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久しぶりの偏頭痛

6年間沈黙していた偏頭痛が昨年末から再開。物の本には「再開することもある」とあって、あるんだなあ。ひっさしぶりにこのブログでも偏頭痛ラベルを使う羽目になったよ。いまのところ平均してひと月に1回ペースなので、日常生活は送っていけるレベル。

6年前に持っていた薬は賞味期限切れで、久しぶりに病院に行った。若いお医者にひと通り説明すると、40代男性で典型的な症状を持っている人もなかなかいない、と言われる。よくわかんないけどありがとう。この6年でそっちの世界では進展ありましたか?と聞いてみると、ほとんど進展はないけどよく効く薬は開発されたから飲んでみるといいですとのこと。アマージというのを処方された。あとかつてお世話になっていたトリプタン系のイミグランはジェネリック医薬品が出ているのね!ちょっとだけ安くなっていた。

なんとなくだけど、6年前より偏頭痛の認知度は上がったのかなという気はする。そんなこともないのかな。偏頭痛の話を学生にすると、自分もです!と名乗りを上げてくる人や、対処方法などについて話題が上がってくる。入学時のカードにも偏頭痛のことを書いてくる学生も増えたという話も聞く。

啓蒙サイトも強化されましたねえ。例えば、トリプタン系薬剤と服用タイミング | 片頭痛の治療と予防 | スッきりんのバイバイ頭痛講座、こことか。トリプタン系薬剤を服用するタイミングとか、前はどこにも書いてなかったように思います。昨日偏頭痛をかまされたときは、前兆の段階で飲んでしまって、それで効きが悪かったのかと思いました。

しかし、あれだけ苦しんで調べ倒して、偏頭痛に俺は日本一詳しいんじゃないかと思うくらいだったのに、6年間すっかり忘れていた。人間というのは当事者でなければこんなに簡単に我関せずになってしまうのですね。苦しみに共感して欲しいという気持ちも、思いやる気持ちも、なんと頼りない博愛精神に築かれた楼閣であることよ。

昨日はゲストスピーカーを招いての授業中に前兆が起こりまして、ほとんど反射的に薬を飲みました。偏頭痛が起こっていることもゲストにさとられることなく、たぶん学生のなかには気づいたのもいるかもしれないけど、事なきは得られた。

いずれにしても、6年で何が変わったということも本質的にはなくて、要するに暴風がやってきたときには布団かぶってやり過ごすのが一番ということです。そういう意味では、ある程度自己裁量で動けるこの仕事で本当に良かったと思います。

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