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〈外地〉の日本語文学

来年度も受け持つ、異文化理解関係の授業のネタ探しの一環として、黒川創編『〈外地〉の日本語文学選1 南方・南洋/台湾』新宿書房(→amazon)をパラパラ。台湾編は1923年から1954年までの、日系日本人と台湾系「日本人」の短編が並ぶ。このうち邱永漢「密入国者の手記」が面白かった(他のはまだ読んでいない)。台湾青年社の王育徳がモデルとなっているとのこと。王氏は僕の祖父とも関係があるらしく、孫の世代まで因縁があったりなかったりする。祖父は母に多くを語らなかったため、日本に密入国?したときの経緯とかが孫の代で失伝している。ところどころ聞いている話と通ずるところがあり、個人的には大興奮だった。が、面白かったのは、〈外地〉の「日本人」が〈内地〉にやってきて、相互にどう表象されるかみたいなところ。主人公が東大に「留学」してきて、おそらく太平洋戦争後期に若者がガンガン徴兵される時期、台湾系「日本人」と朝鮮系「日本人」が台湾目線から対比(笑;ここは絶対笑うとこ)される。長いけど引用。

戦争はようやく苛烈になり、文科系統の学生は徴兵され、毎日毎日入隊する学生が増え、学園は日々にさびれていくようになりました。秋になると、台湾人と朝鮮人学生の志願兵制が志向されました。志願兵といっても、実体は強制志願で、われわれ外地人学生は志願しない場合は、学校を退学させ、同時に徴用して重労働に課するという内々の通達を受けました。最も陰険に暗躍したのは総督府文教局の東京出先の役人どもで、私どもの進退は一切彼らの手に握られておりました。われわれにはもちろん選択の自由はなく、ただ志願するという自由―もしそれを自由というならば―だけがのこされていました。私の先輩や同僚の台湾人学生は余儀なく志願することになりましたが、奇しくも私は満二十歳に三ヶ月たりないために、志願資格を備えていませんでした。ただ一人法学部にいた学生が強制された志願に屈せず、国へ帰ってから志願すると称して、大学から姿をくらましてしまいましたが、他の者は全部お膳立てどおりの志願をし、盛大な見送りのうちに入隊しました。

しかし、朝鮮人の学生はごく少数の者を除いては、皆強制された志願を拒否しました。彼らのなかの一人から、私は彼らは強制されて志願するよりむしろ重労働をえらぶつもりだときかされました。それからまもなく、私は彼らが集中営に入れられて、この世のものとも思えないような激しい重労働を課せられ、皆男泣きにないて日本への復讐を誓い合ったときかされました。私は驚きのあまり顔が蒼くなりましたが、これで日本もおしまいだと思わざるをえませんでした。しかし、その半面この時ほど私は台湾人と朝鮮人の民族の相違をはっきり見せつけられたことはありませんでした。台湾人の学生だって、もし選択の自由があったら、おそらく一人だって志願するものはなかったろうと思います。しかし屈辱と忍耐によって最後は勝つという気の長い漢民族の血を継けた台湾人は、こういう時に臨むと、皮肉にも誰よりも先に屈辱に甘んじてしまうのです。それが長い目で見た場合、最も安全な保身の術であるという知識を彼らは、いや、私の仲間は本能的に身につけているのです。この意味で、私たちの仲間もまた正真正銘の阿Qの子孫であります。(pp.265-266)


