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電子書籍自体は本と何ら変りなし、でも「読む」行為は変わるかも

今になって思えば、2010年に印象深かったことは2つあった。1つは自分の奥底にあるIT・テクノフォビアに臆することなく、便利、使えそうと思ったことにはできるだけ挑戦したこと。それは形ある物質的にはiPod touchであり、iPadであり、Scansnapだったし、手で触れない情報的にはgoogle docsやdrop boxを使ったクラウドサービスであり、書類や書籍の電子化、その蓄積と運用だった。

それで何が変わったか。紙が減った。場所ができた。それが一番大きな変化だ。あとは残念ながら特にないや。

でもこの先10年くらいの「書籍」(これまでそう呼ばれてきた)がどう変貌し、読まれていくのかについて考えるきっかけにはなった。石に文字を刻み、木簡に文字を記すことから、巻物、折本を通じ、版本から大量印刷の時代を過ぎて、いよいよ紙ではない世界に向かう。子どもとかどうやって「書籍」を認識していくのだろうと思いつつも、根本では変わらないだろうなとも思う。ページをめくったりたぐったり、あるいはフリップしていくことすら、僕らは紙ベースの世界の類推として電子書籍を見ている。「めくる」「たぐる」は切り取られた判型の紙の類推だし、「フリップ」は巻子本の発想と全く同じだ。それは「書籍」という名称のままに、その世界を抜け出していないことを意味する。その意味で、まだしばらく「書籍」の時代は続くだろう。人間が数十メートルにも及ぶ長い紙に書かれた内容を視野に一見して理解・処理できないことに変わりはない。本の1ページも、パソコンのモニタも、iPadの画面も同じだ。

それに、文字の発明から、スクリプトの制度化と制定、それを書籍として情報の塊にパッケージする技術は人類が数千年かけて築きあげてきたものだ。音楽や映像が急激な発展を遂げて、情報伝達に関わる新しい方法をもたらしたところで、数千年分の蓄積が少なくともこの100年で無用の長物と化すことは考えがたい。それほどに「書籍」とその背後にあるスクリプトによる情報伝達方法は人間の論理的思考のフレームと分かちがたく結びついているように思える。だから「書籍」と我々が呼ぶところの、人間にとっての機能は根本的には変わらない。

ただ、読む、あるいは書く行為の在り方や意味合いが、技術革新で容易に変わることは、人間は幾度となく体験してきた。それは言い換えれば、社会にとっての機能は容易に変わりうる、としてもいい。近代以前のスクリプトは音読と依存関係にあったし(現在から見れば「どう発音するか」「音声による再現をどう助けたか」という問題系として立ち上がる)、近代以後は大衆を前提とした「読者」が誕生し、それと同時に黙読が発生した。また宗教や政治の権力と書くことは直接的な関係にあったが、今ではそれだけではない。そして読むことも、書くことも今では近代以前とは異なる、人間の新しい認知世界を築き上げている。

今、日本語ではそれをダイレクトに体験することはできないが、アメリカのkindleでは読んだ書籍の自分が感想を持った「この箇所!」にコメントを付け、それを同じ本を読んでいる人間が共有する機能があるという。次に書いたり読んだりする行為が変わるとすれば、これがポイントになるのではないかと思う。例えば、現代の小説やマンガが読者の物語への欲望に支えられる形で「作家」のアイコンが成立しているように、あるいはそれをもっと直接的かつ前面に押し出す形で、読者が作者の領域を侵食していくかもしれない(掲示板から作られた電車男を敷衍したイメージ)。例えば、コメントも含めて小説や物語を読み、一つの読書世界が形作られるかも知れない(論文の注釈を本文と同時に読み進めていくイメージ)。良いコメントが入っているものはそれ自体が評価されつつ、テクストの読みをある文脈や時代のみに規定されてしまうかもしれない。それがパソコンなどの中にファイルとして格納され、ファイル作成/更新日時だけが刻まれ、歴史を無視したフラットな存在となった作品群に新たな歴史を与えていくかも知れない。

こうした話は特に出版に関わるビジネスモデルとの関わりで『電子書籍の衝撃』にも一部触れられていることだが、読みの世界やリテラシー自体も変えていくかも知れない(読める、とはコメントも含めたテクストからその空気も読み取ることを意味するようになる、とか)。僕に取って衝撃があるとすれば、ビジネスモデルよりもこの方面で人間のスクリプトに対する認知認識世界がどう変貌するか、にある。

印象深かった、もう1つについては別便で。

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