前のエントリniji wo mita: 放射線を希釈する空気の力では、僕の所属する職場が比較的放射線の計測値が高い地域に出張を求めるに際して、(現状では)何も対策をしていないことをややナイーヴに書いた。しかし、実際に高い放射線が検出されている場所へ出張へ行く際に、組織としてできることは何だろう。そしてこの手の議論がもめるポイントは何だろう、ということを改めて考えてみる。
* * * * *
危険か安全かを検討することは、程度尺度であるから現状では難しい。程度尺度に「ここから危険」のラインを入れられるだけの統計的なデータはまだない。人体と放射線の因果関係データを目にすることができるまで、何年もかかるだろう。放射線の測定値も、どこがどのような目的で出すかによってまちまちだ。ミニホットスポットがどこにどれくらいあるかも分からないし、天候によっても左右される。
したがってここが危ないということは定義できるわけがない。そのようなことを組織に求めることもできない。だからといって「行ってもいい人に任せる」というのは無責任だ。それは自己責任への議論のすり替えであって、危険国に勝手に渡航することとは訳が違う。職務で行かされる以上、最大限の安全を検討する責任を負うことは組織の役割であるはずだ。
では何を求めればよいか。現実的に我々が今求められることは、何をおいても記録を残すことだろう。つまり訪問した人間がどれくらいの放射線に被曝したかの概算を出しておくということだ。現状、予算・時間コストでもっとも現実的なやり方で構わない。もう少し強い言い方をすれば、なかったことにさせないということだ。原発で下働きをさせられていた人たちの中には、本人の証言によれば、雇用の登録がなされなかった(『野宿労働者の原発被曝労働の実態』をテキスト化していただきました 山谷ブログ-野宿者・失業者運動報告-/ウェブリブログ)。そのため電力会社は何の補償もしていない。もちろん被曝量のデータもとっていない。したがってその死はある意味で無駄死にだったし、誰も責任を取る/取らせることができなかった。
記録を取らなければ何の対策も取りようがない。だからまず記録だけは取ることを義務付けて欲しい。放射線量が特に高く計測されている地域だけでよい。記録の方法は最低でも次のようなものか。
・その日の出張先の空間放射線量(文科省発表)を記録する
・出張先の行政が独自に計測している場合はそれを添える
・(贅沢をいえば)ガイガーカウンターで出張先の放射線量を計測する
第二に、できるだけ本人が放射線の影響を受けずに済むよう、日常的なレベルでできることを示して欲しい。後になって笑われるかもしれない。しかし笑われて済むようであれば笑われて良い。やることはやった、ということは科学的根拠が示されない現状で人間ができる最大のことだ。何をしたらよいかは、放射線被害を受けている自治体が出しているガイドラインを参照すれば良い。たとえば効力は分からないが以下は参考になる。
・放射性物質の除染に関する情報(南相馬市)
・多量に放射線が確認された場合のお願い(山形県)
こういう議論をすると、必ず「住んでいる人もいる、その気持ちを考えろ」だとか「出張先の顧客の心証を悪くする」などの話が出てくる。論理的には、僕はこれは話が違うと考える。高濃度放射線地域に住んでいる方の当事者の気持ち、不安、風評被害へのおそれ、それがあることは知っている(安易に「分かる」とは言えない)。しかしそこへ向かう人間の当事者性もまた知られていいはずだ。我々にも不安、おそれがある。その不安やおそれに対して策を施してきた人間を怒り、「だったら来るな」と言うことはできるだろうか。我々は物見遊山に行くのではない。食い物にしに行くのでもない。仕事として関わるために行くのだ(そして仕事というのは関わる者の利益のために原理的には存在する)。
論理的には違っていても、心情的にはどうか(論理と心理を分けられたと仮定して)。そこはごめんなさいの世界です。そういうことをやるから風評被害が広がる、という反論にはごめんなさいとしか言いようがない。風評被害の前提には「実態としては安全」があるはずだが、僕は「実態は分からない」前提以外に立てる場所がない(もっとも、相互行為の今ココ性を重んじれば、不安やおそれがないふりをすることはできなくはない)。
なぜ不安やおそれがあるのか。それは危険か安全かを誰も客観的に示せないからだ。「実態は分からない」からだ。そのことについて、誰かが「自分たちのほうがより不安でおそれている」などと高い当事者ポジションを取り合うなどということは、いかに無駄か考えればすぐ分かることだ。むしろ不安やおそれがあれば共有すればいい。そのほうがずっと意味があるのではないかと思う。
不安やおそれへの対処法は、いまのところ地域や個人に委ねられている。本当はそれは困ることだ。自己責任にすり替えられるから。だがどのようなケースであっても自己決定の領域は残されるべきだと思うということもあるし、一足飛びに大きな集団に素早い決定を求めることも現場感覚からは遠い。やれることをやるしかない。ただはっきり言えることは、不安やおそれをないことにしたり、安全だと言い切ることは、無知に基づく蛮勇というものであり、それによって人の行動を制約することは無責任以外の何者でもない、ということだ。
