スキップしてメイン コンテンツに移動

足と手を動かして頭も動かせ

Extremeの"III sides to every story"(→amazon)を5月くらいからずっと聞いていて、全14曲、3部構成というアイディアはもしかして自分の授業構成に影響を与えているかも知れないと思う。いや無意識にパクったかもしれない。mine, yours, everythingという3つのフェーズ。パクリではなくリスペクトですな。



逆にこのアルバムの構成に従って授業を構成したら面白いかも知れない。
"Warheads" 「シンジは核弾頭を持つか」セカイ系のはじまり
"Rest in peace" 死にまつわる個人の決定権がどこまで敷衍されるか
"Politicalamity" 政治と権力
"Color me blind" 人種と差別
"Cupid's dead" メディアリテラシー
"Peacemaker die" 社会と表象
"Seven sundays" 若者とニート(笑)
"Tragic comic" 文化と表象
"Our father" 宗教とパターナリズム
"Stop the world" ゼロ年代におけるセカイ系
"God isn't dead?" 近代における宗教の意義
"Rise'n Shine" バブル経済と日本経済の凋落
"Am I ever gonna change" 個人と社会、間主観性
"Who cares?" オヒトリサマの誕生

と、どうでもいい朝を迎える。誰がこの授業を担当するというのか。

昨日、お前の余命は後3年という夢を見た。「えっ、じゃああれもこれも終わんない、どうしよう」などとtodoをどう埋めるかを考える夢なんですよ、などと臨床心理の先生とかみのやまのそばをすすりながら、「ああそれはあなたの仕事量というより、仕事の質が拡散しているということかもしれませんよ」、あっいまカウンセリングモードに突入しました?ずるずる、うまいっすねこのそば。

案外ひとは死なないし、でも死んじゃうときは唐突に死ぬ。役割とかリア充とかそういうのもひとの生の意味になり得るけれど、ただ生き続けて名も功も残さず馬車馬のように働いてただ死ぬ、そういったことにも十分に、というか意味なんかなきゃいけないの?ただ風の前の塵に同じじゃいけないの?とわたくしのなかの一匹の獣が月に向かって吠えるとき、李陵は涙を流すのですよ。だからいっしょに楽しいことを、バカをやろう。それ以上のことはこの人生でなんにもない。

すると文献日本語学のひとがいう。長く生きれば勝ちなんですよ。現代語研究のひとたちはいくらでもデータが目の前にある。だからそれをどう集めて、さばいて、知恵を絞って理論を打ち立てて。でも古い文献は分量がないので、資料を見つけること自体に価値があるのですよ。それは足を使った距離そのもので、距離の長さは速さじゃない。時間かける速さ、あれはウソだね。長く生きる、つまり時間の長さだけが勝利。みてごらん、ある学会では齢100になんなんとする御大が現役で資料紹介や発表をするではないか。おー。たしかに。いや、でもそれじゃバカでもできる領域とか言われちゃうので個人的には受け入れがたいです先生。

あるひとが近代的自我の悩みなど、アメリカのビジネスマンがやるみたいに5時に起きてジョギングして、ご飯食べてあっちっちなコーヒー飲んで仕事行って、疲れて眠ってまた朝起きれば、雲散霧消するぜと言った。すなわち問題は身体由来なのであると。脳内の小部屋に閉じこもって自己愛的にひたるのはバカのすることであって、体を動かしなさい!椎名林檎のスポーツというアルバムを聞きなさい、「からだーと、こーこーろがー、はなれーばなれー」になっているのですよと。己のうちに眠る狼、犬、まあ豚でもツチノコでもなんでもいいんですが、なんならT2ファージでもいいんですが、ただ生きてみせよと。そして月に向かっておしおきでもオジー・オズボーンでもなんでもいいから、足と手を動かして頭も動かせと。

Three sides to every story
Yours, mine
And, Monday morning's

CUPID'S DEAD, HEADLINES READ,
CUPID'S DEAD
CUPID'S DEAD, HEADLINES READ,
CUPID'S DEAD
"Cupid's dead"より(→Loveの無料洋楽歌詞検索|Extreme - Cupid's Dead Lyrics 歌詞


ソロのところの変拍子になるところがすごくかっこいいのである。youtubeとか見てみなしゃんせ。

コメント

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

登米は「とめ」か「とよま」か

宮城県登米市( 登米市 - Wikipedia )という場所がある。「とめし」と読む。市内には登米町がある。「とよままち」と読む。「登米」に対して、2つの読みがあるのが疑問だったが、先日出張で訪れた際に地元の方にその理由を伺った。結論から言えば、元々地元では「とよま」だったが、余所から来た人たちが誤読して「とめ」になったという。余談だが、我らがwikipediaによれば奈良時代に「遠山(とおやま)」と呼ばれていた地名が「とよま」になったとか。同じく「登米町」の項目を見ると、さらにその語源はアイヌ語の「トイオマ(食べられる土)」とか。 登米市中心地に、町並みを明治大正風にアレンジした観光地がある。その一角を占める旧水沢県庁跡を頻繁に訪れていた中央の役人たちが文字に引かれて「とめ」と読んでしまい、それが国や県の指定する読み方に採用されてしまったとか。ホントかな?でも、「県立登米高校」は「とめこうこう」で、「町立登米中学校」「町立登米小学校」は「とよま」だというので、なるほどと膝を打ってしまう。 名付けの歴史的経緯はともかくとして、文字に引かれてことばが変わることは、「おほね」から「大根」(だいこん)が生まれたり「をこ」から「尾籠」(びろう)が生まれる、という国産の漢語誕生のエピソードなんかを思い出す。地名で言えば、台湾の「高雄」の曲折に思い当たる。地元先住民がタカオと読んでいたものに、植民地日本が「高雄」という漢字をあて、解放後の中華民国が北京語読みの「カオシュン」とした、といったことなど。探してみれば、地名改変の話は日本国内にも津々浦々ありそうではある。