるだろうから(近代の幻想だとしてもだよ)、方言が権威化されているかもしれない、などということは普通ネイティブには感知されないものだと思う。そこへよそものが方言は権威的と言おうものなら、という感じ。 というか、言葉には「群れ機能」(人々をくっつけようとする機能)と「分断機能」(人々を互いに分かつ機能)があるから、特権的な人たちを作るのに一役買うことは、歴史の上でいくらでもあった。だから方言に限らず、言葉にはそのような機能がはじめから内蔵されていると考えることもできる。 問題は権威同士がガチで殴り合った時。会場からの質問で、方言的な発音と標準語的な発音がぶつかったときどうする?(超訳)との質問が出た。これは山形では非日本語母語話者の日本語学習過程によく見られることで、たとえば「仕事」の読みを書かせる問題で、日常生活において耳にするのは「すごと」であるからそのようにテストで書いて☓を喰らう、みたいな話。なんで☓なんですか?と問われると、実は脳天気に「方言コンプレックスは良くない、あなた自身の本当の言葉だからもっと自信をもって話すべき」とか言っていたのが簡単に蹴散らされる。僕らは学校の暴力で「しごと」が正しいと言うさ。でも学校の暴力が何に乗っかっているかというと、標準語が上位変種(公的場面で使える)、方言は下位変種(私的領域でのみ使える)というダイグロシア的構図であって、それの良し悪しはともかくとしてたしかにそれは観察可能な現象である(それが現実とかは言わない)。 方言に権力

easytether on Ubuntu10.04

もうありがたいやらうれしいやら。朝からubuntu上でeasytetherをどうやって動かすか、色々試したのだけれども。本格的にやろうものなら、 Linux + GNU = Humans Enabled: How to Tether your Android to Ubuntu(or Fedora) GNU+Linux for Internet Connectivity を参考にして15ステップくらい踏めばできるみたいだけど環境が違うから無理くさい。 それで、ここ(→ EasyTether | studio PRIME Weblog )に書いてあるとおりにしたら一発でつながった。ターミナルを2つ起動とのこと。呪文のようにメモしておこう、ターミナルから"easytether connect", "easytether0"。 参考: niji wo mita: IS05によるtethering

ルール変更をしたふりをする

一昨日、娘がお定まりの「幼稚園行きたくなあいー」でぐずった。我々夫婦も最近は心得てきて、「そっか、行きたくないよね、行きたくないもんね」と肯定しまくり、気持ちを落ち着かせて幼稚園バスに突っ込む荒業を繰り返していた。が、乗車時まで気持ちが落ち着かない先日、幼稚園先生の必殺技が繰り出された、と妻から聞いた。 「そっか、じゃあこれから幼稚園に行って、◯◯先生(担任)に幼稚園行きたくない、って言いに行こう」 娘は「?!」とした顔をしたのだろうと思う。腑に落ちない感じで、でも分かった!とバスに乗り込んだらしい。傑作である、と僕は思った。「ルール変更したことにしているが、実はルール変更していない」だましのトリックは小さい頃から好きだったなあと思い出すに、ほら例えばという感じ。なので思い出し2つメモしておく。 〈ココアといったらコーヒー〉 「ココアと言ったらコーヒーって言ってね」 「ココア」 「コーヒー」 「コーヒー」 「無言」 (ココアで反応、コーヒーで無反応というルールを悟らせたあとで) 「じゃあピザって10回言って」 「ピザピザピザ…」 「(ひじを指さして)じゃあここは?」 「ひじ」(ピザとヒザを混同させるルールだと思わせて) 「ブブー。コーヒーでしょ」 〈中東のとんちばなし〉 あるところに頓智で有名な男がいた。男が隣町を歩いていると、建物の2階の窓から呼ぶ声がする。お前の評判を聞いているぞ、頭がいいらしいな、そんなに頭がいいのなら、お前のとんちで俺を1階まで下ろしてみろ、と。とんち男が答えて曰く、確かに俺は頭がいい。でもそんな俺でも2階にいるやつを1階に下ろすのは無理だ。ただ1階にいるやつを2階にあげることならできる。やってみるか?おーし、というので2階の男は1階に降りてきてしまう。 * * * * * と、ここまで書いてみて、日常的な交渉事って少なからずこのロジックを使うことはあるかも、という気もしてきてきた。子ども相手でも、職場でも。交渉の基本なのかもしれん。この手の話をご存じの方、募集中です。

