山形の夜はとても静かであるゆえに、夏の盛りであるにも関わらず、夜の雰囲気は全然矢野顕子が行ける、ということに3年目にして突然気付いた。東京に住んでいたときは全く聞く気にならなかったのに。気温や気候に応じて聴きたい音楽を選んでいるのは、音楽への欲求が身体の色々な感覚との調和を求めているからなのだろう。耳でしか聞けないはずなのに、人間の外界認知はそう単純ではないようだ。
話は変わるが、音楽について特権的に語ろうとする人がいるのはなぜだろうと思うことがある。音楽は誰か特定の人(たち)のものであると叫ばれる可能性を持つものであることは、音楽がどのように使われるかという含みでは理解できるが、誰かだけのものではないし、誰かの語りだけが特権的な立ち位置を保証されるものでもないはずだ。たぶん、音楽はどのようにでも語れる何かを持っている。社会やコードや文化でどれだけ解釈しても、そこから漏れ落ちる何かがある。もちろん、少なくとも僕がここで触れている音楽とは構築されたものであるから、構築主義的に解釈することはできる。でもそれだけではない、と直観させてしまう何かがある。それはおそらく、言語による認知世界の作り方と、音楽によるそれとが根本的に異なるからなのだと思う。
と、ほとんど何も言っていないような、論説文的には落第を喰らうような書き方だが、たとえば構造分析を行ったために「楽しかったものが楽しくなくなってしまった」と投げ出すことでもないし、逆に構造分析を矮小化して「全然音楽のことが分かっていない」と上から目線を決め込むことでもないと思うのだ。何をどうしたって、音楽はやっぱりそこに何かの存在を直観させ続けるはずで、そのことはどのように語ったところで何ら変わることではない。だから、何もおそれずに、誰もが好きなように音楽を、好きなだけ語ればいいと思う。
話は変わるが、音楽について特権的に語ろうとする人がいるのはなぜだろうと思うことがある。音楽は誰か特定の人(たち)のものであると叫ばれる可能性を持つものであることは、音楽がどのように使われるかという含みでは理解できるが、誰かだけのものではないし、誰かの語りだけが特権的な立ち位置を保証されるものでもないはずだ。たぶん、音楽はどのようにでも語れる何かを持っている。社会やコードや文化でどれだけ解釈しても、そこから漏れ落ちる何かがある。もちろん、少なくとも僕がここで触れている音楽とは構築されたものであるから、構築主義的に解釈することはできる。でもそれだけではない、と直観させてしまう何かがある。それはおそらく、言語による認知世界の作り方と、音楽によるそれとが根本的に異なるからなのだと思う。
と、ほとんど何も言っていないような、論説文的には落第を喰らうような書き方だが、たとえば構造分析を行ったために「楽しかったものが楽しくなくなってしまった」と投げ出すことでもないし、逆に構造分析を矮小化して「全然音楽のことが分かっていない」と上から目線を決め込むことでもないと思うのだ。何をどうしたって、音楽はやっぱりそこに何かの存在を直観させ続けるはずで、そのことはどのように語ったところで何ら変わることではない。だから、何もおそれずに、誰もが好きなように音楽を、好きなだけ語ればいいと思う。
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