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IS05のルート奪取

IS05にてau one IDを取得したらなんだか絶対に使わないアプリがてんこ盛りになってしまった。動きが遅くなるのもアプリ一覧に余計なものが並んでいるのも嫌なので、root奪取のうえ、余計なアプリを停止することにした。僕のIS05のOSはandroid2.3.4、ベースバンドバージョンは01.01.03。 ここ(→ IS05 まとめ wiki - root化について )の手順に從う。上記マニュアルでは、IStweakでは「システムアプリケーション」によって余計なアプリを黙らせることができるとあるが、実際にやってみると「アプリケーションの凍結」にメニュー名が変更されているので注意。また、アプリケーションの凍結に進む際、ディレクトリ選択を迫られる。 /data/app グリー、グルーポン、着せ替えケータイ、サンシャイン王国、UNOHD、ニュースEX、太鼓の達人+、jive、Lismo Wave、助手席ナビ /system/app Gガイド番組表、ニュースと天気、Live Wallpaper Picker、 上記マニュアルにあるように強制終了→メニューから入り直しの連続を構わず続ける。IStweakから再起動を選んで、本体をリブート。起動するかドキドキすること数分…見事起動!ただし、停止させたはずのLismoが起動できない、というメッセージが出る(以後も通常利用中に時折ポップアップする)。これはいまのところ対処がわからないけれど、特に不具合はない。 その他、不具合が出るようだったら、ここに書き足すことにする。

鬼平・カムイ・光圀

近所のラーメン屋が、さいとう・たかを版『鬼平犯科帳』を豪華装丁版で(おそらく)全31巻をそろえた。以来、そのラーメン屋に通い続け、今日なんか「いつもありがとう、これサービス」とかいってお茶いただいたくらいの皆勤賞ぶりである。1回1時間の勝負で、まだ6巻。原作を読んでいないが、こんなにおっさんワールド全開なのだろうか。マンサンとかゴラクかという作風なので、まんま飲む・打つ・買うに殺し合い、忘れた頃に江戸の人情、とたたみかけるようなリズムによる攻勢である。こういうのがガツガツ読めてしまう程度に俺はおっさんになったのだ。 実は同僚にずっと前に借りた『カムイ伝』がなかなか進まず研究室の片隅に積んであり思い出した時に少し読み進める感じなので、内容がほとんど掴み取れていないながらも、「江戸の人情は小粋だが百姓と非人はこんな江戸を見ていない」、変なブレーキを時折かけつつラーメン屋通いの日々を送る。 で、今日は別エントリの朔ユキ蔵と一緒に三宅乱丈『光圀伝(1)』(→ amazon )を購入。冲方丁原作だからそっちを読めばいいとか言わない。それはそれ。別に光圀が好きなのではなくて三宅乱丈だから。『秘密の新選組』だって幕末好きなのは司馬遼太郎好きなおっさんくらいなのであって、三宅乱丈だから(あ!最終巻出てたの知らなかった)。『ぶっせん』『マチコ船』『北極警備隊』とかやってたころの突き抜けたギャグ期以来、なにかと読んでて苦しくなる作風を貫く三宅乱丈だから!

朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』

朔ユキ蔵『お慕い申し上げます(2)』(→ amazon )、2巻だけ書店にあったから買って読む。1巻はまだ。しかし、またきっつい作品を書いているということはよく分かった。2巻からなので背景はよくわからないけれど、志高い坊さんになろうとしている登場人物?と色欲の眼差しの対象となる住み着いた女性、今度は仏教ベースで罪と性欲をキリキリ舞わせるみたい。3巻は憎しみがテーマであるとか。見たところメインの登場人物は3人で、それぞれの視点から葛藤が描かれるようだ。 朔ユキ蔵は寂聴とか今東光の跡を継ごうとしているのか、という勢い。アマゾンで1巻の様子を探ると、お色気コメディと受け取られるような煽りがあるけれど(悶々ライフ!)、もっとえぐられる黒さがあるので、うっかり購入してうずくまる読者が増えればいいと思う。 前作『黒髪のヘルガ』(→ amazon )では性と汚れ、嫉妬と拘束をファンタジーとして描く離れ業をやってのけ、今度はそれを宗教的信仰心の「起こり」としての局面で描こうとしている。朔ユキ蔵の作品を時系列に並べると、たぶんなんというか魂の階梯(笑)を一歩ずつ登ってゆくようすが見て取れるのではないかと思うわけです。 *参考:niji wo mita: 朔ユキ蔵『黒髪のヘルガ』 http://njmnjm.blogspot.jp/2011/09/blog-post.html