文字コード、異体字、データベース利用者

日本語学会シンポジウムのメモ。おなじみ HNG や、透明テキスト付き画像が簡単に作れるツールを知ったという点で大変興奮した 拓本文字データベース に関わるご発表など、面白かった一方で課題も浮き彫りだったなあと感じた。 漢字データベースの構築は、文字コード内の異体字の取り扱いが壁となって、利用者にとっては必ずしも使いやすいものになるとは限らない、という話。というかそこまで具体的に言及されることはなかったのだけど、僕も漢字に関わるデータベースを作ってきたので、こと共同作業になるとこの難しさが大きい問題となることがよくわかる(個人作業でも揺れを防ぐのは一苦労)。異体字がどう位置づけされることとは別に、作業上の方針としてこの異体字はこの字とおんなじ、みたいな包摂基準を作ることはあっても、包摂基準を設定するだけで多分一つのテーマになっちゃうくらいだろうから、そこのところは薄目をあけるくらいに目をつぶって作業を進めるのがよくある話なのだと思う。 何が問題かというと、データベースを利用する側はいったいどの文字で検索すればいいのか、ということ。包摂基準がきちんとしていないと、利用者はヒットしそうな文字をかたっぱしからトライしてみなきゃいけないし、そもそも包摂基準を推測するだけの文字知識を備えていなければならない。それが分かっていたって、データセットの全貌が見えていないと「トライ漏れ」が出てくるわけで、やっぱり大変。 コンピュータでjis漢字(第何水準かはさておくとしても)しか表示されない時代は、まだ問題は牧歌的だったろうと思う。いまやユニコードで表示される文字数が増えてしまったから、コード内に異体字と正体字の関係、異体字同士の関係に迷うものも増えてしまった。 話は変わるけれど、今昔文字鏡が現れたとき、これでどの字を代表形とするか迷わずに済む、とおっしゃった先輩のことを思い出す。古い文献を見ていると、どの字で入力して良いか悩むことが多い。漢和辞典首っ引きになって、どの字はどれのこと、とか解釈して行かなければならなかったのを、今昔文字鏡が持っている字数が16万字という触れ込みなものだから、古い文献に出てくるような「変な」字であっても表示されてしまったりする。我々は規範的な字はこれだ、などということをイチイチ考えずに見た目まんまの字を入力すれば良い時代になった、と。それがたとえば和語の表

マイア・ヒラサワ

九州の新幹線CM。うん、いい感じ(via. my heart beats - しゃかりきレモンパイ )。そんで確かにビヨークっぽいですね。 下の曲、"Star Again"これも好きだな。

マンガ1か月分くらい

羽海野チカ『3月のライオン(1)-(5)』(→ amazon )、竹本友治二『8』(→ amazon )、ヤマシタトモコ『ミラーボール・フラッシング・マジック』(→ amazon )、遠藤浩輝『オールラウンダー廻(6)』(→ amazon )、東村アキコ『海月姫(6)』(→ amazon )、広江礼威『ブラック・ラグーン(4)』(→ amazon )、荒木飛呂彦『SteelBallRun』(→ amazon )、上野顕太郎『さよならも言わずに』(→ amazon )。 忙しいのと南野と陽子と言いながら、神戸つながりでいい誤変換出た、最近はこう書いてみるとそれなりにマンガを読んでいる。もちろんこの中では3月のライオンがすごく良かった。その他、続き物はいつもどおり。初めて『ブラック・ラグーン』を読んだよ。なぜか4巻から。けどアクションイチオシのマンガなのにこの巻はアクション少なめ。ヤマシタトモコは、これはあんまりだった。あと虹色のトロツキーも読んだけど、人からもらったものなのでここには掲げていない。時を同じくして読んでいらしたまだ見ぬ人、シンクロニシティです。

