twitterでnekojitaさんという方が、自分の子供が殺されたら相手を殺す、しかし死刑制度には反対だと書いていらっしゃるのを見て、そういう当事者としての気持ちや行動への意志と、制度への理性的なスタンスは確かに両立すると思った。これには、はっとさせられた。
今日、娘の幼稚園で行事があり、僕も参加した。途中でおやつに出されたりんごジュースが郡山市で生産されたものだった。気づいた人は他にもいるかも知れない。娘に飲ませるのは嫌だったので、隠れて妻と飲んでしまった。こういう感覚と、放射能による汚染をいたむ気持ちは、別個に存在しても良いはずだ。これは、あるいは当事者性をめぐる、パターナリズムとのせめぎあいと捉えられるのかも知れない。
無理に筋を通さなくとも良い二つの立場を、強迫観念的に両立させようとするのは何か。筋を通さなくったって、そもそもこれは矛盾を生じることではなくて、全然別問題のはずだ。
今日、娘の幼稚園で行事があり、僕も参加した。途中でおやつに出されたりんごジュースが郡山市で生産されたものだった。気づいた人は他にもいるかも知れない。娘に飲ませるのは嫌だったので、隠れて妻と飲んでしまった。こういう感覚と、放射能による汚染をいたむ気持ちは、別個に存在しても良いはずだ。これは、あるいは当事者性をめぐる、パターナリズムとのせめぎあいと捉えられるのかも知れない。
無理に筋を通さなくとも良い二つの立場を、強迫観念的に両立させようとするのは何か。筋を通さなくったって、そもそもこれは矛盾を生じることではなくて、全然別問題のはずだ。
コメント
とりわけ子どもにかかわる欲望は、公の欲望と同一視されやすい領域なのかもと思います。放射能の話はとりわけそうですよね。