川上郁雄『異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー 私も「移動する子ども」だった』(→amazon)読了。「移動する子ども」というのは、両親あるいはどちらかを非日本語圏に持つ、あるいは非日本語圏と日本語圏を自ら移動した経験のある子どもをさしている。「ハーフ(ダブル)」など血統を惹起させることばを使わず、移動とそれに伴う多言語体験は社会構築的なものだ、ということを意味づけるうまいフレーズだと思う。
著者は日本語教育学の方。本書の内容は子どもが言語習得をしていく過程には、社会的文脈に沿った言葉への価値付けが大きく作用する、ということのケーススタディであるように読めた。そこがたぶん、日本に生きる「移動する子ども」たちへの救いのメッセージなのだろう。僕もこの手のことをよく考える時期にこの本に出会っていたら、これまでのブログエントリもまた違った感触になっていただろうなあと思う。
本書の構成は、第一部を「幼少の頃、日本国外で暮らし、日本に来た」ケース、第二部を「幼少の頃から日本で暮らし、複数の言語の中で成長した」ケースとする。第一部には、セインカミュ、一青妙、華恵、白倉キッサダー、響彬斗・一真、第二部にはコウケンテツ、フィフィ、長谷川アーリアジャスール、NAMの各氏。インタビューと川上氏による談話の意味付けが交互に続く構成。
ここで選ばれている人たちの特徴は何なのか、と読み終わって考えるに、全員が幼少の頃にバイリンガル教育に「失敗」していることにあると気づいた時、これだけのメンバーへのインタビューをお集めになったものだと著者に敬服した。本書は、それでも別に大丈夫だよ、と呼びかけている。みな親から日本語ではない言葉を学ぶよう誘導されるが、子どもはその言葉が社会的にどう価値付けされているかにとても敏感で、たとえば「◯◯語はかっこわるいから使いたくない」だとか「英語はなんか役に立ちそうだから」といって成長の度合いに応じて言葉を値踏みする。母語継承の取り組みが子どもにとっては「大きなお世話」になりがちで、でも言葉にはすでに社会的な「ランキング」が刻まれているからこそ、逆に言えば「大きなお世話」のような「不自然」なことをしなければ言葉は継承されないということでもある。しかし、本書でも、あるいは私が見聞きするケースでも、たいていはこうした取り組みは「失敗」に終わる。それは、取り組みの労力が言語教育にとどまらず、言葉への価値付けごと、つまりこどもが生きる社会に意味がある言葉なんだよ、というメッセージを絶え間なく出し続けることにまで及ぶからだ。
ただ、臨界期や言語形成期を超えても、こどものアイデンティティ形成や誰かとの関係構築にに必要であれば、あとからでも言葉を身につける/取り戻すことはできる(もっとも、幼少時のバイリンガル教育で手に入れられたのとは、異なる意味を持つだろうけれど)。一青妙やフィフィやNAMがそうしたように。あるいは僕がそうしたように。終章で著者は次のように述べる。
本書は「移動する子ども」に関わる人たちに向けられたメッセージであることに疑いはないけれど、人間が複数の言語コードを不可避的に身に着けていくことの意味がここにあるという点で、うん、誰であれ胸を突かれるのではないかと思いますよ。
著者は日本語教育学の方。本書の内容は子どもが言語習得をしていく過程には、社会的文脈に沿った言葉への価値付けが大きく作用する、ということのケーススタディであるように読めた。そこがたぶん、日本に生きる「移動する子ども」たちへの救いのメッセージなのだろう。僕もこの手のことをよく考える時期にこの本に出会っていたら、これまでのブログエントリもまた違った感触になっていただろうなあと思う。
本書の構成は、第一部を「幼少の頃、日本国外で暮らし、日本に来た」ケース、第二部を「幼少の頃から日本で暮らし、複数の言語の中で成長した」ケースとする。第一部には、セインカミュ、一青妙、華恵、白倉キッサダー、響彬斗・一真、第二部にはコウケンテツ、フィフィ、長谷川アーリアジャスール、NAMの各氏。インタビューと川上氏による談話の意味付けが交互に続く構成。
ここで選ばれている人たちの特徴は何なのか、と読み終わって考えるに、全員が幼少の頃にバイリンガル教育に「失敗」していることにあると気づいた時、これだけのメンバーへのインタビューをお集めになったものだと著者に敬服した。本書は、それでも別に大丈夫だよ、と呼びかけている。みな親から日本語ではない言葉を学ぶよう誘導されるが、子どもはその言葉が社会的にどう価値付けされているかにとても敏感で、たとえば「◯◯語はかっこわるいから使いたくない」だとか「英語はなんか役に立ちそうだから」といって成長の度合いに応じて言葉を値踏みする。母語継承の取り組みが子どもにとっては「大きなお世話」になりがちで、でも言葉にはすでに社会的な「ランキング」が刻まれているからこそ、逆に言えば「大きなお世話」のような「不自然」なことをしなければ言葉は継承されないということでもある。しかし、本書でも、あるいは私が見聞きするケースでも、たいていはこうした取り組みは「失敗」に終わる。それは、取り組みの労力が言語教育にとどまらず、言葉への価値付けごと、つまりこどもが生きる社会に意味がある言葉なんだよ、というメッセージを絶え間なく出し続けることにまで及ぶからだ。
ただ、臨界期や言語形成期を超えても、こどものアイデンティティ形成や誰かとの関係構築にに必要であれば、あとからでも言葉を身につける/取り戻すことはできる(もっとも、幼少時のバイリンガル教育で手に入れられたのとは、異なる意味を持つだろうけれど)。一青妙やフィフィやNAMがそうしたように。あるいは僕がそうしたように。終章で著者は次のように述べる。
NAMさんも、日本ではベトナム人、ベトナムでは日本人と見られる自分自身のことを日本語とベトナム語によるラップの歌にして表現しているのは、二つの言語を使って他者とつながって行きていこうとするNAMさんの姿勢(生き方)であり、NAMさんの中にある二つの言語を自分自身の中に位置づけ、意味付けていく作業のように見えます。
このような意味で、「移動する子ども」は、「自己と他者の関係性」を再構築するうえで、自分自身が持つ複数の「言葉の力」を最大限有効活用していこうとするのです。
もちろん、「自己と他者の関係性」を再構築するプロセスは長いかもしれませんが、まさにそのプロセスを通じて、「移動する子ども」は主体的に自分自身を形成していくのだと思います。(p.215)
本書は「移動する子ども」に関わる人たちに向けられたメッセージであることに疑いはないけれど、人間が複数の言語コードを不可避的に身に着けていくことの意味がここにあるという点で、うん、誰であれ胸を突かれるのではないかと思いますよ。
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