地球の男に飽きたところよ

久しぶりにyoutube開いて音楽聞きながら仕事と思ってたら、なんすかこのUFOブームは! おばちゃんの声、最高です。「朝日新聞に!」のあたりが微笑を誘います。にしてもだ。今回の災害と一緒に日本に現れまくっているとかいう、不可思議な飛行物体がずいぶん話題になっているよう。福島にも東京にも。不謹慎とは思いながら、つい見入った挙句にブログに上げる。 このあたり、ずいぶん煽ってますね。そのまんま未確認な飛行物体であることは、まあみたまんまです。しかし数の多さ、ほんっとキモイな!にも関わらず見ちゃうな!やっぱりムー世代であるからか…。

言葉の価値的な側面について

日本語学の授業、山形の言葉を終えて、地域言語のバリエーションについてのテーマは終了。 このところ日本語学の授業では、言葉の価値的な側面よりも、観測できる側面で言葉を取り扱うことが多かったので、「~方言はこうでー」「~方言は××方言とは通じなくてー」と言葉を客観的に取り扱えるモノのような感覚で捉えてしまっていた。でも日本語概説は言語学より(というか国語学より)の授業だし、自分もそういう教えを受けてきたので自然と語り口がそうなっちゃうんだよね。 本日の授業で学生から、先生は山形の方言をバカにしていると思いますといった旨のコメントをいただき、おおっと、と思う。そういうつもりは毛頭ないんだけど(というのと同じレベルで愛しているわけでも毛頭ない)、でもそういう語りになっていることが学生にきちんとバレた。その人にとってアイデンティティと分かちがたい言葉は着脱可能な軽いものじゃない。だから実験材料のように語り得ることが自尊意識に触ることは十分あり得る。もちろん、逆に、郷土愛と言葉が分かちがたく結びついていること(つまり土俗ナショナリズムの言語的な姿)への客観的な視点を持つ意味では、学生の言葉も、学生だからそこは学んでおこうということはある。でもそういう授業じゃなかったからなあ。言葉と価値の問題は別の授業でのネタ。でも説明はしておかないとと思った。 そういえば昨年、また別の学生と日常の会話をしているときに、「方言調査って何か馬鹿にしている感じありませんか?」と聞かれたことがある。そんときも、おおっと、と思った。 いわゆる言語のプレステージの問題もあるかもしれない。「東京から来た」「大学教員」が(本当は山形で大学教員になったんだけどね)教壇から山形を語ることへの反感があるとしたら、言葉の持つ社会的な側面の証左だよね。方言調査法の問題として語られることがある、ネイティブが調査者だと答えてくれやすいけど東京から来た調査者だと好意的に答えてくれない問題とか。どのみち、価値の問題をちゃんと話せるいい機会かもしれない。

放射線チェッカー

放射線チェッカー - Android マーケット は、文科省発表の、都道府県別放射線量を見やすく提供してくれるアプリ。環境、水道、降下物についての情報が示される。類似のアプリがいくつかあるなかで、ちょっと目をひくのは放射線量だけでなく「避難すべき基準」が示されているところ。数値だけでは脅威との関係が見えにくいので、参考にはなる(文科省の発表しているデータそのものを疑う向きには使えないアプリだろうが)。 脅威に対する考え方は、スウェーデン国立スペース物理研究所山内正敏氏の 放射能漏れに対する個人対策(第3版) に基づいている。これによれば脱出(避難)の基準は例えば以下; (1) 居住地近くでの放射線濃度が1000マイクロSv/時(=1ミリSv/時)に達したら、緊急脱出しなければならない = 赤信号。 (2) 居住地近くでの放射線濃度が100マイクロSv/時(=0.1ミリSv/時)に達したら、脱出の準備を始めた方が良い = 黄信号。 (3) 妊婦(妊娠かどうか分からない人を含めて)や小児の場合、居住地近くでの放射線濃度が300マイクロSv/時(=0.3ミリSv/時)に達するか、ダスト濃度が 500 Bq/m3 に達したら、緊急脱出しなければならない = 赤信号。 (4) 妊婦(妊娠かどうか分からない人を含めて)や小児の場合、居住地近くでの放射線濃度が30マイクロSv/時(=0.03ミリSv/時)に達するか、ダスト濃度が 50 Bq/m3 に達したら、脱出の準備を始めた方が良い = 黄信号。 (12) 現在、日変化の最低値が15マイクロSv/時(子供や妊婦なら5マイクロSv/時)ならば、早めに脱出すべき 山形は2011.5.15は0.046マイクロシーベルトなので、この基準で言えば避難するほどではないということになる。もっとも、文科省のデータは各地のモニタリングポストの設置の高さがまちまちだから信頼できない、という話もあって(→ 「官邸の指示で出さなかった」 警戒区域4カ所で毎時100マイクロシーベルト超(産経) otoppi )どうかなとも思う。たとえば 放射線・原子力教育関係者有志による全国環境放射線モニタリング では同じ機器で地上1m、の基準で計測した有志の数値が公表されている。これによれば文科省の観測値のほぼ2倍の放射線量が出ている。山形市では他にも毎日観測してい

