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地獄のミサワ

今日のところはこれくらいで勘弁しといたる。 地獄のミサワの「女に惚れさす名言集」 地獄のミサワ - Wikipedia ASCII.jp:中卒ニートで赤塚賞! 「地獄のミサワ」のつかめない半生 地獄のミサワ絵描こうぜ:ハムスター速報 「地獄のミサワ」のイラスト一覧 [pixiv] 彼氏が地獄のミサワだった - まめ速 地獄のミサワの特集 | オモコロ特集 なぞり絵のコーナー | オモコロ特集 接着剤 | オモコロ特集 ジャンプスクエア GAG MANGA Grand Prix 『カッコカワイイ宣言(1)』(→ amazon )も。 [公式アニメ]カッコカワイイ宣言! 第1話 ‐ ニコニコ動画(原宿) 、ここも。

マイマイマイマイ舞浜、マイダーリン

山下くんからいただいた進行方向別通行区分のCD、「世界は平和島」を鼻で笑いながら聞いているうちに、いやこれジワジワ来るなと思うようになった( 進行方向別通行区分とは - はてなキーワード )。言葉遊びを主軸に、肉付けとして意味の連鎖をまとわせているような、フィネガンズ・ウェイクは言い過ぎか。最近、こういうとんがったのを聞いてないので、久しぶり感かなとも思ったがそうでもないみたい。 いただいたCDはお店では売ってまてん。いまは活動はしていないのだな。youtubeに解散ライブが3本出ている。消えるかも知れないけれど一応埋め込んでおこう。My Space(→ 進行方向別通行区分 - Myspace : 音楽の無料試聴、動画、写真、ブログなど )に数曲出ている。上がっている中では「タイフーン17」が好きだな。関係図が示されているのが笑える。 こういうのにいつまでも惹かれてしまうあたりに、自分の青臭さを感じます。

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語...

電子書籍自体は本と何ら変りなし、でも「読む」行為は変わるかも

今になって思えば、2010年に印象深かったことは2つあった。1つは自分の奥底にあるIT・テクノフォビアに臆することなく、便利、使えそうと思ったことにはできるだけ挑戦したこと。それは形ある物質的にはiPod touchであり、iPadであり、Scansnapだったし、手で触れない情報的にはgoogle docsやdrop boxを使ったクラウドサービスであり、書類や書籍の電子化、その蓄積と運用だった。 それで何が変わったか。紙が減った。場所ができた。それが一番大きな変化だ。あとは残念ながら特にないや。 でもこの先10年くらいの「書籍」(これまでそう呼ばれてきた)がどう変貌し、読まれていくのかについて考えるきっかけにはなった。石に文字を刻み、木簡に文字を記すことから、巻物、折本を通じ、版本から大量印刷の時代を過ぎて、いよいよ紙ではない世界に向かう。子どもとかどうやって「書籍」を認識していくのだろうと思いつつも、根本では変わらないだろうなとも思う。ページをめくったりたぐったり、あるいはフリップしていくことすら、僕らは紙ベースの世界の類推として電子書籍を見ている。「めくる」「たぐる」は切り取られた判型の紙の類推だし、「フリップ」は巻子本の発想と全く同じだ。それは「書籍」という名称のままに、その世界を抜け出していないことを意味する。その意味で、まだしばらく「書籍」の時代は続くだろう。人間が数十メートルにも及ぶ長い紙に書かれた内容を視野に一見して理解・処理できないことに変わりはない。本の1ページも、パソコンのモニタも、iPadの画面も同じだ。 それに、文字の発明から、スクリプトの制度化と制定、それを書籍として情報の塊にパッケージする技術は人類が数千年かけて築きあげてきたものだ。音楽や映像が急激な発展を遂げて、情報伝達に関わる新しい方法をもたらしたところで、数千年分の蓄積が少なくともこの100年で無用の長物と化すことは考えがたい。それほどに「書籍」とその背後にあるスクリプトによる情報伝達方法は人間の論理的思考のフレームと分かちがたく結びついているように思える。だから「書籍」と我々が呼ぶところの、人間にとっての機能は根本的には変わらない。 ただ、読む、あるいは書く行為の在り方や意味合いが、技術革新で容易に変わることは、人間は幾度となく体験してきた。それは言い換えれば、社会にとっての...

