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夏目房之介『マンガ学への挑戦 進化する批評地図』

夏目房之介『マンガ学への挑戦 進化する批評地図』(→amazon)を読了。2004年初版の本で、2009年で三刷。マンガ研究史を縦糸として、表現論としての側面、社会学としての側面など、マンガの捉え方を研究手法との関係から横断的に論じたもの。夏目氏の本は学生時代にちょっと読んだくらいだった。

本書によれば、2004年までの研究水準は萌芽期と捉えられている。90年代末に夏目氏の本を読んだ時は、マンガへの印象批評や私語りへのカウンターとしての表現論が新しく思えたものだった。友人と講演会行ったな。構図や線が読みとの関わりで表現論として語られるのは、ちょうど日本語学で小松英雄氏が古典文学を連綿のスクリプトレベルから解釈しようとすることと重なって、知的興奮を感じた覚えがある。夏目氏のほうは実証主義的な手法と(少なくとも当時は)捉えられたのに対して、小松氏のほうは印象批評の謗りを免れなかったのは、読もうとする深さの違いとその帰結が共有されにくかったからなのかなと思う。

2010年現在では、きっとこの本はすでに歴史的通過点のひとつなのだろう。面白かったのは、2004年時点でマンガの日本固有文化論が明確に批判されていることだった。そこでは、ある種の異文化交流からの生産物としてマンガが捉えられている。

近代漫画の成立には近代化過程の社会的諸条件の整備(印刷技術、新聞の流通、教育による標準的読解力の成立、市民層の成立など)が不可欠だし、とくに大衆社会的な説話媒体である複数コマによる物語化は、米国コミックや映画文化の影響、日本社会の欧米化が不可欠だった。(p.204)

最後の一文は言うまでもなく手塚のこと。で、そこから夏目氏はマンガ論をいくらか逸脱して、文化本質主義批判をしている。日本人じゃなければマンガは分からない、アメコミは別、みたいなよくあるステレオタイプへの懐疑から、アジアに対しては文化的優越者として・欧米に対してはフォークロア的なジャポニズムとしてマンガを位置づける戦略を取ることへの批判まで述べられている。日本のマンガを異文化交渉の相互行為のなかで論じる下敷きには、もちろんカルスタが参照されていて、時代の産物だなと思う。で、その時代の産物はどうもきちんと日本に受け止められないまま、マンガは世界資本主義のなかでパワーゲームのためのステレオタイプでコーティングされて、「クール・ジャパン」をやろうとしているのが現状。マンガ研究の領域と社会とのつながりのみならず(マンガ研究内部の接続の問題も?)、知的財産を社会に受け止めてもらうのは難しい。

別にマンガを文化本質主義で語ろうが、構築主義で語ろうが、文化資本としてマンガを捉える分には夏目氏かんけーねーの世界だけど、そんだけだとつまんないから横穴開けようぜ、というのが批評の仕事の一つだろう。でも文化資本主義に実質的に対抗できるだけの視点を、批評が与えるには、どういう力を付与すれば?

コメント

元同僚 さんのコメント…
夏目氏は、一時期漫画様式のアイロニックな〈日本回帰〉を唱えて、後にそれを自己批判することになるのでしたね。前者の時期、あら、こっちにいくの?と違和感めいた感想を持ったことがあります。(http://www5a.biglobe.ne.jp/~m-takuji/side_2/diary/3gyo-0-7-9.htmの9/15追記。)その後は、・・・批評の世代交代が進んだように見えて、さて新しいことが言われたのかと言われたらどうなんでしょうかね。。。
NJM さんの投稿…
日本語学の役割語も江戸期からの接続で説明したりするわけですが(笑)。専門家寄りの仕事、ってことでしょうか。

先日、某中世文学(自称元)研究者のお部屋に伺った際に、我々世代のマンガ研究者の新書があって、買おうかどうか迷ったのでした。

漫画そのものの表象についての批判的な言説は、あんまりきちんと読んだことがないです。

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