リベラルヅラを決め込んでいる上司がクソマッチョだったときの憤懣やるかたない感じ、いや逆ですね、クソマッチョなくせにリベラルを装って進歩的な人間ヅラしているのを見るほど首しめたろか、って思うことはないですね。こういうヤカラは装いでしゃべっているので対話のしようがありません。親方日の丸・美しい日本、で首尾一貫しているほうがよっぽど対話できるってもんだ。で、何か語らせるとぜんぜん勉強していないくせに研究者批判をしながら、かならず本質主義的なところに落ちて「古来変わらぬ日本の心」「まごころ」「感情」が大事とか抜かす。心や感情がどんだけ社会や歴史の文脈から自由だと思ってんだろう、とたまには全力で愚痴らせてください。思い出し怒りにつつまれるときは、まず寝不足栄養不足である可能性が高いので、おいしいものでも食べて昼寝します。
山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。 ミツパ(三つ葉) mitsunpa マツパ(松葉) matsunpa マツ(先づ) mantsu クピタ(頚) kunpita テプソク(手不足) tenpusoku カチカ(河鹿) kanchika ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。 アンチコト(案じ事) anchikoto ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語...
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