自分の偏頭痛の頻度を確かめるくらいにしか機能しなくなってきたブロガーです。前回が2015年だから、5年ぶりか。起きがけに前兆の閃輝暗点が見えて、すぐ寝直しました。昼過ぎまで寝たらほぼ回復していた。
トリガーなんて相変わらず分からないけれど、昨日の某会議では発言者の問いかけをみんなで無視するという非常に不愉快なできごとがあって、本来発言する立場にない自分が発言するということがありました。会議では議論すべきコンテンツの重要さとは別に、人間にとって善なるものを前提にして話し合うというもっともっと大事なことがあると思うのだよね。人文学がそれを忘れたら理系でいいんじゃん(偏見)ということになるじゃん。ならんか。
今朝、閃輝暗点が出た、と妻に報告したら、昨日なにかすごく怒ることがあった?と聞かれて、あった、と。心的ストレスというにはちょっと弱いけれど、心当たりはもうないなー。
まあそんな朝。おかげでこのブロガーも久しぶりに更新。
子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。
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