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地面を「じめん」と表記すること

twitter経由の話。

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「ぢ」「づ」は、現代仮名遣いでは基本的に認めていませんが、連濁によって生じた場合には残してもよい、としています(その他の例外則は現代仮名遣い:文部科学省をご参照ください)。鼻血を「はなぢ」とするのは「ち」が連濁によって「ぢ」になったとみなせるからです。そうでない場合は、原則的に「じ」で書く。かつて歴史的仮名遣いでは「ふぢの花」と表記したものも、これは連濁によって生じたものではないから「ふじの花」と書く。

ところで地面を「じめん」とするのはどのような理由によるか、というとこれが説明が難しい。地は「ち」なのだから「ぢめん」でいいではないか、という理解もある。これにたついての現代仮名遣いの説明は、「これは連濁によって生じたものではないから「じめん」が本則」、ということです。

現代仮名遣いの、「じ」「ぢ」「ず」「づ」に関わる基本的な考え方は、

「ぢ」「づ」は使わない。表音主義を基本とするから。

ということに尽きます。ただし現代仮名遣い以前の表記習慣に中途半端に配慮したので、

連濁に関わる場合などは(語源意識との整合性から)「ぢ」「づ」を使うことも認める。

でした。

歴史的仮名遣いはおおむね中古の仮名遣いを規範とする姿勢を取るのですが、地にはチとヂの表記があります。歴史的仮名遣いを記せば「地面」はヂメンです。単独でも地を「ヂ」と表記されることもありました。つまり連濁と関係なしに「ヂ」という表記(発音としても[di]と推定されている)があったわけです。

ところがこれを丁寧に説明する過程で、「地は漢音でチ、呉音でヂ、すなわち連濁と関係なくもともとヂという発音が古代に存在していた」というエピソードが入る(このエピソードは正しいです)ことがなぜか誤解されて、「もともとジと表記されていた」とか「もともとジと発音されていた」などという誤謬がネット上に散見されます。「地面」のよみが「ぢめん」とならず「じめん」になるのはなぜ? - 国語 - 教えて!gooとかね。ベストアンサーついてますが(笑)。地面という字はなぜ「ぢめん」ではなく「じめん」なんですか? - Yahoo!知恵袋、これは惜しいけどミスリーディングを誘いますね。[チ]と[ジ]があったんじゃなくて、[ti]と[di]がそれぞれ「チ」と「ヂ」と表記されていたということ。

きちんと説明しているサイトもいくつかあります。解説:「地震」「じしん」「ぢしん」・「地面」「じめん」「ぢめん」どちらが正解?|makewisteriaのブログとかね。niji wo mitaよりも丁寧に説明しています。

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