スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2013の投稿を表示しています

日本の漢字 1600年の歴史

沖森卓也『日本の漢字 1600年の歴史』(→ amazon )読了。このジャンルをこの密度で、かつ平易な文体でコンパクトに書いたものはあまり他に知らない。300ページくらいです。日本への漢字流入から歴史を踏まえた現代までのパースペクティブと、漢字の機能や漢字制限、いずれ本格的にやってくるかもしれない移民社会に向けた漢字政策まで攫う幅広い構え。前半、木簡を利用した日本語史の新しい成果なども。ホント勉強になりました。 参照されている資料・史料もおびただしい。写真資料がもう少し欲しかったけれど、コンパクトさと裏腹ですね。個人的には参考文献一覧が欲しかった。甘えんなって感じでしょうか(本気で参考文献つけたら10ページくらい行くんじゃないか)。索引を付すのはありがたい。 教科書として使われることも想定されているのでしょう。しかしこの本のスペックを最大限活かせる授業担当者にも、相当のスペックが要求されるだろうな、と思います。僕がもし使うとしたら鳥瞰図として手元に置くのがせいぜいかも。

山形方言「らんば」と「火葬場」

先日、山形方言についてちょっと語ることがあって、そこで得た情報のメモ。 山形県村山地方には火葬場のことを「らんば」と古くは言う。それが新しくは標準語の流入を受け、「火葬場」と言い換えられるようになった。概略的にはそういうことなんだけども、色々お話を伺うと、過渡的に「らんば」と「火葬場」には意味内容に応じた使い分けがあったという。「火葬場」というのは街中にあって(高火力で)遺体を焼く炉を持つ企業が経営している施設、「らんば」は集落の外れに塀で囲まれていて、集落のメンバー数名で交代交代で焼き加減を見ていくような私的領域にある施設、と言い分けていた時期があるらしい。 新語形が流入したときに、旧語形の意味が限定されたり、意味の役割分担が生ずることの好例。教科書的には、東日本に西日本から「しあさって」が流入したときに、明明後日を意味する「やのあさって」がもう一日先を示す意味にずれてしまったという例があるけれど、「らんば」「火葬場」にも同じ現象があったみたい。ただ、集落の外れにある「らんば」は事物自体が消滅してしまったので、役割分担をしたはいいが、結局言葉ごと消えてしまいつつある。 通常、我々が知らない言葉を理解する時、知っているもので言い換えたり喩えたりするけれど、それが必ずしも同じ概念を指し示すとは限らない。僕も、なんとなく「らんば」をメモリアルホールとかに併設されている焼き場みたいな感じでイメージしていた。それでは「らんば」と「火葬場」の違いは分かりようもない。やっぱり、その事物が具体的にどんなものか聞いてみないと見落とすことはたくさんあるものだ。

ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』

ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』(→ amazon )読了。文化人類学的なフィールドワーク体験記が基調で、そこに言語学的な発見が散りばめられている本。アマゾンに住むピダハンという部族が他に見られない言語の特徴を持つこと、とりわけチョムスキーやピンカーによって知られる、言語を人間の本能の一部ととらえる本質主義的な見方に「それはどうだろう?文化による構築も大きいのでは?」という一石を(言語学史的には「改めて」)投じたことで、言語学の世界では話題となったようだ。 著者は言語学者でもあるが、聖書をあらゆる言語に翻訳することを目的としたSIL( SIL International )にかつては所属していた。ピダハンの言語を充分に記述するのは、聖書のピダハン語版を作成することだったわけだが、ピダハンの文化に対する研究を深めていくうちに相対主義的な思考が進み、最終的には無神論に行き着いてしまう。それほどにピダハンの文化は西洋の文化とは違うということだろうと思う。 もっとも、言語を文化人類学から捉える文化相対主義の考え方は、チョムスキー以前のアメリカ言語学でそれなりの潮流をなしていたボアズ、サピアにもあった。その後、バーリンとケイによる色名の研究で、過度な相対主義への批判があり人間の認知能力と言語の関わりが問われる。本書の価値は生成文法への批判を、言語と認知は文化的な制限のもとで構築されることを説いた点にあるだろう。現代言語学では言語は文化とは独立に存在する体系とされてきた。だから、ちょっと見、この本は古臭くも見える。いまさら本当にそんなことがあり得るのかなとも思う。 著者は、ピダハンの文化には「直接体験の原則」があるという。「実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(つまり儀式)は退けられる。(中略)だがこのような禁忌のみならず、直接経験の原則のもとには、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物、あるいは実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。」(p.121)だから、ピダハンには世界中の殆どの民族にはあるらしい「世界創造」の伝承がないという。誰も直接それを見ていないという理由で。 それが言語にどう影

