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八神純子

一昨日のNHKに八神純子が出ているのを見て、つい引きこまれてしまった。震災でチャリティーコンサートを繰り返しているようで、震災支援と歌といったテーマでの出演だった。子ども時代以来、ライブで歌を聞いたのは初めてだったが、いやとにかく声が衰えていない。活動の場が米国に移ってからもジューン・スタンレーの名前で活動しているようだ。トレーニングは怠っていないという。練功とはこういうことだよね、と思った。

youtubeに上がっている最近のライブだと、これかな。カーペンターズのマスカレードを歌っている。

大学生の時にかベストのCDを買ったが、曲は時代がかっているものの、声がとにかく素晴らしい。というかこういう発声法はたぶんもう日本では流行らないのだよね。潤ってなめらかで高級感のある質感でありつつ、子どものころ聞いた「外国っぽい」「高級感」を見ているだけなのかもだが。

1973年生まれの僕は、ちょうど小学生になるかならないかのあたりで、八神純子「みずいろの雨」(1978年)を聞いている。電子ピアノを弾きながら歌う姿は、テレビで歌うひとといえば70年代独特の毒ッ気のない衣装で踊るアイドルやムード歌謡歌手のなかで、子ども心にそれなりにインパクトがあった。「パープルタウン」(1980年)は、なんと言っているか分からないままに「パープーターン」と口ずさんだのを記憶している。

wikipediaによれば、八神は震災後「トランス・パシフィック・キャンペーン」(→八神純子with トランスパシフィックキャンペーンWEST JAPAN!2011)を自身で企画したという。このあたりの心の機微や趣旨について綴ったサイトが見当たらない。八神純子 (junko_yagami) は Twitter を利用していますのつぶやきなどを見ても同じ。あまり心情を語らないタイプなのかもしれない。 日本でも活動を再開したようですね(八神純子 : 八神純子、10年の時を経て復活 / BARKS ニュース)。ビッグバンドで歌う八神純子は見たかったな。

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