川上郁雄『私も「移動する子ども」だった』

川上郁雄『異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー 私も「移動する子ども」だった』(→ amazon )読了。「移動する子ども」というのは、両親あるいはどちらかを非日本語圏に持つ、あるいは非日本語圏と日本語圏を自ら移動した経験のある子どもをさしている。「ハーフ(ダブル)」など血統を惹起させることばを使わず、移動とそれに伴う多言語体験は社会構築的なものだ、ということを意味づけるうまいフレーズだと思う。 著者は日本語教育学の方。本書の内容は子どもが言語習得をしていく過程には、社会的文脈に沿った言葉への価値付けが大きく作用する、ということのケーススタディであるように読めた。そこがたぶん、日本に生きる「移動する子ども」たちへの救いのメッセージなのだろう。僕もこの手のことをよく考える時期にこの本に出会っていたら、これまでのブログエントリもまた違った感触になっていただろうなあと思う。 本書の構成は、第一部を「幼少の頃、日本国外で暮らし、日本に来た」ケース、第二部を「幼少の頃から日本で暮らし、複数の言語の中で成長した」ケースとする。第一部には、セインカミュ、一青妙、華恵、白倉キッサダー、響彬斗・一真、第二部にはコウケンテツ、フィフィ、長谷川アーリアジャスール、NAMの各氏。インタビューと川上氏による談話の意味付けが交互に続く構成。 ここで選ばれている人たちの特徴は何なのか、と読み終わって考えるに、全員が幼少の頃にバイリンガル教育に「失敗」していることにあると気づいた時、これだけのメンバーへのインタビューをお集めになったものだと著者に敬服した。本書は、それでも別に大丈夫だよ、と呼びかけている。みな親から日本語ではない言葉を学ぶよう誘導されるが、子どもはその言葉が社会的にどう価値付けされているかにとても敏感で、たとえば「◯◯語はかっこわるいから使いたくない」だとか「英語はなんか役に立ちそうだから」といって成長の度合いに応じて言葉を値踏みする。母語継承の取り組みが子どもにとっては「大きなお世話」になりがちで、でも言葉にはすでに社会的な「ランキング」が刻まれているからこそ、逆に言えば「大きなお世話」のような「不自然」なことをしなければ言葉は継承されないということでもある。しかし、本書でも、あるいは私が見聞きするケースでも、たいていはこうした取り組みは「失敗」に...

夜中のアイスコーヒー

麦茶はちょっと。熱々のコーヒーもたまにはちょっと。夜遅いしビールは見送りたいし、ラムとかでカクテル作っちゃってもいいけどお酒は少し休みたい。という気持ちでネット見てたら、ここ(→ 誰でも簡単にできる本格アイスコーヒーの淹れ方 | roomie )に出会いました。あー、美味しそう、ということで。 ただ、うち(というか僕だけ)みたいにヘビーにコーヒーを飲む家だと、コーヒーメーカーで作っていることも多いと思う。なので、カップに氷をいっぱい詰め込んでおいて、淹れたて熱々のコーヒーを流しこむ。コーヒー豆はいつもの2倍くらいの濃さにしておいて、氷が一定程度溶けるのを待てばできあがり。 という感じで目分量でいい加減につくってみたけれど、美味しい。キュっと冷やすと香りが飛ばないみたい。あっ、背景のキッチンはスルーよろしく。