風邪の治し方

一度風邪になるとなかなか治らない体質で、仕事をするようになってからは緊張感もあってそこまではないものの、学生の頃までは1ヶ月くらい平気で引き続けるとかあった。薬を飲んでも、寝ていても、全然ダメというのがなんだろうとずっと思い続けてきたが、個人的にはひとつよすがができたので記しておく。 このたび、結構重めの風邪を引いた。5日間毎日37度~39度を行ったり来たりを繰り返した。大人の39度毎日はきついですよ。インフルエンザは陰性(だからといってインフルエンザでは全くなかったとは言えないが)。病院でもらった薬を4日飲んでも状況が変わらないのでセカンドオピニオンを求めようということになった。で、ベタだが、平たく言えば漢方、伝統中国医学の枠組みで診察してもらったら治ったという話。 よく風邪の特効薬を開発したらノーベル賞とか言うけれど、すでにアンサー出てるんじゃないの?とさえ思う。伝統中国医学の枠組では、風邪を引き始めからこじらせて死ぬまでを6段階に分ける。それぞれ体の状態や反応を異なる質と定義して、投薬を考える。これに対して普通の病院ではたいてい消炎剤と抗生物質しか出さないので、どの段階でもフラットな対応となるので、伝統中国医学の考え方では適切な対応をしていないことになる。まあ、最新の科学的知見を備える西洋医学に対して、反証可能なやり方で必ずしも充分すり合わせができていない世界なので、どうしても怪しさがただようが、それでも病状の分析などは膝を打つ感じではあった。 それもそのはずで、少し良くなってからネットを調べてみると漢方医が言っていたことは、基本的には張仲景『傷寒論』(→ 傷寒論 - Wikipedia )の理論を踏まえたものだった。よく言われることだけど、近代国家を日本が目指すときにこの領域はばっさり切り捨てられたものの、江戸時代まで人の治療に役立ちつづけた理論だものね。風邪については西洋医学は打つ手なしなのであれば、ここだけでも現代で利用すればいいのにと思う。明治時代になって突然不要になってしまった東洋医学書が二束三文で各家から売りだされ、目をつけた楊守敬が買い集めて中国に持ち帰ったのは医学史では有名な話(つうか森鴎外『渋江抽斎』にも書いてあったように思う)。それが南京から台湾に流れて故宮博物院に日本の古医学書が…という余談はこのあたりで。 僕にくだされた

大栗博司『重力とは何か』

そういえば大栗博司『重力とは何か  アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』(→ amazon )は面白かった。きっかけは大澤真幸氏による書評(→ 重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る [著]大栗博司 - 大澤真幸(社会学者) - 本の達人 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト )。たまに自然科学系の本を読むと気分転換。話はマクロな相対性理論からミクロな量子力学まで。ウチューがどうのって、どうせ人文系学問は人の世のちまちま小さいことをやっていますよ、とかイヤミの一言も言えないくらいにミクロな世界でした。 とふざけましたが、最新の科学を数式を使わずに、でも専門的な内容をきちんと伝える筆力はすばらしかったです。実際、ここまで世界の解明は進んでいるのかと舌を巻きました。でも個人的なポイントはあくまでも最高級のトロをファミレスで出す、という手腕。トロの目利きと調理の両方に長けていなければこれはできませんな。などと思いながら、一般向けのテキストを書く1、2月でありました。

桃の節句

3月3日なので、妻がちらし寿司を作った。春ですなあ。 寿司太郎使ったとか。おいしかった。

2月に読んだマンガ

まず、新井英樹『宮本から君へ(定本)』(→ amazon )。これがスピリッツに連載されていたころは、世の大体の人がそうだったように、大っ嫌いでしたねえ。定本に記されるコメンタリー部分では、ツルモク独身寮的な雰囲気をぶち壊したかったとのことで、とはいえモーニング掲載なのだけど、90年から94年に連載だったとのこと。ワタクシは高校生真っ盛りで、恋も性も大人の感じも幻想たっぷりだったので、そりゃあ嫌いになるわとやっぱり今も思います。何かの雑誌で、嫌いなマンガランキング一位をとったとか。好きと嫌いは裏腹だからねえ。 しっかし今読むとこれがクッソ面白いのですね。新井英樹節は『ザ・ワールド・イズ・マイン』『シュガー』『リン』で免疫体制が整っているので、おなじみの底意地の悪さは腹にためて読んでいけるわけです。前半の営業勝負も、後半の「これは全て俺の喧嘩」エピソードも、30代前半で読んでみたらまた感じが違ったかもしれないなと思って、今更読もうと思ったことを少しだけ後悔しました。いま、ちょっと上司目線で読んじゃってしまってたから。 それでこの際と思って、『愛しのアイリーン(定本)』(→ amazon )も。スピリッツに95年から96年に連載。これもねえ。高校から大学にかけてチラ読みしてたけれども、当時はだめだった。 で、こちらは考えてみたら山形にもご縁のあるテーマなのだよね。高度成長期後の地方社会の閉塞感(娯楽がパチンコくらい、みたいな)、嫁不足、国際結婚、家制度による「外国人嫁」への排外的圧力などがステレオタイプ的に描かれている。授業でもこの手の問題系をわずかに取り扱っているので、読まなきゃなあと思って読み始めました。内容は、取材を下敷きに描かれているだけあって、ずいぶんリアルなところもあり、しかし新井英樹なので露悪的かつ分かりやすいハッピーエンドなしの鬱展開です。この手の問題をリアル世界で学ぼうとすると、どうしても死角になるのが性の問題なのだけど、そこを遠慮会釈なく掘り下げているのが胸をえぐります。ラストは家制度の問題を母性の問題にしてしまっているのも、新井英樹節でしょうか。国際結婚で姑との関係に激しく問題があって、であるにもかかわらず日本人のダンナが死んでしまうという展開以後、殺しあうかの勢いで介護に向かい合う壮絶さが特に印象に残りました。 マンガ読み

そろそろ春

山形の明治10年生まれの方の音声をお借りした。もちろんすでに亡くなっていらっしゃるのだが、昭和40年ごろにオープンリールで録音していたもの。とりあえずデジタル化するために機材などをお借りした。 まだ雪もちらつくが、春の気配。蕎麦屋で大盛りをがっつく。 写真は、オリンパスのOM-D。文献撮影で使うんで購入。練習がてら風景を。