夏目房之介の最近の仕事に興味があって、『書って何だろう?』(→amazon)を読んだ。
本書は石川九楊編『書の宇宙』という叢書ものに連載したエッセイらしい。マンガの線に基づいた表現論を得意技とする夏目氏が、どうやって書を分析するのか興味があった。著者自身が書いているように、夏目氏は書に造形が深いわけでもなく、お仕事として「受けちゃった」性質のものであるから、著者としてみれば挑戦的な著作ということになるのだろう。全般的に、手持ちの経験と言葉から(良く言えば)書の歴史性に拘泥せずに、思うまま鑑賞文を書いたもの。もちろん夏目氏のことなので、鋭い観察はある。が、著者自身が触れているように、印象批評の域を出ない。夏目氏にこういう企画をやらせること自体は、とめはねブームを下敷きとした話題を呼ぶだろうし、書や名筆を大衆に分かりやすく紹介する意味合いを持つだろう。でも読後感はやっぱり拍子抜けだった。どこか食い足りない。
話は変わるが、これで「やってみる」ことの限界はあるなあと思った。どこの大学も、講義一辺倒では学生の受けが悪いということで、演習・体験系の授業が増えていると思う。演習・体験系授業のほうが、学生評価も高くなりがちではある。そういうつまみ食いがカリキュラムの導入あたりに固まっていて、他の授業との連携が見えているのであれば話は別だが、客寄せのためにカリキュラムの経絡と離れた授業にそうした「やってみる」系の授業があるのは、学生の好奇心コストを無駄にさせているように思う。やるなら行き詰まりを感じるくらいに「やりぬく(読み抜く)」か、歴史性や同時代性のコンテクストの中で紹介するべきだろう(あるいはその両方)。
夏目氏のマンガ表現論は、彼自身が実際にマンガを書いて「線を書く」行為を身体化した中で生まれた。『書の宇宙』連載開始時には彼はただの観察者だったが、連載途中から臨写を始める。それに呼応するかのように、敢えておちゃらけていた文体も途中から変わり、歴史性や作家性との関わりでエッセイがなされるようになる。そのことはあとがきで明示的に語られている。このあたりのバランスを授業の中で再現できれば、と思うがなかなか難しいところ。
本書は石川九楊編『書の宇宙』という叢書ものに連載したエッセイらしい。マンガの線に基づいた表現論を得意技とする夏目氏が、どうやって書を分析するのか興味があった。著者自身が書いているように、夏目氏は書に造形が深いわけでもなく、お仕事として「受けちゃった」性質のものであるから、著者としてみれば挑戦的な著作ということになるのだろう。全般的に、手持ちの経験と言葉から(良く言えば)書の歴史性に拘泥せずに、思うまま鑑賞文を書いたもの。もちろん夏目氏のことなので、鋭い観察はある。が、著者自身が触れているように、印象批評の域を出ない。夏目氏にこういう企画をやらせること自体は、とめはねブームを下敷きとした話題を呼ぶだろうし、書や名筆を大衆に分かりやすく紹介する意味合いを持つだろう。でも読後感はやっぱり拍子抜けだった。どこか食い足りない。
話は変わるが、これで「やってみる」ことの限界はあるなあと思った。どこの大学も、講義一辺倒では学生の受けが悪いということで、演習・体験系の授業が増えていると思う。演習・体験系授業のほうが、学生評価も高くなりがちではある。そういうつまみ食いがカリキュラムの導入あたりに固まっていて、他の授業との連携が見えているのであれば話は別だが、客寄せのためにカリキュラムの経絡と離れた授業にそうした「やってみる」系の授業があるのは、学生の好奇心コストを無駄にさせているように思う。やるなら行き詰まりを感じるくらいに「やりぬく(読み抜く)」か、歴史性や同時代性のコンテクストの中で紹介するべきだろう(あるいはその両方)。
夏目氏のマンガ表現論は、彼自身が実際にマンガを書いて「線を書く」行為を身体化した中で生まれた。『書の宇宙』連載開始時には彼はただの観察者だったが、連載途中から臨写を始める。それに呼応するかのように、敢えておちゃらけていた文体も途中から変わり、歴史性や作家性との関わりでエッセイがなされるようになる。そのことはあとがきで明示的に語られている。このあたりのバランスを授業の中で再現できれば、と思うがなかなか難しいところ。
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