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君の勝利は僕らの勝利

非常勤先へ向かう道々、毎度すれ違うスーツ姿の女子大学生がいる。10月頭から連続4回。スーツに身を包んではいるけれど、髪もボサボサで全般的にその方向ではなかなかゴールが見えない感じ。お化粧もそれじゃダメだ。表情もできていない。 人文学部かな。理学部、かもしれない。いや、理学部の女子なんかはきっと却ってバシッと決めているかな。我らが文学部にもたくさんいたかも知れない、社会的スキルがちょっと残念で、でもお勉強はできたタイプかもしれないな。オタク趣味で内向的で、社会に対する不安と侮蔑の感情を持ち合わせていて、でもリアルに空想に、自分の部屋に教室に、図書館に本屋に、喫茶店に体育館の裏に、駅のホームに校舎の影に居場所を求めていたり、そして概ね居場所が見つからなかったり。 そういう意味で、君はたぶん僕であり、僕らだ。そういう意味で、シューカツはクソだよ。でも自分の次の居場所を作っていける大切なイベントでもある。心から成功を祈らずにいられない。君の勝利は僕らの勝利である。

HTC Butterflyに有線で外付けキーボード

5月頃にスマートフォンを IS05 から HTC J butterfly HTL21 に変更した。Androidは4.x以降がデフォルトで動くハードはもうappleに遜色ない、というか製品によっては現状ではスペックが上。マップをはじめgoogleの恩恵に浴している身としては大変便利な思いをしている。IS05でも有線テザリング(自己責任で)をやってはいたけれど、正式にサービスに加入した。出先でもiPad、Thinkpadがつながるのでモバイル無双な生活である。 そうして約4ヶ月が過ぎた。出先でPCを立ち上げテザリングをonにして仕事をしたりする。あるいはご近所のモスとかで論文を書いたりする。するとスマホ自体で書き物ができたら楽なのになーと思い始める。外付けキーボードですか。でもiPadでさんざチャタリング問題に苦しんだし、高速タッチに追いつかないというそもそも問題もある。ワイヤレスキーボードを持ち歩く夢の便利生活はもうちょっと未来の世界に。 とか思っていたら、有線外付けキーボードというまさかの発想にネットで遭遇した。同じくHTCの環境である(→ スマフォ:HTC J Butterflyに、有線キーボード/マウスを接続する )。これ本当に高速タッチに追いつく世界なのかなと半信半疑でありつつも、金額もそう張らないので実験的に購入してみたところ、これが大当たり。PCで入力しているのと変わりがない。ほとんど、ではなくそのもの、である。 これはすごい。Dropboxに作業中のファイルをぶっ込んで、というか日常的に使うファイルはすでにぶっ込まれているので、そのままスマホでお仕事ができる…そういう環境が今後どれほど頻繁に出てくるかはまだ分からないが。 ショートカットキーが使える! で、キーボードを接続してみると、普段PCで使うようなショートカットを手が覚えていてつい使ってしまう。これが!使えるのですよ。 Ctrl+C Ctrl+V Ctrl+X Alt+Tab→これは特に感激 その他、F7でカタカナ、なども行ける 一方、だめだったのが以下。 Ctrl+Z Ctrl+Alt+Del その他、アプリによっては対応するものとしないものがあるかもしれない(→こちらにいくらか紹介されている。 Android Bluetoothキーボード ショートカットのまとめ Nex...

日没後の峠で

ご近所の峠で日没を見ながら。

ポストモラトリアム時代の若者たち

村澤和多里・ 山尾貴則・村澤真保呂『ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて) 』(→ amazon )読了。ちょっとグッと来たのでレビュー。 大学を「モラトリアム」と揶揄しようとして「サナトリム」と呼んだ人に最近出会って、なんだかこの人の中では大学は何かを猶予されている病棟のように映っているのだなあと思ったことがある。本書をざっくり説明すると、そういう風に見ようとする視座も分からなくはないけれど、でもそう見えているのだとしたらそれって学生の本質的な無気力によって生まれたものではないよね、と教えてくれる本。 本書の話の枠組みは、(1)フォーディズムのもとで農村=自然から都市=社会に組み込まれていく段階、自己変革の猶予段階としてのモラトリアム論から、(2)消費社会まっただ中では自己も消費されてしまうので自分探しとしてのモラトリアムが横行、(3)ポストフォーディズムでは(2)とは逆に、新自由主義のもとで自分を商品化に装っていく(≒意識高い自分を演出)ための猶予期間であり、そこにはまっていけない学生にとっては不安に蝕まれて病的段階を進行させていくような期間、とされる。 こうした若者をめぐる情勢の変化が、グローバリゼーションに向かう社会の変化、そして社会学の研究者が近年あちこちに触れるようになったギデンズの「再帰性」をキーワードとして説明される。資本主義社会の総括的な視点で、若者の心性の変化を僕のようにざっくりと整理したい向きには良い入門書かも。 学生の就活に関わるくだりは、大学業界に関わる人間なら誰しもわずかの痛みをもって本書を読むだろうと思う。あの空虚な自分史作り、就活に向けた目的論的な自己の物語。自分はそういう自分になるために育ってきたという閉じたストーリーと、インターンシップやキャリア教育で励むことになる着脱可能なペルソナ作り。職場で役立つ汎用的能力や高い意識をどう身につけてきたかという、薄っぺらな語り。 もちろん過当競争が生じている現状、即戦力型人材を求める雇用形態下、すなわち雇用側も経済的に安穏としていられない状況では、そのあたりはアシキリにも用いられないくらいに最低限な「前提」とさえ認識されているだろう。現代の学生にとってのモラトリアム期間は、その論理を内面化するための文字通り命を削るような作業期間でもある。その良し悪しは単純...