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危険か安全かを検討することは、程度尺度であるから現状では難しい。程度尺度に「ここから危険」のラインを入れられるだけの統計的なデータはまだない。人体と放射線の因果関係データを目にすることができるまで、何年もかかるだろう。放射線の測定値も、どこがどのような目的で出すかによってまちまちだ。ミニホットスポットがどこにどれくらいあるかも分からないし、天候によっても左右される。
したがってここが危ないということは定義できるわけがない。そのようなことを組織に求めることもできない。だからといって「行ってもいい人に任せる」というのは無責任だ。それは自己責任への議論のすり替えであって、危険国に勝手に渡航することとは訳が違う。職務で行かされる以上、最大限の安全を検討する責任を負うことは組織の役割であるはずだ。
では何を求めればよいか。現実的に我々が今求められることは、何をおいても記録を残すことだろう。つまり訪問した人間がどれくらいの放射線に被曝したかの概算を出しておくということだ。現状、予算・時間コストでもっとも現実的なやり方で構わない。もう少し強い言い方をすれば、なかったことにさせないということだ。原発で下働きをさせられていた人たちの中には、本人の証言によれば、雇用の登録がなされなかった(『野宿労働者の原発被曝労働の実態』をテキスト化していただきました 山谷ブログ-野宿者・失業者運動報告-/ウェブリブログ)。そのため電力会社は何の補償もしていない。もちろん被曝量のデータもとっていない。したがってその死はある意味で無駄死にだったし、誰も責任を取る/取らせることができなかった。
記録を取らなければ何の対策も取りようがない。だからまず記録だけは取ることを義務付けて欲しい。放射線量が特に高く計測されている地域だけでよい。記録の方法は最低でも次のようなものか。
・その日の出張先の空間放射線量(文科省発表)を記録する
・出張先の行政が独自に計測している場合はそれを添える
・(贅沢をいえば)ガイガーカウンターで出張先の放射線量を計測する
第二に、できるだけ本人が放射線の影響を受けずに済むよう、日常的なレベルでできることを示して欲しい。後になって笑われるかもしれない。しかし笑われて済むようであれば笑われて良い。やることはやった、ということは科学的根拠が示されない現状で人間ができる最大のことだ。何をしたらよいかは、放射線被害を受けている自治体が出しているガイドラインを参照すれば良い。たとえば効力は分からないが以下は参考になる。
・放射性物質の除染に関する情報(南相馬市)
・多量に放射線が確認された場合のお願い(山形県)
こういう議論をすると、必ず「住んでいる人もいる、その気持ちを考えろ」だとか「出張先の顧客の心証を悪くする」などの話が出てくる。論理的には、僕はこれは話が違うと考える。高濃度放射線地域に住んでいる方の当事者の気持ち、不安、風評被害へのおそれ、それがあることは知っている(安易に「分かる」とは言えない)。しかしそこへ向かう人間の当事者性もまた知られていいはずだ。我々にも不安、おそれがある。その不安やおそれに対して策を施してきた人間を怒り、「だったら来るな」と言うことはできるだろうか。我々は物見遊山に行くのではない。食い物にしに行くのでもない。仕事として関わるために行くのだ(そして仕事というのは関わる者の利益のために原理的には存在する)。
論理的には違っていても、心情的にはどうか(論理と心理を分けられたと仮定して)。そこはごめんなさいの世界です。そういうことをやるから風評被害が広がる、という反論にはごめんなさいとしか言いようがない。風評被害の前提には「実態としては安全」があるはずだが、僕は「実態は分からない」前提以外に立てる場所がない(もっとも、相互行為の今ココ性を重んじれば、不安やおそれがないふりをすることはできなくはない)。
なぜ不安やおそれがあるのか。それは危険か安全かを誰も客観的に示せないからだ。「実態は分からない」からだ。そのことについて、誰かが「自分たちのほうがより不安でおそれている」などと高い当事者ポジションを取り合うなどということは、いかに無駄か考えればすぐ分かることだ。むしろ不安やおそれがあれば共有すればいい。そのほうがずっと意味があるのではないかと思う。
不安やおそれへの対処法は、いまのところ地域や個人に委ねられている。本当はそれは困ることだ。自己責任にすり替えられるから。だがどのようなケースであっても自己決定の領域は残されるべきだと思うということもあるし、一足飛びに大きな集団に素早い決定を求めることも現場感覚からは遠い。やれることをやるしかない。ただはっきり言えることは、不安やおそれをないことにしたり、安全だと言い切ることは、無知に基づく蛮勇というものであり、それによって人の行動を制約することは無責任以外の何者でもない、ということだ。
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