訛りというのは、方言と同様になかなか定義が難しい。方言の対になるのは通常の理解では共通語や標準語だろう。山形の方言「ごしゃぐ」に対する、共通語「怒る」のように。では東北方言に典型的な語中有声化を生じた「なぐ」(共通語形「泣く」)は方言か、というと言語学的な定義からであっても厳密な解答が用意されているわけではない。言語学の教科書には「ごしゃぐ」は俚諺形などとされており、方言はその言語体系全体を指すことが学問的には多く、言語研究の専門家に「なぐ(泣ぐ)」は方言ですかと尋ねれば、躊躇しつつ「方言といえば方言」と答えると思う。
俚諺とは、ざっくり説明すれば、共通語とは発音がまったく違う語形を持つその地域特有の語であって、訛りとは共通語と類似しており訛りを取り去ることができれば共通語に変換可能なそのような場合を指していうことが、経験的には多い。研究者界隈よりも、とりわけ言語感覚にやや鋭敏な言語話者自体がそう定義する場面によく出会う。(「ごしゃぐ」は方言だが「なぐ(泣く)」は訛りだ、というような言説としても現れる)
しかし訛りが共通語との変換可能な形、つまり「なぐ」とは「泣く」が訛った形といったように、ある種の語源意識がいつも2つの語形を結び付けているとは限らない。
ある地元の方と出生儀礼について話した時のことである。生まれて一週間目にお祝いをするかどうか、すなわち「お七夜」を行うかどうかに話題が差し掛かったとき、その方は「このあたりではそういうのを『すずや』というんだな」と言った。一瞬脳裏に「鈴屋」という漢字が浮かんだが、これは間違いなく「しちや(七夜)」が訛ったものだろう。なお、その方は方言的なしゃべりのコードと、言語的ヨソモノに対する共通語的コードを使い分けていて、ぼくには後者のコードで話してくださっていた。だから「すずや」が共通語として用いられてのではないかと疑わせる。しかも「すずや」というのが「しちや」、7日目のことなのだという説明が一切ないまま、話が進む。それでどうも「すずや」が「しちや」と認識していないのではないかという疑いを濃くしたところで、ついには「このあたりでは生後一ヶ月したら『すずや』をするんだな」とおっしゃった。ここに至って、たぶん「すずや」は「しちや」とは変換不可能な別の語形と認識されているのではないかと確信した。
「すずや」は間違いなく「しちや」のことだと思う。語形の類似、シの中舌化と2拍目の有声音化は、言語学的には「客観的に」説明されることであって、「すずや」は「しちや」の訛りである、そう理解することがまずは許されるだろう。しかし、一方で、この2つの語形間にはある種の語源意識による結びつけは働いていない。であれば、これは「しちや」とは関係のない(話者の意識としては)俚言ということになる。
言語学者はもしかしたらこれを「気づかない俚諺」と名付けるかもしれない。東北で広く用いられる「うるがす」が全国共通語と誤認され、つまり方言と気づかれずに使用されている、といった現象の類推で。しかし用法からみればすでに意味は変化し、7日目に行われるという、語形に刻まれたそのニュアンスは失われている。「すずや」は上記の話者が用いた文脈からすれば、出生後ある程度を経てから行うお祝い、といった意味にまで抽象化されている。つまりもうこれは別の語(別の意味を持つ)であると言える。意味変化と語形変化が手に手をとって行われ、結果的に元の語と袂を分かったわけだ。
語源意識を失うことで意味派生が急速に進み、新しい語が生まれることはよく見られる現象とされる。しかし訛りが関与するというのは興味深いことだと思う。しかもこの現象は訛りが主観的な現象であることをあらわにしている。言語研究としてみた場合、言語意識側から言語実態を眺めることが有用な結論を出すことの好例だと思う。
俚諺とは、ざっくり説明すれば、共通語とは発音がまったく違う語形を持つその地域特有の語であって、訛りとは共通語と類似しており訛りを取り去ることができれば共通語に変換可能なそのような場合を指していうことが、経験的には多い。研究者界隈よりも、とりわけ言語感覚にやや鋭敏な言語話者自体がそう定義する場面によく出会う。(「ごしゃぐ」は方言だが「なぐ(泣く)」は訛りだ、というような言説としても現れる)
しかし訛りが共通語との変換可能な形、つまり「なぐ」とは「泣く」が訛った形といったように、ある種の語源意識がいつも2つの語形を結び付けているとは限らない。
ある地元の方と出生儀礼について話した時のことである。生まれて一週間目にお祝いをするかどうか、すなわち「お七夜」を行うかどうかに話題が差し掛かったとき、その方は「このあたりではそういうのを『すずや』というんだな」と言った。一瞬脳裏に「鈴屋」という漢字が浮かんだが、これは間違いなく「しちや(七夜)」が訛ったものだろう。なお、その方は方言的なしゃべりのコードと、言語的ヨソモノに対する共通語的コードを使い分けていて、ぼくには後者のコードで話してくださっていた。だから「すずや」が共通語として用いられてのではないかと疑わせる。しかも「すずや」というのが「しちや」、7日目のことなのだという説明が一切ないまま、話が進む。それでどうも「すずや」が「しちや」と認識していないのではないかという疑いを濃くしたところで、ついには「このあたりでは生後一ヶ月したら『すずや』をするんだな」とおっしゃった。ここに至って、たぶん「すずや」は「しちや」とは変換不可能な別の語形と認識されているのではないかと確信した。
「すずや」は間違いなく「しちや」のことだと思う。語形の類似、シの中舌化と2拍目の有声音化は、言語学的には「客観的に」説明されることであって、「すずや」は「しちや」の訛りである、そう理解することがまずは許されるだろう。しかし、一方で、この2つの語形間にはある種の語源意識による結びつけは働いていない。であれば、これは「しちや」とは関係のない(話者の意識としては)俚言ということになる。
言語学者はもしかしたらこれを「気づかない俚諺」と名付けるかもしれない。東北で広く用いられる「うるがす」が全国共通語と誤認され、つまり方言と気づかれずに使用されている、といった現象の類推で。しかし用法からみればすでに意味は変化し、7日目に行われるという、語形に刻まれたそのニュアンスは失われている。「すずや」は上記の話者が用いた文脈からすれば、出生後ある程度を経てから行うお祝い、といった意味にまで抽象化されている。つまりもうこれは別の語(別の意味を持つ)であると言える。意味変化と語形変化が手に手をとって行われ、結果的に元の語と袂を分かったわけだ。
語源意識を失うことで意味派生が急速に進み、新しい語が生まれることはよく見られる現象とされる。しかし訛りが関与するというのは興味深いことだと思う。しかもこの現象は訛りが主観的な現象であることをあらわにしている。言語研究としてみた場合、言語意識側から言語実態を眺めることが有用な結論を出すことの好例だと思う。
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