しつこいようだけど、なんで『世界言語のなかの日本語』にあれだけ興奮したのかなあと考えると(→2007.1.14" 世界言語のなかの日本語、読了")、僕にとって馴染みが深い系統論的アプローチは2つの言語の直接的な関係を重視して、いわば要因と結果がはっきり見える形で対応しているのに対して、類型論的アプローチは状況証拠に基づいて、いわば因果関係保留の相関関係だけを論拠としているところが面白かったんだと思う。というのも、系統論が因果関係ありと見込めるものを対象としているのに対して、類型論が因果関係不明のものを比較していることによるわけだけど。そんなわけで、どちらも実証的ではありつつ、だけれど類型論は推理的要素というか、抽象的操作が多くなる。そこんところが、できもしないのにあれだけど、詰め碁のような、将棋の何手も先まで読むようなスリリングさがあったんだなと思った。
いま読んでいる池上嘉彦『日本語と日本語論』(→amazon)は、まだ半分くらいしか読んでいないけど、上記のような類型論的アプローチを、なんというか、区別ごっこだけして何が楽しいんだよと突っ込んでいて面白い。問題はどうしてそのような区別が生まれたのかってわけで、そこには機能という観点が必要であると。そしてそれは人間の認知的営みと直結しているはずだということで、認知言語学という畳で寝技をかけまくるわけです。
いま読んでいる池上嘉彦『日本語と日本語論』(→amazon)は、まだ半分くらいしか読んでいないけど、上記のような類型論的アプローチを、なんというか、区別ごっこだけして何が楽しいんだよと突っ込んでいて面白い。問題はどうしてそのような区別が生まれたのかってわけで、そこには機能という観点が必要であると。そしてそれは人間の認知的営みと直結しているはずだということで、認知言語学という畳で寝技をかけまくるわけです。
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