ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で(増補版)』(→amazon)を読了したのは、数週間前。少しずつ読んでいったので、読了まで購入してからずいぶんかかった。装丁のシンプルな美しさに、書店でつい手にとってしまった。
クレジットを見る限り著者は日本文学、日本近代文化論を専門とするようだ。だがこの本は社会学の質的研究法を下敷きにした、専門性の高いエッセイととらえることもできる。本書では、先の戦争と関わりが深い沖縄、山口、長崎の三人へのインタビューにもとづく、著者の情緒ぶかい考察で構成される。僕は、情緒ぶかさと論理的な考察が同居するところに、文学と社会学の質的研究の(大げさに言えば)奇跡的な接点があるように感じられてならない。
初版は1994年、原版"IN THE REALM OF A DYING EMPEROR"は1991年、バブル崩壊後、昭和天皇がホウギョして数年後に書かれている。本書に通底するテーマは、戦争責任の被害者と加害者という構図が作り出す、いつでも反転可能な状態に囚われている日本人だ。それは法が決定を下す意味での構図や、ウヨサヨの不毛な対立構図なんかも含みながら、僕らがこの問題にコミットするときにどういう空気感の鋳型にはまり込んでいるかを考えさせる。責任を持つ/持たせることが不可能な「聖性」と、それと対置される「人間性」。象徴天皇の二面性が我々の感覚に、というよりかは我々の感覚が天皇に象徴されていると言えるのかも知れない。
2011年の11月、震災のあとに増補版が発行されたことの意味は、被害者/加害者の入れ子状態の抽象度を一段階引き上げると、震災の特に原発関係の問題を同じパターンで捉えられる、という著者あるいは出版社の意向もあってのことだと思う。
少し長いが、著者による増補版によせたあとがき「あれから二十余年」から、印象深かった一節を抜き出し、掲げたい。いまここに一緒にいることの発見から出発することが希望につながると、筆者が言っているように思える。
僕が本書からもうひとつ強く感じたことは、本書を綴ることばの美しさと、人への寄り添い方だった。前者は、訳者である大島かおりの力は大きいだろう。印象としては母語で書かれた文章のように「自然」な感じだったし、その日本家屋の廊下の薄暗さと静けさまで描ける叙情的な感じは文学的(とお茶を濁す)とも思える。ただ、それは訳者の力のみではなく、ノーマ・フィールドが日本の「血を引く」母を持ち、幼少時を日本で暮らしたことにもよるのだろうことは、唯一原文が日本語で書かれた、「あれから二十余年」から窺い知れる(上記の箇所はそうでもないが)。訳者の力量は原文の力を引き出せるかどうかということなのだろう。
後者は、社会構造で語られがちな構図に当事者のライフヒストリーから光を当てようとする、質的研究法がもたらすものだろう。聞き手であるノーマ・フィールド自身、彼女を取り巻く家族のライフヒストリーも描かれており、聞き手と語り手が作り出すいまここだけの感覚なども、読んでいて心地よかった。社会正義同士がぶつかりあい、絡まりあった時、それを人の歴史から丹念にたどることできちんとした問題共有に至ることができることもあるだろう。
たぶんいずれ再読するだろうと思う。
クレジットを見る限り著者は日本文学、日本近代文化論を専門とするようだ。だがこの本は社会学の質的研究法を下敷きにした、専門性の高いエッセイととらえることもできる。本書では、先の戦争と関わりが深い沖縄、山口、長崎の三人へのインタビューにもとづく、著者の情緒ぶかい考察で構成される。僕は、情緒ぶかさと論理的な考察が同居するところに、文学と社会学の質的研究の(大げさに言えば)奇跡的な接点があるように感じられてならない。
初版は1994年、原版"IN THE REALM OF A DYING EMPEROR"は1991年、バブル崩壊後、昭和天皇がホウギョして数年後に書かれている。本書に通底するテーマは、戦争責任の被害者と加害者という構図が作り出す、いつでも反転可能な状態に囚われている日本人だ。それは法が決定を下す意味での構図や、ウヨサヨの不毛な対立構図なんかも含みながら、僕らがこの問題にコミットするときにどういう空気感の鋳型にはまり込んでいるかを考えさせる。責任を持つ/持たせることが不可能な「聖性」と、それと対置される「人間性」。象徴天皇の二面性が我々の感覚に、というよりかは我々の感覚が天皇に象徴されていると言えるのかも知れない。
2011年の11月、震災のあとに増補版が発行されたことの意味は、被害者/加害者の入れ子状態の抽象度を一段階引き上げると、震災の特に原発関係の問題を同じパターンで捉えられる、という著者あるいは出版社の意向もあってのことだと思う。
少し長いが、著者による増補版によせたあとがき「あれから二十余年」から、印象深かった一節を抜き出し、掲げたい。いまここに一緒にいることの発見から出発することが希望につながると、筆者が言っているように思える。
ここまで考えてみると、どうしてもとりあげなければならないことばがもう一つある。おなじくナオミ・クラインが、前日に無名の人が演説で発したことばとして、紹介している。それは、"We found each other."だ。このfoundをどう訳そうか。「みつけた」「探しだした」とも言えるだろう。ただ、このfoundには名指しがたいなにかを求めていて、それに出会えてはじめて、なにを探していたのかがはっきりした、という意味合いを感じる。「われわれは、われわれに出会えたのだ!」という喜びが溢れでてくるではないか。「ようこそ」も温かい、大事なことばだが、だれかが先にいて、後からくるだれかを迎え入れる、という前後の関係を意味する。いま起きている出会いは、時代の前後、経験の質や量の相違はどうあれ、いちばん大事なこと―この世の中を変えなければたまらない、と感じたから、いま、ここに来て、あなたのとなりに立っているのだ―という確認にはじまるのだ。もちろん経験や知識の蓄積を活かす道をみつけだすのは大事だ。同時に、若者も年配者も、歴史的危機を前にして、おなじ平面に立っていることも事実である。(p.383)
僕が本書からもうひとつ強く感じたことは、本書を綴ることばの美しさと、人への寄り添い方だった。前者は、訳者である大島かおりの力は大きいだろう。印象としては母語で書かれた文章のように「自然」な感じだったし、その日本家屋の廊下の薄暗さと静けさまで描ける叙情的な感じは文学的(とお茶を濁す)とも思える。ただ、それは訳者の力のみではなく、ノーマ・フィールドが日本の「血を引く」母を持ち、幼少時を日本で暮らしたことにもよるのだろうことは、唯一原文が日本語で書かれた、「あれから二十余年」から窺い知れる(上記の箇所はそうでもないが)。訳者の力量は原文の力を引き出せるかどうかということなのだろう。
後者は、社会構造で語られがちな構図に当事者のライフヒストリーから光を当てようとする、質的研究法がもたらすものだろう。聞き手であるノーマ・フィールド自身、彼女を取り巻く家族のライフヒストリーも描かれており、聞き手と語り手が作り出すいまここだけの感覚なども、読んでいて心地よかった。社会正義同士がぶつかりあい、絡まりあった時、それを人の歴史から丹念にたどることできちんとした問題共有に至ることができることもあるだろう。
たぶんいずれ再読するだろうと思う。
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