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おかん弁

久保久保『よんでますよ、アザゼルさん(4)』(→amazon)だ。この巻も笑った。イノセントなバカは人を幸せにする、ということを再確認した。浅くてかわいくてバカなら極上だ。この巻では栗之助。マサルでいえば、ピヨ彦が羽つけられてスポンのやつだ。解説はしない。



ところで、このマンガは天使も悪魔も実家に帰れば親がメシ作って待っているという昭和風の匂いを醸すのがうますぎ。天使ゼルエルが母親と団地住まいのニート30代ぽい設定だったのには苦笑いだったが…。主人公の悪魔ゼルエルのおかんなんてもう最高。これ大阪なんだろうか。関西弁であることは間違いなくて、どうして関西のおかんてこう最高なんだろう。悪い仲間と一緒に部屋に人間を連れ込んで拷問かましてたら「あんたドンドンどんどん何やっとんねんなー!」みたいにフスマ開けておかん登場、みたいな。この巻では巻末のおかんぶりがほんと秀逸。悪魔主人公がフィーチャーされた限定版商品が出るに際して、主人公おかんがヒロインの前で大喜び。

母「すごいやないのアンター そんな汚いことやらせてもらえるようになったんかいなー 立派になったやないの!」
主「そうゆうことをゆうなや…あほやろお前…」
母「ほんで肝心の中身はどないなってますんや しょおもないもんやったら通常版でいかせてもらいますからね」
ヒ「フフフ…しょおもないなんてとんでもない… なんとアニメDVD付きです!!」
母「買うしかないやないのそんなもーん」

あけすけなおかんの前で照れ隠しに「あほやろお前」ゆうような関西弁がめっちゃ好きや。おかんの内面のないカンジもめっちゃ好き。そして主人公の友人モロクよしのぶのストラップ化についてのおかんとのくだりも、絶妙。主人公アザゼルは自分より先に友人がストラップ化されたのでややすねるシーン。

母「みてみ これよしのぶ君やで アンタよー遊んどったやないの」
主「やかましいわ」
母「遊んでーゆーてるわ(モロクのストラップを手で動かしながら)」
主「いらんゆーとんねん」
母「エエ加減にしときやアンタ!!いつまでもウジウジしてから!!できてもーたもんはもうしゃあないやないの!!アンタは次頑張ったらエエんちゃうの!!」
主「うるさい!!もうほっとけやババァ!!」
母「またそないしてやる前から諦めてからにアンタはァ!! そんなんやから公文もすぐにやめてしまうんやないの!!」
主「やかましいわいつの話をしとんねん!!」

もう最高。関西のおかんが子どもをしかる話法が最高。そして頭の中でそれなりの京阪式アクセントに変換して読むわけだが、脳内に音声を流すだけで気持ちがいい。うちのサマオクの親戚は神戸の人が多いので、神戸にご挨拶に伺ったおり、ホントにこうやってしゃべる叔母がいて、失礼覚悟で「もっかい言ってください」を言いそうになった。でもさ、関西のおかんってこれ本気じゃなくてネタでやってるのとちゃうの?

ほとんどカモノハシを最初に発見した人間が、実物を眼前にしながらなお実在を疑う気持ち。いやでも人間って、すぐ間違えてものを見たりするからなあ。

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お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

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授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

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