それが邱永漢氏のビジネス上の成功に結びつくかは分からないが(笑)、ある種の合理的志向ということになるだろうか。この「面従腹背」とでも呼ぶ心性があるとすれば、僕はかなり台湾人が好き。面従腹背は必ず内面を前提とするので、極めて近代的な精神の産物なんですよと大嘘をぶちたいくらいだ。そして90年代からよしりんあたりが歪んだ形で日本に紹介した「日本精神(リップンジンシェン)」は、「犬が去って豚が来た」(日本人がいなくなって中国国民党軍が来た)を経由して、日本から縁を切られて、冷戦時代を背景に社会主義圏にブイブイ言ったか言わされたかの歴史経緯から、偉い誰かがすでにきっちりと批判していることだろう。そのあたりを無視して「日本はいいこともした」「日本がやったことは世界史的に意味がある」という言説を一人歩きさせるのは、いくら我が国(こ)がかわいいからと言って、過保護じゃありませんか。夜郎自大とは言いません。それはモンスターペアレントというもんです。誰に言ってるんだ。

これをもって、韓国からおいでの同僚と「僕は歴史的に腹黒いんで」「そっちは直情的なんですよ」と応酬できたのが良かったのか良くなかったのか。良かったんだきっと。あっ、これ授業で使えますかね?

コメント

Unknown さんの投稿…
うちの職場、少なくとも私のいる部門では、面従腹背はよく見られます。ときどき面背腹背をかます私は少数派です。この場合、njm氏の面従腹背愛と少数派愛(笑)のどちらが表に出てくるのだろう。

と気になるのは私が愛されたいから?(爆)
NJM さんの投稿…
面従腹背で少数派なら、その愛は二乗となるでしょう。しかし面従腹背が少なくなるほどより少数派になるのだとしたら、その愛は二乗に反比例することでしょう。つまり逆二乗の反比例法則ということになるわけで、ケプラーの光の減衰の法則、万有引力の法則と類比的であると言えます。彼らの法則が人類の進歩に与えた影響もまた愛の形態の一つであるとするなら、時折面従腹背が少数であることも、また愛の形態の一つと言えるのです。
Unknown さんの投稿…
ごめん、もっと目立つように書けばよかった。少数派の私は面「背」腹背が身上です。だから、面「従」腹背愛者からは愛されないかも、でも少数派愛者からは愛される可能性があるかも、二律背反であることよなあ、という話でした。

Fを面従腹背、F~を面「背」腹背、L(X)をXに対する愛を表す線形関数、多数派をM、少数派をm、多数派に対する少数派の比率をm/Mとおいて、Fであり、かつF~の強度が増すほどm/Mが小さくなると仮定すると、
m/M=a/L(F~)…(1)
L(F~)=m/(M*a)…(2)
さらにL(F,m)=L(F)*L(m)より、
L(F~,m)=L(F~)*L(m)
ここに(2)を代入し、
L(F~,m)=m/(M*a)*L(m)
=mL(m)/(M*a)
ここでM>m>0、L(m)>0なので、L(F~,m)>0となるには、係数a>0の必要がある。(1)より、a>0となるためにはL(F~)>0でなければならない。

以上より、面「背」腹背者がたとえ非常に少数派であっても、njm氏の面「背」腹背者への愛が負の値であれば、この愛は負の値しか取ることができない。
NJM さんの投稿…
面従腹背⇒多い(命題) が真ならば
¬面従腹背⇒¬多い(逆) は必ずしも真ではない

したがって面背腹背(=¬面従腹背)は少ない(=¬多い)ことにはなりません。よくよく考えてみれば、面背腹背は周りにもいらっしゃるのではないでしょうか。あっ、面従腹従が考慮に入れられていないなんて言わないでください。そんなのは奴隷です。全ての自由意志を持つ人間は、面従腹背か面背腹背、すなわち心のなかでは永遠の反抗期を抱えているものなのです。

(た)さんのとなりの研究室にも、お腹が背中になっている人がいるはずです。顔が気になるようだったら、お腹だけを見つめて生きればいいのです。そこにある連帯が、腹でつながっているのか背中でつながっているのかを気にする必要はありません。愛とは連帯である、とブッダもmoriokaさんも言っています。イデオロギー的なラブではありません。愛とはただの連帯なのです、とブッダもmoriokaさんも言っています。そのつながりにのみ着目すすることで人は愛に生きられるのです。

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