『階層化日本と教育危機』を読んでみよう、という表明

今朝は妙にびびっと来ました、このエントリ(→ 内田樹の研究室 )が。 とにかく、苅谷氏『階層化日本と教育危機』を読んでみようと思った。学ぶことの意欲が、社会構築的に説明のつく背景に影響を受けているのではないか、とは教育の現場に身を置くものなら誰もが体験的にうすうすと感づいていることなのではないかと思う。それは少なくとも日本社会においては、タブー視されている社会階層に関わることなので、表立った形で論じられることは少ない。そのあたりへの知的関心がひとつ。 もうひとつはここ。 「十分な学習資本を持たない若者が大量に社会に放り出される」とどうなるか。非正規化圧にさらされている若年労働者が「学校時代に身に付けるべきことを身に付けないまま、職業に就いてからも十分な職業訓練の機会を与えられない」(本書、24頁)ままであれば、いずれ彼らを支援するための社会的コストは破滅的な規模のものになるだろう。 日本社会の雇用形態が変化して、企業いまや即戦力ばかりを求めるとはよく聞く話。一方で大学は職業訓練施設ではないので、得体のしれない「キャリア教育」にその役目をすべて突っ込んで教育ポリシーとコンテンツの再編には関心を持ちにくい状況がある。まあ文科省の思惑に乗っかって軽挙妄動も慎むべきだが、でも馬鹿正直に考えれば大学は教育ポリシーとコンテンツで「即戦力を求める企業風土」にきちんと立ち向かうのが筋と思う。 ほんで所属の進路系の委員をやっていらっしゃる方から最近お聞きしたのが、トレーナビリティの育成という概念。翻訳すれば、自分を鍛錬する能力、ということだそうだ。どのような職業に就いてもその場にあった形で自己を鍛錬できる力、とは魔法の能力に思える。いま、うちの職場ではこれをカリキュラムの中で育成できないか、と検討しているわけだが、教える側の労力は相当に求められるだろう。内田氏の文脈に従えば、この力は「学習資本の階層差」によって配当される。大学内部だけで社会階層を超えた力を与えるには、どのようなしかけが必要だろうか、と少しめまいがする思いだ。 まとまりがないまま書いているが、実は内田氏の記述で一番タイムリーに響いたのはここ。 同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子どもたちの集団全体としての学力は必ず下がる。 ですよねー。なんか身近に聞いたことがある気がする。学生同士...

友だち申請のときはメッセージを(笑)

最近、FBとかで「友だち申請の時はメッセージを付けましょう」みたいな標語がシェアで回ってきて、軽く不愉快になるわけです。またそういうくだらないルールを、世間の既定路線であるかのような顔して押し付けてきやがって、と。礼儀とか常識とかを作り出すんだか、ネット社会に持ち込むんだかして、ネット社会をどんどん住みにくくするのは止めやがれ、と思うこともままある。 しかしFBが大学生のための限定的なSNSでもなくなった昨今、また世界中に広がった昨今、各地でアダプトされれば各地の土着的風習が新しいSNSを下方から侵食するのも、文化史的には広く見られる現象です。逆にいうと、そうした土着的風習を受け入れることで新しい文化がアダプトされる、と解釈されるわけです。マスに受け入れられればマスなりの新しい「マナー」がうまれ、多様化もするのでそれにしたがうのがおとなというものでしょう(この段落はぜんぶぼうよみです)。 思えば、メールの文化も35字程度で改行って誰がマナーとか言い出したんでしょうね。知らんけど。というツッコミはものすごく大人げないのだけれども、現象学的還元として「 」にくくってアホかと言いたい衝動です。 と、ヨソのルールをアホ呼ばわりしたい一方で、スポーツ系の人たちに「それはマナー違反」とか胸を張って叫びたい衝動もあります。東北のこの近辺でエライ顔してるスポーツ業界の先生から、仕事がらみで書類を送れとの指示をいただいたのですが、その返信は一言「受け取りました」。 ほお。 以前、スポーツ系教員で上方向のタテ関係にすごく丁寧で、下方向にはおそろしくぞんざいという逸材を見かけたことがあったので、もしかしてこれはスポーツ系教員の風習かと思って、この世で一番信頼出来るスポーツ系教員のひとに電話かけて「いつもこうなわけ?」とか聞いたら「ごめん、いつもそう」とのお返事をいただく。そういう習俗ですか。でも、普遍化するのは早くない?と思っていたら、本日別件で別の人かつスポーツ系のひとに書類出したら、同じく「受け取りました」とシンプル・イズ・ベストなリプライをいただいて、先般とは異なる音色での「ほお。」が発声されたところ。 世界は広いっす、でアホがアホを指さす無限後退。でもFBでは黙って友だち申請。まだいいでしょ。