日本郵政の年賀状用オンラインサービス

年賀状を書く煩わしさを感じながら、でもご挨拶としてはあったほうが良いか、などと逡巡する僕のような人間にとってありがたいサービスが。日本郵政のウェブサービス、 はがきデザインキット2011|郵便年賀.jp と、 ウェブポ - 年賀状のぜんぶをオンラインで 。 これまでも自分でパソコンでデザインを作って、筆王みたいなソフト(いや筆王そのものですが)で宛名管理して、年賀状買ってきて印刷して、一言ずつ書いて、スタンプ押したりして、という煩瑣なことをやっていた。このうち面倒なのははがきを買ってきて印刷するプロセスだ。上記サービスの素晴らしいところは、はがき購入と印刷と発送をオンラインで行えるところ。一通ずつ、一言を添えることもできる。デザインキットは リッチインターネットアプリケーション | Adobe AIR で作られており、デスクトップアプリでありながらネットとシームレスなので、「こちら」で作る安定感と「あちら」でやってくれる利便性が融合している。 発送のプロセスはウェブポで行う。デザインキットからきちんとウェブポに中身を受渡してくれるので、ここは簡単。最後はカード決済して終了。使い方を覚える時間を除けば、半日で年賀状を作成+発送までできると思う。はがき代と印刷代をあわせて、1通128円を安いと思うか高いと思うか。 気になる印刷品質だけが未知数。自分宛にも出しておけばよいか。

夏目房之介『書って何だろう?』

夏目房之介の最近の仕事に興味があって、『書って何だろう?』(→ amazon )を読んだ。 本書は石川九楊編『書の宇宙』という叢書ものに連載したエッセイらしい。マンガの線に基づいた表現論を得意技とする夏目氏が、どうやって書を分析するのか興味があった。著者自身が書いているように、夏目氏は書に造形が深いわけでもなく、お仕事として「受けちゃった」性質のものであるから、著者としてみれば挑戦的な著作ということになるのだろう。全般的に、手持ちの経験と言葉から(良く言えば)書の歴史性に拘泥せずに、思うまま鑑賞文を書いたもの。もちろん夏目氏のことなので、鋭い観察はある。が、著者自身が触れているように、印象批評の域を出ない。夏目氏にこういう企画をやらせること自体は、とめはねブームを下敷きとした話題を呼ぶだろうし、書や名筆を大衆に分かりやすく紹介する意味合いを持つだろう。でも読後感はやっぱり拍子抜けだった。どこか食い足りない。 話は変わるが、これで「やってみる」ことの限界はあるなあと思った。どこの大学も、講義一辺倒では学生の受けが悪いということで、演習・体験系の授業が増えていると思う。演習・体験系授業のほうが、学生評価も高くなりがちではある。そういうつまみ食いがカリキュラムの導入あたりに固まっていて、他の授業との連携が見えているのであれば話は別だが、客寄せのためにカリキュラムの経絡と離れた授業にそうした「やってみる」系の授業があるのは、学生の好奇心コストを無駄にさせているように思う。やるなら行き詰まりを感じるくらいに「やりぬく(読み抜く)」か、歴史性や同時代性のコンテクストの中で紹介するべきだろう(あるいはその両方)。 夏目氏のマンガ表現論は、彼自身が実際にマンガを書いて「線を書く」行為を身体化した中で生まれた。『書の宇宙』連載開始時には彼はただの観察者だったが、連載途中から臨写を始める。それに呼応するかのように、敢えておちゃらけていた文体も途中から変わり、歴史性や作家性との関わりでエッセイがなされるようになる。そのことはあとがきで明示的に語られている。このあたりのバランスを授業の中で再現できれば、と思うがなかなか難しいところ。