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MS-OfficeとOpen-Officeの互換性雑感

1月に新規購入したThinkPad x200にはもうMicrosoft Officeはインストールしないと決めて、OpenOffice(→ja: OpenOffice.org日本語プロジェクト)への移行に挑戦している。ネット上には高い互換性との謳い文句が見えるが、やはり使い慣れたMS製品の操作を手が覚えていて、なかなか以前ほどの作業効率に到達しない。Wordで多用していたショートカットキーなども微妙に違っていたり、デフォルトでは用意されていなかったりする。書式コピーのCtrl+Shift+C(V)がないのは苦しい。書式の設定方法、とくにぶらさげインデントの設定などは、明らかにMS製品に軍配が上がる。おおむねOoでも同じことは実現できるのだが、そこまでの手数が違うのはかけた金銭的コストの違いである。

互換性が問題になるのは、操作性よりも表示結果だろう。如実に表れるのは、ワープロソフトとプレゼンテーションソフト。ワープロソフトは、たとえば研究予算の応募書式はワードで用意されることが多いのだが、だいたいの書式は表と罫線が焼け跡に立ち並ぶバラックのような複雑な入り組み方をしていることがほとんどで、Ooで開くとまず表示が崩れる。画像等をちりばめてポスターやチラシにしている場合も同様。というかワードはそもそもそういう用途を想定されていない。この点、Ooでは作図アプリのDrawがデフォルトでついているので、軍配を上げてもいいかな(→ITmedia エンタープライズ:OpenOffice.org「Draw」はMS Officeには無い付加価値へ (1/3))。プレゼンテーションソフトも、パワポで作ったデザインは、特に画像やアニメーションなどがうまく対応しないこともあり、インプレスで崩れる。こうした表示結果の問題を回避するためには、できるだけデザインに凝らないという方法を取るのが良いだろう。パワポの表示エリアを手動で調整した場合はまずインプレスでおかしくなってしまうが、デフォルトの場合はほとんどズレが起こらない。あとはOoの対応を待つのみ。

表計算ソフトは、いまのところ表示が問われるケースがないので問題がない(というかエクセルで凝ったデザインというのは筋違い)。ワープロもプレゼンもあわせて、挙動は快適。慣れさえすればさらに快適になるだろう。OoとMS製品とで操作方法が異なる点は、ヘルプやネット上のマニュアルを見ればまず対応は可能。こうしたヘルプ類については、MS製品よりも総じて丁寧である。表計算ソフトの関数の説明が、具体例を挙げてのもので、とても分かりやすかった。このあたりのユーザー目線はさすがオープンソフトだなあと思わされた。

以上のほか、詳細な違いなどはOpenOffice.org ユーザーのための Microsoft Office 互換性研究室 - OpenOffice.org 2.0などのサイトが用意されているのでメモ。比較研究の名にふさわしい追及ぶり。

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その他の問題はプリントアウト。研究室にプリンタがないのでプリンタのある部屋で印刷をするわけだが、そこいらのPCにはMS製品しか入っていないために、結局保存形式はもっぱら従来通りの*.doc,*.xls,*.pptとなってしまう。外の世界ではMSの形式、内の世界ではOo、これって完全にダイグロシアである。研究室にプリンタがあれば問題ないので、これはあまり大きな問題ではないか。というより、研究室にプリンタがないのが問題(あるにはあるが動作せず)。

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