訛りから解放され、意味が派生するとき

訛りというのは、方言と同様になかなか定義が難しい。方言の対になるのは通常の理解では共通語や標準語だろう。山形の方言「ごしゃぐ」に対する、共通語「怒る」のように。では東北方言に典型的な語中有声化を生じた「なぐ」(共通語形「泣く」)は方言か、というと言語学的な定義からであっても厳密な解答が用意されているわけではない。言語学の教科書には「ごしゃぐ」は俚諺形などとされており、方言はその言語体系全体を指すことが学問的には多く、言語研究の専門家に「なぐ(泣ぐ)」は方言ですかと尋ねれば、躊躇しつつ「方言といえば方言」と答えると思う。 俚諺とは、ざっくり説明すれば、共通語とは発音がまったく違う語形を持つその地域特有の語であって、訛りとは共通語と類似しており訛りを取り去ることができれば共通語に変換可能なそのような場合を指していうことが、経験的には多い。研究者界隈よりも、とりわけ言語感覚にやや鋭敏な言語話者自体がそう定義する場面によく出会う。(「ごしゃぐ」は方言だが「なぐ(泣く)」は訛りだ、というような言説としても現れる) しかし訛りが共通語との変換可能な形、つまり「なぐ」とは「泣く」が訛った形といったように、ある種の語源意識がいつも2つの語形を結び付けているとは限らない。 ある地元の方と出生儀礼について話した時のことである。生まれて一週間目にお祝いをするかどうか、すなわち「お七夜」を行うかどうかに話題が差し掛かったとき、その方は「このあたりではそういうのを『すずや』というんだな」と言った。一瞬脳裏に「鈴屋」という漢字が浮かんだが、これは間違いなく「しちや(七夜)」が訛ったものだろう。なお、その方は方言的なしゃべりのコードと、言語的ヨソモノに対する共通語的コードを使い分けていて、ぼくには後者のコードで話してくださっていた。だから「すずや」が共通語として用いられてのではないかと疑わせる。しかも「すずや」というのが「しちや」、7日目のことなのだという説明が一切ないまま、話が進む。それでどうも「すずや」が「しちや」と認識していないのではないかという疑いを濃くしたところで、ついには「このあたりでは生後一ヶ月したら『すずや』をするんだな」とおっしゃった。ここに至って、たぶん「すずや」は「しちや」とは変換不可能な別の語形と認識されているのではないかと確信した。 「すずや」は間違いな...

ついに乙嫁語りに手を出した

たぶん美味しいんだろうけれど、今食べちゃうと後で「美味しいものが食べたい」と思うときに手を伸ばす物がなくなってしまうから。たぶんそういう理由で読まなかったのだと思う森薫『乙嫁語り』(→ amazon )をとうとう読み始めてしまった。まだ2巻までしか読んでないが、まず間違いなく絵や線が好き。中央アジア&(少なくともここまで)布のテキスタイルとか装飾品がフィーチャーされているところは、五十嵐大介『魔女』の一編を思い出す。一体、マンガで刺繍の綾目を丁寧に書き込もうというのはどういう欲望からやってくるのだろうと思う。そのものずばり刺繍なのかな。何にせよ、絵を細部まで書き込んでいく快楽は、ストーリー作りとは違う快楽なのでしょう。 掲載誌「Fellows!」を手に取ったことはないけれど、wikipedia( ハルタ - Wikipedia )を見ると隔月発行のために画力重視の作家さんたちが集まって、「1コマあたりの線数が多い」連載が立ち並ぶという。入江亜季の『乱と灰色の魔法』も絵がゴージャスだもんね。『ジゼル』もそうか…(表紙しか見ていないけど)。この人達の、ややレトロな印象の太くはっきりとした線も力強く手繰り寄せられる感じがして良い。 マンガでしか表現できない気持ちよさが実験的な手法を志向する作品について指摘されることは多いと思うんだけど、『乙嫁語り』の絵や線の気持ちよさは、ストーリーや造形とは別に明らかにマンガだからこそのもの。これはゆっくり味読したい作品。

アニミズムテロ

ある日、帰宅してトイレに入るとこんな芸術テロ活動が。 息子の小学校の課題だった。最初は便座の蓋に貼ってあったが、移動に。なんだか良い感じ。