スキップしてメイン コンテンツに移動

コーヒーと合うのは乳酸菌発酵食品

東京駅大丸の地下で購入したチーズたっぷりのキッシュを食べつつ、コーヒーを飲んでいる。キッシュがおいしく食べられる意味でコーヒーと合う。が、僕にとって真にコーヒーと合う、というのはこういうのではない。

以前からずっと思っているのだが、「コーヒーに合う」だとか「コーヒーと合う」という現象には、細かく見れば「食べ物主役系」「コーヒー主役系」「共に高め合う系」の3系、亜種を入れれば4つの合わせ方がある。なお、以下に示す「香り」はモノ自体から感じられるアロマじゃなくて、口から鼻に抜けるときに感じられるフレーバーのこと。

  • コーヒーによって食べ物の味や香りが引き立つ
  • コーヒーが食べ物の味や香りを押し流す
  • コーヒーの香りが引き立つ
  • コーヒーと食べ物の味や香りが共に引き立つ

1番目の主役はコーヒーではなくて、食べ物の方である。僕はこれはあまり体験したことがない。コーヒーのほうがおおむね香りが強いので、その香りに勝って主役になれる力があって、かつコーヒーとかち合わない食べ物がなかなかないからだと思う。1番目の亜種である、2番目はよくある。本日のキッシュがこれ。クリームやチーズの強い乳製品は生臭みと裏表であるから、度を過ぎると飽きたり気持ち悪くなる。だから口の中の香りが蓄積しないように、どこかでリセットしてやる必要があると思う。コーヒーで口の中をリセットすれば、改めて乳製品の香りをゼロから味わえるという意味で、1番目のような主役を引き立てる役割を持つ。油脂を多く含むナッツ類との組み合わせも同じ。

3番目ではコーヒーが主役になる。のだが、これも僕はあまり体験したことがない。そもそも香りを引き立てるというのは、本来それが持っている良い香りや味を強調するために、①そうでない香りや味を殺す②主役の香りや味を相殺しない方向性で主役の香りや味との落差を示す(差異化)、という2つを意味するはずだ。コーヒーにとって、①そうでない香りや味というのが、いわゆる雑味であるとすればきちんと淹れれば出てこない。苦味や刺激的な感じだとすればミルクと混ぜればいいのだが、僕の主観ではそれはむしろミルクが主役になっているように感じる。

4番目もなかなかない。が、僕にとってはぬか漬けとコーヒーがこれに該当する。2番目みたいに「押し流す」ことが全くなくて、質量ともにバランスが取れた新しいフレーバーが誕生する感じだ(同じ発酵食品でも乳製品系は違うし、納豆だと納豆が勝つ)。野菜は大根でもきゅうりでも良かったので、野菜そのものの香りではなく、乳酸菌による発酵で生み出された複数の香りがコーヒーの方向性と合っているのだと思う。wikipediaによれば、コーヒーの香り成分は次の7つに分けられるのだという(コーヒー - Wikipedia:成分の項目)。

  • 甘い蜜の香り
  • トロピカルフルーツ的な香り
  • カラメルっぽい香り
  • 木クレオソートっぽい香り
  • 醤油っぽい香り
  • ナッツっぽい香り
  • コーヒーっぽい香り

最後のコーヒーっぽい香りは、再帰的代名詞っぽくて(コーヒーの香り成分にはコーヒーっぽい香りがあります的な)よく分からない。木クレオソートっぽい香りは、感じたことがない。が、それ以外は概ね「ああ、あれか」と思う。特に古くなったぬか漬け自体からは、トロピカルフルーツ的な香りがするし、ナッツっぽい香りもするので、香りの方向性にも共通する部分がある。実はキムチも安いにんにくが邪魔しなければ(と解釈しているが)結構合う。スーパーで売っている安いのはにんにくがこじれたような匂いがするのでダメだが、韓国の方が手作業で漬けているようなものだと、「何かが生まれた」感じがする。塩辛などだとちょっと違う。

そんなわけで『もやしもん』の1巻あたりに出ている発酵食品についての記述を思い出しつつ、コーヒーと共に引き立てられる香りを持つ食品は、いまのところ乳酸菌による発酵食品。

コメント

もと同僚 さんのコメント…
確かにバターとかクリームはコーヒーにあう感じがしますねえ。一方で、個人的には、ブランデーとかそういう蒸留的な香りはちょっと厳しいかなあ。ロシアンティーとかそういうのはいけるのになんでだろ。
でも、ほんとは、コーヒーと一番合うのはタバコだと思っている私。これねえ、コーヒー飲んだらタバコ欲しくなり、タバコを口にしたらコーヒー飲みたくなるんですよ。なんでだろ。単なるパブロフの犬状態かな。
NJM さんの投稿…
タバコ吸わないから分かんないなあ。タバコ吸う別の友人も同じことを言ってますが、タバコが主役でコーヒーが引き立て役なんだ、と。

喫茶店でタバコ吸われると煙でコーヒーの香りが分からなくなる、つったら、それは本末転倒で、とか。そうだったのかと思いました。

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語