スキップしてメイン コンテンツに移動

山形社会の高速道路

山形県のほとんどすべての高速道路が無料化となった(asahi.com(朝日新聞社):無料高速道路37路線発表 地方中心に全体の18% - 政治高速道無料化、県内は4区間 開始は6月予定、11年3月末まで|山形新聞)。月山も酒田も谷地の肉そばも行き放題である、と県外の人には全くどうでも良い話題である。「もともと交通量が少なく、無料化で渋滞が起きにくい地方路線」ということであるから、そもそもこれを作った意味というか、費用対効果はどうなのかという話はさておき、少なくともこれで県内の動きが活発になるのだとしたら、普段高速道路を使う層と使わない層がある程度安定した共通の規格みたいなものを作っていくまでに時間が必要かもしれない。

というのも、地方社会全般に言えることかもしれないが、どうも全国の交通ルールとは異なる暗黙のルールが街中に存在しているからだ。都市部からの移住者が最初に面食らうのがまさにこれで、ウインカーは必要以上に出さない、車線変更がやや乱暴である、など。運転マナーがなっていない、と不満爆発である。都市部の目線から語ればそんな話になってしまうが、そもそもウインカーも車線変更も交通量が多く車間が狭いことを想定した場所で通用するルールであるから、地方ではその必要性が感じられる基盤が異なる。山の手線でも、空いているシートがたくさんあるなかで、目の前の老人に席を譲る行為が不自然であるように(空いているところ座ればいいじゃん)、前後100メートル以内に自分以外の車がない状況でウインカーを出すことは、考えてみれば珍妙ではある。譲って譲られてハザードでお礼、というのも「空いている時に好きに割り込めば」という感じなのではないか。

ともあれ、道路交通法は日本国家を単位として適用されているものであるから、地方には地方のルールがあるんだよというワケにも行かず、都市部からの移住者は完全上から目線で山形の運転のまずさを語ることになるのだが、どうも山形はそのへんを上手に処理しているように見える。たとえば、ウインカーを出さなくても事故が起きないかもしれない、と思う理由の一つは信号待ちの時にバイクが自動車の左側にいることがほとんどない。自動車の後ろで信号待ちをしている。そのためいわゆる巻き込み事故を避けるための努力が、山形では格段に少しで済んでいる。歩行者がほとんどいないと言う身も蓋もない理由もある。譲り合いについても、自分が譲られないことが前提なので、誰もイライラしていないようにみえる。また、先日、高速道路で違反の切符を切られてしまったことがあったのだが、120キロで走り続けていたにも関わらず、事由は「右側車線を2キロ以上走り続けていたから」のみであった。スピード違反しているよね、と確認の上、そっちで切符を切らない。まあみんなそんな感じで走っているから、実際取り締まったらキリがないとは思う。むしろ山形の警察は、暗くなってからが本番なのかもしれない(飲酒運転検問!)。

高速道路「外」のそうした運転「相場」が、高速道路「内」に乗り入れたとき、結構大変だろうな、という話。道路交通法で都市部目線の処理をしていく、とは現状ではちょっと思えないので、見えない形でゆっくり(2世紀くらいかけて)共通規格ができていくのだろうなと思う。

コメント

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

登米は「とめ」か「とよま」か

宮城県登米市( 登米市 - Wikipedia )という場所がある。「とめし」と読む。市内には登米町がある。「とよままち」と読む。「登米」に対して、2つの読みがあるのが疑問だったが、先日出張で訪れた際に地元の方にその理由を伺った。結論から言えば、元々地元では「とよま」だったが、余所から来た人たちが誤読して「とめ」になったという。余談だが、我らがwikipediaによれば奈良時代に「遠山(とおやま)」と呼ばれていた地名が「とよま」になったとか。同じく「登米町」の項目を見ると、さらにその語源はアイヌ語の「トイオマ(食べられる土)」とか。 登米市中心地に、町並みを明治大正風にアレンジした観光地がある。その一角を占める旧水沢県庁跡を頻繁に訪れていた中央の役人たちが文字に引かれて「とめ」と読んでしまい、それが国や県の指定する読み方に採用されてしまったとか。ホントかな?でも、「県立登米高校」は「とめこうこう」で、「町立登米中学校」「町立登米小学校」は「とよま」だというので、なるほどと膝を打ってしまう。 名付けの歴史的経緯はともかくとして、文字に引かれてことばが変わることは、「おほね」から「大根」(だいこん)が生まれたり「をこ」から「尾籠」(びろう)が生まれる、という国産の漢語誕生のエピソードなんかを思い出す。地名で言えば、台湾の「高雄」の曲折に思い当たる。地元先住民がタカオと読んでいたものに、植民地日本が「高雄」という漢字をあて、解放後の中華民国が北京語読みの「カオシュン」とした、といったことなど。探してみれば、地名改変の話は日本国内にも津々浦々ありそうではある。