phone to chrome for android

PCでchromeからみているウェブサイトのリンクをandroidにプッシュ通知してくれる、chrome to phone(→ Google Chrome to Phone 拡張機能 - Chrome ウェブストア )。その逆にandroidで見ているリンクをPCにプッシュ通知してくれるandroid2cloudというアプリなのだけど、検索トップに来ている2010年くらいの情報(2011.5.15現在)に示されている方法だと、開発元からandroid2cloud.crxがダウンロードできなくなっている。これはPC側での設定に用いるファイルなので、これがないとandroidからのプッシュが受け取れない。 いまでは、chrome extentionで2cloud(→ 2cloud - Chrome ウェブストア )という名前でDLできるようだ。インストールするとセットアップのページに飛ばされるが、指示通り進めば設定が終わる。 andoroid周りは開発が日進月歩で、古い情報だとうまくいかないことが多いな。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

IS05テザリング速度、体感速度、

テザリングができることは分かったが、実際にどれくらい使えるのだろうと心配だったが、完全に杞憂だった。図書館で作業しながらネットで情報を調べたくなったときにテザリング、というのは非常に便利。しかも電源の減りは、パソコンから電源が供給されるタイプのUSBケーブルであれば全く問題にならない。気にすべきはパソコンのバッテリー容量であって、僕が使っているthinkpad x200には9セルバッテリーなので5時間くらいは大丈夫だ。これは完全につなぎっぱなしの感覚。 テキストで構成されたページやメール、図書館検索くらいしか使わないので、体感速度はwifiや有線環境とほとんど変わらない。 BNR スピードテスト(回線速度/通信速度 測定ページ) で調べてみると、以下のような計測結果となった。 ------ BNRスピードテスト (ダウンロード速度) ------ 測定サイト: http://www.musen-lan.com/speed/ Ver4.1001 測定日時: 2011/05/05 12:32:56 回線/ISP/地域: -------------------------------------------------- 1.NTTPC(WebARENA)1: 811.17Kbps (101.1KB/sec) 2.NTTPC(WebARENA)2: 508.33Kbps (63.22KB/sec) 推定転送速度: 811.17Kbps (101.1KB/sec) 実際にはwifiや有線環境とは雲泥の差があるが、何に用いるかによって評価は変わるだろう。調べ物程度のことやメールの類であれば全く問題ないと感じた。

