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リセット夕食

■年末以来の肉中心の食事がさすがに体に堪えてきたので(オクサマ実家は結構な肉食)、身体のモードを変えるために大根のスープを。大根半分(深底のカレー鍋なんかを半分くらい満たす量)を拍子木切りにして、昆布、しめじ、水で戻したキクラゲを千切りにして、水からゆっくり煮る。水はたっぷり、料理酒を半カップ。45分くらい弱火を通すと大根の甘みが出ている。もっと早くてもいいのかもしれないが、マンガ読んでたらそれくらいの時間だった。塩と醤油で味を調える。優しい甘みとキクラゲの歯ごたえ。以上、全くの自己流なのでもっとおいしく作る技があるかもしれない。

■アクセントとして、ざっと茹でねぎの中華風サラダ。おそらく地方はどこも同じだと思うが、そこいらで取れたばかりの太いねぎが20本くらい束で売られている。それを2本~3本使ってまるまる食べてしまう料理。ねぎは3ミリ程度に斜め切りして、ボールでかき混ぜて層になったところを少し崩しておく(火の通りが早い)。沸騰したたっぷりのお湯に1、2分さらしてすぐ上げる。このあたりは好みだが、湯につけすぎるとドロドロになるし、早すぎると胃にきつい。やや堅めで上げても余熱で火が通るので、きつさが少し残る程度でも大丈夫。湯からあげたら、ざるで水分を切る。絞ると成分が抜けるのでざるで振る程度。ごま油・酢・塩でドレッシングをお椀半分くらいの分量作り、ボールでねぎと混ぜる。温かいうちに皿に盛る。これも本日思いついた料理だが、思いのほかオクサマには好評。

■しかし、年齢のためか、5年くらい前までしきりに作っていた濃いめの中華をほとんど作らなくなった。カネリリの人に、「昔は自分が食べたい料理を作ってましたよね」とか言われて、実はオクサマにも同じことを言われていたのだけど、友人のハバラさんちの料理とかアイボンちの料理とかにお呼ばれされてから大反省をかましたのだった。ただ、今思い返すとあれが「食べたかった料理」なのか、自分でも判然としない。どちらかというと「作ってみたい料理」ではあった。友人宅の料理で気付きを得て、山形でそっち系の料理に路線変更といった感じだが、自分以外には何のことやら分からない記事でほんとごめん。あの頃は「派手で手早い」料理で、いまは「地味で凝らないがややじっくりした」料理?というところか。パーティーみたいなのには向かないかもね。

■実は3が日に食べた、新大久保の「日本一おいしいトムヤムクン」を食わせるお店も、美味しいことはおいしかったけど、たまにでいっかなーと思ったのだ。大好きなゲンキャオワン・ガイ(鶏肉のグリーンカレー)だったのだけど。レモングラスやバイマクルーの香りも最高だったんだけど。冬だからか?以前は、いつ食べてもおいしかったのに。いつでも食べたいメニューだったのに。と、なつかしの半実仮想的がリフレインする文型ばかりが出てくるわけだが。

コメント

tri-phop さんのコメント…
寒い日本でタイ料理ってあんまりピンとこないな。やっぱりこの環境でおいしく食べられるように作られた料理なんだろうな、基本。つーわけで、いつ食べに来るんだい?
NJM さんの投稿…
つまり夏に食えと。

いやホント、タイ行きたい。けどある程度時間を取って行かないと面白くない気がするし、時間が取れる仕事ではないしー(でもないか)。家族で行ったら泊めてくれい(君の家は宮殿並みに広いという外交筋の噂)。

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お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

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