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置賜の雛人形

仕事の絡みもあって、子どもと【川西町のイベント】玉庭ひなめぐり:川西町観光協会<ダリヤリズム>を訪れた。米沢藩の武士が参勤交代で江戸に行った時、御土産として持ちかえった享保雛とか、古今雛の展示。そんなわけで山奥ではあるものの、かつてはお武家さんが住んでいた御屋敷が玉庭には点在していて、お蔵に眠っていた雛人形を地域イベントとして使っているというわけ。だから芸術品として楽しめるほど保存状態は思わしくなく、歴史遺産として楽しむべきなのかもしれない。

良かったのは、地域内にある7か所の展示場のうち5か所は民家なので、「お邪魔します」というノリで見に行けること。人んちの私的空間に立ち入るのが何というか新鮮だった。置賜の方言も聞けたし。子どもは「あの人たちナニジンかと思った」というギリギリの感想を。確かに方言分かんないよねえ。どこに行ってもお茶や漬物やお菓子などを振舞われるので、1500円は結果的に相当コストパフォーマンスが良かった。と勘定をするのは無粋だろう。

雛人形は表情がとても豊か。見たことあるような顔もある。会ったことありますよね?って合コンか。










囲炉裏でお茶を御馳走になりながら、とは書いてみるものの、僕一人で訪れたのでは絶対に間が持たない。こういう時に子どもを連れて行くのは、ずるいかもだが、ホント助かる。以前、在日コリアンのライフヒストリー調査をライフワークにしている知人から、子どもを連れて行くと結果的によく話をしてくださるケースもあったらしい。戦略とかあさましい話ではなく、ね。

同じ山形でも村山地方に残る古い雛人形は、最上川水運で紅花貿易によってもたらされたものみたい。昔、埼玉県桶川市(紅花で有名)の宿場町で蔵の文書調査につきあったとき、同じように雛人形が蔵から出てきたのを思い出した。もう7年も前だ(→d0312)。紅花つながりの雛人形つながりで思い出した、というだけの話。

コメント

Unknown さんの投稿…
桶川の紅花って、町おこしネタがない市がちょっと強引に訴えだしたあとづけのイメージが強いんだけど、実際にそれなりの規模があったのかねぇ。
NJM さんの投稿…
山形最上は、江戸時代最大の紅花産出国だったみたいだけど、桶川は第二位だったみたいだよ。(以下引用)

* * * * *
かつての桶川宿は、「中山道もの」といわれる良質な麦や、紅花の集散地として栄えていた。 「桶川臙脂」の名で全国に知られた当地の紅花は、天明・寛政年間(1781~1801)に栽培が始まったと伝えられ、 当時、最上(現在の山形県)に次ぐ産地として知られていました。

[桶川市観光協会 -中山道宿場町 べに花の郷- 埼玉県桶川市](http://www.okekan.com/ "桶川市観光協会 -中山道宿場町 べに花の郷- 埼玉県桶川市")

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