IS05、アプリ

IS05の使い勝手などについてのレポート。 【ハード編】 気に入っているのは小さいこと。片手操作ができるので以前の携帯電話のように扱える。それからモリサワ系のフォントが入っているためかとても文字が読みやすいし、画像も綺麗。極端に文字が小さい設定にしても、文字が潰れずに読めるのはすごい。重さはまあまあ。これでも軽くする工夫をしたのだろうと思わせるのは、本体の華奢さから感じられる。iPhoneなどは落としても表面が傷つくくらいだろうけれど、IS05は根本的に弱く見える。触感はおもちゃっぽささえある。だからカバー必須なのかもしれない。 良くない点ではタッチパネルの感度がiPhoneよりもやや甘い。設定により高めることができるが、そもそもが粗い。ややかさついた皮膚で触るとダメな部分がある。画面下部は片手持ちの場合どうしても親指の尖端で触ることが多いが、指のその部分が僕はやや乾燥しているので、丁寧にタッチしないと動かないことがある。もっともこれはそう大きな問題ではなく、ある程度の圧力とゆっくりさを気をつけることができれば快適な入力を行うことができる。 僕にとって、問題らしい問題はこれくらいか。電源の持ちが少ないことについてはandoroid全般で言われていることだが、使い方ひとつでどうにでもなる。Wifi、自動同期、GPSをオフにしておけば12時間以上は大丈夫。アプリがマルチタスク的に裏で動いていると減りが早いという問題などは、 Automatic Task Killer など、タスクキラー系のアプリで対応できる。 【ソフト編】 普段からgoogle appsを仕事で使う身としては、メールとスケジューラは必須中の必須。Google純正のgmailアプリ、スケジューラはジョルテ( ジョルテ公式ページ - ホーム )が使える。Google Reader、Picasa Tool、Google mapや音声検索などは言うまでもなし。今月純正のGoogle Docs管理閲覧アプリが出たのはめでたい(今のところ英語版だけだけど GDocs for Android )。論文はスキャン→PDF化してgdocsに置いているので、これは大変便利。それから以前も書いたけれどクラウド系のremember the milk、evernote、dropbox、sns系のfacebook、twitterが

IS05によるtethering

数日前にEVOが発売された。スマートフォンをwifiルータ化してPCをネットにつなぐことができる、テザリング(→ テザリング - Wikipedia )が話題になっているが、IS05でもできなくはない。できなくはない、というのはPC専用のサイトなどはモバイルサイトと比べて大量のデータ通信を必要とするため帯域を圧迫しひいては事業者の儲けにつながらないため、auも利用を公式には認めていないからだ。EVOはどちらかというと実験的にテザリングを認めているようで、今後料金も含めたこのような利用形態が一般化していくかは分からない(→なぜEVOにだけテザリングを認めているかは、 ドスパラ公式通販サイト などを参照)。 ともあれ、自己責任でIS05もテザリングを行うことができる。準備するものは、データ通信ができるUSBケーブルだけ(僕はowltechのものを購入。IS03対応のものであればIS05でも行ける)。必要アプリの設定に入る前に、まずケーブルのドライバをインストールしておく必要がある(→ 携帯電話|au|サポート:シャープ ケータイ daSH )。 次にモバイル側でアプリeasy tether(→ How to tether Android - EasyTether. Android tethering for Mac OS X, Ubuntu, Fedora, PS3, XBox, Wii, Windows )をインストールし、PC側でも EasyTether - Android Tether Solution: EasyTether drivers から対応するドライバをインストールしておく。なお、windows vista(64bit)にインストールしたのはなぜかx86(32bit)のドライバ。64bit用はインストールがうまくいかないので、32bitで試したらうまくいったのが謎。ubuntuでは、僕の力量ではケーブルのドライバが見つからずいまのところうまく行っていないが、easy tetherのドライバはあるのできちんと探せばうまく行くのだろう。 USBケーブルのドライバ、モバイルとPCのeasy tetherドライバを入れてから、ケーブルをつなぐ。するとモバイル側とPC側で接続のための動作が始まる。少し待つと接続が成立し、システムトレイのアイコンからconnect

