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フェイジョアーダ

知り合いのブラジル人家族のところで、人生初のフェイジョアーダをごちそうになった。ブラジルの代表的な食事フェイジョアーダは、翻訳すれば「豆の煮込み」といったところか。リオ・デ・ジャネイロあたりでは黒豆と豚肉を煮込むらしい。味付けは塩?かな。豆と煮込む調理法はアフリカ由来というが、調べてはいない。

これがその黒豆。黒えんどう豆とのこと。
豆の入った袋。ポルトガル語で「豆 お皿いっぱい」と書いてあるらしい。
フェイジョアーダはご飯にかけて食べる。コメは長粒種。パエリアのように玉ねぎと炒めてから炊く。日系のかたが「油ご飯よ」とおっしゃっていた。
お米が入っていた袋。英語訳が付いているので、長粒種のお米と分かる。
そこへ出来上がったフェイジョアーダをぶっかけて食べる。豚肉は背中のあたりを使っているというが、昔読んだ本では内蔵など余った部位を使っていたが、それは労働者が安価に食べられるパワーフードみたいな位置づけだったのかもしれない。これはご家庭で普通に食べるバージョン?
言うまでもなくかなりうまい。豚と塩の味と豆の甘みがほんのり。見た目も食感も日本のおしるこに似ているが、日系人が伝えた技ではなく、あくまでもアフリカ系の技とのこと。正体不明の辛いソース(これもうまい)と、キャッサバの粉をかけて食べる。僕も家族も、思わずおかわりをしてしまった。ただ、肉の脂がしっかり出ているので、重たいカレーを食べた時のようにそんなに量は行けない。付け合せのセロリのサラダの爽やかさが際立つが。

在日ブラジル人コミュニティー用のスーパーのチラシを見せてもらったら、2/3くらいが肉だった。本当に肉の消費量がすごい。そんなブラジル人でもフェイジョアーダは「強い食べ物」だそうで、夜には胃もたれするので昼に食べることがほとんどだという。しかも最近は水曜日がフェイジョアーダの日に指定されていて、一週間でもそんなに食べられないのだそう。実際かなりパワフルな印象はありました。

豚肉と塩という組み合わせの味は、沖縄や台湾にも通じるものがあるようにも思う。沖縄と台湾の食の類似、ブラジル移民に沖縄の方が多いといったことが関係しているのかどうか。今回ご馳走してくれた方のご先祖は佐賀にルーツがあるのだそう。日本で働く3世4世の家庭に2世のおばあちゃんが遠路はるばる遊びにいらして、本物のフェイジョアーダを作るからというのでお呼ばれした。2年前にバーベキューでお会いした時に、僕にいつかフェイジョアーダを食わせると約束したのをずっと果たしたかったという。ありがたや。カウンターで台湾の豚足を食わせることを約束した。

ブラジルの方々が日本で働く上でのご苦労、ビザの問題、日系人とそうでないケースの違い、ブローカーの関与、ブラジル人社会から見える日本人社会などたくさん伺ったが、いずれ機会があれば。

コメント

山下 さんのコメント…
やっべー
まじやっべーっしょ

よく行くシュラスコ食べ放題のお店で
フェイジョアーダちょろっと食べたりするけど
メインでがっつり食べてーなー
きっと胃がやられるんだろーなー
NJM さんの投稿…
やべーっしょ。胃がやられますよ。でもおいしいから。ほんとうに美味しかったー。

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