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五十嵐大介と福岡伸一

五十嵐大介『海獣の子供(4)』(→amazon)と、福岡伸一『世界は分けても分からない』(→amazon)を読んだ。大好きな漫画家である五十嵐大介は、おそらくデビュー作から一貫してロゴス=言語で規定される以前の「世界」を懸命にとらえようとする作家。数年前にベストセラー『生物と無生物のあいだ』(→amazon)を著した福岡伸一は、抒情的な方法を駆使しながらロゴスで「世界」を構築しようとする研究者。両者は対極の立場にありながらも、生命を流れ・全体・動きとして捉える点で、同じ地平に立っているように思えて、奇妙な符合を感じた。

五十嵐大介は独自の世界観で、生物産出の表象としての海を装置として、我々の「生命」という虚構を描こうとする。宇宙・地球・生物をニューエイジ的視点でつなぎ合わせ、マクロ―ミクロの連続性から大仰に捉える。よくある構図ではあるけれど、ロゴス外をそのまま作品内で描こうとする五十嵐節の真骨頂がいよいよ発揮されつつある4巻は、やや拍子抜けだった3巻の認識を新たにさせた。一方、福岡伸一は前作よりも一層の抒情的表現を交えつつ、分子生物学の立場から、細胞の局所的・非俯瞰的な動きが全体を「動的平衡状態」(動き続けている秩序状態・またの名を自転車操業常態状態)に見せている研究成果を前作同様に、でも前作よりも濃いミステリー風味で紹介する。この「動的平衡」がとりもなおさず生命が営まれている状況だとして、その平衡状態が保たれなくなったとき生命は生命でなくなる。逆に言うと生命を生命たらしめているのは、この平衡状態を作り出している機構そのものであって、誰もが知るように原子レベルで比較すれば生物と無生物に明確な線は引けない、という構図である。そこにはミクロ―超ミクロの連続性から、「生命」という虚構を描き得る立脚点がある。

全体と部分を階層構造としてとらえる構図は、人文社会学の営みにもまま見られる。が、知的に面白く見せるには技芸が必要であって、それはなかなか難しい。2人の著者にその技芸をもたらしているのは、全体をとらえるために部分を凝視せず、部分を脱出しようとする姿勢(そいでもってそういう姿勢は往々にして周縁を歩ませることになる)なのだろう。

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