IS05を購入

auのスマートフォン、IS05( Android au - auのスマートフォン(IS series) | au by KDDI )を買った。携帯電話のG'z Oneは2年半しか使っておらずどこも不具合がないので、故障理由ではない機種変更は初めてのことだ。 昨年の1月、情報機器に対して(これでも)奥手の自分をやめて流行に乗れるだけ乗ったら研究を含めた生活がどれくらい変わるだろうかと考え、同僚からipod touchを購入したのが始まりだった。それまでハードディスクに貯めこんでいた情報のうち、利用頻度の高いものをクラウド環境に置いて、持ち運びできる利便性を手に入れた。scansnapを購入して論文、雑誌、コミックを裁断して取り込んだ。iPadを購入してきちんと閲覧できて持ち運べる端末環境を作った。幸いにもちょうど昨年度から自分が手伝う形で職場のネット環境にGoogle Appsを導入し、メールやスケジュール、いくつかの書類をGoogleで管理するようになってからインフラ環境の整備が進み、ハード面との相乗効果で生活がかなり変わってきた。クラウド環境がソフト面からも整ったことも大きい。 そこへ来て、先日の大震災は個人的にも大きな出来事だった。携帯端末でできることといえばワンセグを見るくらいで、こちらから積極的に情報を取りに行ったり発信したりすることが全くできない、という状況は電脳環境が生活の多くを占める現状では機動性を失われるに等しいことだったように思う。そんな中で3G回線が比較的安定して動いていたのは衝撃だった。まああまり大げさに考えるのも時と場合によりけりだが、この違いが命に関わることもあると思うのは、今回に限りそう責められたものでもないと思う。 というわけでさして悩むこともなくスマートフォンの導入を決めた。iPhoneとAndroid携帯で迷ったが、(1)2台持ちは避けたい、(2)auの家族割り引きは大きい、(3)iPhoneは片手持ちするには大きすぎる、の3つの理由でauのIS05を購入した。iPod Touchでやれていたことや現在の自分の仕事環境をキープするために、Dropbox( Dropbox - Files - Online backup, file sync, and sharing made easy. )、Remember the milk

上北ふたご

娘につられて入ったプリキュアはハートキャッチが最初の僕である。スイートプリキュアの90年代ぽい感じ、大人が感じる微妙なかっこ悪さとはうらはらに子ども受けは悪くない。ハートキャッチはデザイン的にもすごく良かった。おジャ魔女どれみでもいいじゃないか。スイートはお嬢様学校設定で洋菓子だの音楽だので、世界観からしてゴテゴテというあたりも90年代ぽいよ!90年代ハードロックっぽい音楽もね。対してハートキャッチはもうちょい昔のアニメぽかった。ハートキャッチのOPなんて間違いなく懐かしいアニメの名曲になるだろうに。 今日になってようやく気づいたけど、プリキュアって原作がいまも「なかよし」に連載されているのだね。原作者上北ふたごって、以前niji wo mitaでも取り上げているじゃないか…( niji wo mita: やっと見つけた… )。在りし日のスーパージャンプで匿名連載を持っていたのが、(2ちゃんの書き込みが本当ならば)プリキュアの原作者かー。インタビューでも( Webマガジン幻冬舎: お前の目玉は節穴か 第13回 漫画版「プリキュア」シリーズの上北ふたごインタビュー )、wikipediaでも( 上北ふたご - Wikipedia )全然触れられていないけど。

休日のクッパ

テイルスープでクッパを作る。上に乗っけたおかずはありあわせのもの。 下茹でしてからシャトルシェフで一晩熱を加えた。塩、酒、にんにく、生姜。テイル部分はホロホロ、脂身のところもプリプリかつさっぱりとしていた。塩を薄めにしたので食べる時に調味する。 牛骨(大腿骨)を一緒に煮込むといいみたいなんだけど、被災直後のスーパーでは売っていなかった。というかみんながカップラーメンとか買い込んでいる横で、我々は大量のネギやらにんにくやら、豚足やら牛テイルとかを買い込んでいたのだった。こういう時に何を大事にしているかが現れるよね(笑)。

