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蝿に愛好される

夏のお勤めとして、論文一本と研究発表一つ。いつもは一つのテーマを二つに分割して論文と研究発表としていたのだけど、今年は完全に別々のテーマでやってみたので、もうフルスロットルだった。学校業務は最低限のレベルでこなすことにして、健康も二の次にして、久しぶりに大学院生だった時のように根を詰めた。そしたらどうなったか。蝿が寄ってくるのね。モスとかマックでも、図書館でも、寝ていても蝿が寄ってきて僕に止まる(念のため書いておくが妄想としての蝿じゃなくてリアル蝿)。フツーに風呂に入っていたので、これは汚れじゃなくてもっと何か生物としての活動が危うい時に体の奥底から沸き上がってくるプレ死臭みたいなものだったのではないか。サマオクに「俺って臭い?」と聞いてみても、「そうでもない」とのこと。あれは蝿にしか分からないヤバい臭いだったのだと思う。僕はそんなにいい匂いだったかい?

で、ひと通り終わって反省会と称した飲み会の途中、某所からたまには飲もうぜ銀座で待ってるからすぐおいでとの声。会を途中で失礼して銀座に行くと、失われつつある文化を君に体験させておきたいから付いてきなさい、と連れていかれたところが銀座のキャバレー。人生初。もう銀座にはここ一軒しかないんだ、と。キャバレーはキャバクラと違ってダンスと生バンドがあるんだ、と教わりつつ女性が左右に映帯す(蘭亭序か、っつー)。もちろん苦手は苦手なんだが、連れてきてもらった手前というのもあるし、楽しまなきゃ損だろうと思ってフルーツ盛りを注文させてもらいました。その上でショーステージに上げられて記念撮影。お客さん100人以上いたと思う。この思い出を抱えて死んでゆきたいと思います(涙)。その後上野のお店をはしごして、嫁さんの実家に泊まらせてもらう。こういう遊びをしてるからお金が貯まらないんですよお義父さん!しょっちゅう来てるわけじゃないんだ、というエクスキューズは余計怪しくなっちゃうじゃないですか。二人で深夜に帰宅して、お義母さんの前で「女の子」にもらった名刺を破り捨てるお義父さんの姿に何かを学ばせてもらいました。

まあでもこういう昭和の香りが濃厚なキャバレーは本当に数が少ないんだろうなあと思わせられる。「明朗会計」を謳ったお店ではありながらも若い客は殆どいないので、昭和趣味は時代には相容れないのかも知れない。上品な感じではあったが。昔はこの手のお店が銀座にもたくさんあったそうだ。山形にもその昔豪勢なキャバレーがあったらしいが、昭和50年代になくなってしまったと聞いたことがある。あるうちに体験できてよかった。

で、翌日二日酔いでぐったりしながら遅いご飯を食べて、お義父さんはまた上野に遊びに行ってしまった。遊びにかけるこのエネルギーを半分でも僕にいただければ。僕はというと、浦和パルコで久しぶりに散財する。秋服ちょいちょい。時計買いたかったけどスウォッチなかった。で、明日から容赦なく又普通に仕事ってわけ。昨晩から今日にかけてが僕の夏休みだった、ってことでしょうかね。研究発表はまずまずの結果でしたよ。

コメント

Unknown さんの投稿…
なんて素敵なお義父さんなんでせう。
わたしも是非ともそんな近親者が欲しいです。
NJM さんの投稿…
結婚によって、新しい世界の扉が用意されました。お義父さんも仕事の辛さを遊びで紛らわしているパターンです。でもお酒の飲み方とふるまい方は、どこの親分だろうと思うくらいです。僕の場合はマンガと自転車があるので夜の街はたぶんないですが、気持ち良い夜でした。

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子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

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