仕事まみれで身動きが取れない約3週間を過ぎた。一段落したので、久しぶりに余裕を持って子供と会話してみたら、この3週間で無アクセントコードを獲得していてマジ驚いた。うわー。うわー、というのと、ちゃったというのはまさに僕のモダリティ(広義の)を反映していて、まあ無アクセント地域として知られる山形県村山地方に住んでいるのだから十分に予測していたことだけど、やっぱりうわーなのであった。結局、僕はここに3年住んでいて、やっぱり関東共通語的な、有アクセント言語の持つ高い威信(prestige)を、脱構築(笑)できていないことが確認できたのだった。
それはそうとして、方言社会における方言と共通語のダイグロシア的使い分けよろしく、仮に無アクセント的しゃべりを獲得していても、少なくとも3週間前までは僕の前では有アクセント的しゃべりであったから、2つのコードを使い分けているのだろうと思っていた。今でも若干その残り香はただようが、無アクセントのコードが一人勝ちして使用領域を広げている気配。いいよ、別にいいんだよ、と言語研究の人は価値判断と無縁な顔をしようとする一方で、いやぜったい嫌だと価値判断の海にどっぷりと頭の先まで浸かってしまっているのであった。
(レンタルビデオのお店にて)
子供「仮面ライダーのカブトってつえーんだよ、知ってるお父ちゃん?」(カブトが平板らしきアクセント:山形的なピッチパタン)
僕「仮面ライダーカブトなら強いよね」(カブトをムキになって頭高で発音:非山形的なピッチパタン)
ムダだと分かっています。いいよ、いいんだよ、だめよ、だめなのよ。引き裂かれる自己。
それはそうとして、方言社会における方言と共通語のダイグロシア的使い分けよろしく、仮に無アクセント的しゃべりを獲得していても、少なくとも3週間前までは僕の前では有アクセント的しゃべりであったから、2つのコードを使い分けているのだろうと思っていた。今でも若干その残り香はただようが、無アクセントのコードが一人勝ちして使用領域を広げている気配。いいよ、別にいいんだよ、と言語研究の人は価値判断と無縁な顔をしようとする一方で、いやぜったい嫌だと価値判断の海にどっぷりと頭の先まで浸かってしまっているのであった。
(レンタルビデオのお店にて)
子供「仮面ライダーのカブトってつえーんだよ、知ってるお父ちゃん?」(カブトが平板らしきアクセント:山形的なピッチパタン)
僕「仮面ライダーカブトなら強いよね」(カブトをムキになって頭高で発音:非山形的なピッチパタン)
ムダだと分かっています。いいよ、いいんだよ、だめよ、だめなのよ。引き裂かれる自己。
コメント
ここですでに価値判断と無縁の発言ではないような…(笑)。
話は違いますが、関東に住んでいるのに、子どもに対して広島弁で話しかけてしまう自分がいて(意識すればできないことはないが、無意識だとそうなってしまう)、どうしたものかと思っています。
広島弁になってしまう自分にも驚いています。
もうこの手のことは価値まみれですよ。価値判断から自由であるはずがない。
さて、広島弁になるとのこと、面白いですねー。怒ったときや嬉しいときに自分の第一言語が出るという話は時々目にします。
なんというか、言葉の選び方が難しいのですが、自分にとってもっとも生々しくてウソのない感じがするしゃべりというのが、自分の方言であるということなのではないでしょうか。