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emacs修行中

ubuntuを中心とした生活をするようになって、約半年か。時折、速度が要求される仕事なんかで、win環境の方がしくじらない自信がある時はwinで立ち上げることはあるものの、生活の大半はubuntuで送るようになっていた。ただ、最重要事項であるはずの、自分仕様のTeX関係設定がまだ整わない。ひとつは、文字鏡を利用した多漢字環境をどう設定してよいか分からないこと。もうひとつは、TeX用のエディタがよくわかんないこと。いろいろ試したが、やっぱりYaTeX(→Yet Another LaTeX mode for Emacs.)なのだろうなと思って、このところ少しずつemacsを使って文章を書くようにしている。emacsで以前作ったTeX文書を開くと、なんか分かんないけど自然にTeXモードに入っているから、基本的な環境はできているんだろう。

いま、一番困っているのが、emacsにおけるコピーとペーストの概念が、Ctrl+v・Ctrl+cのようなものとは根本的に違うらしいということだ(→コピーアンドペーストを使いこなす(松山智大) — ありえるえりあ)。しかたがないので、メニューからいちいち選んでいる。ubuntuに標準でついているエディタに比べれば、emacsは動作がきびきびしていて気持ちがいい。YaTeXとの組み合わせで使う限り、最強の布陣なのだろう。しかし覚えるまでの初期投資がかなり重そうで、早くも締切りが心配すぎる。さしあたりの策としては、ubuntuで書いて、コンパイルはwinで行うか…。

コメント

Unknown さんの投稿…
やっぱり野鳥を使うようになりましたか!私(ne2)の方は仕事でMS Wordを使わなければならないので、emacsはすっかりご無沙汰してしまっています。バージョンが上がるにつれて設定ファイルに書き込まなければいけない事項もどんどん少なくなっていって、野鳥のようなメジャーな機能は設定をしなくても使えるようになっているところがよいですね。
すっかりご無沙汰しているので、コピーアンドペーストの仕方などもきれいに忘れてしまっているのですが、上記のリンクに書いてあるように原理に基づいて考えなくても、
# C-w: C-SPACEでセットした位置と今カーソルがある位置の間にあるテキストをカットする
# M-w: C-SPACEでセットした位置と今カーソルがある位置の間にあるテキストをコピーする
# C-y: テキストを張り付ける
というのを覚えておけば、メニューから選ぶよりずっと楽なはずです(メニューから選んでいると、死にます)。
あと、うっかり不必要な操作をしてしまった場合、C-gで取り消さなければいけないので、こちらも絶対に覚えておくべきです(このキーバインドは、各OSのSKKでいまでもお世話になっています)。
http://www.bookshelf.jp/soft/meadow_10.html#SEC55
↑に代表的なキーバインドが書いてあります(上記キーバインドもここからコピペしたものです)。情報が古いですが、グローバルキーバインドは変わっていないと思うので、役に立つはずです。
http://www.bookshelf.jp/
meadowを使っていたときに、↑には本当にお世話になりました。多くのことがLinuxのemacsにもあてはまるので、ご参考あれ。

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子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

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