震災から半月

震災から一度も給油しなかった自動車に、マンタンでガソリンを入れた。ようやく日常が戻った気がする。山形は激甚被災地に近い県にしては圧倒的に被害が少なかったが、道路では仙台、鉄道では福島を経由するために、物流が滞り、しばらくのあいだ燃料もほぼ底をついた。わずかな燃料をめぐってガソリンスタンドの近辺では長蛇の列ができていたし、初期は先着順だったために晩のうちから車を止めておく現象も問題化した。ちょっとした狂想曲めいた事態をすぎて、僕が住む近所では3月29日あたりを境にガソリンスタンドが通常営業に戻っていった。 もともと僕は自転車通勤が多かったので、出勤するのに車がなくても不便はなかった。ただ、どこへも行けなくなった子どもや妻の閉塞感は大きかったようだ。ただでさえ四方を山に取り囲まれているところに外部とのルートが断線して、僕自身も陸の孤島に残された気持ちになっていた。 自動車が動くようになって、これまでできなかったことをいくつか。ミスドで震災支援と銘打った全品半額セールに出会う。被災している気持ちは、関東同様ほとんど希薄な山形であるから、支援の恩恵に与る違和感を感じつつ、お店に入る。半額と聞きつけた客の長蛇の列に、我々もつく。ガソリンのために絶対並ばない決意は、ドーナツの前ではあえなく崩れた。 子どもたちも久しぶりに楽しそう。 ショーケースのドーナツを見ているだけで楽しくなるものだね。 大人は抹茶のオールドファッション、コーヒーを。ドーナツ、僕は特段好きなわけではないが、妙にうまく感じた。地震がなければこうは感じなかったかな。福島のことがまだまだ見えないのでこのまま少しずつ日常に戻っていけるのか全く見えない。でも、今は少しずつ。 * * * * * 地震の時、職場の図書館にいた。ゆれを感じた職員が「逃げてください!」と叫ぶので、さほど慌てることなく外へ逃げた。図書館前のアスファルトに立って、尋常ではない揺れの大きさと長さに、あとから怖さが立ち上がった。その時間、職場4階ではでは公務員講座をやっていた。地震の直前に学生たちの携帯電話が一斉に鳴り出し、マナーモードにしているのにおかしいと慌てて一斉に携帯の電源を切ろうとしたそうだ。都内の電車でも似たようなことがあったようだね。 揺れが収まるのを待って、帰れないゼミ生を連れて自宅に戻り、妻と小学校に子どもを引き取りにゆき、暗い部屋

「かいじゅうたちのいるところ」を見て

ツタヤから借りてきたDVDを娘(3歳)が家のどこかに隠して見つからず、延滞一日で見つかった平日の昼。妻の仕事道具が入ったダンボールの奥底に隠してありました。どうして子どもがそういうことをしたかというと、明らかに腹いせなんだよね。すでに2回見たDVDを3回目をせがまれたときに、もう嫌気がさして見せろ見せろデモを繰り返す娘を放置してたら、隠しちゃったわけです。どこに隠したか聞いても絶対に教えてくれない。親のいらだちが募る。ごめん、「どこに隠したの!」って強い口調で責めてしまった。 センダック原作をスパイク・ジョーンズが映像化した「かいじゅうたちのいるところ」はそういう話です、と言いたい。映画自体は昨年1月には公開されていました( niji wo mita: かいじゅうたちのいるところ )。映画館では見られなかったのでDVDだったけれど、家族全員で見て、娘は繰り返し見たがったので、何かを感じたのかもしれない。(スパイク・ジョーンズの解釈により)子ども目線に徹して作られていることは、付属のメイキングでも明らかにされている。撮影現場にスタッフの子供たちが連れ込まれていて現場を荒らしまくっていたらしい(笑)けれど、そのことが創りだす子どもならではの空気というのもあったよう。スパイク・ジョーンズは予定調和的なものを排除して、嘘偽りなく子どもの内的世界を描きたかったんだろうなと思う。 原作と違う大きな点は、冒頭でシングルマザーのいらだちが描かれていたこと。映画に子どもを連れていくのは親だから、ある種のサービスショットかなと思った。それがあるおかげで自分が子どもだったときのいらだちを、当事者と親目線の両方から立体的に捉えさせることに成功もしている。けれど子どもの生の感情をど真ん中で捉えさせ損なっているところはあるかな(親だって大変なのよという視点にすり替えられちゃう)。 * * * * * さてそれでアマゾンのレビューなのだけどね!レビューそのものはどうでもいいんだけど、steve vai(超絶技巧ギタリストがオーケストラをバックにライブした。超絶技巧のひとはすぐオケをバックにやりたがるよね)のライブDVDと混線してておかしいことになってるから!(→ amazon )これはなんでかというと、原題がどちらも"Where the Wild Things Are"だから