ローリー・バウワー、ピーター・トラッドギル編『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」をくつがえす』((→amazon))を読んだ。もう少しつっこんだ議論が読みたかった、というのは無理な希望なのかもしれない。原書"Language Myths"が出版された1998年から10年の歳月が流れたことなのか、アメリカの言語を廻る言説と日本のそれとの違いなのか分からないが、本書はことばに普遍的な「正しさ」などない、との相対主義に徹している。90年代以降のポストコロニアル批判ブームが終わった現在では、相対主義のポジション取りをする研究は今読むとちと古い。もっとも、言語研究者の大御所が名を連ねているだけあってケーススタディ的に見れば面白いし、言語事象としては知的興味をそそられるものが並ぶので一読に値するとは思う。
Q13に「黒人の子どもはことばが貧しい?」という章がある。この本の主旨に従い、結論はもちろん貧しくはない。言語そのものについては。そう見せているのは社会のマジョリティがそのように社会を構築したからだ、とある。実際本当にそうだ。しかし言語研究者のこうした結論は多くの場合無力だなあと思う。もちろん研究者の仕事は「対象」を「客観的に」明らかにすることにあるという立場もあるだろうが、時にそういう立場こそが特定の言説擁護に加担してきたこともまた広く知られることだし、それ以上に大学に職を持つことの社会的責任から完全に逃れられるわけでもない。社会はこういうふうに構築されている、そう事実めいた物言いをしたあとで、歯切れの悪い、座りの悪さをやはりどこかで感じてしまうのではないか。
niji wo mitaが相対主義ではない力を!と考えたいのはこの点にある。大学教員が、というより研究者のある種の素養として(つまりタコツボ化した専門領域としてではなく、広い意味で、社会を考えることに時間とお金を費やすことが許されている者として)社会にコミットするときに、相対主義的な物言いにとどまることは、衒学に身をやつすような気持ちになってしまうのだ。たとえば会社のオッサンの論理にジェンダーがどう立ち向かうか、ペーパーテストに満ち溢れる「正しい」言語イデオロギーによりよい代替案をぶつけることができるか、すなわちある種の無意識な社会的プラグマティズムにこちらから戦いをどのように、どれくらいしかけられるか。そのことを抜きにしてこの仕事が社会にコミットするなんてことがあり得るのか、と。職場内外の仕事の多くの局面で、我々の職責って相対主義にとどまって「学問とはそういうもの」と言い続けることに限定されていて良いわけがない、というふうに。
Q13に「黒人の子どもはことばが貧しい?」という章がある。この本の主旨に従い、結論はもちろん貧しくはない。言語そのものについては。そう見せているのは社会のマジョリティがそのように社会を構築したからだ、とある。実際本当にそうだ。しかし言語研究者のこうした結論は多くの場合無力だなあと思う。もちろん研究者の仕事は「対象」を「客観的に」明らかにすることにあるという立場もあるだろうが、時にそういう立場こそが特定の言説擁護に加担してきたこともまた広く知られることだし、それ以上に大学に職を持つことの社会的責任から完全に逃れられるわけでもない。社会はこういうふうに構築されている、そう事実めいた物言いをしたあとで、歯切れの悪い、座りの悪さをやはりどこかで感じてしまうのではないか。
niji wo mitaが相対主義ではない力を!と考えたいのはこの点にある。大学教員が、というより研究者のある種の素養として(つまりタコツボ化した専門領域としてではなく、広い意味で、社会を考えることに時間とお金を費やすことが許されている者として)社会にコミットするときに、相対主義的な物言いにとどまることは、衒学に身をやつすような気持ちになってしまうのだ。たとえば会社のオッサンの論理にジェンダーがどう立ち向かうか、ペーパーテストに満ち溢れる「正しい」言語イデオロギーによりよい代替案をぶつけることができるか、すなわちある種の無意識な社会的プラグマティズムにこちらから戦いをどのように、どれくらいしかけられるか。そのことを抜きにしてこの仕事が社会にコミットするなんてことがあり得るのか、と。職場内外の仕事の多くの局面で、我々の職責って相対主義にとどまって「学問とはそういうもの」と言い続けることに限定されていて良いわけがない、というふうに。
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