スキップしてメイン コンテンツに移動

この1カ月やってたことと昨晩の体験

現実のniji wo mitaを知る人からは意外!と言われるのだが、昨年の身体健診でメタボ宣言を受けた。腹回り87センチで(メタボの規定がおかしいという説はともあれ)内臓脂肪が多いのだという。血液検査では脂質が高いとの結果で、極端な運動不足、それなりのストレス、夜遅い食事など当てはまる項目が多すぎ。で、検診前の悪あがきというだけでもないのだが、この1カ月、炭水化物を減らして、昼食をナッツのみに変えてみた。炭水化物が減った分、野菜と肉などを多めにして、全体の食事量が目立って減らないようにしてみたところ、あっさり4キロ減って、昨年より腹回りが7センチ減った。途中、3食ともナッツにしたときは抵抗力が落ちてうっかり風邪をひいた。注意して進めれば、運動をほとんどせずに適正な体重に戻るのが分かった。

で、夜遅い食事と酒の主要因である元同僚と久しぶりに飲んだ。はしごしてたどり着いた店が、ボウイとかレッドウォーリアーズとかジギーとかレベッカとかそういうのを売りにしたバーで、その趣味色の世代ジャストミートぶりと店長の生ギターに軽い衝撃を受けつつ、キャバとかスナックが入りまくっている雑居ビルになぜかようなお店がとやや腑に落ちないものが。「お客さん、このお店のカラオケって音がいいんですよ」とにじり寄る怪しげな自称同い年の女性が歌うプリプリがうまい。レベッカのガールズブラボー泣ける。で、また別の女性が歌う工藤静香が似すぎ。聞けばお店の人ではないという。何ここ。腕に自信のある人しかこないお店ですか。工藤静香に歌声が劇似の女性、最後はリクエストに答えてくれて抱いてくれたらいいのにを歌ってくれたのだが、店の人ではないというのに客(彼女も自称客である)あしらいが妙にうまく、かつカウンターに座っているあからさまに堅気でなさそうな客などからして、清算が大変心配になってくる。そのうちなぜか店内の女性が工藤静香バトルを始めるも、みなうまい。元同僚ととりあえずノリでグロリアを歌って、出よう、と清算をするために立ち上がると、自信がある曲があるからこれだけ聞いてほしいと留められ、Blue Velvet。はい、どうも的にやや急ぎ足に清算を終えると、意外にも普通の金額で、いったいこのマクー空間は何だったのかと。

コメント

ex同僚 さんのコメント…
いやいやいや、どっちが原因でどっちが結果だって話ですよww三時まで呑んだのは久しぶり過ぎたんすから。
次回は同世代もうちょいてんこもりにしてカラオケでアップしてから乗り込みましょう。
NJM さんの投稿…
出会ってしまえばこうなってしまうのは分かってたことじゃない…。いまさら何を言っているのよ…

次行く時はベース持参ですよ!店長のギターに負けないこと。

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

登米は「とめ」か「とよま」か

宮城県登米市( 登米市 - Wikipedia )という場所がある。「とめし」と読む。市内には登米町がある。「とよままち」と読む。「登米」に対して、2つの読みがあるのが疑問だったが、先日出張で訪れた際に地元の方にその理由を伺った。結論から言えば、元々地元では「とよま」だったが、余所から来た人たちが誤読して「とめ」になったという。余談だが、我らがwikipediaによれば奈良時代に「遠山(とおやま)」と呼ばれていた地名が「とよま」になったとか。同じく「登米町」の項目を見ると、さらにその語源はアイヌ語の「トイオマ(食べられる土)」とか。 登米市中心地に、町並みを明治大正風にアレンジした観光地がある。その一角を占める旧水沢県庁跡を頻繁に訪れていた中央の役人たちが文字に引かれて「とめ」と読んでしまい、それが国や県の指定する読み方に採用されてしまったとか。ホントかな?でも、「県立登米高校」は「とめこうこう」で、「町立登米中学校」「町立登米小学校」は「とよま」だというので、なるほどと膝を打ってしまう。 名付けの歴史的経緯はともかくとして、文字に引かれてことばが変わることは、「おほね」から「大根」(だいこん)が生まれたり「をこ」から「尾籠」(びろう)が生まれる、という国産の漢語誕生のエピソードなんかを思い出す。地名で言えば、台湾の「高雄」の曲折に思い当たる。地元先住民がタカオと読んでいたものに、植民地日本が「高雄」という漢字をあて、解放後の中華民国が北京語読みの「カオシュン」とした、といったことなど。探してみれば、地名改変の話は日本国内にも津々浦々ありそうではある。